日本の近・現代史

2017年9月 8日 (金)

危機は足もとにある

2017090508130000 黙っていても農産物は育つ。収穫ひと月前の田んぼの風景である。今年は曇天と雨天が多く、実りに期待は持てない。稲は集団で育つので多少の不稔には目を瞑ることができるのだが、野菜はそうは行かない。今年は野菜の育成に力を注いだので、それでも何とか人参、大根、枝豆、川中島サシミウリ、メロン、キャベツ、絹さやなど結実してくれた。自家消費には余りにも多く、活用には嫁さんもお手上げの苦言である。産直出荷も視野に入れる時期(とき)なのかも知れない。現在は半農半勤なので時間の余裕もなく疲弊気味であるが、家庭の経済力維持ゆえに、退職が待ち遠しい。第二次朝鮮戦争の危機が凄まじいことになっている。帝国主義各国は斬首作戦を公言している。何としても北朝鮮を崩壊させたいようである。北朝鮮はロケット戦略からミサイル・核戦略に進展し、その先軍主義は人民の犠牲の上に成り立っている。まるで戦前の日本を彷彿させる事態である。太平洋戦争中に、日本は仁科を始めとする原爆製造開発を企図していたことは余り知られていないが、もし製造に成功していたら、日本は間違いなく世界最初の原爆投下国になったであろう。これが逆に被爆国になったのだから敗戦の主因になったのであり、戦後、米国の核戦略の一環として日本の核武装を許さなかったのである。そして、今の北朝鮮である。力と力の対決としての朝鮮危機である。両者ともパワーポリティックスを理念としているのである。日本政府は、表面的には非核三原則を標榜している一方、中曽根や安倍や小池など一貫して核武装を志向しており、日本の核保有を公言しているのである。実際、日本は国連の核軍縮条約の会議開催に反対し、条約交渉に不参加を決め込み、世界を失望させたのである。軍事力(軍事費)の増強は世界経済の重荷になっており、国際関係論の学者を含めて、異常な21世紀になっているのが現実である。このような帝国主義列強の北朝鮮制裁と軍事挑発は何らの説得力がない。むしろ彼らは北朝鮮の暴発を狙っているように思われる。もっとも少ない犠牲者を目指して金一族の首領スターリン主義国家を転覆させるのが最終的な狙いであろう。そうなると、国境を接する中国とロシアは黙ってはいまい。なんだか、アジア・太平洋戦争に敗北した大日本帝国の様相に酷似してきたように匹夫には思われるのである。そして、この間の列国の最弱の環(標的)が、Jアラートまで使って軍事挑発と経済制裁を繰り返すアベ首領による日本であることは言を待たない。民衆の闘いが最も求められる時期である。危機は足もとにあるのである。
(注)「北朝鮮」の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国であることをお断りしておきます。朝鮮分断は、日本の朝鮮侵略が原因であることを忘れてはいけません。

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2017年8月19日 (土)

幻想の明治

33064440 梅雨明けの曇天・雨天が続き、各地では葉いもち病が心配の種になっているという。特に、東北地方の太平洋側が懸念されている様である。当地でも例外ではない。特に、穂首いもち病は白穂になって、その痛手は甚大である。午前の作業前でも、スズメの群れが見られ、愈々不安な気持ちにさせられる。また、本年は梅干し作業ができず、梅漬けに甘んじるという次第である。ニュースでは、野菜の高値に悲鳴を上げる都会の消費者の声を拾っているが、生産者の視点では報じていない。関東圏の観光地とグルメを只管垂れ流しているテレビやマスコミは、狂っているとしか思えない。時代に追放されつつある老躯の身になれば、今更どうということはないのであるが、この本に期待した我もまた大バカ者である。著者は市井の歴史評論家と言われているのであるが、『逝きし世の面影』で和辻哲郎賞を受賞して俄かに著名になっている。たまさか手に取って読んでみたが、この本のどこが名もなき人びとの肖像を捉えているのか訳が分からない。山田風太郎論は興味がないので吹っ飛ばして読み続けたが、維新政府と民権運動との争闘を描いているばかりで、内村鑑三論も政宗白鳥の評論を下敷きにしているだけである。今では文壇や論壇など皆無に近いのだが、保守系雑誌のみが書店の店頭に並んでいる。赤字発行である筈なのに毎月刊行されているのが不思議なくらいである。こんな鄙びた地方新聞にも広告を打っている。表題も仰々しい。『逝きし世の面影』において、彼は「人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人」(p202)を表現したという。司馬遼太郎は、明治のナショナリズムを称賛したのだが、渡辺は江戸末期から明治初期の日本人に焦点を当てたのである。彼は、司馬を「講釈師」(p91)と断じ、自らは外国人の文献を渉猟して、あんなにも豊かな文化を持っていた日本文化が喪失したのは、1900年頃の世界的な国民国家が確立した故であるとしている。しかしながら、幕末から明治の社会は幻想である。グローバリズムやインターナショナリズムが横溢する現代は、むしろ逆に、中央集権国家を促進し、地方の疲弊と民衆の貧困常態化を招来している。それは明治政府もそうしたのであって、どうして民衆の闘いの歴史を無視するのだろうか。例外を除いて、多くのインテリ知識人は左翼クズレとなり、己の恥ずべき過去を押し隠し、民衆蔑視の想いに駆られて右翼潮流に帯同していくのである。色川大吉が指摘したように、彼もまた講釈師だったのである(p157)。陥穽は至る所に存在しているのである。

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2017年7月31日 (月)

昭和っ子の本

33633868 『昭和っ子の朝焼け』の「昭和っ子」とは、昭和(20年代後半~)30年代の子供のことであり、この民俗学的な著述は、その時代に生きた子供達の生態をいきいきと書き取ったものである。筆者がその「あとがき」で記されているように、史誌や研究書など無数にあるのだが、「生活者本人が自らの実体験を広範かつ具体的に記した」ものは殆どない。自分史の作成がひと頃流行ったのであるが、ほぼ自慢話ばかりで民俗学的資料としては無意味なものが多い。そして、「わずか六、七十年前の近過去がどんどん分からなくなっている」(p317)のである。歴史から学ぶというが、現代人はほとんど歴史から学ぶことが不得手なのであり、学ばない。思考することなく、リア充から逃亡し、実体験から学ぶ健全な価値観を形成することなく、ネットでストレスを発散し、個人情報がダダ洩れにも関わらずにネット世界の餌食になっている青少年に対し、若い親たちも影響されて理不尽な大人たちが増えつつある。この辺の分析は少しくなされていないという意味で、いかに無駄な本が上梓されているのか知れない。この著作は、詳しく知られていないその時代を見事に描写されていて書店の店頭で発見してすぐに購入してしまった次第である。その時代に生きた子供たちの感情も明らかにしていて、待望の書だったのである。

 暑い日中は避けて読書に勤しみ、夕方に草刈りをして、ミニ白菜を播種した一日であった。ミニ白菜は、娃々菜といい、例の信州山峡採取場の種で、道の駅信州新町で購入したものである。14粒入りで100円でしたので、試行栽培としては適宜でした。この道の駅は、新鮮野菜・山菜と西山地方の美味しい豆や蕎麦がおススメです。訪問した時は燕の子育て期にあたり、庇では、親が子への餌やりや見張りなど甲斐甲斐しい働きぶりで飛び交っていました。とても田舎らしいのんびりとした道の駅で、余分なものがなく、リラックスできます。蕎麦目当ての人も多いと思います。

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2017年7月27日 (木)

写真集を読み解く その2

8 1960年代の「家の光」は、ここ信州の農村では農協を通じて、どこの家でも家のどこかに置いてある雑誌であった。自分にとっても、活字への関心はこの雑誌に育てられたのは言うまでもない。今でも、書店店頭に並ぶ他の雑誌を押しのいて、最も購読者が多い雑誌である。版型は今より小さく、父母は読んでいたのかどうか(農政を語るうえで、『家の光』を研究する歴史学者が殆どいないのは残念なことである)。母は尋常小学校もまともに通えず、息子の私に漢字を尋ねたり、漢字辞書が手元に必携であった。平仮名に少々の漢字しか知らない母を、私は決して恥じていないどころか、むしろ健気に生きた母を誇りにしている。そのことを思慮すると、今のアベ内閣を到底許すことはできない。二の丸は陥落した。次は本丸へと関係者一族郎党を民衆の手によって掃討しなければならない時である。民進党など関係ない。民衆自身が政党を創出し、育成しなければならない時期なのである。

 『写真アルバム 上田・千曲・東御の昭和』の後半の写真を丹念に読み解く作業は続いたのである。
①1950年代、戦後の混乱から一息つき、人々は余暇の楽しみを興じつつあるが、農民は食糧生産に追い立てられているばかりである。耕運機や脱穀機などが普及し始め、子供たちは坊主頭やおかっぱ頭で父母の農作業を手伝うのが当たり前であった。
②1960年代になると、子供たちは下駄履きからゴム靴へ、学生服とセーラー服へ、肩掛けカバンとなり(1970年代には背嚢カバンへ)、大人たちは和装から洋装が普及した。1960年代後半には、未だ茅葺の屋根の民家が残存していたが、やがてトタンが被せられ、瓦葺が普及した。学校の作りは板張りからコンクリート製の校舎となる。
③戦後、天皇の行幸が頻繁に行われ、1964年の天皇御一行の植樹祭では、新戸倉温泉の白鳥園に二泊されて、人々は国道で日の丸を振って出迎えた。私も、教師の指示で日の丸を持たされ、理不尽にも、通過時に平身低頭させられたことを鮮明に覚えている。

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2017年7月21日 (金)

写真集を読み解く

2017072111410000 兎に角暑い。冷涼な信州である筈であるが、朝から気温がぐんぐん上昇して、日中は家内で過ごすこととなるのだが、正午前に所用の帰途、田んぼに寄ってみた。分蘖途上でいよいよ中干しに入るのだが、これが難しい。隣の精農家の田んぼは中干しに入っている。教科書によると、最高分蘖期で田植え後60日である筈なのだが、様子を見ながら経験を重ねる他はない。畑では、それなりに収穫できているのだが、シソの葉の栽培は失敗して、直売所で購入して、本日、白梅酢の上に投入した。梅漬けではなく、梅干しの作業は続いているのである。後は天日干しである。年金だけでは到底生活できないので経済活動をしなくてはならないのであるが、田畑の見回りをしながら様々に思念していることである。今年は野菜の生産を中心として工夫しながら栽培している。
201706191642214388 いき出版のこの写真集を一つ一つチェックする。解説はどうでもいいのだが、写真が語る昭和の分析である。漸く、高度経済成長のまでに至りついたのだが、この所、身心だけではなく、脳の方も呆けてきて、寄る年波は如何ともし難い。理解できたことをメモ風に書き残しておく。
①大正時代まで脱穀は千歯こきを使い、昭和になって足踏み脱穀機を使用し始めた。大正時代まで、江戸時代そのものの農業であって、手作業の稲作が慣例であった。
②キャベツの栽培は戦前にも行われ、甘藍(玉菜)と呼ばれていた。
③養蚕王国・信州の端緒は江戸時代初期であった。
④戦前は国民服と割烹・モンペであり、戦後になって若者から始まって洋装が広まった。
⑤戦後、歌謡と演劇の青年団活動が盛んであり、生活改善と農業技術改良から、菅平硫黄鉱害反対運動浅間山米軍演習化反対運動へと政治化したが、青年の都会流失によって運動はやがて消失した。
⑥昭和30年代には、養蚕・畜産・果樹などの複合経営であったが、機械化の流れの中で、耕運機や脱穀機などの普及したのであるが、所得格差の拡大によって農業は衰退の一途をたどることとなる。以上。

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2017年5月13日 (土)

戦中派の尻尾

32449629 山田風太郎の作品は一度として紐解いたことはない。しかし、彼が戦中派として戦争体験をしていたこともあって(但し、彼は実戦体験していない)、また、このブログ記事を読んで図書館から山田のエッセイを借り受けて熟読してみた。戦中派の人々の考えと想いは、自分の幼少期にも、身内や親類縁者から仄聞したのであるが、決して彼らは自らの体験をあからさまに開示することはなかった。小中学生の頃、週初めの月曜、一時限の朝礼で、校長や教頭、教師たちの戦争体験話をしばしば平和の大事さを強調する中で聴く時も、戦争の具体的な実相は言外に推察するだけで、想像するより外はなかったのである。教頭は空腹で降参した時に米軍から与えられたパンの旨かったことから平和の訴えがあり、担任はトンネル内に身を投げて自殺しようとしたと吐露していた言葉が脳裏に焼き付いている。
 それでは、山田風太郎の場合はどうだったのだろうか。皇国青年であった彼には実戦的な体験はない。一般的に、戦中派の記録や日記類は信用しがたい。これは山田自身が述べていることであるのだが、それらのほとんどは、自己正当化に終始しているのである(市井の者は、それが余りにもの悲惨な出来事であるがために黙して語らずである)。そして、山田は戦争責任のベストテンとして、昭和天皇、近衛、松岡、木戸、東條・・・と列記しているのであるが、後には、日本人、重臣連、天皇、近衛、木戸・・・と改訂している。「太平洋戦争風眼帖」を縦横に深読みすれば、山田は典型的な戦中派というのが理解できる。「明治栄光論」であり、「植民地解放論」であり(司馬遼太郎も同様)、「捲土重来(他日報復)論」であったのである。そのような戦前の思考(という尻尾)をいつまでも保持している意味において、完全に戦前の自分を切開していないと言わなければならない。その結果、日本人が大好きな、日本人論を展開するという隘路に陥ってしまうのである。そして、戦争責任の筆頭は日本人総体であると改めて指弾してゆくのである。曰く、もし日本人が原爆を米国より先に発明したら、日本人は躊躇なくこれを使用しその残酷も感じないだろう、と(p9 原発再稼働を見ればよく分かる)。また、「日本人の特性は、といわれた場合、その最大にして最も簡明なのは『軽薄』であり」(p15)、「日本人はうそつき民族であるのみならず、うそというものに鈍感である」(p39)と痛罵しているのである。これら以外に、無責任、寄らば大樹の陰、二股侍、幼児性、一発屋、無鉄砲、従順、小利口などと指摘して、日本人の国民性を一重性と二流民族という二つの規定に収斂しているのである。この彼の定義は、押しなべて得心のゆくものではあろうが(かの首相もそれらを完全に体現している)、それは同時に鏡に映った(尻尾を残す)戦中派自身の姿ではないだろうか。だから、冒頭で太平洋戦争おける「名将」を持ち上げたり、戦後になって付和雷同的に「民主主義」を高唱する輩の偽善性や愚かな政府・軍部首脳への非難にのみ関心が集中してしまっているという彼の限界が見て取れるのである(体験者としての怒りも十分理解できるが、歴史学的にかつ民衆の闘いの観点から断罪すべきなのである。また、戦争体験者でなければ戦争の実相が分からない、という言説は真っ赤な嘘である)。要するに、決然としていないのである。

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2017年4月 8日 (土)

司馬遼太郎の朝鮮観

32288547 著者である中塚明については、彼が近代日朝関係史についての専門家であること以外、詳らかに知らない(これ参照)。しかしながら、司馬の著作が未だに広範に読み継がれていることから、これを念入りに批判することは、厳として意義のあることである。のぼせ上った歴史修正主義者や国粋主義者などの右派が大手を振っているからである。司馬の本は全くと言っていい程読んでいないのだが、瞥見したところ、その虚実が入り混じった文体が嫌いである。小説家としての資質は多分あるのだろうが(推測)、そのしれっとした倨傲が気に食わない。彼は『坂の上の雲』の映像化を拒否したということだが、著作権を除けば、作品は発表した時点で著者の権限から離れるのであって、評価は読み手が行うことなのである。したがって、映像化を拒否するのは傲慢以外の何物でもないのである(映像化を望むわけでもないし、映像化するべきだとも思わないが)。母親は自分の子供を拒否するだろうか。歴史意識や想像力が漸次喪失されることに付け込んで歴史を改鋳し、それを美化する風潮は、紛うことなく、人々の記憶と意識を改変し劣化させるものである。中塚によれば、司馬の明治観は「戦前の昭和は大嫌い、明治大好き」(p27)の「明治栄光論」だと言う。敗戦前の昭和は「異胎の時代」として毛嫌いし、日露戦争は祖国防衛戦争として、それまでの明治は武士道が貫かれた良き時代だったというのである。ちょっと、どうかしているのじゃないのか。日露戦争後、日本人は民族的に痴呆化したと司馬は捉えるが、断じてそんなことはあり得ない。むしろ、明治維新から始まって、殺戮の戦史だったのである。そのことを中塚は、司馬の朝鮮観を批判することで、日清戦争の中にも洞察できると仔細に論じている。朝鮮王朝占領、朝鮮抗日闘争へのジェノサイド、王妃殺害事件(これ参照。意図が不純であることと、その結果としての結論が間違っているが、比較的うまく纏められている)である。司馬に劣らず、明治政府は正史と戦史の偽造、鏖殺(おうさつ)を隠蔽・正当化するためにプロパガンダに明け暮れていたのである。

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2017年2月24日 (金)

日清戦争の核心点

92406 山川版『日本史小辞典』の内、〔日清戦争]の項を念のために採録してみたい。まだ手元に置いているのであるが、機会あれば古書店に売り飛ばす予定である。
 「1894~1895(明治27~28)に主として朝鮮の支配をめぐって戦われた日本と清国との戦争。日本は早くから朝鮮への進出を意図したが、壬午・甲申両事変で清国の朝鮮での勢力が拡大すると、対清戦争準備および朝鮮に対する保護の準備を進めた。94年に朝鮮で甲午農民戦争がおこり清国軍が鎮圧のため出兵するや、日本軍も出兵。日本は欧米各国の動向を見守りつつ、日清による朝鮮の内政改革を提案し、清国の拒否にあうと単独改革を主張し、清国との戦機を求めた。7月16日日英通商航海条約を調印するや、日本軍はただちに王宮を占領し、豊島沖で清国軍艦を攻撃し、8月1日に宣戦布告した。装備・訓練にすぐれた日本軍は、指揮・装備の不統一な清国軍を圧倒。制海権の争奪をめぐる黄海海戦で勝利し、朝鮮半島の成歓・平壌の戦に勝ち鴨緑江を渡り、遼東半島に進出した。95年2月威海衛を攻めて北洋艦隊を全滅させ、3月には遼東半島を完全制圧した。また、朝鮮では再蜂起した農民軍を鎮圧し、甲午改革によって朝鮮の保護を推進した。ここに欧米各国も講和の斡旋に動き、とくにアメリカの仲介で・・・4月17日に日清講和条約が結ばれたが、直後に三国干渉のために遼東半島をやむなく放棄。また朝鮮の従属化をめざした甲午改革も、三国干渉直後のロシアの朝鮮進出もあり挫折した。日本の動員兵力約24万人、戦費2億余円。」
 戦争そのものとその動向を説明することが主眼であることとは言え、この記述は朝鮮と朝鮮人民からも清と清国人民からも見ていない。また、日本を含めた帝国主義列強の意図が明らかにされていない。つまり、なぜ、日清戦争が戦われたのか全く分からない。また、日清戦争の意味とその後の影響が不明である。まったくもって、よく分からない内容となっている。目新しい学問的成果もない。日清戦争の核心点は何か、これから順々に論及したいものである。明治時代の息吹を残していた親父より上の世代を振り返りながら、探索したいものである。『家郷の訓』もまた、その時代のあり方を調べるための足掛かりとして破読したいものである。
 

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2017年2月12日 (日)

軍歌一考

07351079_2 実は、軍歌についての晋遊舎ムックを一冊所有している。CDが二枚付録として収録されている冊子である。少し日本の歌に興味が高じて、調べている最中に衝動買いしてしまったのである。これも古本屋行きである()。著者は軍歌研究の第一人者であるが、やはり慶応大出身である。慶応は、早稲田と共に、既に地方出身者が三割を切っており、首都圏のローカル大学に墜しているが、ごく一部の例外を除いて、御用学者と体制護持派の巣窟になってしまっているから、学問的にはほとんど信用していない。これからも劣化が進むであろう。これが故に、危機感を覚えた慶応大学は、地方学生向けに、独自の奨学金制度を充実させているそうである。ところで先のムックであるが、その第一章において、さも偉そうに記述されている事柄は、当たり前と言えば当たり前である。つまり、軍歌は戦争とセットであり、「皇軍」のみならず、娯楽として推奨され、民衆が追い求めたものである。換言すれば、侵略戦争へ国民を総動員するための方途なのである。軍歌そのものは、総力戦を戦う上では必要不可欠な手段なのである。これはあまり知られていないが、外山正一、山田耕作、北原白秋、古賀政男、古関裕而など、戦前の著名な作詞・作曲家で、軍歌に無縁な者は全くいないのである。明治期以降には、政府は学校教育(唱歌)を通じて忠君愛国精神の涵養を図ったのであり、その意味では、東京音楽学校(現・東京芸術大)の功罪は大きいと言わなければならない。そういう私も、1960年代に兄の所有する月刊誌『丸』を耽読したり、零戦や戦艦武蔵のプラモデルを製作したり、朝日ソノラマのソノシートで密かに「ラバウル小唄」や「月月火水木金金」や「同期の桜」などを暗誦している。戦後になっても、まだまだ戦争の影響下にあり、映画やテレビでは戦争を懐古する番組が製作されていて、「戦友」というテレビ番組を視聴した記憶もある。倒錯していた時代が、まだまだ続いていたのである。そして、その伏流水が現今滲出し始めていると言っても過言ではない。辻田はそのムックでは、娯楽としての軍歌の危険性を綴っているが、その問題意識は全く切開せずに、結尾で、軍歌が楽しいと懐古する愛国主義者や軍歌に詳しい人気声優を紹介しているだけで、肝心なそれを放置してしまっているのである。軍歌の内容を「反面教師」(p10)として詳細に知るだけでは軍歌のことは分からない。日清戦争期には、戦争熱にうなされて、軍歌が1300曲以上創られたということであるが(p11)、他方の園田は、その時代の軍歌によって、「それ以降の日本の歌曲のほとんどすべてが行進曲調となってしまった」と嘆き、「二度と再び軍歌をうたわねばならぬ時が来ることを拒否する」(p63)と宣言している。また、小学館版『日本の歴史』26巻において、宇野俊一は、「今に蛆虫チャンチャンを打ち払い・・・うちころせ大砲で・・・撃て撃て突け突け、君の為国の為」などと絶叫した外山正一を、「当時の碩学であることを思うと、その低劣さにはあきれはてるしかない」(p75)と慨嘆している。日本軍歌の父と称される外山正一(東京帝大)だけでなく、彼と共に「抜刀隊」の原曲他、軍歌を多数創作した井沢修二(東京音楽学校、長野県出身)もまた、当時の時代風潮を差し引いても、それに負けず劣らず愚か者である。

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2017年2月 5日 (日)

征清日誌と和歌

51dtwmk33l__sy373_bo1204203200_ 1894年(明治27年)7月22日の(従前の)日誌には、「この時我等兵卒の者は、朝鮮事件の急の電報が来たのかと思う」(p21)と書き残している。朝鮮事件とは、日本と清国との決戦が不可避となる豊島沖海戦前の急報であろう。朝鮮王朝には、既に日本からの最後通牒が送られていたのである。そして、直ちに王宮占領して手中にし、清軍掃討作戦で追撃し、豊島沖海戦勝利を待って平壌攻略へと進撃してゆくのである。信州の山村出身である山口にとっても、出兵が俄かに要請される事態なのである。ここにおいて、彼は件(くだん)の和歌を認(したた)めたのである。
 君の為 今ぞ死ぬ身を 思いしに
 又故郷の 花を見るらん
 これを意訳すると、「天皇陛下を奉戴するこの大日本帝国のために、たった今、死ぬ覚悟を固めたのであるが、再び古里・故郷の花を見るだろう(想像推量)」となるだろうか。前回、「決死の和歌を認めた」と皮相的に書き記したが、真実のところ、山口には逡巡があるのである。決死の覚悟であったならば、「今ぞ」でなく、「今こそ」と、より強調した表現をするべきだし、下の句では反語の係助詞を採用するべきところである。例えば、それでもイマイチの和歌ではあるが、
 君の為 今こそ死ぬ身 思ひけれ
 又故郷の 花や見るらむ
 意訳すると、「天皇陛下を奉戴するこの大日本帝国のために、死の覚悟を固めたのであるが、それは、故郷の花を再び見るだろうか。いや見ない程の強固な決意である」となるのではないか。何のことはない、本歌・元歌では望郷心の方が優勢なのである。これは後方支援の部隊員のためであるのかも知れないが、天皇制イデオロギーが農民兵士にまで浸潤できていないことの証左の一つであるだろう。近代国家として、出来立てほやほやの擬制国家だったからである。

 今日は、『信濃風土記』(NHK長野放送局編集、1979)ともう一冊を古本屋で安価に購入したので、のんびりと読み始めようと思います。

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