司馬メモ

  司馬遼太郎の「信州佐久平みち」(全集46所収)を読み解いてみた。司馬ブームの予感がするからである。本当は読みたくないのに、である。今までにも一編の小説も随筆も読んだことはない。否、読み始めると感性の違いから、放り出すのが必定になるからだった。高校生の時、先生が興奮気味に司馬を讃辞していたが、何かその語りに欺瞞と嘘くささを感じたからである。できればこうした先入見無しに丹念に字面を追ってみた。司馬本人には遭遇したことはないが、みどり夫人には遭遇したことがある。近畿大学の周辺である。死後のことだから、多少消沈していた印象を受けた。彼の自宅と記念館は朝日新聞東大阪支局と隣接している。赤○隊事件以降のことだから、当然支局は警戒用域で、物々しさが漂っていた。今ではそれも忘れ去られ、司馬フリークには支局が隣り合わせにあることに違和感を覚える人が多い。それもあって、司馬を冷静に批判することは恐さもある。それほど司馬の本は人々に読み継がれてきたのである。国民文学の一つと言ってもいいだろう。司馬文学の意図は兎も角、これを支持する読み手には何かある。女性の読み手がほとんどいないばかりか、小説の主役として選ばれることがほとんどないのが特色である。これは何を物語るのか。

  人々の司馬への関心は、近代日本の形成過程を描く歴史小説とエッセイなどに集約されることが多い。周知のように、戦中派としての司馬は、戦争体験というよりはむしろ、戦争経験から出発している。己を客観視できる状況から出発している。「戦時」と呼ぶ侵略戦争に没入した昭和前期とその熱狂からの解放として捉えるだけでなく、天皇制論議を峻拒している。だから当然の如く、それ以前の日本(昔の日本)はまだマシだったとなっている。県立図書館で調べ物をしていると、カウンターでは、坂本竜馬の問い合わせをしていた人がいた。1960~70年代執筆の時代小説に人気は集中しているのである。それはナショナリズムへの危機意識が根底にある、と思う。

 で、「信州佐久平みち」(全集49所収)なのだが、これは「街道をゆく」シリーズの一環で、他のものと異なって精彩がない。一つは、ぬやまひろし(西沢隆二)を見舞う旅の序でであることもあろう。もう一つは、司馬にとって、傑出する人物が見当たらないこともあろう。彼の周辺には関西文化人と学者が取り巻いていた。だから、考えが異なるものを包摂しながら互いに批判し合うことがない。異分子ともいえるものが混在しているところに司馬の立居があるのである。だからこその人気とも言えるだろう。しかしながら、司馬独特の価値観と史観が、フィクションである歴史小説に挿入され、それがあくまでも虚構であるにも拘らず、それを真実と思わせてしまうところも司馬文学の「魅力」になっているのである。その格好のものが「英雄」である。司馬にとって、英雄は国内統一する時に登場する。例えば、源頼朝であり織田信長であり前期豊臣秀吉であり徳川家康であり、そして幕末志士などである。海外膨張の時には凡庸な指導者の輩出となり、例えば、後期豊臣秀吉や昭和前期の軍人などである。さらに、そうした司馬史観は、日本史の中では極めて偏頗で奇妙な見方をしている。それ以外の歴史や人物が軽視されるということである。文学のフィクションが史観のフィクションに通底するようになるのである。それでこそ、司馬の真骨頂であり、だからが故に、国民文学と言われる所以である。言葉が悪いが(そしてこれは驚嘆もしくは賞賛されることだが)、二度も騙されてこその司馬文学なのである。

 司馬自身が「私の作品は、一九四五年八月の自分自身に対して」「手紙を出してきたようなもの」という限りは、私的な関心もあって、「戦中派」である司馬自身の戦争経験について検討しなければならないだろう。先ず彼は、戦車に乗って「蒙古高原にかけている夢が、国民の将来の幸福とむすびいたものであると信じていた」と回顧している。ところが、敗戦を期に、密室の戦車から解放され、なぜこんなばかな戦争をする国にうまれたのか、と疑問を抱く。ここで注意しなければならないのは、司馬には侵略戦争と戦友に対して、何の責任と贖罪感を持ち合わせていないということである。非難すべきは、無能な上官であり、昭和初期の軍部指導者となっているのである。こういう見解は、子どもの頃に親父達の茶飲み談義でよく耳にしたものである。その談義に加わる者の中には、挙句の果てには、その戦争のお陰でアジア各国は解放されたと述べ立てる兵(つわもの)もいた。この辺のことは、『街道をゆく 台湾街道』(1994)と歩を一にしていて詳しい。「夢」を抱かされて戦争責任を他人に転嫁したり、説教強盗の物言いといい、反省を伴わない凡庸な見解である。戦争体験記を熟読したり、体験者の声に傾聴すると(なぜなら、彼らは寡黙であるからである)、そのような見解の保持者は、悲惨な戦争体験者でないことが多い。そういう意味では、昭和のインテリとも称される司馬は、戦争体験者ではない。また、体験を対象化して経験として自己措定していない点では、戦争経験者でもないと言わなければならないだろう。尚、『戦後思想家としての司馬遼太郎』は、司馬の植民地主義に対する方便としての批判はあるが、真の意味での司馬批判にはなっていない。あくまでも、司馬の戦後における「思索」を論じるのが主眼である。

   司馬の著作を読むと、登場する女性はお姉さん的なものが多いということだ。ほとんど読まないが、『竜馬がゆく』ではそういうことらしい。そこで、『信州佐久平をゆく』でも、その辺のことを探ってみよう。ここでは四人の女性が登場する。先ず、お馴染みの朝日編集部の桜井孝子さんである。信州大学出身で、小柄でお下げの髪なので、司馬には「稚(おさな)げ」に見えるらしい。母堂が佐久総合病院に入院しているので、紀行に随伴することになる。「多くの信州人と同様、信濃の景色と人情を誇りに思っているようで、・・・可愛くもあり、好もしくもあった」(p408)。数箇所で彼女とのやり取りが記録されているが、基調は「健気な稚女」という印象である。後半では全く登場しない。二人目は、別所温泉での賄いさんである。司馬の仮想からの「いい寺ですか」という質問に、常識的に答えて、司馬の感慨はない。代わりに、宿のパンフレットに「湯聖」や別所温泉のいわれが書かれていないことを得々と不平を鳴らす。三人目は、小諸城址内の大衆食堂の「女の子」である(p503)。「仏頂面」で背を向けて「不機嫌そう」といい、「アウシュビッツのナチの下士官」のようだと形容している。周囲の騒音もあろう、店主の商業主義もあろうが、信州人に対する期待の過剰がそのような思いになったことを弁解しているが、そこまで侮蔑する所以が司馬にあって、信州乙女に課せられていいものだろうか。四人目は、知人の病院見舞いのために、花を探すスーパーでの花屋さんである。赤い花を挿すための花器に執心する話である。商品ではない店舗用のステンレス製の桶を所望する司馬に対して、親切にも本店に問い合わせた「娘さん」であるが、この対応に「何だかソ連のなにかの売店で物を買ってもらっているような感じ」(p505)を受けている。確かに、観光県・信州の客対応は悪い。が、信州乙女ひとりに、そのような思いの責任を負わせるのは正しいことなのか。その一方、多くの地元人士や文化人・郷土史家には一人として出会っていない。他の「街道をゆく」とは異なって、そのことに豪も託(かこ)っていない。不思議である。

 『信州佐久平みち』の冒頭から、「私は、信州については知るところがない」「その土地へは行ったことがない。信州そのものも知らない。第一、信州へは大阪からどう行けばよいのかについても、知るところがなかった」と与太を飛ばしている。それでも、紀行前に「三週間ばかり」勉強したようだ。そして、信州の景観から、シナノの由来を坂もしくは山の斜面説を唱えている。よほど坂がお好きのようである。司馬は信州についての無知を吐露しているとは反対に、信州評を随所で散りばめている。「一茶がよろこんだ信濃の風土」(これは定説・事実に反している)、「律儀者のすきな信州人」、真田昌幸=代表的信州人、「信州人は勤勉で律儀で、他人の朝寝の自由など頭から認めてくれない」などと論じ、信濃国分寺址を訪問すると、「往年、自分の環境を守ってきた信州人の姿勢は、どこかで崩れはじめている」(p500)と難詰する。よほど癇に障ったようである。その地に赴くと、司馬は必ず国分寺址を訪ねるという。素っ気無い址を眺めて、信州人を「がさつ」と評している。後は、司馬の本性が現れた文章展開になっている。司馬には「大衆」や「商業主義」がお気に召さないようである。それに反して、軽井沢(のホテル)にはいたくお気に召して、泥酔する。そして、肝心の「御牧」はそこそこに、『枕草子』の中で清少納言が別所温泉や望月の御牧を高く評価したように、その古代人の風評の所以を探ることもなく、旅路を打ち切る。まったく、駄作ともいうべき紀行であると言わねばならない。おそらく、佐久平は古代人にとって北方侵略の最前線基地であったであろう。憧憬と繁栄の地方柄だったのである。信濃は麻布と馬の供給地であり、佐久平はその要であった筈である。中世には郷党や真田一族などの活躍があり、江戸末期においても、寺子屋と百姓一揆の多さでは随一であって、民衆の次元から明治維新を準備した土地である。明治以来も、農民・無産・水平運動やアナーキストの抵抗運動(南澤袈裟松など)が根強い。二・四事件では、農民・労働者・部落民が弾圧され、東信地区の大衆運動は壊滅されている程なのである。これ以上司馬について言及するのは止めることにする。何の関心も興味もないし、読みたいとも思わない。封印しておきたい作家である。付言すれば、司馬文学は、まことに得手勝手で、史家と認められないし、「偏頗で奇妙な」(司馬の常套句である)それと断じなければならないだろう。また、その文学に魅了される読者がどのような性質なものなのかは、言わずと知れたことであろう。

 

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