「川中島平」論考

1、川中島平の地形と気象

 川中島平とは、ここでは、犀川が善光寺平に出る犀口を頂点(扇頂)として、千曲川(扇端)に向って東南に開かれた扇状地(犀川扇状地)のことである。したがって、犀口からそのまま東進して、千曲川に合流する犀川以北の旧長野市街は含まないとする。一般的には、川中島平を含め、善光寺平(地元の呼称)もしくは長野盆地と称せられている。

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 川中島平は、1966年まで長野市ではなかった。東から、更北村、川中島町、篠ノ井市であった。犀川を境にして、長野市旧市街とは言葉も多少異なり、気候にも差異がある(信州全体の気候の特徴は、これを参照)。
 川中島平に降り立つと、北に富士ノ塔山と飯縄山、南に妻女山や冠着(姨捨)山、聖山、東に松代三山(皆神山、舞鶴山、象山)や尼厳山、奇妙山などの山々と菅平、西に茶臼山と北アルプス(鹿島槍ヶ岳など)が遠望できる。
 この地は、「日本一田植えが遅い稲作地帯」(6月下旬~7月上旬)ともあり、米・麦二毛作の北限でもある(江戸時代中頃に普及。戦後には八割を超えていた)。千曲川と犀川(高瀬川)とに挟まれた約三里四方の寸土である。広く沖積層が分布し、内陸性気候のため寒暖の差(年較差・日較差)が激しく、夏は高温となって、冬は零下となって厳しい寒さが続く。また、湿気が少なく空気は清浄で(さわやか信州)、風は山岳に阻まれて比較的弱く、台風の影響も少ない。冬季には北寄りの季節風が吹いて雪や曇り空の日が多いが、それ以外の季節は日照時間が全国的に見て多い。積雪量は降っても10㎝程度(高々50㎝程度)である。降水量は、日本有数の少雨地帯である(年間1000mmに及ばず)ため、河川(北アルプスから流れ来る犀川)の流用(犀口三堰)と河川の後背湿地によって川中島平は潤されて、肥沃な土地柄となっている。犀川によって川中島平が湿潤であるのは、犀川(槍ヶ岳の槍沢を源流(梓川)として奈良井川と合流し、犀川となる)が千曲川より急流であり、流量が多いからである。そのため、扇状地となっているのであるが、扇央部から先端部において、上杉・武田の両雄がその領有をめぐって争ったことは有名である(但し、川中島平の開発は江戸時代からであり、八幡原の戦いは湿原でのそれと想像される)。また、他の県内と比較すると、人口密集地(人口10万人余り)であり、旧長野市のベッドタウン化している側面が強い。農業では、一戸あたりの耕作面積も少なく、集約的・複合経営と兼業化が特色である。

2、川中島平の略年表

旧石器時代(~1万年前)
 狩猟時代が続き、1万3千年前より気候は温暖化して巨大動物は絶滅してゆく。
 落葉樹林が広がり、採集も可能となる。
縄文時代(1万年前頃~紀元前300年頃)
 磨製石器、縄文土器の発達によって、煮炊きが可能となって、定住化も進む。
 後期には寒冷化して文化は停滞・縮小・分散化した。
弥生時代(紀元前300年頃~紀元後3世紀中頃)
 前期には、長野県内に弥生文化が入り始める。縄文と弥生の混在。
 中期には、川中島平に弥生文化が優勢となる。稲作の始まり(紀元前1世紀頃~)。
 弥生土器と磨製石器の使用。条理水田とムラの形成、及びカシラの出現。
 後期には、農耕文化の定着。「赤い土器(箱清水土器)のクニ」の存在。
 方形周溝墓の出現。青銅器・鉄器の伝来。千曲川流域で鉄器が普及(3世紀)。
古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃) 
 前期には、森将軍塚や川柳将軍塚(前方後円墳)の造営(4世紀後半)。
 後期には、大室古墳群に見られる積石塚古墳などの群集墓が増え、横穴式石室が普及する(中小古墳の造営)。朝鮮系渡来人との強いつながりを示す。鉄製農具の普及(5世紀半ば頃~)。
 有力豪族がヤマト政権に服属し、科野国造となる。
飛鳥時代(592~710)
 645年の大化の改新頃より、東山道に科野国成立。川中島平に、日金(氷鉋)、斗女(戸部)、頣気(小島田などのいき)の三郷が成立。善光寺の創建(推定)。
 701年の大宝律令後より、令制東山道が開かれる。川中島平に条里制の遺構見られる。
 屋代遺跡群の木簡の存在。ヤマト政権への完全服属。
奈良時代(710~794)

平安時代(794~1185)
・10世紀~11世紀中頃
 竪穴式の南宮集落(遺跡)の展開。
・1181年、6月
 横田河原の戦い。木曽義仲、平家勢を打ち破る。
鎌倉時代(1192~1333)

室町時代(1336~1573)
・1400年
 大塔合戦。川中島平南部(篠ノ井)が戦乱地。
 信濃守護・小笠原長秀勢に対する信濃国人連合・一文字一揆勢の反守護闘争。
 以降、地域的封建領主としての国人の支配が進む。
 その後、村上義清が更埴二群を含む東北信に領域拡大。
・1553年
 村上氏、武田信玄に破れ、越後の上杉謙信(長尾景虎)へと亡命。
 川中島合戦(1553、55、57、61、64の五回、12年余り)の開始。
・1561年
 八幡原の戦い。
 信玄、北信全域を支配拡大し、以後20年間、全信濃を領国とする。
安土桃山時代(1573~1600)
・1560年
 海津城築城。
・1582年
 織田氏の甲州征伐。武田氏滅亡し、全信濃を占領する(四ヶ月間)。
 森長可、川中島四郡を領地する(3月)。
 本能寺の変。信濃が再び争乱となる。
・1585年
 上杉景勝を盟主とする北信の諸武将、川中島四郡に返り咲く。
・1595年
 川中島地方に太閤検地施行。豊臣秀吉により、景勝は会津に転封される。
・1598年
 北信濃に兵農分離が実施される。
 以降、信濃の小藩分立時代が100年程続く(川中島平では、松代藩と上田藩)。
江戸時代(1600~1867)
・1600年
 徳川家康、森忠政を川中島四郡に移封する。
・1602年
 森忠政、川中島四郡の総検地を開始(右近検地)。その厳しさに農民の逃散・一揆起こる。土豪の勢力が衰え、兵農分離が進む。
・1603年
 家康、森忠政を転封し、松平忠輝を川中島に移封する。
・1611年
 花井吉成、松代城代となる。川中島平の三堰が開削される。
 幕府、丹波島宿を設置し、市村の渡しを北国街道の舟渡しとする。
・1616年
 松平忠輝改易され、松平忠昌松代城主となる。
・1618年
 松平忠昌改易され、酒井忠勝が松代に入封する。
・1622年
 真田信之、松代へ入封する。
・1730年(享保15年)
 善光寺回向開帳(ご開帳)始まる。
・1742年(享保2年)
 戌の満水。千曲川流域に発生した近世最大の大洪水。
 千曲川流域の洪水の歴史はこれ参照。
・1762年
 塩崎村で桝騒動。
・1783年(天明3年)
 浅間山の大噴火(十回の噴火)などによる田畑の損失。
 天明の大飢饉。全国的な冷害・飢饉の開始(~87)。
・1808年
 松代藩、養蚕を奨励。
・1832~39年(天保年間、天保3年~10年)
 天保の大飢饉。35~37年、最大規模。
・1847年(弘化4年)
 善光寺大地震。これによる犀川大洪水が川中島平を襲う。
明治時代(1868~1912)
・1870年(明治3年)
 松代騒動。貧農・小作人ら数万人が年貢の減免・商法社廃止を要求する世直し騒動。
・1896年(明治29年)
 大霜害のため養蚕の大打撃。以後りんご栽培への転換が始まる。
・1906年(明治39年)
 大旱魃があり、以後共和・真島地区を中心にりんご栽培が急速に普及し始める。
 この頃のりんご品種は、倭錦を中心に柳玉・紅魁などである。
・1909年(明治42年)
 県庁に蚕糸課が設置される。
・1907年(明治40年)
 更級農業高校(更級郡立乙種農学校)の創立。
昭和時代
・1927年(昭和2年)
 未曾有の大霜害。
・1930年(昭和5年)
 農村不況が養蚕農家に大打撃を与える。りんご栽培への転換が増える。
・1945年(昭和20年)
 敗戦。海外長野県籍の軍人・軍属、開拓団等の一般人合計は約25万人。
 戦没者約5万人。
・1953年(昭和28年)
 浅間山演習地反対運動が進展し、阻止する。「二百万県民の勝利」と呼ばれた。
 また、この年は昭和9年以来の凶作と言われ、その大冷害により米が減収した。
・1971年(昭和46年)
 国の減反施策として「休耕転作」が奨励される。
・1973年(昭和48年)
 更級農業高校、養蚕教育終了。

3、川中島平の農業概略

明治時代
 初期には、米麦の二毛作地帯であった。加えて、綿花と菜種の商品作物が盛んであった。『朧月夜』という文部省唱歌に「菜の花畑に 入日薄れ」とあるように、その時代を象徴する風景である。農家の家々は(麦)藁葺の寄棟様式が当り前で、長閑な田園風景が続いていた。しかし、1896年の綿花輸入自由化に伴い、綿花栽培と綿布生産は急激に衰退し、桑が植樹されて養蚕がメインとなっていく。20世紀の初頭から日本の産業革命が進展し、製糸業は外貨獲得のための国策として奨励され、長野県農業はその中心として役割を果たし始める(長野県は1953年まで「蚕糸王国」といわれ、明治33年(1900年)の畑地に対する桑園面積はの割合は30%であった(注1)。また、信州大学には、1910年創立の上田蚕糸専門学校を始原とする全国唯一の繊維学部が存在する)。一方のりんご栽培は、1896年(明治29年)の大凍霜害によって換金作物として見直され、倭錦、柳玉という品種で栽培が進んだ。ちなみに、明治時代の野菜は根菜類(大根・さつまいも・じゃがいも)の自家用が主流である。
(注1)これが、昭和4年(1929年)には78%に激増している(『共和むらの歴史と伝承』p106)。また、昭和10年(1935年)時点では、県下の耕地面積の47%は桑園で、全農家の80%は養蚕を営み、産繭量は全国1位であった(『同上』p144)。

大正時代
 第一次大戦によって養蚕と製糸業が大きく発展し、全域に稲作と養蚕の複合経営をする「穀桑式農業」が一般的であった。りんご栽培は一時停滞して、製糸業関連事業が県経済の四分の三を占めていた。国際的な生糸相場が県の経済と密接に連動するようになったのである。なお、この時期のりんご品種は、次第に紅玉が増え、国光・ゴールデンデリシャス・インドなどが列挙される。なお、この時代の野菜は、小森なす、塩崎ごぼうに代表される。

昭和前期時代
 第一次大戦後の不況によって生糸価格は暴落し慢性的な不景気の中、金融恐慌も加わって、製糸業は低迷していたが、1929年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌によって大打撃を受ける。この対策として、米の増産や麦作と豆類や甘藷の栽培が奨励された。高冷地山村では高原野菜が作られ始めたが(1932年から満州開拓にも動員された)、川中島平では、米麦の二毛作に加えて、果樹の産地としてリンゴが振興されるが、昭和16年の作付統制令によって栽培は制限され、生産意欲は減退した。千曲川沿岸では、長いもやごぼう等の栽培が行なわれた。主な野菜には、ごぼう・キャベツ・大根・じゃがいも・横田きゅうり・寺尾すいかなどで代表されるが、戦時体制期には根菜類の増産に重点が置かれた。

昭和後期時代
 食糧増産が叫ばれ、狭い耕作地が特色の長野県農業では、米の反収を上げることが至上命題となって「保温折衷苗代」技術が発明された(日本の稲作の三分の一が利用されている)。土地改良事業もあって、長野県農業は1954年以降、反収日本一の地位を得ている。また、収益のある果樹・野菜が急増して園芸農業県にもなる。昭和23年の作付統制令が撤廃されると、西部山麓地帯は桑園からりんご園に次々と転換した(昭和30年代後半には養蚕農家は衰滅した)。川中島平の平坦地でもりんご栽培が普及する。高度経済成長に伴って、1960年代後半頃には麦作がなくなって米の一毛作となった。養蚕は急速に衰退して果樹栽培に移行した。また、バナナの輸入自由化、ミカンの大増産によってふじリンゴや桃(川中島白桃)や巨峰ぶどう(寺尾・東福寺)などへの高級品種転換が進められた。一時期、畜産経営も推奨されたが(1960年代)、安価な飼料輸入もあって頓挫した。代わって、高原野菜や花卉栽培やきのこ類(えのきたけ)の生産が奨励されている(選択的拡大)。川中島平の野菜は、戦後換金作物として玉ねぎ(水田裏作)や長芋に注目されて、盛んに栽培されるが、全般的には施設園芸の普及が伴って、トマト・きゅうり・いちご・アスパラなどが多く、都市近郊型農業に変化している。野菜は塩崎から横田にかけて、りんごは西部山手(共和、川柳)、桃は川中島沖積地(今井、今里、東福寺)に多く、果樹園芸などの集約的農業が盛んである。大根・きゅうり・なす・ピーマン・白菜・ねぎなどは殆ど自家用野菜になっている。1970年頃には、養蚕は消滅し、1973年、更級農業高校の養蚕教育は終了した。また、昭和30年代(高度経済成長期)より一気に専業農家が減少して兼業農家化した。これと平行して、農業の機械化・省力化も進行した。ちなみに、川中島平では、花卉栽培(施設園芸農業)はあまり進展していない。

 *イネの品種は、しなのひかり、ホウネンワセ、トドロキワセ、コシヒカリ、あきたこまち、と変遷してゆく。
 *リンゴの品種は、国光、紅玉、ゴールデン、祝などからふじ、つがる、信州りんご三兄弟へと移行してゆく。

平成時代
 農民の高齢化、離農などによって、長野県農業は衰退し始めている。中山間地は過疎化し、耕作放棄地が増えている。長野県農業は転換期にあるのである。しかし、長野県民のうち三分の二は農山村地域に生活している。農山村の役割を考えながら後継者の育成が課題になっているのである。
 昭和25(1950)年には、農林水産業従事者が62万人程の65%弱であったものが、平成24(2012)年には、9万2千人の9,1%に激減し、高齢化が顕著である。

4、川中島平の住居

 茅葺の寄棟様式の住居が1960年代まで普通に存在していた。ちなみに、当家のそれは以下の図の様であった。なお、茅葺といっても、二毛作地帯であった川中島平では、余った麦藁の屋根が普通であった。ただし、麦藁は腐食しやすく、西山地方の職人に依頼した葺き替えが約10年~20年で行なわれていた。また、火が付きやすく、よく燃えるので火事には常に細心の注意が向けられ、火災除けのお札が柱に貼られていたものである。また、囲炉裏で立ち上る煤が天井につくため、年末の恒例行事として「煤払い」があった。

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 母屋は、寄棟の平入りの茅葺屋根だった。部屋割は田の字型の整形間取りであった。以下の通りである。
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 1970年代以降には、茅葺屋根はトタンに覆われ、瓦屋根から新建築のスレート屋根に変化したのである。

5、家のしくみ
 本家や分家の同族は「マキ(血縁)」と呼び、冠婚葬祭などの時に手伝いに来てくれる近所や子分、縁戚などを「ウチワ(内輪)」というが、これはほとんど血縁関係はない。同じマキでは、地域内に一つの土葬の墓地があったが、江戸末期には菩提寺に各家毎の墓地に集約されたと想像される。1960年代には火葬に移行していった。

参考文献

長野県の歴史』、山川出版社、2010
やさしい長野県の教科書地理』、市川正夫、しなのき書房、2008
長野県の百年』、青木孝寿・上条宏之、山川出版社、1983
信州学大全』、市川健夫、信濃毎日新聞社、2004
『わたくしたちの長野市』(小学校社会科資料集、平成20年版、3・4学年用)、長野市教育会
『更北総合誌』、更北地区市制100周年記念事業実行委員会、2001
写真でつづる信州 むらの50年』、信濃毎日新聞社、1995
『ふるさと 作見の今昔』、作見区新世紀記念誌編集委員会、2004
『新編 栄村沿革史』、滝澤公男、2009
歴史の中の里人たち』、岡澤由往、龍鳳書房、2010
ふるさと信州の原風景』信州農業100年史、市川健夫、信濃毎日新聞社、2001
明治・大正の農村』、大門正克、岩波ブックレット、1992
『信濃の民俗』、信濃毎日新聞社、1971
『更農七十周年記念誌』、長野県更級農業高校、1977
長野県民の戦後六十年史』、信濃史学会、信毎書籍出版センター、2008
『今里区誌・今里今昔物語』、今里区誌編集委員会、2012
『郷土史事典 長野県』、小林計一郎編、昌平社、1979
『写真ものがたり 昭和の暮らし』、農文協、2007
『共和むらの歴史と伝承』、市制百周年記念事業共和地区実行委、2001
川中島平の昔のはなし』、渡辺喜代子・著、文芸社、2013
信州ながの 食の風土記』、農文協、2013
『安茂里史』、安茂里史刊行会、第一法規、1995
『犬石の民族』(長野市民俗文化財調査報告書1)、長野市立博物館、1995

カテゴリー信州事始も参照のこと。以下、随時、加筆・添削するものとする。

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