哲学・思想

2023年5月30日 (火)

多様性社会への嘱望

2023052212330000  先日、ライオン舎ができたとのことで、早速茶臼山動物園に夫婦で赴いた。平日なので来園者は少なく、ゆっくりと鑑賞できた。鑑賞するという言葉に多少の疑問を抱くが、世界の希少動物保護のためにはやむを得ないことだろう。動物園オタクとして、これまで天王寺、京都市、神戸市、旭山、上野、城山、茶臼山などを訪ねている。長野市は市として全国唯一二つの動物園を所有していると思う。この度、茶臼山動物園は、開園40周年ということでライオン舎をオープンしたとの事である(これまではレッサーパンダがメインであった)。園舎全体にライオンの咆哮が轟いていたのは言うまでもない。近年は、動物の権利と福祉などへの配慮から、動物を檻の中に閉じ込めて鑑賞するという従来の展示方法から、有名な旭山動物園の行動展示から始まった本来の動物生態を実現するのが動物園の主流となっている。動物にはどんどん自由になってもらいたいという願いを持っている。だから、イヌ・ネコの中心で、芸能人が面白がる動物番組は全く見ず、「地球ドラマチック」とダーウィンが来た!」など、選んで視聴している。
 しかしながら、もっとも憂慮しているのが人間という動物である。人間という動物ほど怖ろしいものはいない。アリストテレスは、「すべての人間は、自然本性(φύσις)によって、知ることを求める」(『形而上学』冒頭)と述べて、観想(θεωρία)こそが最高の幸福と主張している(『ニコマコス倫理学』)が、近現代においては、全く当てはまらない。人間の欲望は肥大して、他の生物を疎外して地球規模の破壊(戦争と環境破壊)をするばかりでなく、人間改造にまで波及しているのである(AIとBT)。宗教カルトが政治に影響を及ぼし、多様性社会が嘱望されているのにも拘らず、一極社会へと突き進むという有様である。どんな社会を望んでいるの、とライオンに聴いてみたいものである。



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2023年5月23日 (火)

アリストテレスへの回帰

3180  朝、庭前の畑を眺めると、見事に茎を根元から噛みきられて、二十日大根と枝豆の枝葉が無残な姿を晒している。ネキリムシの仕業である。早速、周囲を掘り起こして発見即捕殺するのであるが、既に5匹以上捕殺している。化学肥料は殆ど使用せず、くず野菜や糠などからの自然堆肥を畑に漉き込むために、発生はやむを得ないだろう。対策としては、①防虫ネット(寒冷紗)で幼苗をべた掛けする、②籾殻で幼苗の根元を守る、③発見即捕殺、④やられたら間引き苗の移植か、再びポットに播種をするのみである。自然農法に近いものだから、苛立ちを抑えて怒りに燃えず(笑)、気長に構えるのみである。
34443019  少し関心があったので、岩波新書を通読してみた。中畑氏の関心と学究は、いつの間にかプラトンからアリストテレスに移行した様である(多分、都立大から九州大への遍歴時代があり、『魂について』の翻訳が契機と推定される)。近年、哲学界はアリストテレスへの関心が高まっており、東大系の『アリストテレス全集』旧版の特徴は、『形而上学』とその倫理学に傾斜しており、術語の難解さと不正確さも伴って、古色蒼然としたアリストテレス像となっているのは否めない。新版を読んではいないが、より平明で精確さをもつ翻訳となっているだろうと思う。そして肝心な『アリストテレスの哲学』だが、アリストテレスの見地と方法論が的確に提示され、章立てで近現代の反アリストテレス潮流に反論している内容である。西洋古代哲学史専修の学生以来、ドイツ観念論と京都学派の「包囲網」を潜り抜け、二十年来アリストテレス原典を文献学的に読み込んだ精華と言えるだろう。所々に彼の言葉遣いと本音が垣間見られるも一興だったのである(例えば、「四つのし」や師である藤沢令夫への言及、p13,194)。最近の東大閥と慶大閥の著作は、余程のことがない限り、信用していないのである。

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2023年4月16日 (日)

『民俗学入門』

34286376 民俗学(folklore)は実質柳田國男が創始した学問である。日本全国にある大学で、民俗学の研究者は少ないが、巷間では民俗学徒は数多い。文化人類学は基本的に「人間とは何か」を扱っていて、誤解されて、民俗学が文化人類学の一種として見做されることもある。ポストモダンは、言語や文化人類学研究の精華としてフランス哲学(構造主義)を中心に隆盛を誇ったのだが、人間を抹消するその反ヒューマニズムと関係性のみに集約される、ある意味での決定論とに、現代の哲学者は疑念を覚え始めているのではないか。民俗学はその間隙をこじ開ける学問の一つであると思うが、今の所、一部の人々を除けば大いに評価されているとは思えない。また、近現代化の時代潮流の中で、失われる資料と中央集権化やグローバリズムとによって、民俗学の役割が終焉したと唱える者もいる。
 『民俗学入門』は、そうした民俗学の現状に一石を投じた著作であると思っている。概括的で読者にも分かりやすい。著者によれば、「民俗学は、普通の人々の日々の暮らしがなぜ現在の姿に至ったのか、その来歴の解明を目的とした学問」(p231)と定義される。目的と方法論についても著者の見解が披歴されていて、読者の評価が分かれるが、それらの見解もまた民俗学徒にとってみれば刺激的である。柳田國男は民俗学の目的を「経世済民」と毫も疑わなかったが、柳田も宮本常一も時代の中を生きて学問をした人たちであったのである。民俗学徒から見れば、世界史や日本史は権力者どもの歴史に過ぎない。それに気付いた人の中に和歌森太郎や網野善彦などがいる。両者ともその民俗学的見地が日本史に反映されていたのだが、現状は未だ支配階級の歴史記述となっているのである。世界史的に見れば、現代のグローバリズムや新自由主義は、アメリカ帝国主義による支配のためとも考えられる。その自由と民主主義は本当であるのか。現今話題のChat GPTは人間を解放するのか。人間の思考と倫理を剥奪するものとなるではないのか。他方、民俗学は足下から考える。故に、ただ単に民俗資料の蒐集するだけでなく、そこからあらゆる疑問が派生し、未来の展望が開示されるのである。

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2023年2月24日 (金)

『超デジタル世界』の時代考察

34421015 1999年に、筑紫哲也の「ネット上の書き込みは便所の落書きに近い」という発言が物議を醸した。パソコン通信に続いて、2チャンネルが登場した当時である。今でも大概変化してはいない。罵詈雑言や犯罪の温床にもなっているのも事実である。昨年末ヤフーは、誹謗中傷やヘイトスピーチ防止のために、コメントに携帯番号の登録を必須化したのである。とは言え、ヤフコメは相変わらずの右ねじの人々の巣窟になっているのは否めない。戦争を煽り、現状追随のコメントばかりである。他方、2010年代からのDXやメタバースへの進展が活発になっている。AI(人工知能)だけでなくBT(生物工学)も加速している。そんな時代に適宜な出版がされた。『超デジタル世界』である。
 先日の信濃毎日新聞(19日付7面)に、マイクロソフトが開発したAIの対話型検索サイトBingに、不都合な回答があったとの記事が掲載された。AIによって人間が「あなたはバカで頑固者」などと回答されたということである。人間を威嚇したり、偽言を弄したりしたそうである。現在は多少改良され、対話は1回当たり5問5答に制限されているとの報道である。AIの限界である。海外研究生活が多い西垣通は、「欧米では、超一流の秀才が少なからずトランス・ヒューマニズムに傾倒している」(p39)と洞見している。トランス・ヒューマニズムが、宗教的ミッションと結合しているとの彼の哲学・思想的洞察は、さすがという外はない(p139)。
 21世紀がポスト・アメリカニズムの時代であるとの慧眼にも感嘆する。国際的対立と戦争は、ただプーチン・ロシアが悪くてウクライナが可哀想との単純な発想ではなく、「殺戮という行為を自分と結びつけてアウシュヴィッツのイメージをもつこと」(p48)が大事なのである。ドローンや無人機、更に殺人AI兵器の投入で、戦争と殺人の感覚がなくなる事態になっているのである。汎用AI万能論の思想の淵源だけではなく、マルクス・ガブリエルなどの哲学への言及と援用をしながらの卓見は、熟読に値する著述であると感嘆したことである。政治屋はおろか、日本の産官学のリーダーたちを「無邪気な少年少女」(p152)と批判していることに微苦笑したのである。日本の衰退を物語るのである。それは同時に、アメリカ帝国主義の転落を暗示しているのである。
 

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2022年7月16日 (土)

現況の問題点

2022070317500000  参院選挙が終了した。与党の大勝である。物凄い戦争国家化であり、憲法改悪への道筋が立ったと言うべきである。戦後77年にして、この様(ざま)である。覚悟もない愚かな一部の国民がこれを選択したのである。アベ狙撃事件をして「民主主義への暴挙」という論調があるが、これは全く当たらない。アベ(だけでなく自民党)と統一協会との関係が浮上しているが、これは50年以上前からの因縁である。当時から原理研との闘いは、希望を抱いた大学入学者にとっては、悪魔との闘いとして喫緊な課題だったのである。隠然として、合宿への勧誘、ニセ大学新聞への加入・支払い、霊感商法・献金、家庭・家族崩壊など、洗脳が問題になっていたのである。その結果、自民党などの政権政党への影響と癒着と支配が浸透し、反共主義の協会方針が自民党の憲法改悪案と相似しており、アメリカ帝国主義よろしく、まさしく、政教一致の憲法違反となったのである(憲法第20条)。マスメディアの腐敗も戦前の歴史における教訓となっているのだが、これは最も重要な一つの指標であるが、看過されているようである。スマホの普及化によって、国民を分断して支配しているのである。そしてこの間の政教一致である。
 人知れず、急速に、何の検証もなく物事が進展している事態に対して、人々はその危機を感得するべきである。それは思考を奪われた保守の側でも同様である。人と人との心を通わせた会話は殆どなくなり、功利的で事務的となっている。都市はそれが当たり前になっている。テレビは国民の生活に関心がなく、つまらない会話やニセの笑いが溢れ、答えが初めから用意されている(画一化)。都市は無反省にビジネス志向が謳歌して、個人の思いは委縮している。都市の電力が、地方の収奪によるものであることも忘却している。また、そうした総合的視野をもった教育もなされていないのである。地方においても、学校教育は地域振興の為には何の役にもなっていないのである。教育は、中央集権化して連綿と地方を収奪することによって成立しているにも拘らず、立身出世と私利のために、医学部や東大(慶応大)志向に集約しているのである。自己の確立を放棄した人間が、国家権力に飼い慣らされているために、(高学歴な人間ほど)戦争に歓喜しているである。この事態が何となくおかしいという疑念を抱くべきなのである。この感覚なければ、ただ単に監視されるということだけでなく、加速するAIやBTによって、すべてが人類(ホモサピエンス)の改変と終焉から地球消滅へと向かう懸念があるのである(岡本祐一朗『いま世界の哲学者が考えていること』、『哲学と人類』など)。

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2022年6月18日 (土)

思考を取り戻す

34332887  参院選挙が実施され、長野県区は実質二者の争いになっている。自民党と野党共闘とである。参議院では野党が独占している全国的に珍しい選挙区である。自民党の候補はタレントであり、その昔、息子の小学校PTAの講演集が回覧されてそれを一瞥したことがある。その胡散臭さに辟易しただけである。醜聞が立って芸能活動をやめ、「長野県民への恩返し」などと称して、案の定、自民党から立候補するのである。信濃毎日新聞のインタビュー記事(18日三面)を見ると、やはり自民党の政策フォーマットをなぞっているのである。過去と未来を何も直視していないと思われるのである。対する立憲の候補は、TBS記者出身で主張は明確である(が、誤りも多い)。両者とも県外出身者である(県知事や長野市長も)。県外人士しかいないのか、と情けなく思うのだが、県外者を有り難く思う気風になってしまい、大抵の若者が主に都市圏に出てしまうこともあって(約8割?)、期待したい地元人士が存在するにも拘らず登用させる県民性ではないようである。もう一人、維新からも立候補している者がいるが、新自由主義の自民党別動隊だから埒外である。惨憺たる大阪府政を顧慮すれば勘案するべきもない(自民党に入党し、支持者を偽って政党を渡り歩いた衆議院議員もいたのである)。信毎記者は、参院選県区で続いてきた事実上の「与野党1対1」の対決構図が崩れたなどと呑気に設問しているが、今後3年間は国政選挙はないのだから、ある意味では戦後の分岐点となると予想される。しかしながら、軍事的にも経済的にも、あらゆる分野において画一化、一様化、狭窄化、空洞化、全体主義化、アウトソーシング化の時代の趨勢は基本的に変わることはないだろう。都市と国家の愚劣化は止まることを知らず、地方に波及しているからである(自民党の牙城になっている地方選挙区さえあるのは惨めの極みとしか思われない)。
 遅い米作は漸く代掻きにこぎつける。田植えが終われば半作である。休日農業は一昨年同様である。これからの盛夏には、額に汗をかいて踏ん張らねばならぬ。しばらく気が休まることがないが、身体を労いつつ励むことになる。

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2022年5月23日 (月)

『イワンの馬鹿』より

05177190  今では、ニュース報道以外テレビから離脱して(テレビ好きだっだのだが・・・)、夕餉を済ますとゆるりと過ごすことが多くなっている。相も変わらず、無為なバラエティー番組が専横して、芸no人や軍事評論家、KO大を始めとする首都圏のニセ学者などが跋扈しているのである。一瞥すると、当の本人たち自身が「ちむどんどん」しているようには思えない。国家機能が集中する都市の腐敗は目が当てられないのである。国会議員の殆どは、後先を見ずに、ゼレンスキーのオンライン演説に狂喜して、参戦を表明している有様である。また、G7首脳会議の報道を眺めると、思わず噴飯してしまったのである。世界の権力者どもの、追随する姿を見て、むしろ憐憫さえ覚えてしまったからである。普通の喧嘩や仲裁でも、こんな事態は考えられない。まるでヤクザの争闘さながらである。欧米各国はキリスト教国を標榜しているのだが、そのキリスト信仰に疑義を抱いてしまうのである。このことは、世界的なキリスト教離れという趨勢も関係が深い。世俗化である。その典型的な例があの帝国主義国家である。政教一致の大国である。そのことは、重々承知しておかなければならないのである。そこでつい想起したのが、トルストイの『イワンの馬鹿』である。
 文学的名声を獲得したトルストイは、その集大成として回心後に執筆したのが『イワンの馬鹿』である。彼のキリスト教博愛主義(トルストイ思想)が展開する民話である。三人の兄弟は小悪魔によって兄弟の仲違いを狙うが、イワンの馬鹿によって退治されてしまうのである。そこで、「頭を使って儲けること」を唱道する大悪魔が登場してイワンを試すのだが、これまた成敗されてしまう話である。長兄の王国は軍事独裁国家として、次兄の王国は金融資本国家として破産するが、他方、大悪魔の策略にも拘らず、イワンの王国は大悪魔を一蹴してしまうのである。汗を流して働かない者は他人の食べ物の残りものしか食べられない、という国の掟による結末である。ウクライナ戦争を念頭に置けば、『イワンの馬鹿』の理解が格段に進むであろうし、現況に符合している。現在、某国の大統領が新太平洋圏構想(IPEF)を引っ提げて訪日しているが、共々、愚者どもの狂宴としか思えない。と言うのは、両者とも、ゆくゆくは衰退・没落する国家だからである。
  

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2022年5月10日 (火)

善悪二元論を超えて

31052042  次は『夜と霧』である。霜山訳の旧版以来の二読目である。新版の方は、より親しみやすい砕けた現代文となっていて、解説と資料写真が省かれているため、凄絶な経験と省察が希薄になっているような気がする。本を読む場合、読者側の主体的読み込みと現在(現代)との比較(客体化)が必要と思っている。さもなければ、単なる啓発本に墜してしまうのである。ウクライナ戦争においては、ほとんどの「国民」が善悪二元論に陥没しており、自分の手が人を殺戮して血で染まっていることにも無自覚なのである。日本人の中に戦争派が過半となって、(新)左翼でさえ、ロシアを糾弾しているばかりで、ウクライナ国旗を掲げてよしとしているという事態がまかり通っているのである(戦争翼賛)。実際には、ロシアの弱体化を狙った米(+英NATO諸国+日本の自・公政府)とロシアの戦争という真実を忘れたかのようである。両者が相手をファシスト・ナチと罵り合って世界戦争へと猛進しているのである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。
 さて、肝心な『夜と霧』であるが、これは「一心理学者、強制収容所を体験する」(Ein Psychologe erlept das Konzentrationslager)という表題である。したがって、旧版のように、センセーショナルな歴史的告発本と扱われることは著者の本意ではないと、遠藤周作石原吉郎も気付いていたようである。比べて新版の方は、著者の意図に沿った心理学(精神医学)的な新訳である。内容は世界的ベストセラーになっていることから詳述しないが、要するに、人間とは何か、人生の意味を問うているのである。だからこそ啓発本と受け止められるのである。しかしながら、主体的に告発本として読み込むことも可能である。だからこそ『アウシュヴィッツは終わらない』のである。フランクルは、とある箇所で「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」(p145)と解き明かしている。まともな戦争体験者は、生き残った負い目(罪悪感)を抱懐しながら、貝のように口を閉ざしているのである。それは恥辱の化石とも換言できるだろう。現今の戦争派のように、廉恥心のない怠慢な人々(多数派)は何度も過ちを繰り返すと思われるのである。
 もう一つ明らかにしておかなければならないのは、フランクルの宗教観である。これを感得できなければ、『夜と霧』の真の読者と言えないのではないか。そのことは次回以降に明らかにしたい。
 ちなみに、身近な図書館では、『告発戦後の特高官僚』、『現代史における戦争責任』、『血にコクリコの花咲けば』、『敗戦前日記』、『八月十五日日記』、『近代日本と朝鮮』、『手記ー私の戦争体験』など戦争関連本が大量に廃棄されているのが現実である。戦後77年は日本の侵略戦争を忘却する歴史と言わねばならないだろう。あるいは、歴史は別の形で繰り返すとも言えるだろう。このこともまた、人間の重要な一側面であることを剔出しておかなければならないのである。

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2022年4月10日 (日)

天皇制とキリスト信仰

33943009  この著書は様々な刺激的問題を投げかけてくれている。著者は、宗教と戦争との関連をも考察している。それは、「戦争とはつねに文化の発露であり、またしばしば文化形態の決定要因、さらにはある種の社会では文化そのものなのである」(p79)というキーガンの戦史論に影響を受けているのであろうが、考えてみれば、いつまでもクラウゼヴィッツの古い戦争観に囚われているのもおかしいのである。現今のウクライナ戦争においても、確かにプーチン・ロシアの侵攻と虐殺は許されることではないが、経済的制裁と武器供与をする西側NATOの所業はどうなのか。「欲望に基づく『侵略』よりも、善意や正義感に基づく『防衛』の方が凶暴なのだ」(p79)という言辞もある。戦争に軍人も民間人もへったくれもないことは、沖縄戦が明確に教えてくれている。大空襲や原爆を落として民間人を大量に殺戮した国の二枚舌(duplicity,double standard)はどうなのか、と疑義を覚えるのである。プーチンだけでなく世界の権力者とて同罪であり、どいつもこいつも調停や停戦に向けて外交的に失敗(もしくは放棄や加担)しているのである。国民国家時代のままの旧態依然としているのである。政治的・外交的無能と人間的な邪悪を持った性悪連中なのである。かてて加えて、グローバル主義者と新自由主義者どもは、ファシストを使嗾して世界と地球と民衆を混迷と破滅に誘導させているのである。まさしく、パンデミックとショック・ドクトリンである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。平和派はごく少数だったのである。
 さて、キリスト教が日本において人口比1%にも満たない理由とは何かはこの書籍のテーマの一つであるが、著者は安直に結論を急ぐことなく読者に様々な要因を提示している点で好感が持てる。そしてその提起の一つとしてティリッヒの宗教論を援用している。「何かを真理であると信じ込むこと、思い込むこと、鵜呑みにすることが信仰なのではなく、自らの存在の意味について『究極的な関心』(ultimate conncern)を抱き、またそうした関心事に捉えられ支えられていることが信仰だとされるのである」(p275)という宗教観である。そのキーワードは「懐疑」である。懐疑は信仰を創造させるのである。それは量義治先生に教示された「無信仰の信仰」とも相通じるものである。さらに、日本にキリスト教が普及しない理由は様々あれど、もう一つの核心的理由は、地政的にも歴史的にも民俗的にも、あらゆる意味において、天皇制であると指摘しておかなければならないのである。
 ※クリスチャンである友人の指摘があり、量先生の信仰と思索(生きざま)を棄損させるものである故、「不信仰の信仰」を「無信仰の信仰」と訂正させて頂きました。認識の過誤がありましたことをお詫びします。

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2022年3月11日 (金)

誰が利益を得ているのか?

34196725  危機の時代にあって、新型コロナウィルスに続いてウクライナ問題である。大事なのは、一体誰が利益を得ているか、を見極めることである。巷間では、プーチン悪玉説がワクチン同様に猖獗を極めているが、彼とロシアは術中に嵌っているのであると思う。アメリカとNATO諸国のみならず、中立国もまた経済制裁と武器供与に関与しているのが現実である。更に、西側からの情報にあふれ、マスコミのみならずSNSを媒介して嫌という程映像を見せ付けられ、戦争屋たちが世界中から義勇軍として参加したり、影響下にあるものたちが募金などの支援をしているのである。この演出がどのようにされているのかを、もう一度顧みる必要がある。確かにロシアの侵攻と殺戮は断じて許されることではない。しかしながら、プーチンは我慢に我慢を重ねたと主張している。プーチンの殺害や賞金まで取り出されているのは異常である。ウクライナへのアメリカ大統領=バイデンによる利害関係も噂されている。ウクライナ大統領のゼレンスキーは、愛国主義を掲げて国民の動員を強制し、欧米の支援や民族主義者との連携にシフトしているように見える。以上のように考慮すると、プーチン・ロシアと対峙しているものが見えてくるのではないか。
 中国などの国は及び腰になっている。日本政府は早速軍事装備を支援して参戦している。しかも民間では戦争募金まで開始しているのである。マスメディアはゼレンスキーとその同調者を英雄のようにウンコ情報を伝えている。マルクス・ガブリエルはインタビューの中で、現代はポスト・トュルース(post truth)の時代であって(『資本主義と危機』p12)、「資本主義とは、本質的に錯覚を作り出すシステムである」(p3)と語っている。彼の見解によれば、資本主義の政治形態がショーになるのは本質であり、必然なのである。このように考えると、このショーを演出する者は誰なのかが見えてくるだろう。プーチンもゼレンスキーも、それに各国首脳も出演者と考えることができる。出演者はそれだけではない。演出家が出演者を使嗾してショーが演じられているのである。コロナ禍でもそのショーが見られたような気がする。ワールドワイドな現代にあって、人々が一層警戒心と、長けたメディアリテラシーをもって生きなければならないことは、誠にもってトホホなのである。

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