日本の近・現代史

2017年4月 8日 (土)

司馬遼太郎の朝鮮観

32288547 著者である中塚明については、彼が近代日朝関係史についての専門家であること以外、詳らかに知らない(これ参照)。しかしながら、司馬の著作が未だに広範に読み継がれていることから、これを念入りに批判することは、厳として意義のあることである。のぼせ上った歴史修正主義者や国粋主義者などの右派が大手を振っているからである。司馬の本は全くと言っていい程読んでいないのだが、瞥見したところ、その虚実が入り混じった文体が嫌いである。小説家としての資質は多分あるのだろうが(推測)、そのしれっとした倨傲が気に食わない。彼は『坂の上の雲』の映像化を拒否したということだが、著作権を除けば、作品は発表した時点で著者の権限から離れるのであって、評価は読み手が行うことなのである。したがって、映像化を拒否するのは傲慢以外の何物でもないのである(映像化を望むわけでもないし、映像化するべきだとも思わないが)。母親は自分の子供を拒否するだろうか。歴史意識や想像力が漸次喪失されることに付け込んで歴史を改鋳し、それを美化する風潮は、紛うことなく、人々の記憶と意識を改変し劣化させるものである。中塚によれば、司馬の明治観は「戦前の昭和は大嫌い、明治大好き」(p27)の「明治栄光論」だと言う。敗戦前の昭和は「異胎の時代」として毛嫌いし、日露戦争は祖国防衛戦争として、それまでの明治は武士道が貫かれた良き時代だったというのである。ちょっと、どうかしているのじゃないのか。日露戦争後、日本人は民族的に痴呆化したと司馬は捉えるが、断じてそんなことはあり得ない。むしろ、明治維新から始まって、殺戮の戦史だったのである。そのことを中塚は、司馬の朝鮮観を批判することで、日清戦争の中にも洞察できると仔細に論じている。朝鮮王朝占領、朝鮮抗日闘争へのジェノサイド、王妃殺害事件(これ参照。意図が不純であることと、その結果としての結論が間違っているが、比較的うまく纏められている)である。司馬に劣らず、明治政府は正史と戦史の偽造、鏖殺(おうさつ)を隠蔽・正当化するためにプロパガンダに明け暮れていたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月24日 (金)

日清戦争の核心点

92406 山川版『日本史小辞典』の内、〔日清戦争]の項を念のために採録してみたい。まだ手元に置いているのであるが、機会あれば古書店に売り飛ばす予定である。
 「1894~1895(明治27~28)に主として朝鮮の支配をめぐって戦われた日本と清国との戦争。日本は早くから朝鮮への進出を意図したが、壬午・甲申両事変で清国の朝鮮での勢力が拡大すると、対清戦争準備および朝鮮に対する保護の準備を進めた。94年に朝鮮で甲午農民戦争がおこり清国軍が鎮圧のため出兵するや、日本軍も出兵。日本は欧米各国の動向を見守りつつ、日清による朝鮮の内政改革を提案し、清国の拒否にあうと単独改革を主張し、清国との戦機を求めた。7月16日日英通商航海条約を調印するや、日本軍はただちに王宮を占領し、豊島沖で清国軍艦を攻撃し、8月1日に宣戦布告した。装備・訓練にすぐれた日本軍は、指揮・装備の不統一な清国軍を圧倒。制海権の争奪をめぐる黄海海戦で勝利し、朝鮮半島の成歓・平壌の戦に勝ち鴨緑江を渡り、遼東半島に進出した。95年2月威海衛を攻めて北洋艦隊を全滅させ、3月には遼東半島を完全制圧した。また、朝鮮では再蜂起した農民軍を鎮圧し、甲午改革によって朝鮮の保護を推進した。ここに欧米各国も講和の斡旋に動き、とくにアメリカの仲介で・・・4月17日に日清講和条約が結ばれたが、直後に三国干渉のために遼東半島をやむなく放棄。また朝鮮の従属化をめざした甲午改革も、三国干渉直後のロシアの朝鮮進出もあり挫折した。日本の動員兵力約24万人、戦費2億余円。」
 戦争そのものとその動向を説明することが主眼であることとは言え、この記述は朝鮮と朝鮮人民からも清と清国人民からも見ていない。また、日本を含めた帝国主義列強の意図が明らかにされていない。つまり、なぜ、日清戦争が戦われたのか全く分からない。また、日清戦争の意味とその後の影響が不明である。まったくもって、よく分からない内容となっている。目新しい学問的成果もない。日清戦争の核心点は何か、これから順々に論及したいものである。明治時代の息吹を残していた親父より上の世代を振り返りながら、探索したいものである。『家郷の訓』もまた、その時代のあり方を調べるための足掛かりとして破読したいものである。
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2017年2月12日 (日)

軍歌一考

07351079_2 実は、軍歌についての晋遊舎ムックを一冊所有している。CDが二枚付録として収録されている冊子である。少し日本の歌に興味が高じて、調べている最中に衝動買いしてしまったのである。これも古本屋行きである()。著者は軍歌研究の第一人者であるが、やはり慶応大出身である。慶応は、早稲田と共に、既に地方出身者が三割を切っており、首都圏のローカル大学に墜しているが、ごく一部の例外を除いて、御用学者と体制護持派の巣窟になってしまっているから、学問的にはほとんど信用していない。これからも劣化が進むであろう。これが故に、危機感を覚えた慶応大学は、地方学生向けに、独自の奨学金制度を充実させているそうである。ところで先のムックであるが、その第一章において、さも偉そうに記述されている事柄は、当たり前と言えば当たり前である。つまり、軍歌は戦争とセットであり、「皇軍」のみならず、娯楽として推奨され、民衆が追い求めたものである。換言すれば、侵略戦争へ国民を総動員するための方途なのである。軍歌そのものは、総力戦を戦う上では必要不可欠な手段なのである。これはあまり知られていないが、外山正一、山田耕作、北原白秋、古賀政男、古関裕而など、戦前の著名な作詞・作曲家で、軍歌に無縁な者は全くいないのである。明治期以降には、政府は学校教育(唱歌)を通じて忠君愛国精神の涵養を図ったのであり、その意味では、東京音楽学校(現・東京芸術大)の功罪は大きいと言わなければならない。そういう私も、1960年代に兄の所有する月刊誌『丸』を耽読したり、零戦や戦艦武蔵のプラモデルを製作したり、朝日ソノラマのソノシートで密かに「ラバウル小唄」や「月月火水木金金」や「同期の桜」などを暗誦している。戦後になっても、まだまだ戦争の影響下にあり、映画やテレビでは戦争を懐古する番組が製作されていて、「戦友」というテレビ番組を視聴した記憶もある。倒錯していた時代が、まだまだ続いていたのである。そして、その伏流水が現今滲出し始めていると言っても過言ではない。辻田はそのムックでは、娯楽としての軍歌の危険性を綴っているが、その問題意識は全く切開せずに、結尾で、軍歌が楽しいと懐古する愛国主義者や軍歌に詳しい人気声優を紹介しているだけで、肝心なそれを放置してしまっているのである。軍歌の内容を「反面教師」(p10)として詳細に知るだけでは軍歌のことは分からない。日清戦争期には、戦争熱にうなされて、軍歌が1300曲以上創られたということであるが(p11)、他方の園田は、その時代の軍歌によって、「それ以降の日本の歌曲のほとんどすべてが行進曲調となってしまった」と嘆き、「二度と再び軍歌をうたわねばならぬ時が来ることを拒否する」(p63)と宣言している。また、小学館版『日本の歴史』26巻において、宇野俊一は、「今に蛆虫チャンチャンを打ち払い・・・うちころせ大砲で・・・撃て撃て突け突け、君の為国の為」などと絶叫した外山正一を、「当時の碩学であることを思うと、その低劣さにはあきれはてるしかない」(p75)と慨嘆している。日本軍歌の父と称される外山正一(東京帝大)だけでなく、彼と共に「抜刀隊」の原曲他、軍歌を多数創作した井沢修二(東京音楽学校、長野県出身)もまた、当時の時代風潮を差し引いても、それに負けず劣らず愚か者である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 5日 (日)

征清日誌と和歌

51dtwmk33l__sy373_bo1204203200_ 1894年(明治27年)7月22日の(従前の)日誌には、「この時我等兵卒の者は、朝鮮事件の急の電報が来たのかと思う」(p21)と書き残している。朝鮮事件とは、日本と清国との決戦が不可避となる豊島沖海戦前の急報であろう。朝鮮王朝には、既に日本からの最後通牒が送られていたのである。そして、直ちに王宮占領して手中にし、清軍掃討作戦で追撃し、豊島沖海戦勝利を待って平壌攻略へと進撃してゆくのである。信州の山村出身である山口にとっても、出兵が俄かに要請される事態なのである。ここにおいて、彼は件(くだん)の和歌を認(したた)めたのである。
 君の為 今ぞ死ぬ身を 思いしに
 又故郷の 花を見るらん
 これを意訳すると、「天皇陛下を奉戴するこの大日本帝国のために、たった今、死ぬ覚悟を固めたのであるが、再び古里・故郷の花を見るだろう(想像推量)」となるだろうか。前回、「決死の和歌を認めた」と皮相的に書き記したが、真実のところ、山口には逡巡があるのである。決死の覚悟であったならば、「今ぞ」でなく、「今こそ」と、より強調した表現をするべきだし、下の句では反語の係助詞を採用するべきところである。例えば、それでもイマイチの和歌ではあるが、
 君の為 今こそ死ぬ身 思ひけれ
 又故郷の 花や見るらむ
 意訳すると、「天皇陛下を奉戴するこの大日本帝国のために、死の覚悟を固めたのであるが、それは、故郷の花を再び見るだろうか。いや見ない程の強固な決意である」となるのではないか。何のことはない、本歌・元歌では望郷心の方が優勢なのである。これは後方支援の部隊員のためであるのかも知れないが、天皇制イデオロギーが農民兵士にまで浸潤できていないことの証左の一つであるだろう。近代国家として、出来立てほやほやの擬制国家だったからである。

 今日は、『信濃風土記』(NHK長野放送局編集、1979)ともう一冊を古本屋で安価に購入したので、のんびりと読み始めようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 4日 (土)

征清日誌と軍歌

33026837 日清戦争前の農村社会は、江戸時代のそれと殆ど変化はなかった。明治維新から30年弱経過しているのだが、明治中央政府は天皇制近代国家の形成が急務だったのである。大日本帝国憲法(欽定)の制定(1889年)によって、臣民には納税と兵役の義務が課せられたのだが、天皇の親署のある教育勅語の発布(1890年)によって、事実上、三大義務として国民に捉えられ始めたのである。勅令は明治憲法に規定されてはいるものの、憲法から独立した天皇の大権として発布される命令だったのである。ちなみに、軍人勅諭はやはり天皇の命令として軍人に下賜した訓辞である。維新期に信州の片田舎に出生した山口袈裟治(1873~1965)は(従前)、二十歳に兵役義務に服し、近隣の名士などの送別を受けて、「陛下万歳、兵役諸氏万歳」と謁する中で出立し、赤羽練兵場に入営するのである(p8)。この頃の男子は、未だに小学校や兵役は必ずしも浸透していた訳ではなく、軍人の社会的地位も相対的に低かったが、山里の家に養子に入った山口にとっては、国家と養子先への義理として出征したものと思われる。だから、まだ若輩であった彼の表現が拙いとは言え、就役の慶びの言葉は見当たらない。寒村の中では、出征旗や「数十の国旗等、盛んに祝砲を放ち、送別員は山と為した」(p8)とあるが、皇民化教育も未熟で、未形成の在郷軍人会の見送りもなかったのである。謂わば、この時期によくあった出稼ぎ感覚に近いものであっただろう。しかしながら、この出郷と軍隊経験は、「差別なく公平な」軍隊内の生活を通して、国民意識の萌芽となったのである(『明治・大正の農村』、大門正克著、岩波ブックレット、p36)。実際、入隊した工兵第一大隊での生活は、教練や演習、靖国参拝、酒肴の下賜、外出での東京見物や面会の楽しみ、軍歌の奉唱、三大節や宮中行事の国家祝祭への動員などで彩られている。とりわけ、行軍の頻回には、「余は炎暑中の(十里余りの)行軍は今度は初めてで・・・非常に困難した」(p21)と珍しく弱音を吐いている。ところが甲午農民戦争を契機に日清戦争が開始され、彼は、敷島の和歌(本居宣長)の顰に倣って決死の和歌を認めているように思われる。
 君の為 今ぞ死ぬ身を 思いしに
 又故郷の花を 見るらん
 これは、本居宣長と「抜刀隊」等の軍歌の合作と思われる。この時代、明治政府は「君が代」を始め軍歌の創作によって忠君愛国思想の注入に励んでいたのである。とりわけ、日清戦争前後には、盛んに軍歌が作曲され、「敵は幾万」は最も広範に唄われていて、「抜刀隊」と併せて明治を代表する軍歌となっている(Wiki)。また後者は、以降自衛隊の現在まで、一貫して軍隊の行進曲として通用している(『日本の詩歌』別巻日本歌唱集、園部三郎、中公文庫)。園部は、「これらの(つきつめた気持を表現した)軍歌の大部分がもっていたヨナ抜き五音階が、その後のほとんどすべての基本音階となった」(p63)という卓越する見解を開陳している(続く)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月 3日 (火)

差別排外主義との闘い

2017_2 新年早々、不快な思いをして温泉場を後にすることになった。仕方ない、こんな時代だから。それで、やや古い本であるが、『大正デモクラシー』(岩波新書、成田龍一著)を年末年始に読み込んでみた。彼によると、日比谷焼打ち事件を契機に、「国民」が登場し、「帝国」のデモクラシーが開花することとなった。主導したのは、言うまでもなく、吉野作造の「民本主義」である。米騒動は、「日比谷焼打ち事件以来の都市民衆騒擾の延長としての性格を持つ」(p89)という叙述には疑問を覚えるが(実際は全国闘争の様相を呈していたのである)、関東大震災(1923年、大正12年)は、都市住民によって、多数の朝鮮人や大杉栄などのアナーキストや社会主義者、労働組合幹部をなめ殺しにしたのである。ここが歴史の結節点であることは疑いもない、と思っている。都市住民の差別排外主義が蔓延し始めたのである。不況と恐慌の社会状況下、「改造」が左右から叫ばれ、支配階級は、「統合(普選)と排除(治安維持法)により選別的に「国民化」を図った」(p199)のであるが、政党政治の腐敗と汚職が茶飯事であり、これと闘う人士(労働者・農民・部落民など)は国家権力の弾圧と孤立の中で満身創痍だったのである。しかし、「時すでに遅し」だったのである。知識層の「民本主義」を乗り越えた民衆の闘いは続いたのであるが、インテリの怯懦と思想的脆弱性は、むしろ体制側を支えたのである(その中でも、山宣の闘いは心打たれることである)。そして、満州事変は大正デモクラシーを木端微塵に打ち砕いて、侵略戦争になだれ込んで行ったのである。故に、差別排外主義との闘いは、常に日本人に問われている根本問題なのである(これ参照)。

 宣治 <好むと好まざるとも やがて来る その日のために>

 新年にあたって、あの辞典を古本屋に売り払うことに決めました。東大系の学者が居並んでいるだけでなく、内容がお粗末過ぎるからである。元々、東大史学は日清・日露戦争だけでなく、先のアジア・太平洋戦争を使嗾したのであり、東大史学も、それに追随する山川出版も凋落したものである。大学受験で山川の詳説日本史を使用したが、今もって知識として以外、何の役にも立っていない。断捨離の時期が来ているのだろうか。次世代インターネットであるIoT(モノのインターネット)の時代には、自分はあの世行きであるから知らないが、要らないものは要らない。今年はどうなるやら。ブログ読者の皆様へのご挨拶は、この記事にアップした画像をご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年11月13日 (日)

何、この日本史小辞典

33486710 新版になったのだからと、『山川 日本史小辞典』改訂新版を大枚叩いて購入してみた(貧乏人が小遣いの内3000円以上出費することは、ある意味では、命がけなのである。泣)。何しろ、手元の『三省堂 日本史小辞典』第3版は、20年以上前から座右で使い古していたからである。ちょっと比較してみる。大杉栄の項目を拾ってみると、
 三省堂版では、『大杉栄 (1885~1923) 社会運動家・無政府主義者。陸軍軍人の子に生まれ、名古屋幼年学校に入学したが放校された。東京外語語学校卒。学生時代から社会主義運動に加わり、幸徳秋水の影響でしだいに無政府主義に接近、赤旗事件などで数回投獄された。荒畑寒村らとともに、大逆事件によって壊滅的打撃を受けた社会主義運動の再興に努力した。一方、米騒動(1918,大正7)を契機に高揚してきた労働運動に指導的役割を果たし、アナーキズム運動の指導者として、ボルシェビズムと激しく論争した(アナ-ボル論争)。23年関東大震災の際、伊藤野枝らとともに、甘粕憲兵大尉に殺害された。「自叙伝」ほか多数の著作がある。』とある。
 山川版では、『大杉栄 1885.1.17~1923.9.17) 大正期の無政府主義の社会運動家・思想家。香川県出身。陸軍幼年学校中退。東京外国語学校在学中に平民社に出入りし社会主義に傾倒、無政府主義者として大正初年からきびしい弾圧下に活発に活動。ボルシェビキに反対し、革命をめぐり堺利彦・山川均らボルシェビキ派とアナ・ボル論争を展開。関東大震災の混乱のなか、憲兵大尉甘粕正彦らに惨殺された。』とある。
 要するに、山川版の記述は少なく、社会主義に傾倒したのに無政府主義者に転換した理由が不明瞭ということもあるが、アナ・ボル論争の契機が全く明示されていないのである。また、その他の項目についても、客観を装いながら主観的な記述に終始しており、歴史的連関性が綴られていない。さらに、三省堂版の方が、簡にして要を得た内容であり、山川版は2倍以上の分量がありながら、冗長で文章に格調がない(社会主義者や無政府主義者への不信・敵意も散見される)。何とも後味の悪い辞典であると思わざるを得ない。どうしよう?
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 5日 (月)

稲も実れば穂首を垂れる

2016090118060002 稲も実れば穂首を垂れる。しかしながら、この国の宰相や為政者は決して頭を垂れない。むしろ、天変地異や災害、スポーツや築地移転などの栄華と混乱に乗じて権力を振り回すことで人々を屈従させるのがお得意なのであって、決して人々の安寧を創り出すことはない。大衆を操作し敵を創り出すことである。隷従しない者を冷遇し、大衆に軽蔑させることである。この国の知識階層がいとも簡単に転向するのは歴史を振り返れば分かり切ったことであり、歴史学者の殆どは歴史を捻じ曲げている。鯛も人も組織も頭から腐るのである。熊本地震災害も岩手・北海道の台風災害には、この国は何の援助もしようとしない。辺野古基地建設には、国は警察と自衛隊を動員して、沖縄県民の反対の意思が鮮明であるにも関わらず、強行しているのである。文字通りの圧殺である。これで、東京はオリンピックだ、築地移転だと大騒ぎしているのである。結果を出すのが政治家の仕事である筈であるが、何の成果もなく緩慢に時だけが経過してゆく。相模原事件の犯人と同一思想の人間が随所に徘徊している状況である。それが都会人の姿である(都会は地獄である)。それをひとえに体現しているのがこの国の首相であり、東京都知事なのである。その一方で、左翼・リベラリストの側でも、人々を軽蔑して、己の間違った考えで自己満足(逃避)の悦に浸っているのである。戦前、戦争反対を唱えた者たちが壮烈な死を強制された歴史を忘れてはならない(これも参照)。戦争反対は口先だけでできるのではないのである。地震などの大災害と壮大な原発被害、戦争と収奪という薄氷の上に成立しているのが日本国なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2016年6月 4日 (土)

黒岩六郎のこと

2016060411020000 何となく手にしたである。実は、この黒岩六郎という人物の名前は、時々、父母の会話の中で側聞したことがある。経歴を概略すると、1889年(明治32年)に貧農の子として共和村(長野市篠ノ井・共和)岡田に生まれ、12才で小僧として奉公(作男)に出て(これが当たり前の時代だったのである。人々は殆ど米を買えないほどで、その日暮らしの生活だったのである)、その後、化学肥料と雑穀を扱う商店を一家で経営し、更に、精米所を開店する。商いは順調に繁盛したのだが、昭和恐慌によって黒岩商店は借金を残して倒産するのであるが、精米所は残して返済に尽力し、銀行筋から預金・借財整理の仕事も加わって、無事に返済する。次に、株・証券の斡旋売買も始めて、不動産業に転じ、会社経営面でも戦争協力をして敗戦を迎える。戦後は社会党支部を結成し、県議を務め、民選の林虎雄知事を支えて県政に貢献している。県議は二期で引退し、再び不動産業に専念した後、家業を子孫に譲り、晩年は、太陽光エネルギーの推進と軍備全廃を訴える活動をしたのである。特に前者は、第四次中東戦争を始まりとして、1973年のオイルショックを契機に、ライフワークとして全精力を傾注し、十年間に渡って、時の首相を始め国会議員全員、企業やマスコミ、更に大使館までに、私財を投じて毎月千五百部という小冊子を送付し続けたのである。大変な精力を持ち合わせる人物である。この著作の後半部に彼の成果が記述されている。終生、社会党員であり、面目躍如の信念を貫いた人である。
 彼の生涯も多少興味があったのであるが、むしろ、私的な関心は、彼がその時代をどう見ていたのかということである。①明治政府による殖産興業・富国強兵政策は、皇民化教育と併せて、日露戦争後には、「満州大陸へ侵略の足場を着々とつくっていった時代」(p42)である。また、「国中の人々の生活は貧しかったが、青年や幼い者達までが志は高かった」(同)時代である。②敗戦まで、「地主層は日本の封建的支配を担う大勢力であり、農地と農民を、生産物の半分も年貢として取立てたばかりか、政治、行政、文化の面でも広い意味の支配をつづけていた」(p77)。③政党政治の腐敗の中で、「軍部が政権の中枢を握り」、農村不況の抜け出し口として、青年層に「満蒙へという言葉が流行り始めた」(p94)のである。④1930年(昭和5年)の農村恐慌は養蚕、製糸県である長野県を直撃した(p118)。繭価暴落、銀行倒産、教員給与不払い、欠食児童、娘の身売りなど農民・庶民の生活が成立しない状態となる。その中で日本は大規模な侵略戦争に突入してゆくのである。⑤彼は、戦後直ちに軍需工場を整理し、社会党員として知事選に奔走するのであるが、この時期は、「何としても、保守、官僚政治を倒さねばならないという熱気が、各地で溢れていた時代である」(p201)⑥戦後の「転換がはじまったのは、二十六年(ママ)の朝鮮戦争が終る頃である。戦前からの個人の意識では、三十年頃までも、物の考え方や風習なども(いい面でも、悪い面でも)ずっと残っていたのである」(p217)(経済成長後も、何も変わっていないとも言えるだろう)。
 以上が彼の時代批評である。彼は尋常小学校のみの修了で、様々な経験に加えて、知識は、専ら、新聞を眼光紙背に徹することによって獲得したものである(p137)。積極的に戦争に加担した訳ではない(消極的な協力)ことから(p187~p189)、戦後、順調に革新側として活躍できた素地があったのだろう。知識人によくあった転向がなかったのではないか(これも参照)。時代への洞察力があったと思われる(太陽光エネルギーの利用の主唱など)。平和主義者としての一代記となっている。古老曰く、「戦争を永久に放棄する平和憲法は、おしつけられたり、作文で出来たものはない筈である。命も財産も、肉親や恋人、多くのものを失ってさらに原爆を二度も身体で知った日本国民の尊い経験によって生まれたものである。最高の道徳であり、人類の至上の希望である。・・・軍備全廃は全地球に住む人類に対するわが国の責任であり、使命ではないだろうか。世界各国に平和憲法実践者として提唱出来る資格のある、わが国民だけと自負して行動をつづけていきたいのである」(p513、p333)と。翻って、現今の日本はどうなのだろうか。「積極的平和主義」を標榜して、有事を前提に改憲を企図し、嘘と出鱈目で糊塗しながら右翼宰相が日本を破壊しているのである。行き先は袋小路(デッドロック)である。必ずや、墓場の中で古老は憤怒の叫びを挙げ続けていることだろう。
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2016年4月 4日 (月)

見たいもの、見たくないもの

33406443 普通の人は、テレビや雑誌などで広告を頻繁に目にするのであるが、肝心な広告会社の存在には気が付いていないか、関心がない。以前、大広という広告会社を偶然知ったのであるが、『宣伝会議』や『広告批評』という雑誌の存在も知るに至り、その関心から日本のメディア媒体が電通と博報堂などの大手が牛耳っている実態が鮮明となったのである。特に、国策会社として出発した電通は、戦争責任を回避するどころか、戦後のマスメディアを領導し、今では、広告会社単体において世界最高の売上高を誇っているのであるが、先般の東京五輪エンブレム盗作事件でも、一枚噛んで暗躍しているのである。時代と国家に近親の関係があることから、まったくもって、デザイナーや○○ディレクターなどの職種は妄信してはいけない人種なのであることを知悉した次第である。
 さて、『戦争と広告』というタイトルは、業界内の人物による言い訳本もあるのだが、今回は学者によるものを参考にした。焚書坑儒される馬場マコトとは違って、利害と打算がないために、より客観的に評価できるからである。人は、ともすれば語られぬ事柄への想像力が及ばない。重要なことは、寧ろそのことへの関心なのである。テレビでは、日本人の優位性・道徳性・精神性を強調する番組制作が花盛りであるが、「それは明治時代以降、とりわけ一八九十年代に作り出され、喧伝されてきた、いわば使い古しのフレーズ」(p4)なのである。広告宣伝は、その視覚性と物質性ゆえに、「聖戦」(=国体を護持する戦争)を遂行するための道具立て(虚構作り)となって侵略戦争に加担したのである。この著書では、『写真週報』と『アサヒグラフ』、及び博覧会ポスターの記事と写真を検討しているのであるが、それだけでも、「ひきこもりの国民主義」(p256)を扇情することにもなったのである。引きこもりとは、二項対立の、非民主主義的なメディア操作性の謂いである。靖国の遊就館はその典型であり、「英霊」と「自存自衛」の展示館となって、加害性を消却して、国民を侵略戦争への動員をまたしても企図しているのであるが、その背後にある単一の国家制度の意図を見抜かなくてはならないのである。人は、やはり、見たいものを見ているのであり、見たくないものを見ていないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)