農業・農事

2022年9月 3日 (土)

平和は創造するものである

07490846 『「日本」ってどんな国?』を斜め読みすると、その資料・データから如何に日本という国家が衰退していることが分かるというものだろう。しかしながら、衰退は大いに歓迎であるという立場である故、別にどうというべきこともない。自分が日本人であろうと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、ましてや国際的に(国際という言葉には不信感を抱いている)嫌悪されつつあるロシア人であろうと、どうでもいいことである。ここでも多くの日本人と見解が相違していることは自覚している。それで文芸春秋ムックの『戦争と日本人』である。思春期に読書の鬼と化し、昼休みと放課後に図書館に通い詰めた日々において、文学や哲学・思想の叢書を読破していたのだが、合間に読む雑誌は『文藝春秋』ではなく、『世界』や『展望』、そして『朝日ジャーナル』だった。当時、『文藝春秋』は唾棄すべき「良識ある大人」が読む雑誌であって、錚々たる右派文化人が寄稿していたのである。例えば、海軍上がりの阿川弘之や司馬遼太郎や田中美知太郎を覚えている。振り返れば、『文藝春秋』は昨今の右翼雑誌群と寄稿人士が重複しているのである。だから、時々瞥見する程度だったのである。彼らは戦争を遂行し、戦後も領導した連中であって、「神社本庁」や「日本会議」に蝟集しているのである。そして例の悪名高い統一協会(キリスト教会と全く関係のないカルト協会)と野合してきたのである。だから、社会の肉瘤たるアベの国葬には絶対反対なのである。政教一致の憲法違反はさることながら、失政を極めて国税を簒奪した悪党の国葬なぞ、笑止千万である。
 さて肝心なそのムックであるが、その山本五十六は「ずるくなくちゃ、国際的交渉は出来ないよ(笑)」(p11)と結局軍人としての自己に恃んでいる始末である。近衛文麿は、西園寺公望を自由思想家などと心酔しながら、政治的に軍部に追い詰められた無能である。また、国際連盟脱退を主導した松岡洋右は、その後「静養、静思、沈黙。これが現在の私の一切なのである」(p18)と戯言を弄しながら、「満蒙は日本の生命線」と称し、実際に満鉄総裁や「松岡外交」によって中国に介入して侵略戦争の道を拓いているのである。読んでいても気持ち悪い。文藝春秋にしても、記者としての批判精神が全く欠落している。呆れた連中である。多くの日本人が誤解しているように、平和を実現するためには、日本の被害に拘泥してばかりでは覚束ないのである。さらに平和は守るものではなく、創造する(政治的に勝ち取る)ものなのであることを再認識しなければならないのである。カルトの統一協会ですら「平和」という言葉を弄しているのである。国葬や憲法改悪や防衛費増大などと唱える右派勢力のように、覚悟もなく呑気に構えているようでは戦争は繰り返すのである。
2022090206020001_20220904175201  稲の受粉は終わり、稗取りとすずめ対策の段階である。東北と北海道地方は大雨の影響でリンゴや稲の被害は如何ほどだろう。心配である。当地では桃の収穫も終え、葡萄の採取時期となっている。これに稲の収穫が続く。6月中旬の田植えなので、9月中旬に落水して10月半ばに収穫となろう。稲穂の状態を見ながら水管理に専念しなければならない。農業は底の浅い怠惰な右ねじの人間には務まらないのである。

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2022年2月 8日 (火)

『昭和の記録 私の思い出』

2022020812440000   「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)という俳句があるが、昭和もまた遠くなったものである。何と、明治維新から敗戦までと、敗戦から本年までは、それらの間隔は等分の77年なのである。そして、昭和が終焉して33年も経過しているのである。この『昭和の記録 私の思い出』を10日間を要して漸く読了した。「歴史は庶民によって作られる」という言葉さながらに、昭和の時代状況を彷彿させる好著である。権力側の改憲派の増長と庶民側の護憲の衰退という時代の流れの中で、庶民の歴史を発掘することは大いに意義のあることである。教科書の歴史は殆ど権力者側の記録であって、これだけが日本の歴史ではないのである。よくある日本史は、天皇と武士どもの権力闘争の歴史であり、こんなものをいくら学んでも現実の生活には何の役に立たないである。インテリと称される層が新自由主義者どもにコロッと騙されるのは、洗脳され易く、生活の知恵がないからである。自然環境が破壊されて人心が荒廃するのはこれがためである。だから、権力者側の改憲は峻拒すべきであって、民衆の側の改憲はよりよい憲法へと断行すべきなのである。守旧の改憲派は歴史を巻き戻すものだからである。今こそ人々は前期の近現代史を総括して、次の時代を創始しなくてはならないのであるが、テレビやインターネットを眺めると、頭が右螺子の人物と情報が蔓延している有様である。時代錯誤とガラパゴス天国の日本に成り果てているのである。
 以下に読書感想を記すと、①小林謙三さんの「朝鮮ユキさんのこと」の一文が秀逸であった②戦前と昭和30年頃までは北信州の農業は穀桑式農業なのだなと再確認した③実業に従事していた者は強い④当時の様々な思い出が焦点を帯びて具象化できた⑤「父との思い出 雪の綿内駅」もまた感動的な文章であった⑥戦争や赤貧的窮乏によって斃れた人々の歴史(筆記されていない歴史)もあり、記憶されてしかるべきであること⑦「野菜は頭で作るもんじゃないで」(p471)という言葉は印象的であったことである。
 この本の掉尾は、「昭和の記憶・・・我が家の『昭和』には、『粘り強さ』と『ひたむきさ』そして『家族の笑顔』があったのだと、しみじみと感じています」(p476)で締め括られているが、昭和は誠に激動の時代であったが、ただ一つ付記すれば、天皇の元号で時代を象徴させてしまう不名誉を恥じなければならないことである。 

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2021年3月 7日 (日)

自然農法の自然環境

34124086  3月の声を聞くと、そろそろ農事の開始である。凍みていた地面を見ると日を浴びてぬかるみ、早や雑草が萌え始めている。外気温も生暖かくなるが、それでも三寒四温の季節で、日が陰り出して夕暮れにもなると、気温が下がって足下が寒く感じる。梅や桜の蕾はまだ固い。メジロやムクドリなどは、朝の光を浴びながら食事のために忙しく飛び交っている。ツグミは姿を消したようだ。ウグイスはまだ姿を見せない。信州の農事は3月から12月初めで終了して9ヶ月間である。それ以外の時期においては露地栽培ができない。ところが西日本や温暖な太平洋岸の地方においては、通年露地栽培や促成(抑制)栽培が可能なのである。北日本と北海道は、半年間、雪や寒さのために農事が閉ざされるのである。温室栽培もできるが、施設費と暖房費などの資金がかさむだけでなく、自然に負荷をかけてしまうのである。長野県の山間高冷地では、キャベツや白菜などや夏野菜(トマトやキュウリなど)の抑制栽培が盛んに行われて、端境期の高値販売が可能となっているが、平地では秋野菜は酷暑のために不可能である。また、5月の黄金週間になっても霜害の惧れがあるのである。霜が降りると折角植えた野菜苗は萎れ、果樹の果芽も台無しとなるのである。だから、霜注意報に農家は濃密な関心を払うのである。そう考えると、実労働の農業期間は7ヶ月と限られるのであるが、北日本では半年以下と言ってもいいだろう。自然農法はこのような地球環境下にあり、東日本の年配者の多くが「北国の春」を始めとした春の歌を愛唱する所以である。

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2021年3月 2日 (火)

反ヒューマニズムへの階梯

9d8ac3528435eb2b4c2803fb11ea4a16206x300  全国の農業集落数は、2020年においては13万8千になっていて、漸次その数は減少している(2020年農水省センサスこれ)。この本が執筆された1978年の14万2千と比較すれば、それ程減少していないのではないかと勘違いするが、限界集落の離散や集落の都市化・混在化の流れは止まることはない。農業人口(基幹的農業従事者)は136万人程となり、高齢化(7割)と併せて、減少が一段と加速化しているのである。村落共同体としてのムラ社会は形骸化して崩壊の一途である。戦後の自民党政府による農業政策が一貫して失敗していると言っても過言ではない。ムラの崩壊と同時に都市化が進展し、農業の多面的機能が強調されてもその流れは止まらない。戦後直後の一時期を除けば、元来農業は弱かった、と著者は強調している(p199~201)が、狭い集落道路を車で運転していると、「ああこれは元々リヤカー道だったんだな」と感慨を覚えることがある。水田や畑、農道や農業用水、神社や寺院などの風景を眺めていると、そこには子どもの姿もなく、人影も殆どない。村はずれの幹道では車が引きも切らずに走っているのとは対照的である。共同体の残骸と言ってもいいだろう。しかしながら、いかに都市化が進もうとも、村落共同体は形骸化しながら下げ止まりするのではないか。なぜなら、農業は基礎的産業として生き残るのではないか。そこに人間の生活があるからである。農業が存廃される時、人間もまた廃棄されるからである。欧州の農業政策では、小農が推進され、手厚い補助金によって保護されているそうである(『コロナ後の食と農』吉田太郎、参照)。
 もう一つの懸念があるが、それは気象庁の指針に沿って長野地方気象台が本年度から「生物季節観測」として、動物17種をゼロに、植物26種を6種に縮小するという発表されたことである。動物のヒバリやウグイスの初鳴き、ツバメやホタルの初見、県農産物であるアンズやリンゴの開花などを全廃することになったのである(信濃毎日新聞2020年11月11日号)。60年前には、河川にはアヤメが咲いてホタルが飛び交い、麦畑にはヒバリが空高く囀り、夏にはヒグラシが鳴いて夕涼みをしたものであるが、今日のムラでは、これらの動植物はほぼ全滅しているのである。農産物は堆肥ではなく化学肥料によってつくられていることを知っている人は少ない。人気のイチゴやトマトが化学肥料の味をしていることにも気付かないのである。自然の循環をせずにゴミを外部化して焼いたり埋めたりしている社会なのである。そして油脂過剰で大味なグルメの番組が花盛りなのである。転倒したこの社会を正すのはいつになるのか心配である。衰退・全滅した先の未来はどうなるのか。けだし、自然環境とその土地から切り離された人間そのものが問われているのである。

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2020年11月20日 (金)

温故知新という時代

32510433 それにしても、酷い世の中になってきたものである。散々アメリカ大統領選挙に付き合わせられた挙句に、この自・公政府の体たらくである。トランプかバイデンかの選択は、コカ・コーラか ペプシコーラの差異に過ぎず、どうでもいいことなのである。また、政府の新型コロナ対策は責任放棄であり、知への憧憬もなく、むしろ権力を行使しての学術会議任命拒否問題など、劣等感丸出しである。政府の任命するコロナ専門家会議など御用学者の巣窟である。相変わらずの劣化であり、とても喜ばしい事柄である。なのに株価は日本銀行に買い支えられて上昇し、賃金が低下して非正規労働者の雇用ばかりになり、人々の生活は窮乏化しつつある。その一方、支配階級に金融資産は集中して逆トリクルダウンとなっている。これこそが自由主義経済政策の真意なのである。昨日も、国民の関心もなく種苗法改悪案の衆院通過を報道されていたが、ザル法を制定しても何の意味がないばかりか、種の自家採取も制限され、種苗企業の独占化や遺伝子組み換え作物の輸入促進や化学肥料・農薬企業の寡占とセット化など、小規模家族農業を壊滅させる新自由主義政策なのである。今や世界の農業は、アグロエコロジーへとシフトしつつあるのにも拘らず、農業部門において日本政府はまた、大規模農業と海外アグロビジネスなどに拝跪しているのである。政府の施策には、全く逆のこと(反対)をすることが正鵠を得ているのである。グレタさんは国連演説で、「なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね」と訴えているが、全く至当である。このコロナ禍の現状にあって、再度この演説を肝に銘じるべきである。新型コロナの蔓延の根本的原因は、ワクチンによって解決されるものではない。JOCは、ワクチンによって東京オリンピック開催可能の理由としているが、これが完全に間違っているのである。

 夕方近くの時雨を聞きながら、こんな本を一瞥した次第である。午前中の晴れ間に落ち葉掃除と最後の干柿作りをしたのは正解であったのである。牧歌的な時代とも批判できるだろうが、復古主義ではなく、温故知新と見直すこともできるだろう。

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2020年10月30日 (金)

陰険と健気

28333300  宮本常一の次に、民俗学の嚆矢であり、泰斗である柳田国男に挑戦し始めているのだが、手始めに『遠野物語』を繙読している。が、どうにも考えがまとまらない。民俗学とは、民間伝承をもとに庶民の生活を把握してその文化の発展を探る学問だが、柳田民俗学が日本民俗学の始原とあっては、これを踏破するほかはないのである。問題意識は、全集を読み進める過程でより鮮明になってゆくのかなと思っている。
 この所、「信濃毎日新聞」の社説を含めて論調が極めている。これは進取の精神に富む県民の意向に沿ってもいるだろうが、歴史的岐路という編集局の危機意識から由来するのかも知れない。戦前、大正デモクラシーの影響があって県民の闘いが隆盛したのであるが、経済的恐慌という外在的要因と軍事ファシズムの要因から、二・四事件等により運動が根絶やしされた歴史がある。それへの反省も考えられるが、「信毎」は本来「県政の御用機関」であったことや小坂一族の創業事業とあることから、安易に信用できる訳ではない。事実、松本サリン事件での虚偽報道や田中知事を辞任させるキャンペーンなどを扇動し、田中康夫を除く歴代知事が、長野県護国神社の支援組織の会長職を務めて寄付集めをしているのだが(憲法違反)、開き直る現官僚知事への追及が極めて鈍いものとなっている。国政や県政から独立した反権力を貫くことができるかどうかが問われているのである。現時の学術会議任命拒否問題でも然りである。それにしても陰険で陰湿な宰相である。

2020101816520001  脱穀も終わり、「赤まんま」と「ノコンギク(野菊)」が可憐にしかも健気に畦を彩っている。ノコンギクとヨメナの違いは難しく、葉がざらつくので大体わかる。山々は紅葉を終えて、愈々冷涼となって冬の気配が感じられる。大根や人参を収穫するが、正月まではもたないだろう。古米が少しカビが生えて匂いが付き、新米の保存に留意しなくては。あと三年半程で生活稼ぎの仕事に終止符を打ち、自在に農業の時間を確保したい。果樹にまで手を伸ばすことができるだろうか。

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2020年7月29日 (水)

『農家が消える』

2020071817290000  午前中に田んぼと畑の状態をチェックするのみで、日がな一日、体を休めて午睡もする。年齢を重ねて体力も落ちてきているのである。あの世が近くなり、諦念することが多い。農に生まれて農に死ぬ、ということである。
 日本の農業と農山村の衰退が叫ばれて久しい。しかし、無用の長物である自公政権は農協つぶしを公言している。テレビでは、お笑い芸人が「うまい!」「おいしい!」という番組が氾濫しているが、これを見ると、「酷いもんだな」と嘆息するばかりで、空しく机に戻るのが日常化している。農業生産物に対する畏敬が足りないのである。生産する農家への想像力が足りないのである。半世紀ほど前には、「飯だと聞いたら火事より急げ」という諺があって(『信州ちくま 食の風土記』p147)共食が当たり前であり、「食べものを粗末にするとバチがあたる」あるいは「ご飯(米粒)を残したら目が潰れる」と子どもに諭したものであるが、今では金さえあれば商品として購入し、煮て焼いて食おうが勝手である飽食の時代となっている。驚愕すべきは、出荷された食料の三分の一は廃棄されている常態である。消費者は低廉な野菜が高値となったら不平を鳴らし、農家の手間暇への関心はほとんどない。例えば、イネとヒエの識別や野菜の一番果は早期に収穫することは農家の常識である。このように考えると、都会のテレビ芸人ほど罪深い人々はいない。
 1960年には基幹的農業従事者が1200万人だったが、今では200万人を切っている現状を知っているのだろうか。集約された地域農業の技術や伝統野菜品種が継承されていないこともある。農業後継者不足は地力や地域保全とも連関する。自然との共生は地球環境を守ることでもあるのである。また、食糧安保の考えからも、有事には食料輸入は途絶えて食糧危機が到来することすら予想される。私見によれば、農業の担い手不足の中にこそ日本の全ての問題が集約されているのであり、この視点から見るとすべての、そして異常な日本社会が見えてくるのである(参考文献『農家が消える 自然資源経済論からの提言』)。畢竟、農業への軽視と侮蔑である(野坂の農業論も参照。これも)。

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2020年7月 2日 (木)

絶望を希望に変えない経済学

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 偶然、昨年のノーベル経済学賞(偽のノーベル賞である)を受賞したという新刊本を図書館で見かけたので手にしたのだが、期待外れだった。表題とタイトルにも違和感を覚えたのだが、全くもって経済学が無力であることが分かった次第である。彼らの経済学は有害無益であるとも言えよう。アマゾンを覘くと、何とビル・ゲイツが「今夏必読の5冊」に選出と推奨しているらしい。こりゃあ、ダメだと思ったものである。著者の結論は、世界の二極化即ち相入れない分裂した世界という認識に立ち、その危機意識は正しいのだが、その解決策が疑わしいのである。世界の二極化は、根本的には欲望に根差した世界的な経済的格差を招来しているのだが、それに対する回答がよい経済学であるというのが間違っているのである。よい経済学はなぜ悪い経済学と闘わないのか。現実の経済は悪い経済学が席巻しているのである。著者もまた、「よい経済学だけで人々を救うことはできない」(p467)との言辞や「経済というものは硬直的である」(p138、465)とも吐露しているのだが、やはり経済学に一縷の望みを抱いているのだろう。著書の基調には、全体的にはヒューマニズム(p467)とアメリカ経済との関わりの中での開発経済学としての立場が一貫しているのであって、結論もまた良心的な落としどころなのである。経済と経済学の成長神話に対する批判はあるものの、それに対する根本的批判はなされていないのである。今や経済学の中心はアメリカであり、アメリカの経済学者がノーベル経済学賞を数々受賞して領導している。そして、彼らの拠点もアメリカであり、MIT(世界一位、二位を争う大学と喧伝されている)のフォード財団支援の教授ということだが、かてて加えてノーベル経済学賞の「栄誉」とゲイツのお墨付きをもらうような学者に何か意味があるのだろうか。とはいうものの、富の集中問題やシリコンバレーのハイテク技術などの言及には多くの示唆を得たことである。
 本日は終日、遅まきながら、黙々と孤独に、梅仕事(梅の甘酢漬けや梅干し作りの前段作業)に関わったのだが、一つ一つの梅を採取してアク抜きした梅を愛おしく確認しながらの作業であり、不足分の赤紫蘇を購入したり、漬物桶を日光浴させたり、田んぼの水位を確認して雑草対策を案じたりで忙殺された一日であったのである。

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2020年6月17日 (水)

民衆の革命戦略

2020061415090000 14日の午前に田植えが終了する。梅雨模様なのだが、昨日から晴れ上がり、植え直しをしなければならない。米作は、米という漢字に象徴されるように、八十八手の手間が必要である。昨年の稲株を畦に寄せて、苗に太陽光を供給する作業や水抜けがない様に畦塗りを補強する作業など、することが多い。一人で行っている以上は、作業の段取りを頭の中で予定しているのである。
 ところで、数日前の信濃毎日新聞で、世論調査の結果でアベ内閣の支持率が2割弱だったことが話題になったのだが、これは至当であろう。全国紙(中央紙)の4割支持という結果は都市ならではの話なのである。未だに自民支持層は地方(田舎)だと勘違いしている人がいるが、むしろ都市の方が多いのである。この事実は議員数とマスメディアの報道を見れば、一目瞭然である(テレビ番組の劣化は甚だしい)。時代の逆行を表示しているのである。
 そのことを指摘する寄稿が、先日信毎でも掲載されていたので瞠目してみた。新型コロナ禍をめぐるアタリの論考である(ちなみに、この寄稿は、ロイター=共同の配信なので、信毎独自のものではない。ETV特集でも町山氏の放送批評はとても参考になる)。そこでは、「命を守る経済」のために、六つの重大な転換が起こると予言されている。J.アタリは、文明批評家としていくつか的中した思想家としても著名である。内容は、既にこのブログ記事の中で何度も指摘したことである(例えば、これなど)。「①距離ーリモートワークの可能性と都市在住の不必要性②生き方-欲望の経済から命を守る経済へ③普遍的利益ー利潤を目的とした資本主義社会から利他社会へ④透明性-情報の独占から民主主義の手段としての情報の透明性へ⑤未来に備えるー将来の脅威を回避するために命を守る経済へ⑥世界の一体性ー市場のグローバル化から道理や正義の民主的グローバル化へ」である。アタリは人々が少しずつ気付きつつあり、やがて民主的に一般化すれば、大いなる展望が開けることを予想しているのである。しかしながら、このような方向転換において、どのような主体と方法が採用されるべきかが明瞭にされていないが、一部暗示はしている。「私たちはあらゆる戦略を用いてあらかじめ敵を知り、戦いを優位に進められよう」と。このことはマスメディアを媒介する人々(都市在住の一部インテリ・知識人・芸人)に期待するべきではなく、民衆の中から個々の思慮の連帯から始めるべきであると了解している。

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2020年6月12日 (金)

尊大な奴隷

2020061117100000  昨日の大雨で県下は入梅となった。調整しながら田に用水をかける。周囲はすっかり田植えを終えていて、静かな里山風景となっている。その季節となれば農民は、例年のルーティンの作業をする。怠け者の自分は、遅ればせながら追随しているばかりである。
 実体経済と異なる株式市場は急落している様である。コロナ禍というショックドクトリンを利用して、新自由主義市場経済は、国家統制と規制の緩和と称して「自由に」市場に委ねることを一応の方針としているのだが、一歩進んで、強欲にも国家財政を大胆に蚕食しているのである。経産省と電2の癒着はその証左である。アメリカの黒人差別抗議運動は、トランプ大統領を直撃して拡大している。死亡したフロイド氏の姪は、「『アメリカを再び偉大に』と言う人がいるが、いつアメリカは偉大だったのか」と訴えている。日米を比較すれば、日本人は尊大な奴隷であると言わねばならない。これほどのアベ政権の失政がありながら倒壊しないのが不思議である。
 近代の終焉と言われて久しいが、近代の人間中心主義は、現代においては、情報通信技術の発達(IT革命)と生命科学の進展によって、社会「変革」と人間改造は飛躍的に増進しているのである。ここにはパラドックスがある。資産家だけが人間であって、それ以外の者を非人間的に管理と統制を強いる体制である。これはM.フーコーが示唆したことである。また、新自由主義思想は何ら民主主義を必要とせず、グローバル化に伴って国民国家を侵食してゆくのである。アメリカの病は解決せずに、抗議運動は人種差別や経済格差問題などで繰り返されて、「アメリカの終焉」(J.アタリ)となるのかも知れない。これは中国も例外ではない。帝国主義国家とスターリン主義国家との対立の中で、世界は多様化しつつ崩壊してゆくのかも知れないが、その先には、非対称な監視された一元的世界システムが現出するのだろうか。それとも、人々が強盗たちを非対称的に強制して共同性を志向してゆくのだろうか。この10年の、2030年代までの民衆の課題と言わねばならない。
 

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