日本の近・現代史

2019年7月16日 (火)

画一化の歴史

31766439   この本は、実をいうと二読目である。出版が2006年であるから タイトルは、正確に言えば、『113年前の家庭生活』である。要するに、対象は「明治三十年代の家庭史」(p8)である。明治45年(大正元年)生まれの者が生存しているならば、107歳であるから、ほぼ現存している人はいない時代を取り扱っている。大凡、日清戦争から日露戦争までの明治末期時代の話であり、日本の産業革命が確立しようとする時期と照応するのである。明治維新より30年余りになり、人口は1900年(明治33年)に4400万に推計されている(p189)。しかしながら、約8割の日本人は地方に定住しており、日本の基幹産業は農林漁業だったのである。交通機関が発達して農民が都市への流入し始め、軍隊への入隊という経験もまた農村部を刺激したのだが、社会全体としては、階級格差が相当激しく、庶民は貧困に喘いでいたのである。それは都市住民(細民)もまた例外ではなく、横山源之助は『日本之下層社会』(1898年)で詳論している。また、脚気と結核、赤痢と腸チフスなどの病気で、命を失う者も少なくなかったのである。注目したのは、第七章を記述した佐藤裕紀子氏の言及である。「つまり、明治三十年代は、生活の学校化と学校生活の定型化という、子どもたちの生活における二重の意味での画一化をともないながら、今日における子どもたちの生活の基礎が形成され始めた時期であるということである」という指摘である(p226)。想い起せば、1960年代前半の地方での生活は、ほぼこの明治後半の時代の延長線上にあったと思われるのである。小学校では板塀の校舎であり、廊下は走ると時折抜け落ちたり、ひび割れたガラス窓であったし、農作業はその時代に毛が生えた程度で、似たような手作業に追われていたのであり、養蚕業も終息期であったのである。ほとんど変化していなかったのである。そして、60年ほど前の時代が、実は、その土台が江戸時代に規定され、生活が明治の教育制度によって少しづつ改変されてきただけの歴史だったのではないかと、しみじみと思われるのである。

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2019年7月 7日 (日)

不安と競争の時代

33806161_2019070815390133806161_2019070815390133806161_20190708153901 33806161   大正期生まれの父は、働き詰めのために早逝してしまったのだが、他方で進取の気概もあって、村では珍しく、いの一番にオートバイ(カブ)を買い込み、その前輪カバーには、「殖産興業」と書いて乗り回していた。「富国強兵」と共に、そのスローガンは明治時代を象徴するものであったが、父がどういう思いでそれを書いたのか不明であるが、明治時代の雰囲気と影響を如実に受けていた証左であろう。
 この本では、明治の社会は、とても生きづらく、不安と競争の時代であることが論証されている。昨年は明治開始以来150年ということもあって、一部の明治礼賛者は色めき立っていたのだが、歴史の大枠で言えば、クーデターによって成立した、支配階級内部の権力闘争に過ぎないのであって、その結果は1945年の敗戦に集約されたのである。要するに、敗北して失敗したのである。著者の指摘していることは、不安と競争の中を生きた明治の人びとは、通俗道徳の罠に嵌ってしまっていたということである(pⅸ、74、76、144)。通俗道徳の概念は、恐らく安丸良夫によって提起されたものであろうが、「よく働き、倹約して、貯蓄さえすれば、人間は必ず成功する」という信念である。しかしながらそれは、「成功」する者など、ごく一部なのであって、この間違った信念は必ず弱者や貧困層に自己責任を強要するものとなって、1980年代から浸潤した新自由主義によって、国民の資産を解体・簒奪して一部の支配層に富が集中して貧富の差が拡大しているばかりでなく、社会に分裂・崩壊化と世襲化をもたらしているのである。それは、明治時代にあっては「立身出世」という言葉に象徴されていたのである。しかしながら、ことはそれだけではない。この本の範囲を超えた問題もあるのである。即ち、天皇制イデオロギーである。通俗的観念を流通させるためには、その紐帯が必要不可欠なのは言うまでもない。この間の改元とその行事、さらに天皇家への関心の集中は、公文書や役所の書類(戸籍・住民票・健康保険・雇用保険・年金など)に国民に周知されるものとなっている。令和という元号によって、国民は歴史の中で繰り返し自分自身を規定してゆく現実に晒されて、刷り込まれてゆくのである。

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2019年1月 1日 (火)

本来の元旦

Dscn0371 鬼無里(村)から白馬に抜ける白沢峠からの絶景を時々想い起す。もう一度訪ねてみたい衝動に駆られる。しかしながら、貧乏な生活ではガソリン代という経費がその衝動を止めてしまう。眼下に鹿島槍ヶ岳、五竜岳から白馬三山へと続く雪の北アルプスを眺望する佇まいには、その荘厳さを人に抱かしめるだろう。という訳で、たまさか『鬼無里村誌』を手にしたので一読してみた。大変立派な村誌である。村の自然・歴史・民俗が精細に記述されている。長野県には、教員を中心に郷土史家が多く散在している。数多(あまた)の図書館、博物館、美術館があり、社会教育資本が充実している。こんな山奥の鬼無里という村を記録に留めるという難業に挑戦する郷土史家の胆力には恐れ入ってしまうのである。
 謹賀新年。昨年に書き留めておいた記事に追記しての初投稿である。年末年始はお年取りと元旦を午睡と読書で過ごしている。紅白や急増する正月お笑いテレビ番組は視聴しない。このような番組を提供するディレクターは、首都圏出身の「有名」私大出身が多い。政治や経済や文化を牛耳り、めざましく劣悪化している慶大出身者どもには辟易する(東大は落ち目である)。どんどん日本が壊れた方がいいのである。という訳で、めでたくもないのであるが、相も変わらず、『宮本常一が撮った昭和の情景』(下巻)を分析していたのである。①1965年、戦後25年経過した頃(いざなぎ景気)、日本社会の風俗が変転したのである。江戸や明治の時代から続いていた社会は、茅葺屋根から瓦屋根が普及して、縁側の意義が消失し始めたのである。牧歌的な農村風景が変化し、洋装が普及し出して、三種の神器である冷蔵庫・洗濯機・テレビ(白黒)が地方にも浸透し始めたのである。②1970年前半、瓦屋根が一般に普及して茅葺屋根は消失する。住宅の密閉化が進捗し、道路網が整備され、生活に余裕が生まれる、という二点が、宮本が撮った様々な写真から読み取れるのではないか。写り込んだ写真を丁寧に読み取っていると、宮本民俗学の重要な一面が感得されたのである。今日一日は、初詣(明治以降の風習)もせず、寝正月かつ読書の元旦であったのである。

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2018年12月10日 (月)

日本人の破壊性

32260807 小春日和の今日、著作集第三巻を読了する。東北と北海道は積雪で大変らしい。厳しい冬の生活は、どちらかというと、記録されることが少ない。それだけに、正月や春の訪れに対する思いは切実である。ために、若者が都会に出てしまうのは、ある意味では当然なことかもしれない。北信州では、お葉漬け(野沢菜漬け)の時期であるが、50年前までの冬の風物詩は廃れて、スーパーでの購入になって、各家々での作業風景はほとんど見られなくなっている。しかしながら、野沢菜を漬けること自体がお年取り・正月の準備であり、そのものだったのである。敷衍すれば、9月に野沢菜の播種からお年取り・正月の準備が始まっていたのである。よく誤解されているのが、大晦日の料理=おせち料理である。お年取りでは、黒豆も数の子も栗きんとんも昆布巻きも出てこない(筈)である。生家では、焼き鮭、里芋煮、鯉こく、なます、酢だこ、茶碗蒸し、お煮かけなどの料理が炬燵大の朱塗り広蓋の中に広げられていたのである。これのどこがおせち料理なのであろうか。当地では、お年取りがメインの行事であって、おせち料理を食する習慣はなかったのである。元旦は「寝正月」で雑煮を食べ、二日から挨拶回りや仕事始めとなるのである。今様のように、「元旦早々から初詣などといって社寺へまいる客のふえたのは、年夜のまつりがうすれて来たことに大きな原因があるようで・・・昔は正月のにぎわいは二日が中心であった」(p275~276)のである。キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝うという倒錯は、バブル期の80年代に始まったのであるが、経済至上主義と新しい所有観念は、正月の様相もクリスマスの有り様も変えてしまったのである。日本人は伝統を重んじていると自慢しているが、「実際には自分たちの生活の中できずきあげてきた有形(無形の)文化をのこそうとしなかった」(p69)のであり、その現象は、生活誌や建造物など身の回りには多くの破壊されたものが検証されるのである。

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2018年11月15日 (木)

都市の愚劣

2018110110340001 既に、田地は長閑な風景が広がるばかりである。二ヶ月ほど、ブログ更新がなかった訳であるが、露ほどの進展はなく、新米の収穫がなされただけである(これで来年に備えた大凡の食い扶持ができた)。今年は酷暑と多忙のために、畑の方は茫々として静まり返り、耕作物はない。僅かな草花が畦を彩っているばかりである。冬将軍の到来を前にして、田畑を自然に任せている次第である。こんな折りに、『宮本常一著作集』の精読に再挑戦してみたのである。再読でもある。やっと第二巻を読了した所である。『宮本常一が撮った昭和の情景』との併読なので、遅々としたものである(第二巻については、かつて記事投稿を行っている)。
32260806_2 近頃、明治維新の歴史を狂瀾を既倒に廻らすような文献・著作が続々と刊行されている。明治維新礼賛の歴史観が文科省検定済歴史教科書や司馬などの文学・歴史書などによって洗脳されてきたのだが、今や潮目が変わり、歴史の見直しが着実に進行し始めたのである。その反動としての単純な江戸時代礼賛者にも辟易するが、その傾向は確かなものになっている。NHKでは「西郷どん」が放映されているが、維新の「志士」の側からの視点で演技されて、そのために、「でんでん首相」は桜島を背景にして総裁選出馬を表明したのだが、愚かしいのにも程がある。それでこの「著作集第二巻」を精査すると、宮本は僻地・離島、農村、地方小都市の遅延を慨嘆するのであるが、「明治以来の政府の政策はまったく地方衰微のためのものであった」(p45)とあるように、その根源を表明している。明治政府による「国内植民地」(=植民地主義)化だと断罪しているのである。具体的には、1873年の地租改悪などによる地方資本の略奪や地方の教育投資熱などを列挙している。実際、明治初年には総人口3300万の内、都市人口は300万人であり、それ以外は地方に暮らしていたのである。中央集権体制が整備されていく中で、「向都離村」は激増するのである。この状態は現在でも同様であり、テレビやスマホなどの情報端末が都市への関心を喚起して、人やモノやカネがより一層都市へ還入して行く(ロードサイド化とストロー現象)のである。宮本は、「政治を批判し、中央に抵抗する精神」(p55)を推奨して地方の自立を推奨するのだが、彼の僻地解消策としての「交通網の確立」(p182)と市場(消費)経済の拡大は、愈々それを促進するばかりである。つまり、彼もまた、近代主義者としての限界性を保持していたのである。「都市と農村の区別をこえた、強烈な国民文化を生み出したい」(p101)という期待は、テレビ番組やネット右翼の愚劣な内容を見れば、夢幻なことであったのは相違ないのである。

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2018年9月26日 (水)

農村青年の軍隊体験(再掲)

337104851 日清戦争前の農村社会は、江戸時代のそれと殆ど変化はなかった。明治維新から30年弱経過しているのだが、明治中央政府は天皇制近代国家の形成が急務だったのである。大日本国憲法(欽定)の制定(1889年)によって、臣民には納税と兵役の義務が課せられたのだが、天皇の親署のある教育勅語の発布(1890年)によって、事実上、三大義務として国民に捉えられ始めたのである。勅令は明治憲法に規定されてはいるものの、憲法から独立した天皇の大権として発布される命令だったのである。ちなみに、軍人勅諭はやはり天皇の命令として軍人に下賜した訓辞である。維新期に信州の片田舎に出生した山口袈裟治(18731965)は(従前)、二十歳に兵役義務に服し、近隣の名士などの送別を受けて、「陛下万歳、兵役諸氏万歳」と謁する中で出立し、赤羽練兵場に入営するのである(p8)。この頃の男子は、未だに小学校や兵役は必ずしも浸透していた訳ではなく、軍人の社会的地位も相対的に低かったが、山里の家に養子に入った山口にとっては、国家と養子先への義理として出征したものと思われる。だから、まだ若輩であった彼の表現が拙いとは言え、就役の慶びの言葉は見当たらない。寒村の中では、出征旗や「数十の国旗等、盛んに祝砲を放ち、送別員は山と為した」(p8)とあるが、皇民化教育も未熟で、未形成の在郷軍人会の見送りもなかったのである。謂わば、この時期によくあった出稼ぎ感覚に近いものであっただろう。しかしながら、この出郷と軍隊経験は、「差別なく公平な」軍隊内の生活を通して、国民意識の萌芽となったのである(『明治・大正の農村』、大門正克著、岩波ブックレット、p36)。実際、入隊した工兵第一大隊での生活は、教練や演習、靖国参拝、酒肴の下賜、外出での東京見物や面会の楽しみ、軍歌の奉唱、三大節や宮中行事の国家祝祭への動員などで彩られている。とりわけ、行軍の頻回には、「余は炎暑中の(十里余りの)行軍は今度は初めてで・・・非常に困難した」(p21)と珍しく弱音を吐いている。ところが甲午農民戦争を契機に日清戦争が開始され、彼は、敷島の和歌の顰に倣って決死の和歌を認めている。君の為 今ぞ死ぬ身を 思いしに 又故郷の花を 見るらん」これは、本居宣長と「抜刀隊」等の軍歌の合作と思われる。この時代、明治政府は「君が代」や軍歌の創作によって忠君愛国思想の注入に努めていたのである。とりわけ、日清戦争前後には、軍歌は盛んに作曲され、「敵は幾万」は最も広く唄われて、「抜刀隊」と併せて明治を代表する軍歌となっている(Wiki)。また、後者は、以降自衛隊の現在まで、一貫して軍隊の行進曲として通用している(『日本の詩歌』別巻日本唱歌集、園部三郎、中公文庫)。園部は、「これらの(つきつめた気持を表現した)軍歌の大部分がもっていたヨナ抜き五音長音階は、その後の歌のほとんどすべての基本音階となった」(p63)という卓越する見解を開陳している。 

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2018年9月19日 (水)

日本社会の肉腫

2018091711270000 自民党の総裁選なぞ、何の関心がない。どいつもこいつも、シンジロウにも何の期待を抱かない。それどころか、幼少期から田英夫や古谷綱正(ともに戦争体験者)の「ニュースコープ」を毎夕かぶりつくように視聴していた自分にとって、ベトナム反戦運動や安保・沖縄・大学闘争と三里塚闘争が身近の現実と比考して、中学生期には政治意識を涵養されたのである。当時の世相は、政治参加が当たり前だったのであり、今日での保守的に馴致された大学人や職業人とは無縁だったのである。選挙年齢に到達してからは、棄権もあれば、投票しても自民党には一票も投じたことはないのは道理である。「自民党は、社会保障や貧困対策には熱心でなく、労働の規制緩和を進めたり、富裕層の減税を繰り返すなどして、長年にわたり格差拡大を放置し、むしろその拡大を促進してきた政党である」(橋本健二『新・日本の階級社会』p38)からだけではない。橋本教授は、自民党が特権階級や富裕層の特化した階級政党になったと析出し、リベラル派の結集を訴えているのである。しかしながら、自民党は、一貫して、戦前の戦争責任を免じて戦犯どもの巣窟となり、経済の側面から国民を篭絡してきた政党である。全く反省していないのである。この政党は、常に政財官界などに勢力を維持して、民主政治を方便にして国民を支配する寄生特権層である。そして今や、富裕層やネット右翼の巣窟となっているのである。ほとんどの調査や選挙では、話半分なのであって、約2割ほどの(他の保守政党を加えれば高々3割)支持者から成り立っていることは明らかである。つまり、旧来から支持している地方富裕層、都市の特権層と富裕層、および勘違いしているネット右翼等のカルト化した集団である。当初から、ネット右翼とは勘違いした中間層であると見ていたが、それは正しかったのである。「奴隷のくせして主人のまねごと」をしているだけなのである(栗原康)。自民党の勢力は、地方から都市の特権階級(世襲議員を始めとする)と富裕層へと変遷しているのである。アベは憲法改悪を謳い、イシバは「国家・国民」を開口一番とする右翼であり、シンジロウは、超帝国の要求を汲む新自由主義者である。どいつもこいつも日本社会の肉腫なのである。自民党は、「階級政党」どころか、とどのつまり、「極右政党」に終着するのである。

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2018年7月29日 (日)

酷暑と「維新」の影響

2018072710120000 38日目の田園風景である。今年の夏は異変である。熱波のために自作野菜がよく育たない。日照りのために萎れたり、枯れたりするものが続出し、収穫物が少ない。弱った枝葉を食いちぎる虫害も見られる。さらに、虫たちは暑さのために土に潜って根を弱らせているのではないか。既に、果樹農家では日焼けの被害が報じられている。酷暑のために白菜・セロリ・レタスの生育が進まず、需要期のスイカ農家は果皮の日焼け対策に大わらわだそうである。「さわやか信州」でも、軽井沢が最高気温30度越えになっているのだが、高級リゾート地には全く関心がない。西日本の産地野菜が品薄状態であり、長野県下では、酷暑に加えて少雨という天候もあって、お盆にかけて更に高騰するということである(以上、『信濃毎日新聞』紙面より)。マスメディアの天気予報は猛暑→熱中症という高温報告にとどまって注意勧告しているばかりで、その社会的影響を少しも報じていない。こんなところにも人間中心主義が徹底されていて、憤慨するのみである。これもまた極右政権という人災に逢着するのである。西日本豪雨だけでなく、今回の台風12号でも休養するそうである。かの腐敗した最高権力者は、気が小さいくせに虚言を弄して内実は何もなく、結局何もできずに「地位に恋々として」三選に狂奔しているのである。何もできないし、しようともしていないのである。吉田松陰を始め、長州・山口県の馬鹿さ加減には辟易している。まだ明治を引き摺っているのである。

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2018年7月15日 (日)

稲の分蘗を見て

2018071509230002 記録によれば、田植えが6月17日だから、今日は28日目。最高分蘗期はおよそ定植後60日だから、幼苗はぐんぐんと伸びている。もう少しで青田になり、そよぐ風に枝葉を靡かせるだろう。9時過ぎなのに、噴き出る汗をタオルで何度も拭いながら畦回りをして成長の具合を観察するのである。気の早い隣りの田んぼは、中干し後の水入れを開始してもいる。気候が早まり、何事も早め早めになっている農業である。だが、生来の怠け者である自分は、他の仕事をこなしつつ、遅れ遅れの農業になってしまっているのは否めない。畑作業は思うようにならないが、絹サヤやピーマンなどの世話が何とか間に合っている始末である。
 西日本豪雨による災害では、知り合いの安否は確認できたが、極右政権の弛緩は止めどもないことになっている。西日本は東日本と異なり、土が重たく赤土が多いために土砂災害は甚大となる。また、日本の河川は急流なので、巨大地震災害と並んで、豪雨対策は国を挙げての取り組みが緊要なのである。気象庁は重大な事態を警告したにも関わらず、「赤坂自民亭」なのである。これに対する批判は、ある意味では正しいのだが、マスコミが恐る恐る報じるようになっているのだが、「宴会」批判は本質ではないのである。むしろ、この悲惨な状況を政権浮揚に利用していること(ショック・ドクトリンこれも)を周到しておかなければならないのである。実は、明治維新もそうだったのである。「志士」どもは、非常事態を利用し、自分たちの利害のために興国論や覇権論、軍事大国化に成り下がって敗戦を準備しただけだったのである。西郷隆盛や坂本龍馬などは徹底的に斥けなければならないのである。三島由紀夫のカリカチュアも然りである。2020年のオリンピック開催は、2011年から始まる第二の敗戦を告げる晩鐘となるだろう。この豪雨被害と同じような事態の最中にオリンピックは敢行されるのであるから。悲惨の事態に遭遇して初めて日本人は決起できるかどうかが要なのである。そのような認識が、稲の分蘗ように、全国津々浦々に遍満するかどうかが問われているのである。

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2018年6月24日 (日)

女たちの戦争責任

2018061909060001 田植えは17日の午前に終了する。が、補植ができない。多忙の為、体力保持のために休むのであるが、自然は待ってくれない。この間に、高群逸枝の『娘巡礼記』(岩波文庫)や渋谷定輔の『農民哀史から六十年』(岩波新書)などを繙読している。しかしながら、年々歳々、愚鈍の頭は益々固陋になって、殆ど機能しなくなっている。それでも生きなければならないのである。研修や会議などで事なかれ主義を決め込む自分に愛想を尽かす日々である。
 満24歳の若き高群は故郷・熊本を後にして、半年間の四国遍路の旅に立つ。頃は、1918年6月、大正デモクラシーの全盛期でもあり、直後には、シベリア出兵や米騒動など、国内の戦時体制化と階級闘争とが激化しつつある時期である。
    おどろかじ 疑ひもせじ 世の中を
    さみしく独り 旅ゆくわれは
 巡礼の動機は、「あとがき」によれば、どうやら人生の煩悶と恋愛問題らしい(これにはあまり関心がない)。若き女の巡礼姿は奇怪と好奇の眼に晒されるのだが、当時の世相と人間模様が見事に描写されている。貧困と絶望にある庶民の姿である。他方、高群の観念的な思考は、その時代の青年層に特有のものである。その乖離が掻痒の感を覚えるのである。結果として、高群の母性主義が「聖戦」として侵略戦争に加担してゆくのが残念なことである(これ参照)。されど、24歳の自分を思い返すと、恥じ入るばかりである。
 
 

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