信州学事始

2017年2月 5日 (日)

征清日誌と和歌

51dtwmk33l__sy373_bo1204203200_ 1894年(明治27年)7月22日の(従前の)日誌には、「この時我等兵卒の者は、朝鮮事件の急の電報が来たのかと思う」(p21)と書き残している。朝鮮事件とは、日本と清国との決戦が不可避となる豊島沖海戦前の急報であろう。朝鮮王朝には、既に日本からの最後通牒が送られていたのである。そして、直ちに王宮占領して手中にし、清軍掃討作戦で追撃し、豊島沖海戦勝利を待って平壌攻略へと進撃してゆくのである。信州の山村出身である山口にとっても、出兵が俄かに要請される事態なのである。ここにおいて、彼は件(くだん)の和歌を認(したた)めたのである。
 君の為 今ぞ死ぬ身を 思いしに
 又故郷の 花を見るらん
 これを意訳すると、「天皇陛下を奉戴するこの大日本帝国のために、たった今、死ぬ覚悟を固めたのであるが、再び古里・故郷の花を見るだろう(想像推量)」となるだろうか。前回、「決死の和歌を認めた」と皮相的に書き記したが、真実のところ、山口には逡巡があるのである。決死の覚悟であったならば、「今ぞ」でなく、「今こそ」と、より強調した表現をするべきだし、下の句では反語の係助詞を採用するべきところである。例えば、それでもイマイチの和歌ではあるが、
 君の為 今こそ死ぬ身 思ひけれ
 又故郷の 花や見るらむ
 意訳すると、「天皇陛下を奉戴するこの大日本帝国のために、死の覚悟を固めたのであるが、それは、故郷の花を再び見るだろうか。いや見ない程の強固な決意である」となるのではないか。何のことはない、本歌・元歌では望郷心の方が優勢なのである。これは後方支援の部隊員のためであるのかも知れないが、天皇制イデオロギーが農民兵士にまで浸潤できていないことの証左の一つであるだろう。近代国家として、出来立てほやほやの擬制国家だったからである。

 今日は、『信濃風土記』(NHK長野放送局編集、1979)ともう一冊を古本屋で安価に購入したので、のんびりと読み始めようと思います。

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2017年2月 4日 (土)

征清日誌と軍歌

33026837 日清戦争前の農村社会は、江戸時代のそれと殆ど変化はなかった。明治維新から30年弱経過しているのだが、明治中央政府は天皇制近代国家の形成が急務だったのである。大日本帝国憲法(欽定)の制定(1889年)によって、臣民には納税と兵役の義務が課せられたのだが、天皇の親署のある教育勅語の発布(1890年)によって、事実上、三大義務として国民に捉えられ始めたのである。勅令は明治憲法に規定されてはいるものの、憲法から独立した天皇の大権として発布される命令だったのである。ちなみに、軍人勅諭はやはり天皇の命令として軍人に下賜した訓辞である。維新期に信州の片田舎に出生した山口袈裟治(1873~1965)は(従前)、二十歳に兵役義務に服し、近隣の名士などの送別を受けて、「陛下万歳、兵役諸氏万歳」と謁する中で出立し、赤羽練兵場に入営するのである(p8)。この頃の男子は、未だに小学校や兵役は必ずしも浸透していた訳ではなく、軍人の社会的地位も相対的に低かったが、山里の家に養子に入った山口にとっては、国家と養子先への義理として出征したものと思われる。だから、まだ若輩であった彼の表現が拙いとは言え、就役の慶びの言葉は見当たらない。寒村の中では、出征旗や「数十の国旗等、盛んに祝砲を放ち、送別員は山と為した」(p8)とあるが、皇民化教育も未熟で、未形成の在郷軍人会の見送りもなかったのである。謂わば、この時期によくあった出稼ぎ感覚に近いものであっただろう。しかしながら、この出郷と軍隊経験は、「差別なく公平な」軍隊内の生活を通して、国民意識の萌芽となったのである(『明治・大正の農村』、大門正克著、岩波ブックレット、p36)。実際、入隊した工兵第一大隊での生活は、教練や演習、靖国参拝、酒肴の下賜、外出での東京見物や面会の楽しみ、軍歌の奉唱、三大節や宮中行事の国家祝祭への動員などで彩られている。とりわけ、行軍の頻回には、「余は炎暑中の(十里余りの)行軍は今度は初めてで・・・非常に困難した」(p21)と珍しく弱音を吐いている。ところが甲午農民戦争を契機に日清戦争が開始され、彼は、敷島の和歌(本居宣長)の顰に倣って決死の和歌を認めているように思われる。
 君の為 今ぞ死ぬ身を 思いしに
 又故郷の花を 見るらん
 これは、本居宣長と「抜刀隊」等の軍歌の合作と思われる。この時代、明治政府は「君が代」を始め軍歌の創作によって忠君愛国思想の注入に励んでいたのである。とりわけ、日清戦争前後には、盛んに軍歌が作曲され、「敵は幾万」は最も広範に唄われていて、「抜刀隊」と併せて明治を代表する軍歌となっている(Wiki)。また後者は、以降自衛隊の現在まで、一貫して軍隊の行進曲として通用している(『日本の詩歌』別巻日本歌唱集、園部三郎、中公文庫)。園部は、「これらの(つきつめた気持を表現した)軍歌の大部分がもっていたヨナ抜き五音階が、その後のほとんどすべての基本音階となった」(p63)という卓越する見解を開陳している(続く)。

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2016年8月22日 (月)

都会は天国である

51bxjfhegjl__sx352_bo1204203200_ 前回のブログ投稿は大町市のことだったので、その続きをしてみよう。リオ五輪でバトミントン銅メダリストである奥原希望も大町出身であり、小説家である丸山健二も大町居住である。後者の方は十年来の不熱心の読者であり、前者の方はつい最近関心を持ったスポーツ選手であるから、大町にはそれほど熟知している訳ではない。実際、北アルプスの麓にある地方都市であり、積雪が多い地方柄であろうという観念しかなかったのである。同じ県内者がこの程度であるからして、県外者にとっては、(大町ってどこだ、安曇野なら見当がつくが・・・)、という程度であろう。また、大町が本当に安曇野であるかという疑問もあるが、大町市内の北部と南部では積雪量に雲泥の差があるそうで、南部が安曇野に掛かるということである。二人とも親が教師であることが共通している。ここ信州では、教師であることは一つのステータスであり、名望家として地域の役職を担うことの多い職業である。都会に出た時、そういう私も、出身が長野県と知ると必ず、「いい(美しい自然のある)所ですね」、「教育県ですね」と羨望の反応をいただくことがあったが、いわれる当の本人は戸惑うばかりだったのであるが、よく考えてみれば、彼らはイメージ先行の観念主義者だったのである。「観念的な人々にとっては都会は最適な土地である。自然のなかでの生活は精神よりもまず肉体を必要とする。問題なのは何を考えているかではなく、何をやっているかである」(p128)。この本は、安曇野の影の部分を批評しているものではあるが、そればかりではなく、都市と地方の問題をも浮き彫りにしているのであるが、むしろ、その方がテーマなのであり、それに気が付かない読者も多いであろう。でなければ、彼が引き続き居住している訳がないのである(続く)。

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2016年6月 4日 (土)

黒岩六郎のこと

2016060411020000 何となく手にしたである。実は、この黒岩六郎という人物の名前は、時々、父母の会話の中で側聞したことがある。経歴を概略すると、1889年(明治32年)に貧農の子として共和村(長野市篠ノ井・共和)岡田に生まれ、12才で小僧として奉公(作男)に出て(これが当たり前の時代だったのである。人々は殆ど米を買えないほどで、その日暮らしの生活だったのである)、その後、化学肥料と雑穀を扱う商店を一家で経営し、更に、精米所を開店する。商いは順調に繁盛したのだが、昭和恐慌によって黒岩商店は借金を残して倒産するのであるが、精米所は残して返済に尽力し、銀行筋から預金・借財整理の仕事も加わって、無事に返済する。次に、株・証券の斡旋売買も始めて、不動産業に転じ、会社経営面でも戦争協力をして敗戦を迎える。戦後は社会党支部を結成し、県議を務め、民選の林虎雄知事を支えて県政に貢献している。県議は二期で引退し、再び不動産業に専念した後、家業を子孫に譲り、晩年は、太陽光エネルギーの推進と軍備全廃を訴える活動をしたのである。特に前者は、第四次中東戦争を始まりとして、1973年のオイルショックを契機に、ライフワークとして全精力を傾注し、十年間に渡って、時の首相を始め国会議員全員、企業やマスコミ、更に大使館までに、私財を投じて毎月千五百部という小冊子を送付し続けたのである。大変な精力を持ち合わせる人物である。この著作の後半部に彼の成果が記述されている。終生、社会党員であり、面目躍如の信念を貫いた人である。
 彼の生涯も多少興味があったのであるが、むしろ、私的な関心は、彼がその時代をどう見ていたのかということである。①明治政府による殖産興業・富国強兵政策は、皇民化教育と併せて、日露戦争後には、「満州大陸へ侵略の足場を着々とつくっていった時代」(p42)である。また、「国中の人々の生活は貧しかったが、青年や幼い者達までが志は高かった」(同)時代である。②敗戦まで、「地主層は日本の封建的支配を担う大勢力であり、農地と農民を、生産物の半分も年貢として取立てたばかりか、政治、行政、文化の面でも広い意味の支配をつづけていた」(p77)。③政党政治の腐敗の中で、「軍部が政権の中枢を握り」、農村不況の抜け出し口として、青年層に「満蒙へという言葉が流行り始めた」(p94)のである。④1930年(昭和5年)の農村恐慌は養蚕、製糸県である長野県を直撃した(p118)。繭価暴落、銀行倒産、教員給与不払い、欠食児童、娘の身売りなど農民・庶民の生活が成立しない状態となる。その中で日本は大規模な侵略戦争に突入してゆくのである。⑤彼は、戦後直ちに軍需工場を整理し、社会党員として知事選に奔走するのであるが、この時期は、「何としても、保守、官僚政治を倒さねばならないという熱気が、各地で溢れていた時代である」(p201)⑥戦後の「転換がはじまったのは、二十六年(ママ)の朝鮮戦争が終る頃である。戦前からの個人の意識では、三十年頃までも、物の考え方や風習なども(いい面でも、悪い面でも)ずっと残っていたのである」(p217)(経済成長後も、何も変わっていないとも言えるだろう)。
 以上が彼の時代批評である。彼は尋常小学校のみの修了で、様々な経験に加えて、知識は、専ら、新聞を眼光紙背に徹することによって獲得したものである(p137)。積極的に戦争に加担した訳ではない(消極的な協力)ことから(p187~p189)、戦後、順調に革新側として活躍できた素地があったのだろう。知識人によくあった転向がなかったのではないか(これも参照)。時代への洞察力があったと思われる(太陽光エネルギーの利用の主唱など)。平和主義者としての一代記となっている。古老曰く、「戦争を永久に放棄する平和憲法は、おしつけられたり、作文で出来たものはない筈である。命も財産も、肉親や恋人、多くのものを失ってさらに原爆を二度も身体で知った日本国民の尊い経験によって生まれたものである。最高の道徳であり、人類の至上の希望である。・・・軍備全廃は全地球に住む人類に対するわが国の責任であり、使命ではないだろうか。世界各国に平和憲法実践者として提唱出来る資格のある、わが国民だけと自負して行動をつづけていきたいのである」(p513、p333)と。翻って、現今の日本はどうなのだろうか。「積極的平和主義」を標榜して、有事を前提に改憲を企図し、嘘と出鱈目で糊塗しながら右翼宰相が日本を破壊しているのである。行き先は袋小路(デッドロック)である。必ずや、墓場の中で古老は憤怒の叫びを挙げ続けていることだろう。
 

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2016年3月24日 (木)

風土の忘却

33024727 知らない間にこんな本が上梓されていたとは恐れ入る。昭和30年代を基準としているので、自分の経験から、その内容が実態に相合しているのかを今から精査してみたい。その時代を生きた自分の、後世に伝える責任も感じるからである。それだけでなく、共生した親の世代への責任でもあると考えている。ところで、一瞥の印象としては、旧長野市内や西山地方も総括されているので、己の関心事である川中島平の食風土としては不全と思っている。食は気候と生活に左右されるからである。また、これなくして伝統もないのである。近年のTVの気象情報を眺めていると、気象予報士による天気図や天候や気温などの説明に終始して、風土と歴史とは無縁な情報を伝えるばかりで、無意味な情報を垂れ流しているが、これには全くの不満を覚えている。他の誰でもいい気象予報士でいいのだろうか、という疑念を覚えるばかりである。その昔、NHKの新日本紀行という番組を、「社会」の勉強と興味から、ノートに要約しながら聴取したことが思い出される。「社会」は得意科目だったのである。そして今では、訪れていない都道府県が4県になっているのであるが、死ぬまでには制覇したいと願っている。それぞれの都道府県に様々な印象と感想を抱いているが、近年は、駅前やロードサイドなどのどこを訪問しても千篇一律な状況になっていて、特段の感想が抱かなくなっているが、それでも風土による人々の暮らしは千変万化である。それへの日本人の関心は希薄になり、外国と比肩してナショナリズムを扇情したり、東京一辺倒の無味乾燥な文化がメディア媒体で支配しているのである。それは、現今の政府官僚や学者などによる猟官狩りや財界人の社会的無関心などにも見られていることでもある。何一つ公約を実現できないアベという、「命を懸けたことのない」政権の成れの果ての日本である。

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2015年7月 6日 (月)

従軍日誌を読み解いて

33026837  明治時代の戦争に従軍した兵士がどのように思念していたのかを知るために、地元の図書館に並んでいた日誌を読み解いてみた。偶然に手にしたものである。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が公布され、翌年には、教育勅語の公布と第一回帝国議会が開会するが(1882年には既に軍人勅諭が公布されていた)、明治の政治運営は、藩閥専制の超然内閣であった。松方財政の下、寄生地主制が進行し、第一次産業革命もまた展開する。対外的には、欧米帝国主義のアジア進出の中で、日本と清国とが、朝鮮の主導権争いをして日清戦争に至る。日誌を記した山口袈裟治(1873~?)は、長野県戸隠村に生まれ、鬼無里村(両村とも現在長野市併合)の農家に養子として入っていた。二十歳のときに徴兵されて、日清戦争に従軍し、一旦帰郷した後、下関条約によって割譲した台湾守備隊に抜擢されて赴任し、無事に帰国して、除隊している。日清戦争従軍において、彼はどんな感慨を抱いたのか。前提として、彼は始めての徴兵であり、前線ではない後方支援の工兵であったということである。その日誌の特徴として、第一に、村の出征祝いや靖国参拝や軍歌の吟唱や本居宣長の敷島の歌を記しているが、特段の激しい天皇制的民族差別観を覚えていないことである。そうした出来事は、明治政府の天皇制イデオロギーの注入が不完全であることを証明するものであると思われる。無論、日清戦争の過程で、勅諭奉読を日記に出来事として記しているのだが、それに関する感慨は片鱗も感じさせない。また、大連攻略に際して初めて、「実に我天皇陛下の御陵威とこそ申すべし」(p35)との記述があり、酒や煙草の下賜(p35)などの表現があるが、それは日清戦争の勝利が確定した後のことなのである。本居の敷島の和歌は、山口袈裟治にはどう捉えられたかと言えば、天皇への忠誠心ではなく、望郷心だったのである(p24)。そして、勝利を確信する過程で、「臆病豚尾漢」(p34)という対中国への差別意識が形成されてくるのである(続く)。

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2015年2月17日 (火)

宮本民俗学の私的評価

31312944  『忘れられた日本人』は既読であるが、もう一つ、網野の解説本を読んでみた。前者については、特段の感想は無い。宮本民俗学の前期の集大成であり、著名である。古文書解読と民衆からの聞き取り調査という方法論が窺えて興味深いのは言うまでもない。戦中のフィールドワークが、これ程になされたのは驚嘆するより他はない。しかしながら、網野が(慎重に指摘するように)、「宮本さんの民俗誌はあまりにもみごとすぎて、どこかつくられたところがあるのではないかという印象」を否定せず、「十分な資料批判をする必要はある」(p108~109)というのには妥当性がある。「土佐源氏」の文学的完成度を検討すれば、一目瞭然であろう。実際、これは乞食の話ではなく、馬喰のそれであることは証明されている。しかしながら、網野は、宮本民俗学が百姓=農民という定式(常識)に捉われていると彼らしく批判しながらも(p207)、下層に生きる人々を卑小に捉える近代歴史学の根本にある”進歩”に対する疑問を明確に提示して、日本民族の独自性と独立性を追及したと正当に評価している(p11、p127)と思う。後期宮本民俗学がどのようなものか無学であるが、山口県・周防大島出身の彼が、後々、「橋がかかったら島の人間はみな島から出ていきよる」と嘆息したということに例証されるのではないか。この問題は未だ解決を見ない。約一ヶ月後には北陸新幹線が開通する。ストロー現象はより巨大になる。新長野駅ビルもそれに併せて完成するが、暮れの忘年会の折に、駅構内を一瞥したところ、落胆したものである。改札口を東京資本の店舗で固めた愚劣な駅舎を作る気が知れない。愈々、都市と農村双方の自滅・劣化は止まらないものになってくるのは疑いがないだろう。

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2015年2月11日 (水)

忘れられた国会議員

00169156  若林健太(参院長野県区)が、参院決算委員会で、政府・与党の農協「改革」について、「農協が自由度を持って担い手育成などに取り組める制度改正」と主張し、「JA全中とタッグを組み、何としても農業を成長産業にしなければならない」と発言したそうである。また、全中の監査権限が廃止されることを踏まえ、「(監査を担った)農協監査士が新制度の中でも誇りを持って働ける環境整備が大事」と指摘したそうである(信毎2月11日号2面)。これを目にして無性に腹が立った。農業のことなどとんと分からぬ世襲のひよっこが、何が偉くてこんな厚顔無恥な発言をしているのだろうか。県下の農山村を渉猟して実見したことがあるのだろうか。高齢者ばかりの担い手、拡大する耕作放棄地、青少年がいない寒村などが見られるが、自民党の猫の目農政に翻弄されながら、地域の農協と農民は何とか生活を維持して頑張ってきたのも事実なのである。東京育ちにもかかわらず、選挙区を地方に選んだ世襲議員が、よくも言えたものである。ましてや、自身が公認会計士であり、後援会が日本公認会計士政治連盟から献金を受けている(Wikipedia)というではないか。農協改革案の一つに、「農協には公認会計士監査を義務付け」とあり、利害関係が大有りであり、利益誘導の立場にある人間は、このような発言を控えるのが当り前であり、控えるのが日本人本来の特質なのである。良心に恥じないのか。まったくもって怒りは収まらない。さらに、アベ訪米のための手土産として、TPP締結による対米農業市場開放に向けた、このような農業・農協改革は許すことはできない(これ参照)。自分がその手先として指嗾していることが分からないのか。次期参院選では落選してもらわなければならない。その改革で日本農業の再生ができるのか、是非とも伺いたいものである。自分の人生よりも、農業の歴史の方が圧倒的に長いということが分からないのだろうか。無論、農協のあり方が全く正しいとは思わないが、永年、貧窮の中から協同の精神でもって先人が築き上げた農協をかくも強奪して破壊していい筈はないだろう。永久に忘れられた国会議員(日本人)にしたいものである。

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2014年5月 7日 (水)

悪弊を絶つ

 33029189_3 若月俊一の偉業はよく知られている。信州の農村医療に挺身した人物である。この本の中において、医療は誰のものであるのか、医療の主体は誰なのか、ということが鋭角的に展開されている。若月思想(若月イズム)の本質は、ヒューマニズムと民主主義と協同の三つであるという言葉に収斂されている(p73)。佐久総合病院の役割と規模が大きくなればなるほど、それだけ原点に回帰する必要は増しているということである。
 息子は帰宅すると、おもむろに「白文帳」なるものを取り出して、毎日、漢字練習をしている。これは信州国語教育の悪弊の一つであるが、早期に廃止してもらいたい。漢字は本来文脈の中で理解し、記銘していくものであるが、この作業は、わざわざ国語を嫌うことを誘引してしまっている。特に、勉学が苦手の生徒諸君には、この漢字練習は難行であり、苦役でしかない。自分も小学生の時に宿題として課せられて閉口したことを記憶しているが、何の役には立っていない。むしろ、中村先生の読み聞かせ授業が契機で、その後、濫読に邁進したことが自分の国語力の基盤形成となっている。また、この苦役のために字が乱雑になるばかりか、時間を取られて、他の教科にも悪影響を与えている。さらに、漢字の意味と用法を理解しないものだから、国語表現力にも悪影響を来たしている。これと類比していることが日本の政治にも実行されようとしている。違憲(状態)の選挙で選ばれた首相や閣僚が、憲法を遵守しなければならない義務を放擲して、憲法違反を率先しようとしているのである。嘘と放言ばかりの、この内閣による集団的自衛権の容認・行使のことである。この二つの反知性主義を截然と断罪しなければならない。その悪影響は計り知れない。あの津波のように、一切合財を飲み込んで破壊してしまうのである。

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2014年3月25日 (火)

一戦中派の闘いの記録

33040688  母親の話では、父方の伯父は、ボルネオ島からの復員であったが、自宅前に立ち尽くした姿が骨皮筋右衛門だったということだ。伯父は、戦中派というより戦前派というほどの壮年の兵卒だった。死線を掻い潜って復員して来たのだが、伯父からは戦争体験を聞いた試しは一度もない。その後の人生は、農民としてよく働き、ひたすら身内や内輪の心配をしていたそうだ。家宅を訪れると必ず、自分が育てた野菜や果物で歓待してくれたものである。その伯父も亡くなって十年以上経過している。戦後70年ほどにもなるのだから、戦争体験者は、爾後の十年以内には全て黄泉の国に旅立ち、その時代の歴史を証言する者は誰もいなくなるだろう。違憲の集団的自衛権行使(集団自殺強要)を画策するアベ様の政治情勢にあっては、彼らの生き証言を残しておくことは焦眉の急務の一つなのである。この本は、「戦中と戦後の激動期を生きた一人の教師の物語」であり、子息による「父へのレクイエム」である(p7)。教え子を戦場に送って戦死させた教師が己を反省し、農村に留まって反戦平和と民主主義のために闘った記録である。「有機的知識人」(グラムシ)とはかくあるべしという見本のような人生記録である。信州の農山村には、彼の薫陶を受けた門下生が多く生き残っているが、他方の信濃教育会(信教)は、未だに満蒙開拓青少年義勇軍を率先して送出した戦争責任から逃避しているばかりか、戦後になっても、軍政部と一体となって県教組を弾圧して闘う教師をパージしているのである(1949年ケリー旋風)。さらに翌年には、組合に介入した信教(=県教委)は、21人の教師を職場から追放したのである(レッドパージ)。組合活動家であった当の島田武雄は、このパージで問答無用に長野女専を解雇されたのである。しかしながら、それ以降の農文協講師としての文化活動や青年団活動こそ彼の真骨頂であると思う。そこから、60年反安保闘争の一大拠点が長野県に形成されたからである(『青年たちの六十年安保』新津新生、川辺書林)。

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