民俗学

2022年2月 8日 (火)

『昭和の記録 私の思い出』

2022020812440000   「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)という俳句があるが、昭和もまた遠くなったものである。何と、明治維新から敗戦までと、敗戦から本年までは、それらの間隔は等分の77年なのである。そして、昭和が終焉して33年も経過しているのである。この『昭和の記録 私の思い出』を10日間を要して漸く読了した。「歴史は庶民によって作られる」という言葉さながらに、昭和の時代状況を彷彿させる好著である。権力側の改憲派の増長と庶民側の護憲の衰退という時代の流れの中で、庶民の歴史を発掘することは大いに意義のあることである。教科書の歴史は殆ど権力者側の記録であって、これだけが日本の歴史ではないのである。よくある日本史は、天皇と武士どもの権力闘争の歴史であり、こんなものをいくら学んでも現実の生活には何の役に立たないである。インテリと称される層が新自由主義者どもにコロッと騙されるのは、洗脳され易く、生活の知恵がないからである。自然環境が破壊されて人心が荒廃するのはこれがためである。だから、権力者側の改憲は峻拒すべきであって、民衆の側の改憲はよりよい憲法へと断行すべきなのである。守旧の改憲派は歴史を巻き戻すものだからである。今こそ人々は前期の近現代史を総括して、次の時代を創始しなくてはならないのであるが、テレビやインターネットを眺めると、頭が右螺子の人物と情報が蔓延している有様である。時代錯誤とガラパゴス天国の日本に成り果てているのである。
 以下に読書感想を記すと、①小林謙三さんの「朝鮮ユキさんのこと」の一文が秀逸であった②戦前と昭和30年頃までは北信州の農業は穀桑式農業なのだなと再確認した③実業に従事していた者は強い④当時の様々な思い出が焦点を帯びて具象化できた⑤「父との思い出 雪の綿内駅」もまた感動的な文章であった⑥戦争や赤貧的窮乏によって斃れた人々の歴史(筆記されていない歴史)もあり、記憶されてしかるべきであること⑦「野菜は頭で作るもんじゃないで」(p471)という言葉は印象的であったことである。
 この本の掉尾は、「昭和の記憶・・・我が家の『昭和』には、『粘り強さ』と『ひたむきさ』そして『家族の笑顔』があったのだと、しみじみと感じています」(p476)で締め括られているが、昭和は誠に激動の時代であったが、ただ一つ付記すれば、天皇の元号で時代を象徴させてしまう不名誉を恥じなければならないことである。 

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2021年4月22日 (木)

春の陽光に誘われて

 先日、このコロナ禍の中、春の陽光に誘われて北信濃の小旅行を敢行した。旧豊田村(現中野市)にある高野辰之記念館とその周囲、菜の花ロードを抜けて野沢温泉に宿泊したのである。野沢温泉村と観光協会は、お得な「免疫力UP!キャンペーン」を張っていて、永年北信濃への往問を勘案していたので絶好の機会となったのである。翌日は、おぼろ月夜の館と飯山、更に足を延ばして信濃町の一茶記念館へと宿願を果たしたのである。
 高野辰之の「故郷(ふるさと)」という文部省唱歌は、実はあまり好みではない。特に三番の歌詞は立身出世の内容となっている。明治人の好学の士として上京した辰之は、1909年(明治42)年に文部省小学校唱歌教科書編纂委員となって作詞したのである。後には、東京音楽学校教授や東京帝大の文学博士号を授受して、「志をはたして いつの日にか帰らん」という歌詞の如く、1925(大正14)年に帰郷したのである。時は社会運動が発展して、普通選挙法と抱き合わせで治安維持法の公布によって社会運動が弾圧したされた時代である。これによって、無産運動が成立と分裂を繰り返して昭和恐慌を迎え、十五年戦争に突入してゆくのである。
2021041610280000  国文学者として成功した高野であるが、野沢温泉のおぼろ月夜の館のおいて、その学問観と一つの短歌に関心を覚えたのである。学問観についての解説には、「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがあり、「実証的で」、「様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった」とある。また、隠棲した野沢温泉村から出征する青年に託した短歌には、「海行くも あへて水漬かず 死ぬ価値も 越える名上げて 帰れよき子よ」とあることである。侵略戦争に突入している時代にあって、少なくとも「死なずに帰れよ」と青年を励ましたのである。そこには、戦争に対して不本意な高野の思いも推察されるが、断定はできない。その土地(ふるさと)への愛着と向学への思いも感じられるのであるが、これも明断できない。「死ぬ価値も超える名」とは一体何なのか。その曖昧さが明治人としての限界なのかもしれない。しかしながら、好戦的で偏向した「悪しきナショナリズム」(軍歌・戦時歌謡)とは無縁と思われるのである。ちなみに、唱歌「ふるさと」では海の風景が謳われていない。これもまた高野辰之作詞の所以である。


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2021年4月 7日 (水)

『民謡とは何か?』

34172868  学生時代はよくバロック音楽と民謡をBGMとして愛聴しながら勉学に励んでいたのだが、時代が急速に展開して民謡は廃れつつある。その主因は担い手不足に尽きると思う。高校の音楽の教科書では、民謡とは「民衆の生活の中で歌い継がれてきた歌」として、仕事歌、祝歌、踊り歌、座興歌、語り物・祝福芸の歌を列挙している。音楽辞典でも、「民謡とは民衆の生活の中で生まれ、とくに作者などは問われずに生活慣習のように歌い継がれてきた歌を指す」とある。つまり、民俗音楽の中心部分なのである。それもあって、民俗音楽を追求したバルトークのピアノ教則本(ミクロコスモス)を手に練習していたこともある。
 民謡の担い手の活躍の場としては演歌歌手になっているようだ。実際、知る限りでは長山洋子や福田こうへいなど、民謡出身の演歌歌手は多いようである。長山は、八尾市文化会館のコンサートで握手してもらったことがある。ヒット作の歌唱だけでなく、見事な三味線演奏を堪能したものである。なんと彼女のCDを一枚所有しているのである(笑)。
 さて、民謡の学究本によると、「本当の民謡」とは仕事歌ということで、仕事歌の中でも王様なのは臼歌だという(第九章、十章)。私的には、やはり仕事歌が好みで、刈干切唄南部牛追歌が秀逸であると思う。仕事のつらさや思いが切々と歌われている。これに次ぐのは秋田宮城や岩手南部の長持ち唄などの祝い歌であろう。東北は民謡の宝庫なのである。しかしながら、カネさえあれば何でも買える飽食の時代となって、ハレとケの閾が消失してしまう事態なのである。このことはある意味では人間の退化であり、堕落ではないだろうか。この趨勢でなくなったものは人としての生活であり、労働なのである。デジタル時代の到来は、人を人として認めなくなり、人を情報として扱われて喜怒哀楽も画一化してしまうのである。グローバリゼーションとネオリベラリズムは、人と地域と地球全体を併呑して無化してゆくものなのである。
 民謡に限ると、小学校時代の音楽担当の中村先生から、江差追分のルーツは北国街道を伝播して越後追分から江差へと繋いだ信濃追分節と教えて頂き(第六章、その又ルーツも東北)、レコード鑑賞したことを想い出す。音楽では最高評価点を通信簿につけて頂いた中村先生の教えは、集中してよく聴いていたもので、それが民謡への関心を惹起して今でも感謝している。しかしながら、民謡で謡われる人々の労働そのものが存廃されて、民謡もまた愛唱されることもなくなっている。著者は、時代遅れと不要になったものは「捨てられるのが民謡や民俗芸能の宿命」(p211)として、今や記録保存の時代だという。だが、著者が今後の楽しみと期待しているように、機械化した楽曲に見合った一様な歌詞という現今の音楽が、一体何を生み出すというのだろうか。生活や労働から乖離した現代音楽もまた、存亡の危機に直面しているのではないだろうか。
 

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2021年3月 2日 (火)

反ヒューマニズムへの階梯

9d8ac3528435eb2b4c2803fb11ea4a16206x300  全国の農業集落数は、2020年においては13万8千になっていて、漸次その数は減少している(2020年農水省センサスこれ)。この本が執筆された1978年の14万2千と比較すれば、それ程減少していないのではないかと勘違いするが、限界集落の離散や集落の都市化・混在化の流れは止まることはない。農業人口(基幹的農業従事者)は136万人程となり、高齢化(7割)と併せて、減少が一段と加速化しているのである。村落共同体としてのムラ社会は形骸化して崩壊の一途である。戦後の自民党政府による農業政策が一貫して失敗していると言っても過言ではない。ムラの崩壊と同時に都市化が進展し、農業の多面的機能が強調されてもその流れは止まらない。戦後直後の一時期を除けば、元来農業は弱かった、と著者は強調している(p199~201)が、狭い集落道路を車で運転していると、「ああこれは元々リヤカー道だったんだな」と感慨を覚えることがある。水田や畑、農道や農業用水、神社や寺院などの風景を眺めていると、そこには子どもの姿もなく、人影も殆どない。村はずれの幹道では車が引きも切らずに走っているのとは対照的である。共同体の残骸と言ってもいいだろう。しかしながら、いかに都市化が進もうとも、村落共同体は形骸化しながら下げ止まりするのではないか。なぜなら、農業は基礎的産業として生き残るのではないか。そこに人間の生活があるからである。農業が存廃される時、人間もまた廃棄されるからである。欧州の農業政策では、小農が推進され、手厚い補助金によって保護されているそうである(『コロナ後の食と農』吉田太郎、参照)。
 もう一つの懸念があるが、それは気象庁の指針に沿って長野地方気象台が本年度から「生物季節観測」として、動物17種をゼロに、植物26種を6種に縮小するという発表されたことである。動物のヒバリやウグイスの初鳴き、ツバメやホタルの初見、県農産物であるアンズやリンゴの開花などを全廃することになったのである(信濃毎日新聞2020年11月11日号)。60年前には、河川にはアヤメが咲いてホタルが飛び交い、麦畑にはヒバリが空高く囀り、夏にはヒグラシが鳴いて夕涼みをしたものであるが、今日のムラでは、これらの動植物はほぼ全滅しているのである。農産物は堆肥ではなく化学肥料によってつくられていることを知っている人は少ない。人気のイチゴやトマトが化学肥料の味をしていることにも気付かないのである。自然の循環をせずにゴミを外部化して焼いたり埋めたりしている社会なのである。そして油脂過剰で大味なグルメの番組が花盛りなのである。転倒したこの社会を正すのはいつになるのか心配である。衰退・全滅した先の未来はどうなるのか。けだし、自然環境とその土地から切り離された人間そのものが問われているのである。

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2021年2月27日 (土)

むらは生きている

41epjchypul__sx373_bo1204203200_ 鶏卵大手「アキタフーズ」との関連で農水省幹部への処分、首相の長男による接待事件で総務省幹部への処分など相次いでいるが、実はこれらは目新しい事柄ではない。戦後の自民党政権においては、よくある贈収賄事件なのであって、政治屋も官僚も「記憶にない」と空とぼけて、公文書(歴史)を隠滅してしまえばいいからである。このことは安倍政権から常套手段となっており、官邸から人事権を握られている検察もまた、同じ官僚として国民のために微動だにもしないのは至極当然である。すべては保身で動いているのである。日本の高度経済成長期においては、自民党政府の腐臭は疑獄事件として呆れるほど日本社会を覆っていたのである。知り合いの東京都職員によると、日曜日となると接待ゴルフと付け届けで過用だったそうである。余りにもの腐敗のために、真面目な橋本龍太郎は、うっかり国家公務員倫理法を制定してしまうのである(ほんの20年ほど前である)。しかし、バブルの味を甘受した官僚は、成立してもぬくぬくと生き残っており、有り体の倫理規定などどこ吹く風となっているので、虚偽答弁や公文書破棄など、ごまかし様はいくらでもあるのである。以前、居酒屋の店主から「日本は『経済一流、政治三流』」と拝聴したことがあるが、今や『経済三流、政治五流』と言うべきだろう。戦後の政治の殆どを自民党が担っていることには理由があるのである。これは政権交代できない理由ともなっているのである。官僚社会では「神輿(首相や政党)は軽いほどいい」のである。官僚と政治屋は相互依存の関係にあり、利害が共通しているのである。
 むら社会は「日本の社会のどこにも(農村ではないところにも)ある」(p10)と、この本にあるが、正確には農村だけでなく都市にも存在しているというべきだろう。しかしながら、柳田國男も探究した日本人の原型は、新自由主義の旗印とグローバル化の流れで、地方と中央(あるいは農村と都市)の関係は逆転するのである。原子力ムラはその典型である。霞が関ムラ自民党ムラ(永田町ムラ)も然りである。都市が自民・公明・維新を求めて田舎化しているのである。慣例と利害と権益が蔓延して、日本社会の肉瘤として存在しているのである。そして、これを支持する有権者がいて、棄権する無関心層が幇助しているという構造になっている。だから、「日本人というのは、ぶんなぐらないとわからない」(p45)のである。堀越久甫は、40年程前に「何よりも大切なことは、社会を構成する人々がすべて他人のことも(自然環境のことも、と付記したい)心配することである。この心がなかったら、社会そのものが崩壊する。そしていまや東京はそうなっている」(p168)として、社会再生のプランを提起しているように、都市の(悪い面だけが凝集した)ムラ化は社会の崩壊(慢性病による死)を意味するのである。

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2021年2月17日 (水)

人生は余りにも短い

33099413  第二回目の東京オリンピックで、政財界とスポーツ界が混乱している。当たり前だろう。オリンピックそのものが「スポーツの祭典」ではなく、利害の争奪戦だからである。はしなくも、コロナ禍という事態の中で、そのことが暴露されただけでなく、組織委員会長の女性蔑視というだけではなく、差別発言事件によって、政権の腐敗もあって国勢の式微が顕著となっているのである。そして、会長の後任人事が決まらないというのである。後進がいない、欲得ばかりの人事支配などで、もっともっと混迷を深めたらいい。まるで、アジア・太平洋戦争末期の大日本帝国の有り様である。新自由主義の経済思想がグローバル化と相まって、多くの若者とひとり親世帯が貧困に落とし込められているのは、自公政権のお陰である。格差社会の底が抜けて、女性と若者・子どもの自殺が激増している事態である。人々に絶望しか与えない政党・政府は、一刻も早く、破壊した方がいいのである。
 このところ、全集を紐解くこともせずに、批評・評論の本ばかり手にして分かったような気になっているのは、怠惰の極みという誹りを免れないだろう。生活そのものがだらしなくなっているのである。再度柳田の全集に没入する決意である。今日は雪降りの一日で、夜になると積雪となっていて、闇夜に浮かぶ、とんぼりとした雪景色を眺めていると、幼少の頃に見た静謐な雪化粧であったのである。寂しさと貧窮、そしてその中にあっての「常民」の息吹、日本人はこれを原型として忘れてはならないことなのである。明治人である柳田國男は、このことを忘れてはいまい。営々とした「常民」の暮らしの中に日本人の原型を透視しているのである。
 静養したりWiFi環境を改変したりの雑用の一日であった。既に着手した終活の活動はできずに、ボツボツと読んでいるのがこれであったのだ。身を入れて終活に専念しなければと思う次第である。今年一年はコメ作りは中止して、野菜と果樹に集中しようかなどと雑念が種々に思い浮かぶのである。したいことは山ほどあるのだが、この齢となると、完遂できることは限られている。人生は余りにも短い。これはよくよく銘記すべきことである。

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2021年1月23日 (土)

記憶の時代

34142200  タイトルは『民俗知は可能か』であるが、柳田國男を始原とする民俗学はその存続が問題になっているのである。民俗学は大学の学問分野の一つとして成立しているように見えるのであるが、それは幾つかの大学に限られたものである。いずれ文化人類学の一領域として解消されてしまうのではないか、という危惧があるのである。民俗学は近代化と戦時体制下において成立と興隆がなされたのであるが、失われる民俗資料への危機感を常に引き摺っているのである。だから第二に、過去(古代)へと遡及する「国学」との親和性を持っていて(折口民俗学)、自国の精神文化の淵源を求める学問傾向は、学問としての科学的合理性を喪失して、単なる個人的な文学として収束する危険がある。さらに第三に、戦後の復興と高度経済成長によるムラ(村落共同体)の崩壊である。都市化の影響もあって民間伝承の対象者(古老)がいなくなり、民俗学の関心を都市に移動する者もいる。直接体験する者は存在せず、その直接体験した者を見聞して証言する者も少なくなり、民間伝承は文章や記録として記憶されるだけの時代となっているのである。柳田が活躍した1930~40年代は遙か遠い世界であり、宮本常一は、1960年代後半に「古老からの聞き書きの時代は終わった」と指摘しており、赤坂憲雄は1990年代の初めにムラは終焉したと推定しているのである(余談だが、國男と常一と憲雄という名にも時代を反映しているのである)。この過程は「戦争の記憶」を伝える課題と全く同一である。頼りのない「記憶の時代」において民俗学は可能か、ということなのである。都市の民俗に関心を向けても、それは共同体としての意味は何も持たないために、雑学としての民俗学に終始するのである。それではどうしたらいいのか。赤坂は、「民俗学という学知は成熟への階梯をたどることなく、若くして老いてしまったのではないか、と感じずにはいられない」(p376)と、民俗学者としての自分の後ろめたさと中途半端さを独白しているが、問題は未来への足掛かりとしての民俗学なのである。後顧する懐古趣味(復古主義)や現状追随としての民俗学ではない民俗学を志向する必要があるのではないか、と思っている。

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2021年1月11日 (月)

柳田民俗学の意義

33008928  体力は青春時代の半分以下になっているのだが、精神生活は相変わらずである。これからは少し健康的な生活を心がけるように努めようかな、と思う新年であるが、碌々とした日々を過ごすばかりである。
 遅きに失した緊急事態が首都圏に宣言されたのだが、これもまた予想されたことである。むしろ心配していることは、コロナ特措法の厳罰化を自公政府によって策謀されていることである。「そのような指摘は当たらない」、「まったく問題はない」、「承知していない」、「仮定の質問にはお答えできない」と、言論の封殺を政治信条とした政治屋が宰相となっていることが、抑々の間違いなのである。(天皇制)ファシズムが民主主義の中から派生したという見方は夙に有名なのだが、然りという事態が進行しているのである。ショックドクトリンさながらの市場原理主義者どもの社会改悪である(これも)。しかしながら、世論調査では不支持が支持を上回っているのだが、自・公・維の支持岩盤層が3割弱と依然として存在しているのである。現状維持と現状改悪の勢力を政治の中枢から叩き出して、戦前と戦後の継続性を断ち切る行動が望まれるのである。
 前回、柳田民俗学を批判したのだが、これはあくまでも批判的摂取であって、柳田の著作を踏破する決意は揺らぎはない。日本の近代化が進行する中で、日本の村落共同体が崩壊する過程で柳田がどのような発言をしているのは、現行の時世に必要なことと思われるからである。折口のような得手勝手な民俗学者や国粋主義の三島など、過去を金科玉条して日本歴史の継続性を願望する寝言の復古主義者には何の関心もないが、少なくとも柳田には歴史的事実が存在するからである。ただ、柳田の論述には比定が少なく、抽象的な記述が多いので難解を極めるのである。民俗学者としての柳田と折口との二人の民俗学者には、無限の距離があるのであるが、柳田民俗学は無限の宝庫と言わねばならないのである。新年になっても、農業と介護関連の書物との併読は続くのである。

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2021年1月 2日 (土)

柳田民俗学の一面

33881455 日本の民俗学を創始した柳田國男なのだが、試みに入門的なアンソロジーを読んでみた。その博覧強記と漢学の素養に驚嘆するのだが、今一つ興味を削がれるものがあった気がするのである。この本の冒頭から、「伝説を愛する心は自然を愛する心に等しい」(p9)とあって、伝説を蒐集する重要性を力説するのだが、その伝説を説明する文章が曖昧模糊としていて、一種捉えがたい印象と文意の把握に難行するのである。雑多の情報が羅列され、一言注釈を入れて終始してばかりいるのである。若い頃のニーチェは古典文献学徒であって、その下地があって哲学的思想を深化させたのだが、柳田はその生活体験に基づいて叙述化したもの故に恣意的で、厳密さ(科学的合理性)に欠けているように思われるのである。
 さらに言えば、柳田は日本の習俗・伝承を調査して日本人とは何かを追究するのだが、それは後ろ(過去)ばかりを見ている学問に成り果ててしまったのではないかという思いもある。過去を探索して未来を模索するという変革への志向が感じられないのである。現代は正(まさ)しく文字通りの危機の時代である。民俗学者は、こうしたことへの関心が極めて無頓着である。確かに柳田の功績は存在するが、要はこれからの民俗学はどうあるべきか、なのである。「いろいろの偶然に支配せらるる人間世界では、進歩の途が常に善に向っているものと、安心してはいられぬということである」(p150、「木綿以前の事」)という消極的慧眼が表現されているのであるが、これといった自らの戦争責任も感じることなく、1939年に「今度の大事変(日中戦争)が起ってから、(日本人の研究心と発明力は)大飛躍した。・・・いよいよ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てることと思う。・・・少なくとも求めたら得られる程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の論議に揚湯せられつつ、なんらの自信もなく、可否を明弁することすらもできないのは、権能ある指導者の恥辱だと思う。」(p169~170)と、時流を後顧することなく、時の政権を鼓舞したり預けたりしてしまっているのである。こういう側面が柳田民俗学にもあることを忘れてはならないのである。それは年末の「紅白歌合戦」やお笑い芸人によるバライティ番組にも共通している。人々の辛苦や喜び、労働と生活とは無縁で、愛や絆や夢などの抽象的な歌詞の羅列で満足する歌手や、無芸の芸人たちのの虚妄と凡庸さに具現しているのである。

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2020年11月22日 (日)

「お茶飲み」の意味

2020111509590000 昔の人はよく働いた。昔の人とは、高度経済成長期の1970年代までの人々のことである。生活と労働は、ほとんど手作業に営まれていた時代であった。また、経済的には食うや食わずの時代要因もあった。家父長制社会ということもあった。しかしながら、都市化の進展とともに、地方の地域社会は溶解して、崩壊したのである。農家の労働力は工業化につれて都市部に移動して、農業は衰退したのである。家族労働を当てにした村落様式も機能を喪失し、地方都市においても、誰何をすることもない都市的な生活様式が当たり前になっているのである。かつての村落共同体においては、人々が時空を共有した機能が存在して相互扶助の中で生活していたのであるが、現代においては、人々は地縁・血縁と切り離されて、利益・機能が優先された社会集団が遍満するようになっているのである。ここに関心があって、長野県の地方史研究誌である「信濃」(第72巻第8号)の中にあった「地域社会における「オチャ」の機能」(倉石忠彦、信濃史学会)という論文を閲読してみたのである。
 かつての農業労働は、苦労が多いというのには憚れるほど過酷であったことを覚えている人は少ないと思う。文字通り、朝から晩まで田畑にしがみついて働いていたのである。ある女性の話によると、「子ども時分の私が夕飯を待ってお腹空いていても、母ちゃんは真っ暗になっても働いていて、呼びに行ったものである」と回顧していた。それ程生活に追われていたのである。そんな生活の中で唯一の休憩が「お茶(飲み)」「おこびれ」であった。倉石氏の論及はそんな「オチャ・タイム」における機能に着目したものである。かつての地域社会の日常は、人々の交流の機会としての「オチャ」によって支えられていたというのである。「オチャ」の機能は「茶飲み話」をしながらの情報交換であり、物々交換である。しかしながら、お茶仲間は地域の中での類縁やご近所に限定されていた(倉石氏の「幼馴染み」だったという指摘は疑念が残る)。「居るかい?」「お上がりなして」「お茶、飲んでったい」という挨拶は、日常でよく聞かれたものである。また、冠婚葬祭においては、今でも引き出物やお返し物に茶や砂糖を返礼する風習が残っている。お茶が静岡産であることは言うまでもないが、「お茶(飲み)」の習慣は日常であったのである。しかしながら、こうした風習と「ムラのコミュニティ」を、倉石氏は再生不可と無意味であるとして、新たなコミュニティの創造を提言している。確かにそのままの再生は不可能であることは理解できるのだが、このコロナ禍での都市機能の喪失と地方創成の(都市から地方へという)潮流の中で、そのように断じるべきではないのではないか。
 第二に、倉石氏は「オチャ」の機会は「社会的な立場の違いを解消する役割(対等の関係)を果たしていた」(p32)というが、これは承服しがたい。本来の「お茶飲み」は、近隣の仲間であり外界の人間であったのではないか。「酒宴」にまで拡大解釈しているのではないか。類縁との付き合いとして「お茶飲み」は、決して立場を解消するのでなかったのではないか。かつての村落共同体は、そうした因習的で窮屈な封建制度の下にあり(本家と分家、親分子分の関係)、あくまでも近所付き合いの仲間との「お茶飲み」で、一時でも解消発散する「お茶飲み」であったように理解している。

 

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