日本の近・現代史

2018年1月15日 (月)

罪深い男たち

33682266 第一巻では、明治維新は、幕府側を徹底的にせん滅することによって実現したことが明らかになったのであるが、それは民衆によって準備されたのではなく、ごく一部の公家と下級武士の奸計(悪だくみによる騙し討ち)による所業だったのである。前近代的な国家秩序=華夷秩序からの脱却を目指し、国土の確定(琉球処分)や徴兵制や地租改正などが急がれたのである。それは同時に、天皇親政を掲げて人民を臣民として包摂してゆく過程であった。国民国家化への契機となったのである。
 第二巻では、主権国家としての確立過程の叙述である。明治六年の征韓派と内治派の対立は、政府内の権力闘争である。いずれにしても、明治政府は不平武士の残党を死に追い込み(西南戦争)、自由民権運動との戦いに勝利する中で大日本帝国憲法の発布となる。これによって、「民衆は天皇の名によって帝国憲法を『押し付けられた』のである」(p192)。明治憲法では、天皇の統帥権が明記され、教育の法令は天皇の大権として行政府の支配下に置かれ、議会(国民)はこれから排除されたのである(p206)。
Db4sjm1uiaatdmz 対外的には、第一回帝国議会(1890年)の施政演説をした内閣総理大臣・山県有朋は、主権線・利益線論を展開し、日清戦争へと直進するのである。こうした対外的な主権国家化は同時に、対内的には、民衆の臣民化・国民化が強力に推進されたのである。そうした扇動は、「臥薪嘗胆」や「暴支膺懲」という言葉に結実してゆくのである。忠君愛国思想は、天皇を頂点とした差別思想を伴ったアジア観を決定づけたのである(p262)。換言すれば、日清戦争の勝利(日本帝国主義の確立への転機)は、1945年の敗戦を準備し、その淵源は明治維新だったと言っても過言ではないのである。山県という人物は、まこともって、罪深い男である。

 正月だというのに、毎日毎日忙殺されて(生活に追われて)、悩みも多く、心身ともに疲弊している。今年一年、平穏に生活できることを願って記帳とパソコンに向かう夜々である(泣)。

 

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2018年1月 1日 (月)

2018年 謹賀新年

33518893 第一巻の基調である、「万国公法」と称される国際法の秩序を受容し、相応の国制改革を目指した維新政府の狙いを継承して、第二巻は記述される。第一巻の著者の、歴史研究者としての自らの国民化という無自覚さを前回のブログ投稿で指摘したのであるが、第二巻の著者は、1990年代後半より議論されている、いわゆる「国民国家論」(西川長夫)を対抗的に意識している(これについては「あとがき」参照)。「主権国家」の対立概念は「国民主権」であると考えると一見分かりやすいのだが、それでは「国民」とは何なのか、という疑問が沸き起こる。ここにおいて出番となったのが、国民国家論、即ち国家イデオロギー装置論である。要するに、「私自身がそのなかに囚われている国民国家を全体として対象化するための方法」なのであるが、戦後歴史学への批判となったのである(つづく)。
2018 と下書きをしたためている内に、新年になってしまった次第である。年末の「紅白」やら喧噪で意味もない(と自分には思われる)番組は避けて、デスク周りの掃除やら、挨拶やら、読書に勤しんで過ごす。毎年恒例の過ごし方である。昨年は多少の野菜作りを敢行したのだが、今年は本格的な農業開始のための下準備を開始しようと決意している(が、どうなるやら)。拙い過疎ブログですが、本年もまたよろしくお願い致します。

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2017年12月31日 (日)

歪んだ明治維新観

2017122913140000 静かな年末である。目覚めてから朝食をとり、シリーズ「日本近代の歴史」(吉川弘文館)を読み耽る。漸く、第二巻目である。遅読のために、論点が見えにくくなる傾向があるが、それはいよいよ痴呆になりつつある自分の所為である。
 第一巻は、「王政復古」後の国政改革を記述する内容であるが、惜しむらくは、維新に至る経緯については断念されている。「あとがき」にもあるように、著者の専門分野に絞られたのは致し方ない。
 33496056王政復古の大号令は、天皇の権威を利用した、公家や薩長等の武力討幕派による「クーデター」(内乱的な権力闘争)であるが、この事実はあまり周知されていない。立憲政体となっていない明治維新は、実際のところ反動政権だったのである。しかしながら、だからといって、革命を否定するものではないが、教科書的な理解や歴史家の中にも、その事実を根底的に認識している者が少ないのである。だから、現代においても、明治維新をよきものとして理解しているばかりでなく、高く評価しているのである。第一巻の著者も例外ではないと思われる。反抗する者へのジェノサイド(鳥羽伏見の戦い~函館戦争、西南戦争)は徹底していたのである。そもそも王政復古の御前会議すら騙し討ちだったのである。長年による幕藩体制にあって、幕府側は安穏としていたのである。以上のような認識なくして明治維新の本質を正確に捉えることはできないであろう。第一巻の中で、特に目を引いたのは、「地租改正は、旧幕府系の開明官僚が構想し、立法化したのである」(p227)という一文であった。更に、「わが国」「わが国制」「聡明なわが国民」「慧眼の主・・・岩倉具視」などの表現は、歴史研究者として不用意であることを指摘しておかなければならない。これは前述のような明治維新観に基づくと思われるのである。それはまた、「維新」という言葉をも歪めることになっているのである(アベの幇間となって、憲法改悪をたくらむ「維新の党」などと名称する連中についても言わずもがなである)。

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2017年11月30日 (木)

『葦折れぬ』を読んで

Dnh06t8uqaavzng 戦後間もないころに創業した大月書店の第一冊目の書物ということである。これがベストセラーとなり、出版事業としての礎となったということである。『葦折れぬ』は、多くの青少年少女に好感され、早乙女勝元や郷土史家の田中欣一等も愛読書となったようである。この書を知ったのは、「信毎」(長野県人は信濃毎日新聞のことをそう呼んでいる)で、千野敏子の軌跡を紹介する記事に触れたからなのであるが、一度読んでみるかと図書館から拝借したのである。夭折した信州の一女学生の手記である。旧字体・ひらがなの文章を読むことは久し振りであり、太宰治全集の読破で慣れ親しんだこともあって、仙花紙様のこの原本を新鮮な思いで読み進めたのである。この「真実ノート」の大部分は女学生時代の記録で、時代は太平洋戦争の渦中に相当する。戦時下に人々はどんな思いをしたのか、という関心もあったのである。冒頭から「私は戦争をあさましく思ふ世の反逆者である」(p8)と書き記して、「私は未だ曾て祖国愛と言ふものを感じた事はない」(p44)とも自己規定しているのであるが、戦後直後の読者には驚異に受け止められたのであり、敗戦に伴う驚天動地にあっては、ノートの中とは言え、戦時下にこのように表明されていたことが支持されたのである。戦争中の青少年少女にあっては、大概戦意高揚に流されていたのであり、それは高学歴な人間ほど狂信的だったのである。しかしながら、千野敏子が完璧な反戦主義者かと言えば、そうとも思えない言説が随所に見られる。真実を追求するあまり、観念的で自己狭窄的になってしまっているのである。だから、「戦争に対して不平を感じることはなく」(p12)、日米開戦の報に「人一倍血湧き肉躍り」(p82)、生徒を伴って出征兵に感激したり、「涙の出さうな衝動」を覚えていたのである(p151~152)。文学的・哲学的な感傷は、戦前の青少年少女に遍満していたのであるが、それはひとえに貧困と飢餓の生活が滲透していたからと推察される。そのような限界性と制約性が見られるとは言え、その時代に自己欺瞞を唾棄し続けた彼女の信念に瑕疵があるとは思えない。千野はノートに「暗黒時代に生きてゐる自分が哀れな気がする」と表白しているが(p193)、その書の跋において藤森成吉が述べたように(p253)、彼女は典型的な時代の犠牲者と思われてならない。小学校教師として、彼女もまた貧窮の配給生活の中で、終には教壇に倒れて栄養失調で亡くなったのである。享年二十二歳。
 これを読むと、嘘と欺瞞、無知と無恥の野郎がこの国の最高権力者となっている事は、全くの皮肉と言わなければならない。

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2017年9月 8日 (金)

危機は足もとにある

2017090508130000 黙っていても農産物は育つ。収穫ひと月前の田んぼの風景である。今年は曇天と雨天が多く、実りに期待は持てない。稲は集団で育つので多少の不稔には目を瞑ることができるのだが、野菜はそうは行かない。今年は野菜の育成に力を注いだので、それでも何とか人参、大根、枝豆、川中島サシミウリ、メロン、キャベツ、絹さやなど結実してくれた。自家消費には余りにも多く、活用には嫁さんもお手上げの苦言である。産直出荷も視野に入れる時期(とき)なのかも知れない。現在は半農半勤なので時間の余裕もなく疲弊気味であるが、家庭の経済力維持ゆえに、退職が待ち遠しい。第二次朝鮮戦争の危機が凄まじいことになっている。帝国主義各国は斬首作戦を公言している。何としても北朝鮮を崩壊させたいようである。北朝鮮はロケット戦略からミサイル・核戦略に進展し、その先軍主義は人民の犠牲の上に成り立っている。まるで戦前の日本を彷彿させる事態である。太平洋戦争中に、日本は仁科を始めとする原爆製造開発を企図していたことは余り知られていないが、もし製造に成功していたら、日本は間違いなく世界最初の原爆投下国になったであろう。これが逆に被爆国になったのだから敗戦の主因になったのであり、戦後、米国の核戦略の一環として日本の核武装を許さなかったのである。そして、今の北朝鮮である。力と力の対決としての朝鮮危機である。両者ともパワーポリティックスを理念としているのである。日本政府は、表面的には非核三原則を標榜している一方、中曽根や安倍や小池など一貫して核武装を志向しており、日本の核保有を公言しているのである。実際、日本は国連の核軍縮条約の会議開催に反対し、条約交渉に不参加を決め込み、世界を失望させたのである。軍事力(軍事費)の増強は世界経済の重荷になっており、国際関係論の学者を含めて、異常な21世紀になっているのが現実である。このような帝国主義列強の北朝鮮制裁と軍事挑発は何らの説得力がない。むしろ彼らは北朝鮮の暴発を狙っているように思われる。もっとも少ない犠牲者を目指して金一族の首領スターリン主義国家を転覆させるのが最終的な狙いであろう。そうなると、国境を接する中国とロシアは黙ってはいまい。なんだか、アジア・太平洋戦争に敗北した大日本帝国の様相に酷似してきたように匹夫には思われるのである。そして、この間の列国の最弱の環(標的)が、Jアラートまで使って軍事挑発と経済制裁を繰り返すアベ首領による日本であることは言を待たない。民衆の闘いが最も求められる時期である。危機は足もとにあるのである。
(注)「北朝鮮」の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国であることをお断りしておきます。朝鮮分断は、日本の朝鮮侵略が原因であることを忘れてはいけません。

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2017年8月19日 (土)

幻想の明治

33064440 梅雨明けの曇天・雨天が続き、各地では葉いもち病が心配の種になっているという。特に、東北地方の太平洋側が懸念されている様である。当地でも例外ではない。特に、穂首いもち病は白穂になって、その痛手は甚大である。午前の作業前でも、スズメの群れが見られ、愈々不安な気持ちにさせられる。また、本年は梅干し作業ができず、梅漬けに甘んじるという次第である。ニュースでは、野菜の高値に悲鳴を上げる都会の消費者の声を拾っているが、生産者の視点では報じていない。関東圏の観光地とグルメを只管垂れ流しているテレビやマスコミは、狂っているとしか思えない。時代に追放されつつある老躯の身になれば、今更どうということはないのであるが、この本に期待した我もまた大バカ者である。著者は市井の歴史評論家と言われているのであるが、『逝きし世の面影』で和辻哲郎賞を受賞して俄かに著名になっている。たまさか手に取って読んでみたが、この本のどこが名もなき人びとの肖像を捉えているのか訳が分からない。山田風太郎論は興味がないので吹っ飛ばして読み続けたが、維新政府と民権運動との争闘を描いているばかりで、内村鑑三論も政宗白鳥の評論を下敷きにしているだけである。今では文壇や論壇など皆無に近いのだが、保守系雑誌のみが書店の店頭に並んでいる。赤字発行である筈なのに毎月刊行されているのが不思議なくらいである。こんな鄙びた地方新聞にも広告を打っている。表題も仰々しい。『逝きし世の面影』において、彼は「人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人」(p202)を表現したという。司馬遼太郎は、明治のナショナリズムを称賛したのだが、渡辺は江戸末期から明治初期の日本人に焦点を当てたのである。彼は、司馬を「講釈師」(p91)と断じ、自らは外国人の文献を渉猟して、あんなにも豊かな文化を持っていた日本文化が喪失したのは、1900年頃の世界的な国民国家が確立した故であるとしている。しかしながら、幕末から明治の社会は幻想である。グローバリズムやインターナショナリズムが横溢する現代は、むしろ逆に、中央集権国家を促進し、地方の疲弊と民衆の貧困常態化を招来している。それは明治政府もそうしたのであって、どうして民衆の闘いの歴史を無視するのだろうか。例外を除いて、多くのインテリ知識人は左翼クズレとなり、己の恥ずべき過去を押し隠し、民衆蔑視の想いに駆られて右翼潮流に帯同していくのである。色川大吉が指摘したように、彼もまた講釈師だったのである(p157)。陥穽は至る所に存在しているのである。

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2017年7月31日 (月)

昭和っ子の本

33633868 『昭和っ子の朝焼け』の「昭和っ子」とは、昭和(20年代後半~)30年代の子供のことであり、この民俗学的な著述は、その時代に生きた子供達の生態をいきいきと書き取ったものである。筆者がその「あとがき」で記されているように、史誌や研究書など無数にあるのだが、「生活者本人が自らの実体験を広範かつ具体的に記した」ものは殆どない。自分史の作成がひと頃流行ったのであるが、ほぼ自慢話ばかりで民俗学的資料としては無意味なものが多い。そして、「わずか六、七十年前の近過去がどんどん分からなくなっている」(p317)のである。歴史から学ぶというが、現代人はほとんど歴史から学ぶことが不得手なのであり、学ばない。思考することなく、リア充から逃亡し、実体験から学ぶ健全な価値観を形成することなく、ネットでストレスを発散し、個人情報がダダ洩れにも関わらずにネット世界の餌食になっている青少年に対し、若い親たちも影響されて理不尽な大人たちが増えつつある。この辺の分析は少しくなされていないという意味で、いかに無駄な本が上梓されているのか知れない。この著作は、詳しく知られていないその時代を見事に描写されていて書店の店頭で発見してすぐに購入してしまった次第である。その時代に生きた子供たちの感情も明らかにしていて、待望の書だったのである。

 暑い日中は避けて読書に勤しみ、夕方に草刈りをして、ミニ白菜を播種した一日であった。ミニ白菜は、娃々菜といい、例の信州山峡採取場の種で、道の駅信州新町で購入したものである。14粒入りで100円でしたので、試行栽培としては適宜でした。この道の駅は、新鮮野菜・山菜と西山地方の美味しい豆や蕎麦がおススメです。訪問した時は燕の子育て期にあたり、庇では、親が子への餌やりや見張りなど甲斐甲斐しい働きぶりで飛び交っていました。とても田舎らしいのんびりとした道の駅で、余分なものがなく、リラックスできます。蕎麦目当ての人も多いと思います。

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2017年7月27日 (木)

写真集を読み解く その2

8 1960年代の「家の光」は、ここ信州の農村では農協を通じて、どこの家でも家のどこかに置いてある雑誌であった。自分にとっても、活字への関心はこの雑誌に育てられたのは言うまでもない。今でも、書店店頭に並ぶ他の雑誌を押しのいて、最も購読者が多い雑誌である。版型は今より小さく、父母は読んでいたのかどうか(農政を語るうえで、『家の光』を研究する歴史学者が殆どいないのは残念なことである)。母は尋常小学校もまともに通えず、息子の私に漢字を尋ねたり、漢字辞書が手元に必携であった。平仮名に少々の漢字しか知らない母を、私は決して恥じていないどころか、むしろ健気に生きた母を誇りにしている。そのことを思慮すると、今のアベ内閣を到底許すことはできない。二の丸は陥落した。次は本丸へと関係者一族郎党を民衆の手によって掃討しなければならない時である。民進党など関係ない。民衆自身が政党を創出し、育成しなければならない時期なのである。

 『写真アルバム 上田・千曲・東御の昭和』の後半の写真を丹念に読み解く作業は続いたのである。
①1950年代、戦後の混乱から一息つき、人々は余暇の楽しみを興じつつあるが、農民は食糧生産に追い立てられているばかりである。耕運機や脱穀機などが普及し始め、子供たちは坊主頭やおかっぱ頭で父母の農作業を手伝うのが当たり前であった。
②1960年代になると、子供たちは下駄履きからゴム靴へ、学生服とセーラー服へ、肩掛けカバンとなり(1970年代には背嚢カバンへ)、大人たちは和装から洋装が普及した。1960年代後半には、未だ茅葺の屋根の民家が残存していたが、やがてトタンが被せられ、瓦葺が普及した。学校の作りは板張りからコンクリート製の校舎となる。
③戦後、天皇の行幸が頻繁に行われ、1964年の天皇御一行の植樹祭では、新戸倉温泉の白鳥園に二泊されて、人々は国道で日の丸を振って出迎えた。私も、教師の指示で日の丸を持たされ、理不尽にも、通過時に平身低頭させられたことを鮮明に覚えている。

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2017年7月21日 (金)

写真集を読み解く

2017072111410000 兎に角暑い。冷涼な信州である筈であるが、朝から気温がぐんぐん上昇して、日中は家内で過ごすこととなるのだが、正午前に所用の帰途、田んぼに寄ってみた。分蘖途上でいよいよ中干しに入るのだが、これが難しい。隣の精農家の田んぼは中干しに入っている。教科書によると、最高分蘖期で田植え後60日である筈なのだが、様子を見ながら経験を重ねる他はない。畑では、それなりに収穫できているのだが、シソの葉の栽培は失敗して、直売所で購入して、本日、白梅酢の上に投入した。梅漬けではなく、梅干しの作業は続いているのである。後は天日干しである。年金だけでは到底生活できないので経済活動をしなくてはならないのであるが、田畑の見回りをしながら様々に思念していることである。今年は野菜の生産を中心として工夫しながら栽培している。
201706191642214388 いき出版のこの写真集を一つ一つチェックする。解説はどうでもいいのだが、写真が語る昭和の分析である。漸く、高度経済成長のまでに至りついたのだが、この所、身心だけではなく、脳の方も呆けてきて、寄る年波は如何ともし難い。理解できたことをメモ風に書き残しておく。
①大正時代まで脱穀は千歯こきを使い、昭和になって足踏み脱穀機を使用し始めた。大正時代まで、江戸時代そのものの農業であって、手作業の稲作が慣例であった。
②キャベツの栽培は戦前にも行われ、甘藍(玉菜)と呼ばれていた。
③養蚕王国・信州の端緒は江戸時代初期であった。
④戦前は国民服と割烹・モンペであり、戦後になって若者から始まって洋装が広まった。
⑤戦後、歌謡と演劇の青年団活動が盛んであり、生活改善と農業技術改良から、菅平硫黄鉱害反対運動浅間山米軍演習化反対運動へと政治化したが、青年の都会流失によって運動はやがて消失した。
⑥昭和30年代には、養蚕・畜産・果樹などの複合経営であったが、機械化の流れの中で、耕運機や脱穀機などの普及したのであるが、所得格差の拡大によって農業は衰退の一途をたどることとなる。以上。

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2017年5月13日 (土)

戦中派の尻尾

32449629 山田風太郎の作品は一度として紐解いたことはない。しかし、彼が戦中派として戦争体験をしていたこともあって(但し、彼は実戦体験していない)、また、このブログ記事を読んで図書館から山田のエッセイを借り受けて熟読してみた。戦中派の人々の考えと想いは、自分の幼少期にも、身内や親類縁者から仄聞したのであるが、決して彼らは自らの体験をあからさまに開示することはなかった。小中学生の頃、週初めの月曜、一時限の朝礼で、校長や教頭、教師たちの戦争体験話をしばしば平和の大事さを強調する中で聴く時も、戦争の具体的な実相は言外に推察するだけで、想像するより外はなかったのである。教頭は空腹で降参した時に米軍から与えられたパンの旨かったことから平和の訴えがあり、担任はトンネル内に身を投げて自殺しようとしたと吐露していた言葉が脳裏に焼き付いている。
 それでは、山田風太郎の場合はどうだったのだろうか。皇国青年であった彼には実戦的な体験はない。一般的に、戦中派の記録や日記類は信用しがたい。これは山田自身が述べていることであるのだが、それらのほとんどは、自己正当化に終始しているのである(市井の者は、それが余りにもの悲惨な出来事であるがために黙して語らずである)。そして、山田は戦争責任のベストテンとして、昭和天皇、近衛、松岡、木戸、東條・・・と列記しているのであるが、後には、日本人、重臣連、天皇、近衛、木戸・・・と改訂している。「太平洋戦争風眼帖」を縦横に深読みすれば、山田は典型的な戦中派というのが理解できる。「明治栄光論」であり、「植民地解放論」であり(司馬遼太郎も同様)、「捲土重来(他日報復)論」であったのである。そのような戦前の思考(という尻尾)をいつまでも保持している意味において、完全に戦前の自分を切開していないと言わなければならない。その結果、日本人が大好きな、日本人論を展開するという隘路に陥ってしまうのである。そして、戦争責任の筆頭は日本人総体であると改めて指弾してゆくのである。曰く、もし日本人が原爆を米国より先に発明したら、日本人は躊躇なくこれを使用しその残酷も感じないだろう、と(p9 原発再稼働を見ればよく分かる)。また、「日本人の特性は、といわれた場合、その最大にして最も簡明なのは『軽薄』であり」(p15)、「日本人はうそつき民族であるのみならず、うそというものに鈍感である」(p39)と痛罵しているのである。これら以外に、無責任、寄らば大樹の陰、二股侍、幼児性、一発屋、無鉄砲、従順、小利口などと指摘して、日本人の国民性を一重性と二流民族という二つの規定に収斂しているのである。この彼の定義は、押しなべて得心のゆくものではあろうが(かの首相もそれらを完全に体現している)、それは同時に鏡に映った(尻尾を残す)戦中派自身の姿ではないだろうか。だから、冒頭で太平洋戦争おける「名将」を持ち上げたり、戦後になって付和雷同的に「民主主義」を高唱する輩の偽善性や愚かな政府・軍部首脳への非難にのみ関心が集中してしまっているという彼の限界が見て取れるのである(体験者としての怒りも十分理解できるが、歴史学的にかつ民衆の闘いの観点から断罪すべきなのである。また、戦争体験者でなければ戦争の実相が分からない、という言説は真っ赤な嘘である)。要するに、決然としていないのである。

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