哲学・思想

2025年4月 3日 (木)

資本主義つれづれ

134453919 フジメディアHDの傘下であるフジテレビの腐敗は、40年以上前からの周知の事柄である。それは、「楽しくなければテレビじゃない」というスローガンに象徴されている。当時はテレビがなかったので全く縁がなく、視聴する暇もなかったのである。その頃、南河内を徘徊したことがあって某都市の家々を観察していると、軒並み、青の産経ポストと犬を飼っている風景にゾッとしたことを想い出す(それ以上に学会の隆盛に辟易したのだが)。さすが司馬遼太郎をもてはやす風土があるんやなと逆に感心したのである(大阪の名誉のためにいうが、本来の大阪は全く異なる。司馬メモも参照)。フジの企業(セクハラ・パワハラ)体質は今更ながらのことであり、関西一円の維新の席巻と同じく、丸山真男の「タコツボ文化」というべきか。
 近頃「令和の米騒動」と話題になっているが、これは1918年の米騒動とは異なり、未だ民衆の闘いとはなっていない故に騒動とまで言えない。農政批判と農協や農民への安易な批判に加えて、新自由主義の農業評論家がこれに便乗して日本の農業を破壊しようとしているのである。そんなに米が食べたいなら自分で作ったらと思うのだが(耕作放棄地など幾らでもある)、または輸入小麦に恃んで「貧乏人は麦を喰え」と放言したとされる池田勇人(この発言を知らない現農水大臣にも呆れたものである)に倣ったらいいのである。麦飯の方が白米より栄養価が高いのである。これを転機に農業や農家への関心を深めることが望まれるのだが、資本主義の生産力主義に洗脳された近現代人には、農業を社会的評価が低く儲からない産業にしている現状においては、ほぼ不可能と言えるだろう。
 大学受験の社会科目で世界史と日本史を選択したが、特に世界史は記憶すべき事項が多かったが、その西洋中心の世界史でも役に立つことがある。例えば、ギリシアにあるアクロポリスは、嘗て樹木に覆われていた筈であるが(NHKの番組で見たことがある)、今は岩肌の切り立った丘の上の廃墟となっているのである。日本の神々では、鎮守の森になって子供の遊び場になっていたとするのが定番である。『7つの安いモノから見る世界の歴史』は、ラジ・パテルが共同著者の一人であった関心から繙読してみたのだが、実はムーアの主張を全面展開する著書だったのである。その中に、「プラトンと同時代の人びとは自然を軽んじ、丘陵地帯の森林を乱伐して丸裸にしてしまった」(p26)という記述がある。ここに西洋の自然観が表意されているのである。
 ところでその著作は、ウォーラーステインの世界システム論を論拠にした世界生態論(world-ecology)の展開であり、テーマは「より広範な生命の網(Web of Life)と資本主義との関係」(p37)である。「資本主義は、自然を破滅することによってではなく、できるだけ低コストで自然から価値を得ることによって繁栄している」(p36)とあるが、その下線部の真偽を熟慮したいものである。

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2025年2月 5日 (水)

勘違いの生成AI

34626180 中国AI企業によるDeepSeekの発表は、トランプ・アメリカ帝国主義を震撼させている。既にイーロン・マスクはトランプに取り入っているが、その他のプラットフォーマーもまた、資金援助や支持を表明して追従している有様である。日本の豆狸も、トランプ大統領の卑近に突っ立って、巨額の資金援助を願い出てご満悦である。このような事態に、さらに拍車をかけているのが金融資本、業界人、及びその筋の学者・研究者・学生たちである。虚無のブラックホールに身を投げたり、引きずり込まれている。院政期の「鳥獣人物戯画」さながらである。いずれにしても、生成AIの開発競争は、間違いなく飛躍的に激化しているのであるが、それはまた、世界の覇権を争う米中対立を加速させるものであろう。
 OpenAIのどこがオープンなのだろう。どこが人類全体に利益をもたらす汎用人工知能(AGI)なのか。彼らのようなトランスヒューマニズム(超人間主義)は、「情報技術を駆使して万物をお金に変えて」(西垣通『デジタル社会の罠』p206)しまうのである。その淵源は機械論的自然観であり、分裂した二元論を超越して世界を支配しようとする誤った一元論である。近代化とは脱宗教化であるが、だからといって、欧米が未だキリスト教圏と勘違いしてはならないのである。あるいは元々キリスト教徒ではないかもしれない。マルクス・ガブリエルは興味深いことを述べている。「キリスト教は近東で一人のユダヤ人によってその礎が築かれましたが、その男はのちにキリスト教に征服されるヨーロッパの帝国によって処刑されました」と(『考えるという感覚/思考の意味』p410)。しかしながら、だからといって科学技術の発展に反対するものではないである。このことは次回以降に展開したい。
 今季最大の寒気が到来しているが、曇天が続く雪国の人々の苦労は計り知れない。なぜこの時期に受験が行われるのだろうかと時々考える。全く不平等である。上京して太陽が毎日のように臨む関東平野の様子に驚いたことがある。寒冷の信州では曇天と晴天が半々と思われるが、今朝も積雪は高々5㎝程度である。土は固く凍みて農作業はないので、この大冊を少しずつ読み進めているのである。

 

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2025年1月 8日 (水)

残念な結論

34667887 この著者の刊行本を以前に感心して読んだこともあり、最新刊を読了してみた。結論を急ぐ読者なら、「はじめに」と第五章のみを読むことを勧める。根底にある視点は「宗教も戦争・軍事も(パラレルな)人間的な営み」(p3~)である。戦争論については、クラウゼヴィッツの定義である「戦争は異なる手段による政治の実現(延長・道具)」が有名であるが、著者はキーガンに影響されているのか、戦争を「文化の発露(衝突)」と捉えていると思われる。人間的な営みとは文化の言い替えだからである。
 また彼は、「戦争の悲惨さに対する嫌悪感、自分は戦争にいっさいかかわりたくないという逃避的な反戦意識だけで、平和を守りえないことは、歴史が証明している事実なのだ」(本当に歴史が証明しているのかという疑いもある)という吉田満の言葉を援用して、反戦平和主義者を非難しているが(p275)、これがこの論考を棄損している。戦後民主主義下においてはそのような傾向があったかもしれないが、今や、そんな呑気な「小綺麗でセンチメンタルな」(p280)反戦平和主義者はいないからである。吉田の言葉を歪めているばかりでなく、的を外れているとしか思えない。更に、「~なようである」などという記述の多用にも違和感を覚える。様々な資料と文献を蒐集して検討していることには勉強になって敬意を払うのであるが、その結論がキリスト教徒である、ご自分の中でどうなのか、と心配する次第である。
 年末に、高校生平和大使を伴って被団協がノーベル賞受賞式に臨んだが(ノーベル賞そのものには何の意味はなく、あのオバマすら受賞しているのである)、それをテレビで瞥見したが、核兵器(核抑止力)と平和とのジレンマにあるノルウェーにおいて、被爆者の訴えは響いたのだろうか。にも拘らず(nevertheless)、核兵器廃絶の闘いは更に拡大しなければならないのである。著者が誤解しているように、反戦平和は容易ではないのである。

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2024年7月10日 (水)

異常事態の進展

Dsc_0334_20240707232901 今年は梅の実の成りが殆どなく、梅仕事は昨年同様に中止となる。山形県産サクランボの不作も報じられている。初夏の味覚と言われるサクランボは、我が家のそれを観察すると、疾うに収穫終了して鳥の餌にもならなかったのである。小暑が過ぎた今は、ノウゼンカズラや桔梗、露草に夾竹桃、朝顔にハコネウツギなどを目にする。適期のように見えても確実に気候変動が進行しているのである。そして、世界情勢も人間社会も自然も狂気に満ちた異常事態が進展しているのである。
 東京都知事選挙は予想通りの結果だった。騙されやすい450万以上の人々がいたという事実である。これは、既得権益と右翼的勢力と、あわよくばそれに組み込まれることを欲する人々がいたということである。ニセの「自由と民主主義」及び改憲を目論む多くの人々がいたということである。差別排外主義と核武装論者の知事を擁する神経が分からないが分かる。新自由主義者に票が集中するのも分からないが分かる。既得権益の野党の自堕落も分かる。人々の思いに寄り添っているのか、疑問である。裏金問題に発する自民党の腐敗などというものは、日本史の中では遙か昔からあったことであり、何を今更の感である。逆風は一過性であり、繰り返すだけである。無いのは労働者や被差別の人々と生活苦にある人々の要求に適う人士である。必要なのは、中央権力(東京一極集中)への断罪であり、地方からの反逆であり、小賢しい連中を追放する(学歴社会の廃止)ことである。東京も大阪も目糞鼻糞なのである。権威と尊厳が失墜し、科学主義(ITとBT化)が跋扈して、21世紀の世界は虚偽と詐欺が蔓延している。マルクス・ガブリエルは、現況の多くの脅威と危機が高度に複雑化したシステムを「入れ子上の危機」と呼んでいるが(信毎5月19日7面)、彼が問題視しているのはトランプなどによるポピュリズムの政治である。「自由と民主主義」を掲げれば解決するような問題ではないのである。必要なのは人間性の回復である。そして、その人間が地球と他の動植物などに対する責任を負っていることを知悉することなのである。それとも、P.レーヴィに見られるように、人類は自殺過程に突入しているのだろうか。

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2024年4月27日 (土)

イデオロギーに抗する

34321027  世の中は本当にままならない。春の気配が始まった途端、もう夏の到来である。地球温暖化は凄まじい勢いである。ゆき過ぎた人為的な営みがブーメランとして我々にのしかかっているのである。これに科学的手法を駆使した資本主義という経済体制が加速させているのである。東京出生の著者は、長野県農業大学校の教授として土壌学を専門としていて、今回の著作は、三部作の最後を締めくくるものである。要するに、慣行農法に抗する有機農業の勧めである。1960年代後半、日本の農業は緑の革命の影響を受けて、旧来の農法を捨てて肥料の多投、農薬の大量投与などによる環境破壊と農村の共同体を破壊したのである。都市の繁栄と共に、若者は都会を目指し、地方は疲弊して「崩壊集落」と「地方自治体の消滅」を招来させたのである。人の弱みや悩みに付け込んで、健康食品や医療不安を煽ぐ保険商品がCMを席巻し、結果として、コロナワクチン接種と同様に、とどめの無い健康悪化と経済格差である。成長神話に駆られた都市イデオロギーに人々は侵されているのである。
 何が原因・理由なのか、を人々に考えさせる暇もないほどのグローバル化イデオロギーである。著名人・知識人ですら例外ではないのである。止まることを知らないともいえるのではないか。ウクライナやイスラエル問題でも、軍需産業の思惑とアメリカ帝国主義の狙いを「自由」と「民主主義」の名のもとに糊塗している。アメリカはあらゆる戦争と紛争に一枚噛んでいるのである。なぜ世界に戦争がなくならないのかという人々の疑問と思考に答えるどころか、加担しているのが現状である。アメリカは建国以来一貫として戦争国家であることは教科書では教えてくれない。バイデンもトランプも、コ〇・コーラとペ〇シコーラの違いに過ぎない。教科書の歴史的記述は、正史イデオロギーに満ちている。真正阿呆と阿呆の化かし合いと言えるだろう。原発政策も外部化して推進され、地球と人々を汚染させているのである。費用対効果(コストパフォーマンス)という透徹したイデオロギーは欺瞞である。体制内的イデオロギーは遍満しているのである。

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2024年4月 2日 (火)

最後のパラダイムシフト

34543296_20240402104101  この所、この本を丹念に読み込んでいる。自然に対して無理に負荷をかけない農業志向に添った農法である。アグロエコロジーは、慣行農法の裏返しの農法というか、農業である。それは同時に、「緑の革命」から脱却した農業である。類似したものに有機農業があるが、より現在の農業を根本的にパラダイムシフトする農業である。農業を生態学的に分析して、持続可能な農業を志向する実践的な社会運動として捉えられている。全世界のフードシステムを変換する農業である。
 現在、我々の食べ物はほとんど工業製品である。紅麴のサプリや原料とした商品が社会問題となっていて、その原因や被害に関心が集中しているが、問題の根幹である農業的な問題は完全に忘れ去られている。グローバルに進化した「アグリビジネスが膨大な富を支配して農業生産のほとんどの物理的、財政的社会基盤を所有している」(p418)のである。食の主権は消費者であるかのように偽装されているが(近代経済学は諸問題を前に右往左往しているだけである)、主権が奪取されているばかりでなく、我々の良心さえも取り去られているのである。消費者は口にする食品の安さばかりに関心を奪われ、農業生産者を社会の最底辺層に落とし込めるイデオロギーに汚染されているのである。利益の高い加工食品やインスタント食品、ファーストフードやミシュラン(グルメ)ばかりに関心を奪われていないだろうか。いつかパルプが入ったカップラーメンに吐き気を覚えて、それ以来カップラーメンを飲食していない。
 「世界の人口の半数が農業で生計を立てている」(p435)のだが、農業者に渡るのはその16%以下である。キャベツ一玉100円としたら、農業者の手取りは精々16円である。北米の食肉消費量は一人当たり年間約120㎏であるが、米を主食とする日本人の米消費量は一人当たり年間約60㎏である(食の欧米化)。また、「世界の全人口が日本人と同じ水準の生活をするためには地球が2.5個必要」(デジタル大辞泉、「エコロジカルフットプリント」の項)なのである。自民党の裏金問題はくだらない問題である。離党勧告ではなく、政界からだけでなく、人間社会からの追放が相当するのである。国会無視の武器輸出を閣議決定する政府も同様であり、イスラエル問題も同様なのである。 

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2024年2月27日 (火)

人心一新の時代

31115047 雨が雪に変わり、凍土は固く閉ざしている。待春の時期で、本棚の『新版 農業の基礎』を何度も取り出して振り返っている。20年も前の出版物で、以降の農学も急展開している。慣行農法においてはスマート農業が推奨されるが、21世紀の小規模・家族農業もまた注目されている。地球温暖化が問題にされるが、それに関連する農業・食料・飢餓問題も喫緊になっているのである。農業従事者が激減しているにも拘らず、テレビでは芸能人やお笑い芸人のグルメ番組がトレンドになって、高蛋白・油脂過剰・糖分過多の食事を助長しているのである。株価最高値に浮かれ、政治の腐敗と戦争加担には無関心の有様である。人心一新を図らなければならない時代となっているのである。
 少し前になるが、地元新聞である「信濃毎日新聞」7面(1月14日)で、マルクス・ガブリエルの寄稿が掲載されている。多分、共同通信からの配信だろう。それは、「反ユダヤ主義拡大の危機」と称して、「ハマスの思想的なわな」にかかってはならないという警世である。しかしながら、これは事実誤認である。シオニズムに駆られたイスラエルは一貫してパレスチナ人から土地を略取してきたのである。なぜハマスがパレスチナ人に支持されているのかを考えてみたらいい。また、ハマスを育てた右派リクードであるネタニヤフ首相の思惑にも深慮しなければならない。パレスチナ問題などではなく、「イスラエル(と裏で画策するアメリカ)問題」なのである。マルクス・ガブリエルはまた、「イスラエル軍が大量虐殺を計画したり、政府がそれを企図したりしていないことは明白だ」と語っている。彼の言動は、まさしくイスラエルとアメリカの言い分と一致しているのである。パレスチナ人から土地を収奪し、シナイ半島に追い出して利権を強奪するのが狙いなのである。歴史学者ハラリと同様に、残念ながら、愈々彼の哲学を疑わなくてはならない時期になっているのである。

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2024年2月16日 (金)

ポロポロ

71aepucrcql_sl1500_ どこで田中小実昌を知ったのか覚えていない。戦争関連の著作を読み耽っている過程で知ったと考えられるので、とりあえず手にしてみたのである。タイトルの『ポロポロ』は、劈頭を飾っている小説というか、私小説である。但し、少年時代にテレビで、禿頭の彼を何度も視たことがある。戦後二十年前後で、世情はまだ戦争の名残があった時代である。明治・大正生まれの人々が健在であり、彼らの生態を直接触れることができたのである。戦後高度経済成長の端緒の時代であり、激動の時代に生きた人々の生き様を直に接触する最後の世代となってしまったのである。この時代は特変する人士が排出する時代であり、現今の気を遣う世代とは全く異なる。個人の体験でも、酔漢の大工が暴れて隣家が仲裁に入ったり、お互いに貧乏でお金の融通やお裾分けをしたりするのが当り前の時代であり、人々がお互いを補い合う共同体がまだ存在していたのである。戦争はここまで影響を与えていたのである。田中のような人間もまた容認する社会だったのである。彼はバプテスト系独立キリスト教会の牧師の息子である。19歳の時に、初年兵として中国大陸での戦争を幾多体験している。
 「異言」とは、広辞苑的には、新約聖書の「使徒行伝」などに記されているように、「(キリスト教で)聖霊に満たされた人が語る理解不可能なことば」(γλῶσσα )である。本義は外国語であるが、パウロは異言の誤用を戒めている。後代、異言は神の賜物として広義として多用され始めて誤解されてもいるのである。田中小実昌は、青少年期に父などの「ポロポロ」を日常的に接して育っている。彼は、「苦しみながら祈っているときに、父はポロポロが始まった」(p30)と語り、祈りを突きぬけて、「非理性的なみにくさに、おそれ、おののき、不安になったのではないか。」(p31)と描いている。ここに言葉の問題が現出する。「言葉は、自分の思いをのべることしかできない」(p13)のである。「ボカーンとぶちくだかれたとき、ポロポロははじまる」(p15)と換言してもいる。ヨブが神に要求する自分(人間の物語性、p169~170)を打ち砕かれたように、「祈りの言葉を失ってるのにも気がつき、失った言葉をとりかえそうとする(時に)口からでるのはポロポロばかり」(p31)なのである。彼にとっての「ポロポロ」とは、祈りを突き抜けた呻きであり、神の賛美だったのである。それは、「クリスチャンはクリスチャンでいいではないか。・・・ただのクリスチャンではいけないのか。」(p29)という表明に如実に示されているのである。

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2023年12月 9日 (土)

批判と変革の哲学

34205002 そしてプラトンである。京都大学の哲学科の西洋古代哲学史専修(西田幾多郎を始めとする純粋哲学、いわゆる純哲=哲学専修とは異なり、多少の確執があったと思う)は、一時期(今でも?)「プラトニストにあらずんば(西洋古代)哲学徒にあらず」という学風であった。この経緯は、動画「おこしやす!西洋古典叢書 イントラダクション」で國方栄二(以下敬称略)が言及している。田中美知太郎に続く藤沢令夫、そして中畑正志。今や研究陣が系統的に継続的に出揃っていると言えるだろう。だからの故の西洋古典叢書である。以前、中畑氏の著述についてブログ投稿したので、念願の『はじめてのプラトン』を、繁忙の中で遅々として進まず、漸く読了ができたのである。
 彼のスタンスは、ご教説を甘受することではなく、「プラトンの著作を読む目的は、ただプラトンを正確に解釈することではない。・・・問いを発し、考えることこそプラトンが望んだことである」(p42)に尽きる。その意味では、プラトンはソクラテスの対話を中心に記述して、常に挑戦的なのである。先ず、「ソクラテス問題」である。それは、ソクラテス自身の著作がなく、周囲の人々がソクラテスについて論じていて、どこまでがソクラテスの思想と実像なのかが不明という問題である。それに、大半のプラトンの著作はソクラテスを主人公にした『対話篇』であり、その境界が不明という問題もある(イエスとパウロとの関係に相似しているだろうか)。しかしながら、プラトンは師の哲学を継承して、「それを理論的に深化させ、他方で社会的な実践のかたちへと展開した」(p72、p121、 ソクラテスープラトンの哲学宣言)のである。「魂への配慮」と「知と真理への配慮」となって、魂の比喩とイデア論に結実しているのである。これらはよく誤解されるデカルト的「身心二元論」ではなく、交錯してプラトンの哲学となっているのである。彼がプラトンの哲学を「批判と変革の哲学」(p4)として規定するこの新書は、一貫しているのである。後半の終わりに、人間の営みの全体への批判と変革の哲学であるとの繰り返しの強調は、「彼のプラトン」を如実に指示していると思われる。
 今春、定年退職された彼には、①文献学的に、アリストテレス全集『形而上学』翻訳(未刊)とその成果が期待される。②プラトン哲学を政治的に誤解釈するゲルマン(親ナチス的)勢力とアメリカン(ネオコン的)勢力(両者とも歴史性の欠如、p235)への批判を徹底してもらいたいものである。この混迷した時代の中では、緊要な課題と思って彼に期待しているのである。

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2023年5月30日 (火)

多様性社会への嘱望

2023052212330000  先日、ライオン舎ができたとのことで、早速茶臼山動物園に夫婦で赴いた。平日なので来園者は少なく、ゆっくりと鑑賞できた。鑑賞するという言葉に多少の疑問を抱くが、世界の希少動物保護のためにはやむを得ないことだろう。動物園オタクとして、これまで天王寺、京都市、神戸市、旭山、上野、城山、茶臼山などを訪ねている。長野市は市として全国唯一二つの動物園を所有していると思う。この度、茶臼山動物園は、開園40周年ということでライオン舎をオープンしたとの事である(これまではレッサーパンダがメインであった)。園舎全体にライオンの咆哮が轟いていたのは言うまでもない。近年は、動物の権利と福祉などへの配慮から、動物を檻の中に閉じ込めて鑑賞するという従来の展示方法から、有名な旭山動物園の行動展示から始まった本来の動物生態を実現するのが動物園の主流となっている。動物にはどんどん自由になってもらいたいという願いを持っている。だから、イヌ・ネコの中心で、芸能人が面白がる動物番組は全く見ず、「地球ドラマチック」とダーウィンが来た!」など、選んで視聴している。
 しかしながら、もっとも憂慮しているのが人間という動物である。人間という動物ほど怖ろしいものはいない。アリストテレスは、「すべての人間は、自然本性(φύσις)によって、知ることを求める」(『形而上学』冒頭)と述べて、観想(θεωρία)こそが最高の幸福と主張している(『ニコマコス倫理学』)が、近現代においては、全く当てはまらない。人間の欲望は肥大して、他の生物を疎外して地球規模の破壊(戦争と環境破壊)をするばかりでなく、人間改造にまで波及しているのである(AIとBT)。宗教カルトが政治に影響を及ぼし、多様性社会が嘱望されているのにも拘らず、一極社会へと突き進むという有様である。どんな社会を望んでいるの、とライオンに聴いてみたいものである。



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