川中島平の郷土料理
川中島平は、1960年代まで米と麦の二毛作地帯でした。麦は米の裏作として、年貢もないので地粉として盛んに生産されました。10月下旬に播種され、6月上旬には麦秋が広がっていました。したがって、当然の如く、粉もの(小麦)食文化が中心です。長野県は蕎麦処というイメージがありますが、川中島平では、実は、古くからの小麦粉による普段食が当り前だったのです。朝に朝食と昼食の(大麦入りの)ご飯を炊き、夜食はお麵類かおやきの小麦食が日常だったのである。長野県(市)は、小麦粉消費量が日本で有数の消費地です(もう一つの小麦粉文化圏である関西が、全国平均以下の消費量というのは意外と思われるでしょう)。1960年代までは、麦飯が至極自然だったのであり(純粋に白米を食する習慣になったのは1960年代末期頃からでしょう)、やはり、米が年貢物であり(江戸期)、換金作物だったのである。また、食糧難という時代性もあって、粉食で不足分を補ったのである。ちなみに、長野県の食料自給率は53%(全国のそれは39%)です。以下の内容は、1960年代を基準としています。川中島平の郷土料理は、基本的には、粉もの食文化に加えて野菜中心の煮物の食文化です。もう一つの特徴は、手間のかかる料理はあまりなく、繁忙な農事後の普段食ですので、素朴な食材の味と賄い食的なものが多いということです。料理人の賄い食が上等なように、北信州の婦人たちが営々と作り出した美味しさは、格別な郷土食です。味付けは大雑把で大味であるが(その昔はしょっぱい=塩辛かった)、素材の旨味が染み出た料理が多かったと言えるだろう。住まいの北側にある台所(だいどこ)仕事は、板張りが普通で、夏は涼しいが冬は凍てつく。そうした環境の中で、婦人たちが囲炉裏や竈で育てた食文化とも言えます。
日常の食事内容(~1960年代まで)は、一般農家では、主食と味噌汁(これを「おつゆ」と呼ぶ)、副食一品と漬物の四品が基本形である。主食のご飯は、米に引き割り麦を四割以下を混ぜたもので、昼食用も同時にお釜で炊飯してしまう。竈で薪をくべて炊くのである。燃料の節約もあるが、繁忙な農事のためでもある。農家の嫁は、貴重な労働力だったのである。彼女らは、夜明けとともに起床し、真っ暗になるまで田畑で働いたのであって、その辛苦が歴史的に語られることは寡少であるが、絶対忘れてはならないことである。昼食は仕事の合間の食事であるため、手をかけずに残りものや漬物で済ますことが多い。味噌汁は、煮干し(や昆布)の出汁に具沢山のものであり、使用する味噌も自家製である。原料の大豆は田んぼの畦や畑で作られ、前者は「あぜまめ」と呼んだ。副食は様々だが、豆腐やおから、蒸かしナスや野菜の煮物、納豆(これも藁苞を使っての自家製)や高野豆腐の含め煮などのおかずである(我が家の場合)。決して贅沢ではないが、一品一品に主婦の工夫が凝らされるので逸品となるのである。これに手塩にかけた漬物が付くのである。
食事方法は、戦前は囲炉裏の周りでの各々の箱膳(筆者はまだ未生以前であったが、膳棚にある箱膳の遺物は確認している)、戦後は竈での煮炊きをして居間での飯台で向い合っての食事風景だった。
1 おやき・・・言わずとして知れた長野県(特に北信州、地元では北信)の特産物になったもの。長野オリンピックによって、全国区になりました。ただし、川中島平のおやきは、焼かずに蒸かします(西山では灰焼きします)。あんは野沢菜の場合もありますが、基本は、輪切りの二枚の丸茄子に油味噌を挟んで小麦粉で包みます。お盆には、仏壇にお供えします。したがって、餡(あん)は油味噌が定番です。お盆前後は、丸茄子の最盛期で、夕食にも日常食として登場しました。
2 うすやき・・・最近では、「ニラせんべい」と誤って呼称されているが(こう呼ぶ地域もあるらしいが)、記憶によれば、ニラのうすやきは存在したが、川中島平では、ニラせんべいという言葉はなかったと思う(「川中島平」論考の参考文献『消えゆく宿場町の足跡』でも、詳細な民俗学的記述があるが、やきもちやうすやきの紹介はあるが、「ニラせんべい」という記述はない)。うすやきはうすやきであって、決してせんべいではないと思うし、そういう記憶もない(捏ねた小麦粉に卵を入れて砂糖や醤油・味噌で味付けしてフライパンで油炒めしたものである)。主食としての活用はなく、副食もしくは子どものおやつである。
3 やしょうま・・・春の涅槃会(旧暦2月=新暦3月15日)の郷土食。
4 柏もち・・・川中島平の柏餅は、餡子だけでなく、味噌餡が当地流である。
5 ふかし茄子・・・水でアク抜きした茄子を半分にして、短冊切りしてから丸いまま蒸し器(蒸篭)で蒸かす。これに醤油をかけてごはんと共に食する(また、茄子を輪切りにしてしん焼きして醤油をかけて味わう場合もある=丸茄子のしん焼き)。また、茄子料理は多彩で、おやきの餡に、焼き茄子(皮をむかないのが川中島流)、茄子の辛し和え、天麩羅、漬物などに応用される。丸茄子の固有種には、小森茄子や小布施茄子があり、断じて長茄子ではない。
6 蒸(ふ)かしまんじゅう・・・饅頭屋(専門店)がまだ商店街に存在していた時代で、大きな酒饅頭をおこびれとして提供されることもあった。
7 お煮かけ・・・川中島平では、「おとうじ」と呼びません。秋から春までの常食(夕食)ではあるが、法事やお盆、来客の時や「おごっそ」の時にも振舞われます。麺はひやむぎ(か素麺)でしょう。
8 おめんるい(=うどん)・・・お煮かけの小麦粉(うどん)版。夕食として多用する。基本的に、川中島平では蕎麦は日常的に食べません(蕎麦粉が荒れ地の救荒作物であることは余り知られていない)。肥沃な川中島平では、裏作として盛んに作られていたのである。おぶっこ(平めん)とは異なる。食べ物を敬って、川中島平ではやはり、「おめんるい」と古老は言っていた。ネズミ大根を下ろして搾り、味噌で味を調整すれば、「おしぼりうどん」となる。くるみやごまをすり鉢ですって、味噌や醤油で味付けしたつけ汁で味わったりもする。製麺機が常備されていた家庭も多く(大正以降普及)、(我が家では)平麺ではないところも山梨名物ほうとう(ハレ食)と異なる。ちなみに我が家では、おしぼりうどん、煮込みうどん(=ぶっこみ)、すいとん、うすやきの小麦粉料理が多かった。
9 とろろごはん・・・長芋をおろし、多少調味してとろとろに熱々ごはんに掛けて喰らう。篠ノ井と松代の千曲川河畔は、有数の長芋産地である。
10 (蓬の)草餅・・・5月になると蓬の若葉をむしって干す。これを餅に入れて食べる。
11 おこわ(赤飯)・・・祝い事がある時の定番料理。小豆が貴重なので、食紅で代用するのが一般的である。
12 蚕のさなぎの佃煮、いなごの佃煮、蜂の子の佃煮・・・養蚕王国であった信州では、繭から糸をとった後に残る蚕の蛹を貴重な蛋白源としておかずにしていたこともある。1960年頃までの話である。
13 おから・・・
14 漬物類・・・杏の砂糖漬け、お葉漬け(野沢菜漬け)、おここ(大根漬け)、丸茄子のからし漬け、白瓜の塩漬け、粕漬け(奈良漬け)、キュウリの醤油漬け、赤カブの甘酢漬け、白菜漬け、わさび漬けなど。特に、野沢菜漬けは著名な郷土料理である。11月から12月まで、各戸は一斗樽に漬け込む初冬の風物詩があった。年を改めて鼈甲色になると、油炒めなどに利用して食べ尽くす。
15 けんちん巻・・・善光寺の精進料理の一つで、伊達巻の代用正月料理。
16 おこびれ・・・厳しい農事の合間に、午前10時と午後3時頃の間食であるが、おこびれが提供されるのは、稲刈りや田植えなどの結い(地元言葉で、ええっこ)がある時で、普段は漬物、茶菓子程度(みすず飴や五家宝や煎餅やかりんとうや金平糖の類)のお茶請けである。おこびれには、おやき、煮物や和え物、蒸かし芋やナス、煮豆、町場から買った酒饅頭などである。ところで、「お茶っこ(する)」という表現が見聞されるが、我が家ではそのような言葉は聞いた試しはない。農家はそれ程暇ではなく、農閑期の冬季には、「上がってお茶しねえかい」と隣近所の人に声をかけ、炬燵を囲んでお茶を飲み合って情報交換をする機会があったが、それ以外の時期では立ち話程度で、お茶している場合ではなかったのである。川中島平の農家では、「お茶っこ」という言葉は恐らく使わなかった、と思われる。
17 ぼた餅・おはぎ・・・ぼた餅はお彼岸や祭りの祝いの時に作られていた。ぼた餅は「あんころ餅」とも言っていた。黄な粉を塗した餅もあり、時代が進むにつれて、胡麻を塗したり(文字通りのおはぎ)、くるみ餅も登場しました。ぼた餅・おはぎは完成すると「もろ蓋」に並べられる。
18 うぐいす黄な粉餅・・・黄な粉は黄色ではなく、黄緑色のうぐいす黄な粉(信濃青豆)が当地流でした。当然の如く、角長のお餅である。
19 ふかし芋・・・この場合の芋とはサツマイモのことです。サツマイモは焼かずに蒸かす。川中島平ではなんでも蒸(ふ)かします。おやきやなすなどである。蒸篭(せいろ)は家々の必需品でした。
20 こねつけ・・・篠ノ井名物と喧伝されている。
21 煮りんご、干しりんご(りんごの砂糖漬け)、塩水ほとばしりんご・・・商品価値がない傷みや腐りかけの「やくなしリンゴ」は冷暗所に木箱の中に積み上げられ、痛みや腐った部分を切り取って、一冬中家族のデザートや子どものおやつ代わりになっていた。
22 すいとん(ひんのべ)・・・高山村の郷土料理と喧伝されているが、篠ノ井・信里地域でも食されている。平地の川中島平では、ひんのべではなく、「すいとん」と呼ばれた。
23 鮠や鮒の甘露煮・・・身近な川で子供などが釣り上げたものをじっくりと砂糖醤油で煮詰める。上下水道が発達していない信州では、生活用水などが流れ込むため、1960年代後半までの料理に終っている。その頃まで河川は清く、ご飯焚きのお釜を川で洗っていたり、洗濯もしていた家もあった。七夕の笹の木を川で流したり、子ども達が川で泳いだり、蛍も舞っていたが、今ではコンクリートでほとんど被覆されてしまった。1960年代前半には、川には鮒、鯉、鮠、ジンケン、うなぎ、ザリガニ、沢蟹、蛍、ゲンゴロウ、ミズスマシなどが生息していたのである。田んぼでは、タニシやイナゴなど身近に食材があったのである。
24 独特の食材・・・ビタミンちくわ、凍み豆腐、油揚げなどは煮物に使用されることが多い。桜でんぶは、のり巻きやおにぎりに頻繁に活用された。魚肉ソーセージやさばの缶詰はよく利用され、カレーにはちくわやさばが入っていることが多かった。お歳取りの食紅色の酢だこも忘れてはならない。
25 うず巻きかりんとう・・・お盆に仏壇に供える。12日にはお花市が立ち、お墓掃除をし、13日に迎え火を焚き、16日に送り火で祖先の霊を送り出す。お盆の料理は、日替わりで天ぷら、丸ナスのおやき、おめんるい、おこわなどが夕食を飾る。
26 カリカリ梅漬け
27 お年取り(大晦日の夜)の料理・・・焼き鮭、刺身、かまぼこ、煮豆、酢だこ、なます、茶碗蒸し、鯉こく、里芋煮っころがし、等々。この時、炬燵大の「広蓋」に料理が並べられるのである。注意されたいのは、正月のおせち料理とは内容が異なることである。数の子や田作りや栗きんとんなどは、料理として並ばない筈である。
28 天麩羅・・・何かつけて「おごっそう」として天麩羅を揚げる。食材として多いのは、茄子や竹輪や紫蘇の葉やサツマイモ、タラの芽などのそれである。
29 田螺(たにし)
30 ぐみ(桑の実)・・・桑の葉は「お蚕さん」の食料であるが、「ぐみ」は子供達の腹の足しになる。初夏に赤い実をつけ黒紫色に熟して、食べた子どもの唇を染める。童謡「赤とんぼ」にもお登場する。
31 蕗みそ、きゃらぶき・・・蕗みそのほろ苦さは春の到来を感じさせる。蕗の薹は天麩羅にもする。六月までは「きゃらぶき」にして調理される。蕗は大体どこの家の裏手に自然に生えている。蕗の薹やノビロ(ノビル)は酢味噌和えにもする。ノビロはまた、味噌をつけて口にして子どもの腹を満たしたこともある。
32 凍み豆腐の含め煮・・・凍み豆腐は凍り豆腐が正式名称である。厳寒期に一晩で凍みらせて藁でつないで軒下に吊るして乾燥させる。貴重な植物蛋白源である。
戦前は、典型的な農家では、囲炉裏の周りで各自の箱膳で食べた。しかし、戦後は茶の間での、飯台(ちゃぶ台)を囲んでの食事風景になった。
参考文献
①『長野色の食』、ほおずき書籍、2005
②『伝えたい北信濃ふるさとの味』、週刊長野新聞社編、柏企画発行、2009
③『信州 ふるさとの食材』、ほおずき書籍、2005
④『信州ながの 食の風土記』、農文協、2013
⑤『聞き書 長野の食事』(日本の食生活全集⑳)、農文協、1986
記憶を辿りながら、以下、随時、加筆・添削するものとする。
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