農業・農事

2020年7月29日 (水)

『農家が消える』

2020071817290000  午前中に田んぼと畑の状態をチェックするのみで、日がな一日、体を休めて午睡もする。年齢を重ねて体力も落ちてきているのである。あの世が近くなり、諦念することが多い。農に生まれて農に死ぬ、ということである。
 日本の農業と農山村の衰退が叫ばれて久しい。しかし、無用の長物である自公政権は農協つぶしを公言している。テレビでは、お笑い芸人が「うまい!」「おいしい!」という番組が氾濫しているが、これを見ると、「酷いもんだな」と嘆息するばかりで、空しく机に戻るのが日常化している。農業生産物に対する畏敬が足りないのである。生産する農家への想像力が足りないのである。半世紀ほど前には、「飯だと聞いたら火事より急げ」という諺があって(『信州ちくま 食の風土記』p147)共食が当たり前であり、「食べものを粗末にするとバチがあたる」あるいは「ご飯(米粒)を残したら目が潰れる」と子どもに諭したものであるが、今では金さえあれば商品として購入し、煮て焼いて食おうが勝手である飽食の時代となっている。驚愕すべきは、出荷された食料の三分の一は廃棄されている常態である。消費者は低廉な野菜が高値となったら不平を鳴らし、農家の手間暇への関心はほとんどない。例えば、イネとヒエの識別や野菜の一番果は早期に収穫することは農家の常識である。このように考えると、都会のテレビ芸人ほど罪深い人々はいない。
 1960年には基幹的農業従事者が1200万人だったが、今では200万人を切っている現状を知っているのだろうか。集約された地域農業の技術や伝統野菜品種が継承されていないこともある。農業後継者不足は地力や地域保全とも連関する。自然との共生は地球環境を守ることでもあるのである。また、食糧安保の考えからも、有事には食料輸入は途絶えて食糧危機が到来することすら予想される。私見によれば、農業の担い手不足の中にこそ日本の全ての問題が集約されているのであり、この視点から見るとすべての、そして異常な日本社会が見えてくるのである(参考文献『農家が消える 自然資源経済論からの提言』)。畢竟、農業への軽視と侮蔑である(野坂の農業論も参照。これも)。

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2020年7月 2日 (木)

絶望を希望に変えない経済学

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 偶然、昨年のノーベル経済学賞(偽のノーベル賞である)を受賞したという新刊本を図書館で見かけたので手にしたのだが、期待外れだった。表題とタイトルにも違和感を覚えたのだが、全くもって経済学が無力であることが分かった次第である。彼らの経済学は有害無益であるとも言えよう。アマゾンを覘くと、何とビル・ゲイツが「今夏必読の5冊」に選出と推奨しているらしい。こりゃあ、ダメだと思ったものである。著者の結論は、世界の二極化即ち相入れない分裂した世界という認識に立ち、その危機意識は正しいのだが、その解決策が疑わしいのである。世界の二極化は、根本的には欲望に根差した世界的な経済的格差を招来しているのだが、それに対する回答がよい経済学であるというのが間違っているのである。よい経済学はなぜ悪い経済学と闘わないのか。現実の経済は悪い経済学が席巻しているのである。著者もまた、「よい経済学だけで人々を救うことはできない」(p467)との言辞や「経済というものは硬直的である」(p138、465)とも吐露しているのだが、やはり経済学に一縷の望みを抱いているのだろう。著書の基調には、全体的にはヒューマニズム(p467)とアメリカ経済との関わりの中での開発経済学としての立場が一貫しているのであって、結論もまた良心的な落としどころなのである。経済と経済学の成長神話に対する批判はあるものの、それに対する根本的批判はなされていないのである。今や経済学の中心はアメリカであり、アメリカの経済学者がノーベル経済学賞を数々受賞して領導している。そして、彼らの拠点もアメリカであり、MIT(世界一位、二位を争う大学と喧伝されている)のフォード財団支援の教授ということだが、かてて加えてノーベル経済学賞の「栄誉」とゲイツのお墨付きをもらうような学者に何か意味があるのだろうか。とはいうものの、富の集中問題やシリコンバレーのハイテク技術などの言及には多くの示唆を得たことである。
 本日は終日、遅まきながら、黙々と孤独に、梅仕事(梅の甘酢漬けや梅干し作りの前段作業)に関わったのだが、一つ一つの梅を採取してアク抜きした梅を愛おしく確認しながらの作業であり、不足分の赤紫蘇を購入したり、漬物桶を日光浴させたり、田んぼの水位を確認して雑草対策を案じたりで忙殺された一日であったのである。

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2020年6月17日 (水)

民衆の革命戦略

2020061415090000 14日の午前に田植えが終了する。梅雨模様なのだが、昨日から晴れ上がり、植え直しをしなければならない。米作は、米という漢字に象徴されるように、八十八手の手間が必要である。昨年の稲株を畦に寄せて、苗に太陽光を供給する作業や水抜けがない様に畦塗りを補強する作業など、することが多い。一人で行っている以上は、作業の段取りを頭の中で予定しているのである。
 ところで、数日前の信濃毎日新聞で、世論調査の結果でアベ内閣の支持率が2割弱だったことが話題になったのだが、これは至当であろう。全国紙(中央紙)の4割支持という結果は都市ならではの話なのである。未だに自民支持層は地方(田舎)だと勘違いしている人がいるが、むしろ都市の方が多いのである。この事実は議員数とマスメディアの報道を見れば、一目瞭然である(テレビ番組の劣化は甚だしい)。時代の逆行を表示しているのである。
 そのことを指摘する寄稿が、先日信毎でも掲載されていたので瞠目してみた。新型コロナ禍をめぐるアタリの論考である(ちなみに、この寄稿は、ロイター=共同の配信なので、信毎独自のものではない。ETV特集でも町山氏の放送批評はとても参考になる)。そこでは、「命を守る経済」のために、六つの重大な転換が起こると予言されている。J.アタリは、文明批評家としていくつか的中した思想家としても著名である。内容は、既にこのブログ記事の中で何度も指摘したことである(例えば、これなど)。「①距離ーリモートワークの可能性と都市在住の不必要性②生き方-欲望の経済から命を守る経済へ③普遍的利益ー利潤を目的とした資本主義社会から利他社会へ④透明性-情報の独占から民主主義の手段としての情報の透明性へ⑤未来に備えるー将来の脅威を回避するために命を守る経済へ⑥世界の一体性ー市場のグローバル化から道理や正義の民主的グローバル化へ」である。アタリは人々が少しずつ気付きつつあり、やがて民主的に一般化すれば、大いなる展望が開けることを予想しているのである。しかしながら、このような方向転換において、どのような主体と方法が採用されるべきかが明瞭にされていないが、一部暗示はしている。「私たちはあらゆる戦略を用いてあらかじめ敵を知り、戦いを優位に進められよう」と。このことはマスメディアを媒介する人々(都市在住の一部インテリ・知識人・芸人)に期待するべきではなく、民衆の中から個々の思慮の連帯から始めるべきであると了解している。

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2020年6月12日 (金)

尊大な奴隷

2020061117100000  昨日の大雨で県下は入梅となった。調整しながら田に用水をかける。周囲はすっかり田植えを終えていて、静かな里山風景となっている。その季節となれば農民は、例年のルーティンの作業をする。怠け者の自分は、遅ればせながら追随しているばかりである。
 実体経済と異なる株式市場は急落している様である。コロナ禍というショックドクトリンを利用して、新自由主義市場経済は、国家統制と規制の緩和と称して「自由に」市場に委ねることを一応の方針としているのだが、一歩進んで、強欲にも国家財政を大胆に蚕食しているのである。経産省と電2の癒着はその証左である。アメリカの黒人差別抗議運動は、トランプ大統領を直撃して拡大している。死亡したフロイド氏の姪は、「『アメリカを再び偉大に』と言う人がいるが、いつアメリカは偉大だったのか」と訴えている。日米を比較すれば、日本人は尊大な奴隷であると言わねばならない。これほどのアベ政権の失政がありながら倒壊しないのが不思議である。
 近代の終焉と言われて久しいが、近代の人間中心主義は、現代においては、情報通信技術の発達(IT革命)と生命科学の進展によって、社会「変革」と人間改造は飛躍的に増進しているのである。ここにはパラドックスがある。資産家だけが人間であって、それ以外の者を非人間的に管理と統制を強いる体制である。これはM.フーコーが示唆したことである。また、新自由主義思想は何ら民主主義を必要とせず、グローバル化に伴って国民国家を侵食してゆくのである。アメリカの病は解決せずに、抗議運動は人種差別や経済格差問題などで繰り返されて、「アメリカの終焉」(J.アタリ)となるのかも知れない。これは中国も例外ではない。帝国主義国家とスターリン主義国家との対立の中で、世界は多様化しつつ崩壊してゆくのかも知れないが、その先には、非対称な監視された一元的世界システムが現出するのだろうか。それとも、人々が強盗たちを非対称的に強制して共同性を志向してゆくのだろうか。この10年の、2030年代までの民衆の課題と言わねばならない。
 

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2020年5月17日 (日)

遍満するナショナリズム

2020051617250000 曇りから雨模様の一日。久しぶりの休日を自宅で満喫する中で、先日播種したポットの様子を眺める。絹サヤは、またの名はサヤエンドウである。連作と酸性土をとても嫌い、施肥の要領が難しく、病虫害も出やすいので、とても栽培が不得手である。しかしながら、何とか今年はいい成果を望みたいところである。ここ数年夏場に栽培しているのだが、多少の収穫のみで、播種して芽が出た頃には鳥の餌になったり、酸性度が強くて生育が乏しかったり、やはり当地では越冬栽培が慣例なのかなと思ったりして創意工夫と試行錯誤をしているのだが、これといった解決策は今のところ見当たらない。これも自分の独善的な農業である所為なのかもしれない。

 世の中は新型コロナの話題で 遍満しているのだが、どさくさに紛れて提出された検察庁改悪法案に対して、珍しく一部芸能人も反対の声を挙げている。この間のコロナ禍に対する政府の失政と遅政は隠しようもない。オリンピック開催に拘っての新型コロナに対する認識の甘さ、アベノマスクや10万円給付などの遅滞、検査制度の構築や検査数の緩慢など数え上げたらキリがない程である。さすが「国民の生命と財産を守る」と豪語する自公政権である。この政権はもっともっと続行するべきである。
 それにしてもこの政権の成果は一体何があるというのか。2007年の年金記録問題を解決できなかった自公政権が、現在もまた飽きもせず継続している現実をどう見るかという問題である。「♯検察庁法改正案に抗議します」というTwitterトレンドが一位になろうが、残念ながら、二重の意味で大勢は変わらないと思われる。それは単なる抗議に他ならず、政権側はこれを無視して強行採決するのではないか。元々、Twitterを使用している者がそれ程いる訳でもなく(世論というのには程遠い)、数の水増しという疑惑もある。また、政権側は自らの保身もあり、国民を見くびっていることもある。その根底には、ともすれば政権側と国民側とのゲーム性が潜んでいるのである。各報道機関による内閣支持率4割の調査がよく発表されるが、これには信憑性がない。自分の家にも調査の電話が入った実体験があるが、平日の日中では、のんびりと応じる訳にはゆかない時間帯である。半分の無関心層や繁忙の人や反対の人ならば、峻拒するか、不快な質問のために中断するのが当然である。だから、半分の、またその4割ということから、支持固定層は2割しかいないのである。国民の8割はアベ内閣を積極的に支持していないのである。
 もう一つの問題とは、自分が国家の奴隷であると自覚しているかどうかである。「まともな国民」としての批判ならば誰にもできるだろうが、それでは国家権力とは対峙できないことは自明である。その有り様を見て国家の側は「真正な国民」を侮り続けるであろうということである。80年代以降の右傾化は、思想的には新自由主義を標榜して市場主義経済となって世界的潮流となっている。しかしながら、いかにグローバリズムが進展しようとも国家が消滅することはない。むしろ、ナショナリズムの回路はあらゆる分野で強化され、遍満しているのである。そのことを自覚した時に政権は倒閣されるのである。この間のコロナ禍と検察庁法改悪法案の国事を見て、そんなことを反芻するのである。

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2019年10月 2日 (水)

線香花火としてのオリンピック

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 先日の日米貿易交渉の基本合意によって、日本の畜産農家は土俵際まで押し込まれている。生業としての存続の危機に瀕しているのである。ましてや、このところの7県にも及ぶ豚コレラの蔓延による痛手が追い打ちをかけている事態なのである。「農業は儲からない」「農業の仕事はきつい」などの評判で、農業への偏見、後継者不足、農業技術の継承難など、様々な難題が拡大して、崩壊の危機に直面しているのである。しかしながら、農業は本来、多様性と多面的機能を包含しており、そればかりでなく、例えば「グリーンツーリズム」のように、自然と地方との交流を通して人々の余暇活動の一つとしても注目されている。旅行やグルメ巡り、スポーツばかりが余暇活動ではないのである。家庭菜園を始め、農業は、食糧と環境という意味では、地球的規模の役割(glocal)があるのである。活況化しているJA産直所や道の駅での有効活動によって、地方経済の循環にも貢献しているのである。
2019092917100000  ところが、小泉某という大臣は、以前自民党農林部会長を経験して、農協解体と農産物輸出が日本農業の未来に資するという立場であるが、こんなことは実情を知らぬ農業政策であり、むしろ農業崩壊に貢献するものである。実際には、貿易交渉にあるように、衰退する工業部門で唯一残った自動車産業のための犠牲になっているのである。そして、逆進性のある消費増税である。経済の6割は消費によって賄われているのにかかわらず、日本政府は、経済衰退の施策を講じている。また、政府は三権分立の憲法を守らず、憲法改悪を唱道している。米軍機を「大人買い」している。余剰トウモロコシを買い込んでいる。原発事業金を使って関電への贈収賄が報じられている。東京オリンピックはそれらの集大成となるのではないだろうか。

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2019年2月 8日 (金)

愚劣なアマゾンレビュー

33190087 刊行して5年弱の岩波新書である。他にも色々と読み散らしているのだが、この新書をひとまず取り上げたい。「増田レポート」の存在を知っているだろうか。レポートの作者は建設官僚というが、元々は警察官僚上がりである。小沢一郎の知己があったが、「改革派知事」となって反小沢に転身し、岩手県知事としての実績がない。第一次安倍内閣の閣僚(地方創成担当大臣)に起用され、東京都知事選にも立候補して落選している。原子力委員会のメンバーにもなり、日本創成会議の座長にもなり、郵政民営化や東京電力や野村総研の委員や取締役や顧問にもなって、全く締まりのない官僚上がりの政治家である。地方創成を語りながら都知事立候補するなど、何をやっているのか、出鱈目極まりない官僚政治家である。その「増田レポート」は、少子化対策と地方再生を謳っているのだが、その気概もなく、都市出身の政治家としての本性をあらわにしているだけの体たらくである。で、『農山村は消滅しない』という小田切の著書は、増田レポートへの本格的なアンチテーゼなのである。
 ところが、その著作本に、細田某がアマゾンのカスタマーレビューを寄せている。これがまあ、ケッサクである。傲慢にも、「私は農村振興に関わっており」、おれの批判に反論しろというものである。おまけに、「(学者に過ぎないお前が)、まるで自身は(1400万の所得という)安全なところにいながら、田園回帰と地域づくりを美化する事で若者に、地域住民に、無理難題を押し付けている」と、全く論点と異なる問題で難詰しているのである。「現実逃避」、「机上の空論」、「財源論」を持ち出して批判しているが、こんな所が、いかにもエセ官僚や政治屋の言い分と推察される。仮に、「細田ひろゆき」が「細田博之」ならば、以上のような批判にならない批判が彼と照合する可能性が大である(それも、一回のみのアマゾンレビューである)。財源論を持ち出すところにも、己の経歴の愚劣さが顕著である。T大の愚か者は、どこまで行っても愚か者である証拠である(次回、『消滅しない』本の内容に立ち入りたい)。

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2018年7月15日 (日)

稲の分蘗を見て

2018071509230002 記録によれば、田植えが6月17日だから、今日は28日目。最高分蘗期はおよそ定植後60日だから、幼苗はぐんぐんと伸びている。もう少しで青田になり、そよぐ風に枝葉を靡かせるだろう。9時過ぎなのに、噴き出る汗をタオルで何度も拭いながら畦回りをして成長の具合を観察するのである。気の早い隣りの田んぼは、中干し後の水入れを開始してもいる。気候が早まり、何事も早め早めになっている農業である。だが、生来の怠け者である自分は、他の仕事をこなしつつ、遅れ遅れの農業になってしまっているのは否めない。畑作業は思うようにならないが、絹サヤやピーマンなどの世話が何とか間に合っている始末である。
 西日本豪雨による災害では、知り合いの安否は確認できたが、極右政権の弛緩は止めどもないことになっている。西日本は東日本と異なり、土が重たく赤土が多いために土砂災害は甚大となる。また、日本の河川は急流なので、巨大地震災害と並んで、豪雨対策は国を挙げての取り組みが緊要なのである。気象庁は重大な事態を警告したにも関わらず、「赤坂自民亭」なのである。これに対する批判は、ある意味では正しいのだが、マスコミが恐る恐る報じるようになっているのだが、「宴会」批判は本質ではないのである。むしろ、この悲惨な状況を政権浮揚に利用していること(ショック・ドクトリンこれも)を周到しておかなければならないのである。実は、明治維新もそうだったのである。「志士」どもは、非常事態を利用し、自分たちの利害のために興国論や覇権論、軍事大国化に成り下がって敗戦を準備しただけだったのである。西郷隆盛や坂本龍馬などは徹底的に斥けなければならないのである。三島由紀夫のカリカチュアも然りである。2020年のオリンピック開催は、2011年から始まる第二の敗戦を告げる晩鐘となるだろう。この豪雨被害と同じような事態の最中にオリンピックは敢行されるのであるから。悲惨の事態に遭遇して初めて日本人は決起できるかどうかが要なのである。そのような認識が、稲の分蘗ように、全国津々浦々に遍満するかどうかが問われているのである。

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2017年11月25日 (土)

農学と農業

33666567 今年はコメの自家消費が早く、既に「新米」(風さやか)を食しているのだが、その味と言えば、少し旨みが乗っていないような気がする。香りもいま一つ。やはり収穫期への途上に降雨と曇天が影響していて、登熟には不足したのだろう。だが、米粒が粒々感がはっきりしていて、やや大きめと見受けられる。ほくほく感にやや欠けるという印象である(冷めてもおいしく感じられるのでおにぎりに適していると思われる)。登熟時や稲架掛け時に秋霖にやられたこともあるだろう。コメの食味にはコメの炊き方も影響する。固目もしくは柔らか目など人により好みが異なるのであるが、炊飯器の機能は向上している一方、コメの研ぎ方に失敗している現場に屡々直面している(半世紀前はお釜でゴシゴシ研いでいたものだが、今では、精米技術の発達によって、コメは研いではいけないのである。もう一つ目にするのは、洗い過ぎて栄養分が殆ど流失しているコメ洗いである)。これではコメの消費が半分に減衰するのは必定と思われる。コメの食味は出来半分、炊き方半分である。
 タイトルが仰々しいのだが、後半部は飛ばし読みだったが通読してみた。農業は、風俗、歴史、生活、環境など、人間が生きている全領域を包含しているのだが、農業の学問(=農学)は、旧来農学部・農学校や農業高校で教えられ、一般に低評価されていたのだが、今や農学は再評価されつつある。生源寺眞一の農学論は、「はじめに」と第一章、第二章に、農学の「学」としてその概要が分かり易く展開されている。即ち、農学とは食料を中心に衣食住の問題に深く関わる科学と定義されている(p4)。取り分けて、現代の農学は、持続可能な発展(sustainable development)を目指して、環境を整えるものづくりとして捉えられているという。そして、農業経済学とは、「経済学の理論が役に立たない問題が存在することを、当の経済学を応用する過程で学び取ることができる学問」(p38)と考えている。これには、結局よくある開発論ではないか、農業にはそれに捉われない分野もあるのではないか、という異論・批判もあるのであるが、ここでは現代農学の動向を認識した次第である。

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2017年10月 2日 (月)

「農業は儲からない」のか?

2017100210190001_2 稲刈りを敢行した。朝からの曇り空であるが、所用でひと時、健康・歯科相談を終えると、直ぐに田んぼに出向き、家族の協力で稲架かけまで完了したのである。稲刈りに続き、稲架に掛ける作業、落穂拾いなどの細かい作業を終えると、心地よい疲労が全身を満たした。昼前から雨がそぼ降り出し、一人、昼食も抜いて稲架掛け作業を黙々とこなしていたのである。終了時には、雨が本格的に降り出したのであるが、次は畑に出向いて、大根一本、人参四本、キャベツ一玉、ネギ二本をおろぬき、序でに白菜の間引きを実行して、家へのお土産とした。すっかり帽子は濡れて、衣類も湿りがちで自宅に急行した次第である。遅い昼食は午後三時を既に回っていた。畑の周囲のりんご畑は、すっかり秋映やシナノスイーツが赤づいている。「収穫の秋」と言っていい頃合いである。

2017092812080000 「農業は儲からない」という言辞は、一般的には農業以外の分野の人びとから聞かれるのであるが、時には、就農した人や農家出身の人から耳にすると少なからぬ怒りを禁じえない。農業のことなど何も知らない元自民農林部会長であったコイズミシンジロウは、農協の協同を破壊して日本農業を崩壊させる提案をしたのだが、実にアメリカの意思を体現してきたのである。こうなると、野坂昭如が提案したように(これこれ参照)、農民は農産物出荷拒否という手段でストライキをしなければならない。少なくとも自給農業を目指すという手段で都市の人びとを開明させなければならない。世界的に見れば、農業従事者の中には反グローバリズムの声が日増しに高まっているのである。民進党の前原代表も、コイズミに負けず劣らず地頭が悪く、「(GDP)1.5%を守るために98.5%を犠牲にして良いのか?」とTPP妥結にのめり込む発言が記憶に新しい。農業のことなどまるで分っていない「口だけ番長」である。こんなだから、「絶望の党」に身投げする民進党解体の戦犯と成り果てているのである。同じ京都大学出身の長野一区選出の民進党議員は、よしみで、こんな輩に代表選で投票して、今頃になって困惑している始末である。自業自得である。農業のことについては、タイトルを手掛かりとして、いつの日か、本格的に持論を展開してみよう。

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