信州学事始

2024年6月 1日 (土)

イデオロギーとプロパガンダ

41vrcn9nbxl_sl500_ 『家の光』6月号の読書エッセイで、この本が紹介されていたので読んでみた。戦争の記憶がオーラルヒストリー(口承史)でも究明が至難な時代となっている。その点では、信濃毎日新聞の「鍬を握る」連載は目を引いた特集である。ぜひ単行本の刊行を期待している。日本一の満州開拓団と義勇軍を創出した長野県の歴史を反芻するだけでなく、戦争というものの本質を解明するのに役立っているのである。先の読書エッセイでは、祖母の日記を読んで、「お国と言うものは本当に恐ろしい。一番愛しい人を連れて行ってしまう」という祖母の呟きと嘆きが胸に迫ると表白されていた。まことに国家は理不尽である。命と生活を(更に、なけなしのカネさえも)奪い取るのである。国家そのものが詐欺集団となっているのである。
 生成AIをも駆使する日々の詐欺事件の頻発とマスコミを使った虚偽情報に晒された生活の中で、人々は彷徨うだけでなく日常的に利便性というイデオロギーに惑わされている。拝金主義の世の中で、政権維持のための法がまかり通り、政治屋と体制を護持する産業界は国民の生活には何の関心もなく、利権と現状維持のみが社会を覆い、連合とマスコミは政権に迎合し、学会や司法も忖度する有様である。すべてが腐敗しているのである。「優秀」な人物ほど腐敗しているのである。何がないかと言えば、良心と本当の学識である。加えて、他者を思いやる識見がないのである。根本は学制であり、大学進学のための普通科をよしとする教育制度である。学校教育はこれを基準とする制度となっている。問題は職業教育、政治や社会についての関心(具体的には、憲法の三原則や税制や確定申告など)を育てない教育、人々の職業(特にエッセンシャルワーカー)に対するリスペクトを育てない教育である。普通教育一辺倒の教育制度があり、偏差値に象徴される教育制度であり、これらをすべて改変しなければならないだろう。しかしながら、国家の中枢には、これを成し遂げる人物は一人としていないだろう。これが現実なのである。テレビを眺めていると、T大とK大系のニセ学者が登場するだけでなく、政治屋の二世・三世議員が蔓延っている。阿呆の連中が改革を成し遂げられるだろうか。人々の生活が苦しくなるにつれて、政権党の支持は激減し、その対策のためのプロパガンダが激増するだろう。アメリカの政治を注視したらその意味が分かるのではないか。それが日本の近未来の姿でもあるのである。

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2023年2月16日 (木)

凍てつく信州の寒さ

33675963 酷寒である。多分、今日は真冬日(一日の最高気温が氷点下)となるのではないか。内陸性気候に因るのである。寄る年波には、ズボン下(股引)が必須であるばかりでなく、就寝時は布団の中に湯たんぽを入れる。連れ合いは西日本出身なので、彼女の在宅時は、石油ファンヒーターのお出ましとなる(自分一人の時は、ワークマンの防寒ズボンと半纏を愛用しているので点火なし)。エアコンはあるが、殆ど稼働しない。わが家の節約生活は非常識である。世間では室内暖房器具の使用が当たり前になっているのである。回顧すれば、小学校の教室は石炭だるまストーブであったが、中学校の新校舎はスチーム暖房になっていて驚いたものである。
 こうした暖房器具は、時代に伴って変遷している。冬の夜には、掘り炬燵の周囲を布団を固めて、一家で寝ていたのは60年前の姿である。当然の如く、ストーブやエアコンはなく、火鉢程度である。当時の信州の家屋は隙間風が入り込み、寒暖差もあってその冷え込みが尋常でない。北海道から来訪した祖父も、その寒さに震えていたものである。掘り炬燵に入れる消し炭と木炭は、次第に豆炭も活用され始め、50年前になると豆炭あんかが登場し、布団の足元に入れて自室で一人寝する。電気炬燵も普及して、個室でラジオ講座やオールナイトニッポンに齧りついて夜更かししていた。それでも、翌朝目を覚ますと、吐く息の蒸気が布団の襟に凍り付いていることもあった。やはり電気炬燵と豆炭あんかだけでは部屋は寒く、半纏を着て寒さを凌いでいたのである。信州の受験生は二つの敵があった。一つは受験ライバルであるが、二つ目は氷点下の寒さである。受験の日々は寒さとの闘いという面が強かったのである。受験日には雪降りの中での、凍てついた会場入りということも稀ではない。暖かい地方の受験生が恨めしく思うこともあったのである。上京すると冬でも快晴の青空が毎日のように広がることに驚いた。薄いジャンパー着用で十分であり、他の学生にはキリギリス学生と見えたことだろう。
 他県の人には、信州は雪が多いというイメージがあるのだが、これはちょっと違う。確かに山沿いは2、3mの積雪があり、遠い銀嶺が美しいが、平地(盆地)での積雪は高々10cmほどで(昭和38年の最高60cm)日中に融雪してしまうことが多い。むしろ、夕方以降底冷えが始まり、みるみるうちに氷点下となって足元が冷えるのである。そして、翌朝のアイスバーン状態となった道路を運転する恐ろしさとなるのである。氷点下2、3度程度なら、「あれ、今日はあったけえ(暖かい)な」と思ってしまうのである。京都に住んだことがあるが、痛いと感じる寒さではなかった。大阪にもいたが、全然寒くない。大体、雪がちらほらと舞い散る程度で、吐く息が白くない。沖縄では毛布一枚で過ごした。南北に細長く狭隘な日本でも、所変われば気候(気温)も変わるのである。

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2022年12月 2日 (金)

防衛論議のアホらしさ

34334660 何で今頃になって、この新書が再刊されたのか分からない。戦記物として文庫から新書で再刊されるのは、稀有と言わねばならないだろう。いずれにせよ、以降再版されることはないと思われる。戦後77年も経過して人々の記憶は薄れ、防衛費倍増を岸田内閣はうちだして、早速財源問題に終始しているようである。政府は既にウクライナ戦争への賛意表明をして、戦争に加担しているのであるから、より一層の戦争構築への企図(戦争国家化)と断じなければならないだろう。尖閣諸島の領有問題を除けば、中国との政治・外交問題は、ほぼないのである。つまり、中国と戦争する必要性は全くないのである。台湾(帰属)の問題は中国人民の問題である。にも拘らず日本政府は、南西諸島の軍事基地化を推進して、結果として沖縄を戦場化する目論見である。対基地ミサイル先制攻撃の構想があるようだが、(国会審議もなく、憲法違反の)米国製ミサイルを導入しての閣議決定は、原発54基のあることから、一瞬によって日本列島が焦土と化すのは目に見えている(ウクライナ戦争以上に、悲惨を極めるだろう)。また、日中共同声明によって対日戦争賠償請求権を放棄した恩義もあるのである。さらに、米国も畏怖する軍事大国中国と戦争をして勝利できるとでも思っているのか。中国敵視の軍事力増強は、第二次日中戦争の契機ともなり、何ら権益に資するものではないのである。尤も、共産党主導による強権的な中国政府に賛同している訳でもないことは、言わずもがなである。
 さて、『松本連隊の最後』である。歩兵150連隊の南方出征から敗戦までの記録であって、私見で断定しない、戦争賛美しないという著者の二大方針に従って、調査と聞き取りで構成された戦記である。それは戦争体験した作者にとって〈わが青春の墓標〉でもあった(p429~430)。概要は東洋経済ONLINEでも取り扱われている。要は、無謀な太平洋戦争の実相記録である。この本の解説者であって、実際に中国への従軍体験のある故・藤原彰氏が記述したように、「戦争が庶民にとって、名もなき兵士にとって、何であったかを正確に記録したものは多くはない」のであって、「犠牲者の大半が、戦闘行動による戦死ではなく、水死、病死、栄養失調死、餓死であったという事実」(以上p452、これこれを参照。これも)を知らねばならないのである。だから、政府・防衛省や歴史修正主義者による防衛論議など、アホらしいのひと言である。パンドラの箱に唯一残っていた希望すら失ってしまうからである。
 

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2022年2月 8日 (火)

『昭和の記録 私の思い出』

2022020812440000   「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)という俳句があるが、昭和もまた遠くなったものである。何と、明治維新から敗戦までと、敗戦から本年までは、それらの間隔は等分の77年なのである。そして、昭和が終焉して33年も経過しているのである。この『昭和の記録 私の思い出』を10日間を要して漸く読了した。「歴史は庶民によって作られる」という言葉さながらに、昭和の時代状況を彷彿させる好著である。権力側の改憲派の増長と庶民側の護憲の衰退という時代の流れの中で、庶民の歴史を発掘することは大いに意義のあることである。教科書の歴史は殆ど権力者側の記録であって、これだけが日本の歴史ではないのである。よくある日本史は、天皇と武士どもの権力闘争の歴史であり、こんなものをいくら学んでも現実の生活には何の役に立たないである。インテリと称される層が新自由主義者どもにコロッと騙されるのは、洗脳され易く、生活の知恵がないからである。自然環境が破壊されて人心が荒廃するのはこれがためである。だから、権力者側の改憲は峻拒すべきであって、民衆の側の改憲はよりよい憲法へと断行すべきなのである。守旧の改憲派は歴史を巻き戻すものだからである。今こそ人々は前期の近現代史を総括して、次の時代を創始しなくてはならないのであるが、テレビやインターネットを眺めると、頭が右螺子の人物と情報が蔓延している有様である。時代錯誤とガラパゴス天国の日本に成り果てているのである。
 以下に読書感想を記すと、①小林謙三さんの「朝鮮ユキさんのこと」の一文が秀逸であった②戦前と昭和30年頃までは北信州の農業は穀桑式農業なのだなと再確認した③実業に従事していた者は強い④当時の様々な思い出が焦点を帯びて具象化できた⑤「父との思い出 雪の綿内駅」もまた感動的な文章であった⑥戦争や赤貧的窮乏によって斃れた人々の歴史(筆記されていない歴史)もあり、記憶されてしかるべきであること⑦「野菜は頭で作るもんじゃないで」(p471)という言葉は印象的であったことである。
 この本の掉尾は、「昭和の記憶・・・我が家の『昭和』には、『粘り強さ』と『ひたむきさ』そして『家族の笑顔』があったのだと、しみじみと感じています」(p476)で締め括られているが、昭和は誠に激動の時代であったが、ただ一つ付記すれば、天皇の元号で時代を象徴させてしまう不名誉を恥じなければならないことである。 

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2022年1月14日 (金)

「・・・物語」?

34283229  満蒙開拓青少年義勇軍に関する研究は、現在形として白熱しているようである。この論評は義勇軍に関する著者の研究を総まとめしたものである。ミレニアムの初めに、長野県歴史教育者協議会が編纂した『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』の中で、幼い少年たちを満蒙への義勇軍として動員した信濃教育会と教師の責任が問われたのであるが(こちら参照。これこれも)、この上梓本は「信濃教育会が教員赤化事件以降に右傾化し、国策に順応したと捉える」見解を一面的と批判しているのである(p227)。そして、「義勇軍をはじめとする満州移民の送出に郷土教育運動が影響を与えている」(p同上)のであり、興亜教育運動の高まりによって、役場・学校(教育)・父兄の三位一体となって義勇軍送出の強力な要因となったのである(p91)、と主張しているのである。確かに、原因を多元的に指摘し、議論に一石を投じて新しい視座を供与するという意義はあると思う。
 しかしながら、その見解は信濃教育会(と教員の)戦争責任の所在を曖昧にする点で看過できないのである。無論、教育会だけでなく、他にも義勇軍送出に関与しているのは疑いがないが、拓務省によって進められた郷土部隊編成運動との関連で、「義勇軍と教育会との関係で留意すべきことは、義勇軍(青少年)の送出というよりは、教学奉仕隊・中隊幹部・義勇隊指導員の選考と送出であったと思われる」(p20)という一節は意味不明である。ただお国の方針に従っていただけであるとの、よくある開き直りと誤解されるのではないか。田河水泡の「親父訓練」という漫画を例に出して、このストーリーに「教員は登場しない」(p116)という恣意的な一文を挿入しているのも解せない。義勇軍に志願するように直接本人や父母を説得したのは誰なのかは明白である。戦前のことを語る時、戦中派の人々は「みんなそんな(御国のためという)時代だったんだ」と答えるのが一般的である。彼らの名前からして國男、昭三(天皇の即位礼)、忠男、君子、勝子、和子などである。また、実際に義勇軍に応募した動機として8割が先生(教師)なのである(p85~86)。予科練を志願した古老(存命)によれば、「弟も義勇軍に応募したが、みんな割当てだった」という証言を耳にしたことがある。私もまた、その当時の少年であったならば、出自や成績などからして義勇軍に好んで志願していただろう。信濃教育会は満蒙開拓平和記念館建設に200万円寄付したとのことだが、先ずもって必要なのは、反省と平和への告白・決意宣言なのである(それは議長声明でお茶を濁す日本基督教団も同様である)。
 第二に、この本で気になるのは、足を踏まれた側を考慮していないことである。侵略された側への配慮や引き上げた義勇軍や苦渋の教師たちの証言である。そこを曖昧にした歴史研究は、結局一面的にならざるを得ないのである。歴史は資料の渉猟だけではなく、現代史においては歴史的証言もまた一級資料なのであって、後者を欠いた歴史研究は、客観性に欠けるばかりでなく、研究家の先入観(解釈)という陥穽があるのである。「郷土教育運動」と「興亜教育運動」と「農山漁村経済更生運動」(p91)との異同と解説がなく、「郷土教育運動」と満州移民との関連もよく分からず、タイトルに「・・・物語」とあるのも全く理解できないのである。

 

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2021年12月 4日 (土)

女性の時代

Iimg900x12001589569509dbwirt631178  東栄蔵の『信州の教育・文化を問う』を読んだ折に、紹介されていた本が『昭和・女を生きる』であった。市中で入手できないので図書館で相互貸借で借受して熟読してみた。長野県カルチャーセンターでの文章講座において、横関光枝さんは「わが青春の”空白の年表”」という原稿を書き上げたのである。時は1986年である。その後1990年に、その原稿を基にして上記の本を上梓したのである。片田舎の貧農に生まれ、一軍国少女として生きた女の半生記である。
 彼女は1929年(昭和4年)の生誕であるから、都合、昭和の時代を生きたのである。家父長制という厳しい現実の中で、女として周囲から邪険にされ、農業の働き手として酷使され、文学も横文字も知らずに軍国少女として戦争末期に御牧ケ原修練農場で実習した体験が綴られている。昭和になっても明治の社会は依然として続いていて、「農村の女性の一生は、男性とくらべると『いえ』との関係がつよく、『いえ』(家父長)を媒介にして社会とむすびついていた」(『明治・大正の農村』大門正克、岩波ブックレット、p14)のである。人々は、社会的矛盾と生活の困窮に苦しんでいたのだが、女性は更に性的差別という重圧が加わっていたのである。著者は、「私の生きた少女時代は真暗闇で、目の前の物の正体が何も見えなかったのである」と悲嘆している(p47)。昭和19年(1944年)、14歳の彼女は国民学校高等科を卒業して、「(女なんて)穀つぶしだ」(p71)と蔑まれた父の下から離れたい一心で、一年間御牧ケ原修練農場に入所する。国家による自力更生運動の一環として創設された学校である。御牧ケ原の台地は、古代から望月の牧として馬の生産地として著名である。時は昭和不況の影響もあり、戦争は益々激化している頃である。もしかすれば、彼女も「大陸の花嫁」として渡満したかも知れない(p60)。彼女にとって、ここでの体験は、家族も含めて誰にも開陳していない「心に傷ついた哀しみ」(p63)であった。まことに書くという行為は心の棘を抜くことなのである。
 敗戦後も、「七つ泣き鼻取り」(誘導が難しい牛の鼻を取って代掻きをする学童の仕事。大人への試練としての農事)の仕事もやらされ、母と一緒に女の性を父親から罵声を浴びせられたが、彼女は本に出会った。歌も母から覚えた。家出して母の愛情にも気が付いた。そして貧乏な小学校教員と結婚する。その後は貧窮の中でも、出産と子育てをしながら多くの女性との出会いを経験し、女性としての自分を回復していく記述で感動的である。「女になんか生まれなければよかった」と母と泣いた過去の私は、今となっては苦労も吹き飛び、「私は幸せだった」(p231)と満足感を噛み締める。男女同権、男女共同参画、男女雇用機会均等の時代と呼称されているが、むしろ、これからは女性の時代ではないかと思われる。横関さんのような女性は身近にも多くいたが(90歳代以上)、彼女の、自分史として総括したその内容は、歴史学的にも民俗学的にも貴重な文献となっているのである。

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2021年10月 3日 (日)

現代の感情と思考

20200119120728753165_6a8b22e8e9655fe581e  立憲民主党の枝野代表の「自民党は変わらない、変われない」という批判は、けだし至言である(立民党を支持している訳ではないが)。そして自民党新総裁の人事を一瞥すると、そのことが判然とする。相変わらずの世襲・派閥政治であり、強欲・反動政治である。自民党の本質から考えて、日本の没落は確定したようなものである。
 『満蒙開拓の手記』を図書館で借り受けて、その実相を把握するために読んでみた。一般開拓団約22万人と満蒙開拓青少年義勇軍11万の総勢32万人の凄絶な体験記の一部である。長野県から渡満した地域は「満州国」の、さらに東北部であるソ連国境付近が多いために、ソ連軍の参戦後は逃亡・帰国のために阿鼻叫喚の引き揚げ体験が大半である。文字通り侵略戦争の盾とされたのである。肝要な点は、それが国策の下で敢行されたことである。このことは忘れてはならないことである。戦後補償は軍人・軍属ばかりで、遺族会は戦後において終始一貫とした自民党の支持団体となってきたのである。これに反して、開拓の人々は一顧だにされずに放置されたのである。その惨状は先にこのブログ記事にも紹介したのであるが、こちらの手記の方が経緯と実情と戦後について詳細であり、青少年義勇軍たちや満蒙開拓に随伴した看護師や教師たちの手記もあって広範な記載となっている。夫や子どもを失いながら帰国した婦人たちは、侵略戦争の責任を問い(p122)、国への怨恨を吐露し(p185)、平和を誓う思いを訴える(p283)ものが比較的多いのである。そして、家産を始末して渡満した引き揚げ者には、「内地に帰っても、しばらく親戚の家を渡り歩いたが、誠に苦痛にみちたものでした」(p269)と、補償もなく白い目で見られて艱難は続いたのである。中国在留邦人の問題がその証左である。70年代までの平和教育から、今ではそれも忘却しつつある現代にあって、これらの体験記などの一級資料を渉猟することは、同じことを繰り返さないためにも意義があるのである。戦後の長野県教育においては、中央ではなく県独自の教科書で習った時代もある(現在は理科と生活だけとなっている)。科学的で合理的な思考が求められたのだが、現代においては、戦争体験者の負い目や苦難は記憶から失われ、一時的で右翼的感情や思いが横溢している時代なのである。自民党の総裁選(権力闘争)において、そのことが如実に顕現しているのを見たのである。

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2021年7月13日 (火)

コロナ=五輪禍において

34216595 スポーツは、部活で陸上競技部に所属していたことと、息子がサッカーで活躍していた関係上、関心は多少あるが、それら以外のスポーツはほとんど興味がない。嫌いな野球とゴルフは見る気がしない。あほらしい。スポーツ選手は意外なことに短命で、身体に悪い。ましてや観戦時間を要して、この齢になると自分の時間がもったいない。しかしながら、これらの二つの競技は、ニュースでも筆頭に報じられるほど日本人に人気があるようだ。少年期には野球にも興じていたが、今となってはあほらしい。金がかかるゴルフは、庶民のスポーツですかと疑念を感じている。無駄な競技で自然環境に悪い。それにスポーツがはやると民俗的祭りが無くなるという始末である。況や汚リンピックをや、と言わなければならない。
 時宜にかなって復刻継承版を繙読してみた。信毎記者が追った全国一の長野県開拓団の記録である。記者の一人は、実際に中国東北部(満州)に渡った経験のある記者であり、それらの記事には迫真性があって生々しい。初版は1965年(東京五輪の1年後であり、生存者は壮年期である)である。今となっては歴史記念碑的記事と出版なのである。この本によれば、長野県開拓史の幕開けは大正2年秋に遡及するという(p183)。祖父は次男坊のため職を求めて全国各地を見聞し、大正後期に北海道開拓へと選択した。それは満蒙開拓の時代に先んじており、兵役免除ということもあったらしい。実家には英語や露語の教則本が残っていて、空気銃が隠されていたのを目にしたこともある。祖父母の北海道開拓では、雪が舞い込む狭い掘立小屋で、家族一同が一つの布団で身を寄せて冬の寒さを凌いでいたという。成功して帰省した祖父母が「内地」という言葉を何度も口にした覚えがある。しかし、今となっては都市生活へのあこがれもあって、祖父母等の土地は蕭然とした二束三文の土地になっている。満蒙開拓団の生活が想像できるが、悲劇的なのは敗戦に伴う引き上げ体験である。軍属に「大陸の花嫁」として渡満した老婦人(現存)に、「(引き揚げは)そりゃあ大変だったよ。でもね、親切な中国人が助けてくれたお陰なんだよ」と聞き取りしたことがあるが、前回でも記したが、大半は悲惨の極みである。守ってくれる筈の関東軍は逃亡して、国家によってかの地に見殺しにされたのである。当時の担当大臣や役人は、戦後出世して首相や大臣、(長野)県知事などになっているが、反省も呵責も感じることがなかったのである。解説した黒崎正己氏の言うように、「戦争には被害と加害の両面があることは冷静におさえて・・・(このコロナ=五輪禍においても)政府の無策と無責任を問い、実効性のある施策をとらせるべき」(p225)なのである。今夏は、満蒙開拓平和記念館を訪問したいものである。

 

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2021年7月 2日 (金)

政治的責任のけじめの無さ

64yoron20190906jpp00693065_310_20210702100901  このコロナ禍の中で、東京オリンピックに突撃してゆくようだ。開催後には衰退への最後の一撃である大不況と新型コロナの蔓延が待ち構えているのではないか。1964年の東京五輪では、快晴の空の下で、田舎の年端もゆかない少年は、父母の稲刈り手伝いに励んでいたのである。ラジオで聴いた後、母にせがんで握りしめたお金を持って書店に向い、緊急出版した写真集を買い求めたのである。戦後の復興、高度経済成長とはまだ無縁で、麦藁葺の屋根の下で質朴な農家の暮らしだったのである。今や、アマチュア主体の五輪からプロの商業五輪と化して、「パンとサーカス」という見世物興行となっているのである。欲望と利害が渦巻いて、選手はその駒の一つであるという自覚もないのである。まともな感性を持つ人間ならば、すべてが空虚なのである。
3fd77d24e716640ce43f7daa24d30adf  「大陸の花嫁」とは、「満蒙開拓」移民の妻として中国東北部(満州)に渡っていった花嫁のことであるが、ソ連の参戦で関東軍は逃亡して、開拓団と大陸の花嫁たちは戦場に置き去りにされて、中国残留日本人孤児や中国残留婦人の悲劇を生むことになったのである(『日本歴史大事典』改変)。大陸の花嫁は戦争の人柱として犠牲となった国策花嫁である。総数は不明である。満蒙開拓移民が約32万人であり、帰国できたのは11万人余りなので、大陸の花嫁は、その半分の半分と推定して約2~5万人前後だろうか。長野県の開拓移民数は4万人弱であり、全国一位である。その半分の2万人の女性が大陸へ渡ったと推理される。大陸の花嫁は、客観的には戦場の盾として(国策)、主観的には「生活の貧しさから抜け出したい」(p52)という動機だったのだが、それは実態として侵略そのものであったのである。彼女らの阿鼻叫喚は、この本を読めば瞭然であり、ネットにも数々の体験記が残されている。「敗戦後は栄養失調や寒さや病気で骨と皮ばかりになって死んで行き、野っ原に捨てられてね、裸にされて、犬などに食べられてね」(p37)という惨状であり、他にも強姦や子殺しも体験し、関東軍は橋を渡ると壊して開拓団の婦女子は見殺しにされたのである(p93)。更に、兵隊と異なって大陸の花嫁には戦後補償もなかったのである。ここでも、その責任の所在が雲散霧消しているのである(p124)。国家と軍隊は人々を守らない。しかも日本人の政治的責任のけじめの無さは、戦前戦後も一貫しているのである。しかしながら、移民送出を推進した信濃教育会と、敗戦直後公文書を焼き尽くした長野県庁等の責任は消えた訳ではないのである。

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2021年4月22日 (木)

春の陽光に誘われて

 先日、このコロナ禍の中、春の陽光に誘われて北信濃の小旅行を敢行した。旧豊田村(現中野市)にある高野辰之記念館とその周囲、菜の花ロードを抜けて野沢温泉に宿泊したのである。野沢温泉村と観光協会は、お得な「免疫力UP!キャンペーン」を張っていて、永年北信濃への往問を勘案していたので絶好の機会となったのである。翌日は、おぼろ月夜の館と飯山、更に足を延ばして信濃町の一茶記念館へと宿願を果たしたのである。
 高野辰之の「故郷(ふるさと)」という文部省唱歌は、実はあまり好みではない。特に三番の歌詞は立身出世の内容となっている。明治人の好学の士として上京した辰之は、1909年(明治42)年に文部省小学校唱歌教科書編纂委員となって作詞したのである。後には、東京音楽学校教授や東京帝大の文学博士号を授受して、「志をはたして いつの日にか帰らん」という歌詞の如く、1925(大正14)年に帰郷したのである。時は社会運動が発展して、普通選挙法と抱き合わせで治安維持法の公布によって社会運動が弾圧したされた時代である。これによって、無産運動が成立と分裂を繰り返して昭和恐慌を迎え、十五年戦争に突入してゆくのである。
2021041610280000  国文学者として成功した高野であるが、野沢温泉のおぼろ月夜の館のおいて、その学問観と一つの短歌に関心を覚えたのである。学問観についての解説には、「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがあり、「実証的で」、「様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった」とある。また、隠棲した野沢温泉村から出征する青年に託した短歌には、「海行くも あへて水漬かず 死ぬ価値も 越える名上げて 帰れよき子よ」とあることである。侵略戦争に突入している時代にあって、少なくとも「死なずに帰れよ」と青年を励ましたのである。そこには、戦争に対して不本意な高野の思いも推察されるが、断定はできない。その土地(ふるさと)への愛着と向学への思いも感じられるのであるが、これも明断できない。「死ぬ価値も超える名」とは一体何なのか。その曖昧さが明治人としての限界なのかもしれない。しかしながら、好戦的で偏向した「悪しきナショナリズム」(軍歌・戦時歌謡)とは無縁と思われるのである。ちなみに、唱歌「ふるさと」では海の風景が謳われていない。これもまた高野辰之作詞の所以である。


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