食と農業

2017年10月16日 (月)

バッタを倒すのは誰か?

2017100915270000 嫁さんに自家野菜の味を尋ねると、野菜の味が濃いことに納得してくれた。してやったりという思いである。スーパーなどで購入する野菜は、F1種の播種により均一で、農薬で虫食いもなく、化学肥料の多投により肥大化するであるが、概して生産者からすれば安値である。味は薄くて野菜独特の匂いもなく、はっきり言えば、石油で作られている。そういう野菜を食べてばかりいると、アレルギー体質になることは必定(このことは科学的には確定していない)であるのだが、ブヨブヨのさしが入った霜降りの人気に翳りが聞かれるように、野菜本来の味に回帰してほしいものである。自家野菜は、無農薬のために虫などに齧られ、ほぼ無化学肥料のために成長は緩慢であり、販売するには不適というデメリットがあるのだが、自家野菜としては過分である。この醍醐味は自作でしか味わえないものである。耕作放棄地が激増する時代にあって、家庭菜園やベランダ菜園ではなく、国民全体が自作農になる道(自作自食)という選択肢もあるのである。そうなれば、金があっても喰えない時代も夢ではないのである。兵糧攻め戦略である。

33602048 するすると読める本に出合った。バッタ博士の奮闘記である。儲かる仕事ではない。オーバードクターという言葉にあるように、日本では多くの才能が道端に廃棄されている。政治的意図もあり、大した権威でもないが、今後ノーベル賞など期待できないだろう。だって、こんな政治だもの。権力は無批判な無能者に掌握され、戦後の民主主義は幻影となり下がり、いざとなれば強行採決され続けてきたのである。戦後一貫として支配を続けてきた政党は、最高法規としての憲法を死守するつもりは全くなく、むしろ改悪を党是としている。対米従属の施策とグローバリズムに憑依されている始末である。そして原発再稼働・原発と武器輸出に邁進していて、極右政党そのものになっているのである。元々がそうなのだから。だから、そんな政党政治は何れ破局となるのは必然である。高々3割の、イカれた政党支持者によって人々が道連れとされるのは真っ平なのだが、無党派層が投票行為として動かなければ、石油によって生産された無味な野菜を齧り続けるより他はないだろう。もう一つは、日本という国家からの逃亡である。憲法改悪が目前に切迫している。今次の総選挙は歴史の結節点となる選挙なのである。

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2017年5月 6日 (土)

逝かれた人々

33382836 やっぱりな、と思うだけである。今年の4月23日、拉致問題の国民集会において、それが「内閣の最重要、最優先の課題」であり、「解決する」と決意表明しているのだが、これは全くの嘘である。もしそうなら、今頃は解決していることだろうし、況や、その発言が飛び出したのは、北朝鮮の核・ミサイルが「切迫」(政府広報)している時期の発言がために、「この人はやはり逝かれている」と思い至った次第である。また、その解決のために米国の協力と連携が必要であるとして、自ら積極的に先導しようという気概もないのは明々白々である。それだけではない。拉致被害者の家族がこの妄言に唯々諾々と付き合わされて、キリスト教と神道などの右派勢力である「救う会」に牛耳られているために拉致問題が一向に国民的な悲願とならないのだな、と彼らに同情の念を禁じ得ない。田原氏には「変なものを付けてるだけ」と揶揄される始末である。要するに、完全に政治的に利用されているのである。北朝鮮問題などと煽っているアベなのであるが、他方で、連休中に自ら率先して(閣僚の半分以上も右に倣い)外遊に興じ、ゴルフや飲食に耽って弛緩しているのであって、こんな内閣なら自分でもできるなあ、と呆れてしまう次第である。お粗末な政府である。国会議員や政党も然りである。さぞかし、アベ首相は稀有で、最も優秀な天才的大宰相であろう。それでもって戦犯である祖父の顰に倣って、憲法改悪を表明しているのである。呆れてものも言えないとは、このことを言うのである。夫婦揃って「神ってる」のだろう。やっぱり、逝かれたニッポン、である(自分が日本人であろうが、米国人であろうが、中国人であろうが、そんなことはどうでもいいことである)。
 この本の著者もまた悲惨である。元々、この書の狙いが「人類が歩んだ旅路をなぞり、どのような経緯でここまで到達したのかを明らかにすること」(p11)であるのだが、科学力と創意工夫で食料生産力を向上させてきた歴史を振り返り、人類の過半以上が都市に集中した(2007年)21世紀の食糧問題は、問題なく解決していくだろうという安穏とした内容である。農業史としても俯瞰的に詳述されているので初心者にとっても分かりやすく修習できる。ラチェット(歯車)-ハチェット(手斧)-ピボット(方向転換)というキーワードを駆使しながら、人類は前進-破綻の危機-方向転換してゆくという進歩史観である。人類は「偉大な成果」(p243)を収め、「勝利を積み重ねて」(p246)、「大躍進の時期を迎えた」(p246)と賛辞を送っている。本当にそうなのだろうか。確かに著者は、一方で、「矛盾に満ちた豊かさ」(p257)と懸念も感じているのだが、他方で、この温暖化や生物多様性や持続可能性などの問題が山積しているにも拘らず、やがて方向転換して解決を見るだろうという見解に墜することは、火を見るよりも明らかだろう。分かりやすさが故に陳腐な見解に帰着するのは、英米の学者には特徴的なことである。
 (追記-2017,5,10)
 もう一つ。ブラジルの伐採された熱帯雨林の惨状に涙ぐんだ著者は、末尾において、こんなことを結論的に叙述している。「いまわたしたちは農耕をする種から都市生活をする種に変わろうとしている。少数が食料をつくり、大多数の人びとがそれを食べるという最新の取り組みは始まったばかりだ」と。「都市の暮らしも自然界とのかかわり合いなしに成り立たない」(p262)と言いつつも、帝国主義的な搾取や大地からの過剰な強奪、都市と地方の格差や南北間対立などに無関心を決め込み、その変容を無条件的に肯定する著者の近代人的な思考に、疑念と苛立ちを覚えるだけである。

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2017年4月 9日 (日)

都市のまやかし

2017040912060003 梅の花が満開となり、朝からの菜種雨が止んで桜の開花となっている。都会では満開、もしくは散り始めとのことであるが、当地では漸く春到来である。猫の額のような畑を整理して、とう立ちした白菜 の菜花を、天ぷら蕎麦に投入して試食する。これは農園を営む者だけの味わいである。柔らかくて、ほろ苦さを感じない、ほんのりとした甘みが口腔内に広がり、春の味わいである。

 植木屋の 幟や増えて 春来る

 この本の中で、野坂昭如は長野市に、都合、六回訪ねたことを記している(p119~130)。1975年のことだから、高度経済成長期を経てオイルショックの端境期で、農家は兼業化が進み、三ちゃん農業から母ちゃん農業へと進展し、農村が激変した時期である(この農村医療記を読むと、当時の農村・農民生活が垣間見れる)。当時はまだ農業人口は750万人ぐらいであったが、今では200万人を切っていることだろう。60年前のそれの10分の1であり、激減といってよい。駅前通りはシャッター街となり、農村は耕作放棄地が増え、都市は労働力(人)と食料とカネを地方から飲み込んで成立しているのである。そして、都市生活者の保守化である。これが持続可能な社会ではないことは言わずもがなである。その稿の中で、野坂は二つの提案をしている。農民による食糧出庫拒否と、農業を婦人に委ねよというものである。これは実現性が薄いのであるが、彼は農業指導者研修会の講師として発言した後、エノキ栽培やリンゴの集荷発送センターを見学して、農業生産の大変さや都市生活者の無理解を感得している。また、地元の婦人三人と懇談している。そして、この農業危機に及んでは、「もう女に渡しちゃった方がいいような気がしてくる」(p127)と吐露している。婦人には飢えは無縁だからである。「都会に住んでいる者は、何かとてつもないトリックまやかしにかけられている」のであって、「そのまやかしは農村に対するよりは、はるかにひどいような気がする」(p130)と文末を締め括っている。けだし、至言と言わなければならない。

 クラーセンさんの訴えにも傾聴してみてください。
 http://afriqclass.exblog.jp/

 

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2017年4月 4日 (火)

闇市派の農業論

33568994 野坂昭如は、2015年の年末に黄泉に旅立っている。この刊本は、焼け跡闇市派として、農業に関して、(特に都市生活者の)日本人に対する、歯に衣を着せぬ警世書である。アベ・日本政府が掲げたTPP法が、トランプ米国大統領の出現によってあえなく潰(つい)えたのだが、今後は日米による二国間貿易協定(FTA)へと推移してゆくことなるだろうが、これは日本の農業の崩壊に直結する問題である。野坂の論旨は、タイトルにあるように極めて明快である。農業に関しては、この本の中で、興味があったのは三点ある。一つは、彼が都市生活者の思い上がりを指弾していることである(p105~118)。都市生活者には「農民を切り捨てる考え方がひそんで」おり、「今の農村、農民のおかれている、いわば八方ふさがりの状態は、都市にすべての原因がある」として、一度飢えてみるしかない(p154)と直言している。現代の市場主義経済、もしくは新自由主義経済とグローバル化の淵源は前川レポートである(これも参照)。そして第二に、この前川レポートを指針とする中曽根内閣は、土光敏夫を財界から引っ張り出して第二臨調会長に据える。その結果が、民営化と規制緩和に邁進する、その「土光が始めた悪魔の原発事業」である。その国策に従って、東芝は非情な経営危機に至っているであるが、この野坂の刊本には、土光との喧嘩対談が掲載されている(p56~80)。1975年の頃だから、土光敏夫は経団連会長(=財界総理)として辣腕を振るい始めた時期である。ところが、この対談を熟読すると、農業に対する土光の無知が暴露されているのである。彼は肥料仲買商の次男として岡山市の近郊に誕生して、都会に出て技術者として出世街道をひた走るが、「中学までは親父を手伝って百姓やっていた」というが、これは少し怪しい。嘘が混在しているのは権力者のやり口である。土光の発言の中で、「農村問題としての面から見ると、いまはもう地域社会というものが破滅してしまっている」(p58)という一点のみ首肯するのであるが、その問題を何ら追及しようとしてはいない。解決策として、効率的な農村ができるように農業基盤の整備をして、その地域に工場などをミックスさせるという、ありきたりの提唱をするだけである。何のことはない、形を変えた日本列島改造論である。「めざしの土光」、「無私の土光」と称される人でも、言い訳と開き直り、自負と自画自賛で対談は終了している。第三に、何と野坂はこの川中島平を訪問して、講演と、農業婦人三人との懇談をしているのである(p119~130)。

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2017年1月15日 (日)

グルメ時代の危機

150x150_square_587797081 グルメ記事、グルメ番組・ブログが花盛りである。こんな時代になることは、端(はな)から分かっていたが、決して差別感情からではないが、女性の地位向上が寄与していると思う。女性は適者生存のために食への関心が強い。男性は馬鹿だから、空理空論を弄ぶ傾向がある。そして、女性の習性から男性は取捨選択され、結婚できない男が増える訳である。私は米やら野菜やらを自作しているが、卑近の女性から、「御飯が好き」という言葉を聞いた試しがない。パンやパスタが好きというのである。道理でこんな田舎でもパン屋が多い筈である。この根本的な差異は何なのだろうか、と考えたこともあるのだが、未だに分からない。「柔らかくて美味しい」と言うが、固いのは美味しくないのだろうか。スーパーに立ち寄ると、固い食材は殆どなく、あってもデンと商品棚に干からびて残っているのである。冷凍・冷蔵技術が発達したからかも知れない。受験生の時には、東京で生活して色々食したのであるが、旨いと思ったことは一度もない(大抵は塩分&カロリー超過で彩り悪い)。余りにも不味いので二度食い(他の食堂で再び口直しすること)したこともある。酷い所では食い逃げを警戒され、銭湯では無賃入浴の嫌疑をかけられ、やむなく二度支払ったこともある。一刻も早く東京を離れることを至上命題にしたほろ苦い経験がある。だから、すぐさま離京してしまい、大学生協などで胃袋を満たす日々が続くこととなった次第である。グルメの番組を見ていると、行列しているのが旨い店、或いは、予約が困難な店が旨いという評価があるというが、どうかしている、としか思えない。喰うことは大事なことではあるが、喰うことで慢心することは大事なことではないのである。むしろ軽蔑すべき事柄である。東京の番組ではマグロが重宝されているが(大阪では番組にならず、メバチ中心)、マグロは沖縄で食するのが良い。牧志市場の裏通りにはマグロ専門店が並んでいる。マグロの産卵地であり、冷凍ではなく、その日の新鮮なうちに山盛りで、旨い泡盛を傾けながら、存分に味わうことができるのであるが、そのことを知っているヤマトンチューは寡少である。宮本常一は父親から出郷の教えを授けられたという。曰く、「金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ」と。関西では、行列は「金龍ラーメン」か「りくろーおじさん」位しか目にしたことがない。行列とあれば他の店に馳せ参じるのが普通である(帯広でもそうだった)。平均値が高いのである。第二に、東京の人間は肉食動物である。例えは豚には悪いが、豚のような顔をしている人間が食しているのをよく目にする。共食いである。最後に、殆どの人は野菜の旨みを知らない。いくら野菜が高いとはいえ、野菜を飾り物して提供しているレストランが高級と思われているのが分からない。バランスを考えてほしい。肉を食するために野菜があるのではなく、デザートも果物への配慮が足りない。アボガト?アホか、と思ってしまうのである。季節感を演出せんかい(完全に関西弁になっていますな。笑)、と見聞していて冷笑してしまうのが屡々である。やはり、食道楽の関西の方がレベルが高い。だから、在住の頃は、休みとなると懐に数万の身銭を入れて、外食に繰り出したものである(だから、未だに赤貧に喘いでいる。泣)。当然、二度食いすることはなくなった。政治風土としては三流であるが、やはり歴史と文化の上では関西は一流なのである(大正時代まで、大阪は日本一の都市だったことを知っている日本人はいまい。大阪の人すら知らない)。事実、近郊の農漁業の発達と市場規模のレベルでは、築地市場や大田市場では及ばないのである。春菊(関西では菊菜=食べる風邪薬)ひとつとっても、その差異は歴然としているのである。ちなみに、関西では、客が黙って清算したら、その店の味は劣悪である。ホントに旨かったら、関西人は精算時に必ず「旨かったわ。また来るわ」と付言するのが礼儀であり、実際、常連さんになるのである。それ程関西では、店舗同士の競争と栄枯盛衰は激しいのである。

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2013年7月18日 (木)

貨幣経済の陥穽

20130718083749 八時過ぎに田畑に出向いて作業と観察をして、やはり、余りにもの暑さと発汗のために、自宅に逃げ帰るdash。先日の酷暑とまでになっていないので日陰に入ると汗がスーッと引く。今年は畑作業は余りしていない(草取りばかり。sweat01)。ニンジンと胡瓜とオクラとサシミウリのみである。サシミウリは、川中島白桃に続く第二の川中島地区の特産品と位置づけられて、普及に努めているようである。JAファームで販売していたので、早速苗を購入して畑に。皮を剥いて半分に切り、種を取って薄切りにして、わさび醤油につけて食べるらしい(現在実が生育中)。より熟して粕漬けにすると良いらしい。ちょっと期待して育てている。しかし、瓜類はうちの嫁さんはいい顔をしない。次から次と実がなって処分に困るだけでなく、味もあんまり好きではないらしい。世間一般では、粕漬けの消費は落ちているということだが(胡瓜と比較すると栽培地も殆ど見ない)、さっぱりとした味は、夏には最適と思っている。そもそも、カネさえ出せば喰えると思っているあり方は、どうも解せない。そう思い込んでいる人がスーパーやコンビニを繁昌させているのだろう。元々、村落共同体では商品経済には無縁であり、よくあったお裾分け行為そのものは「贈与」だったのである。そしてそれは無償だったのである。コメだって購入したらあれこれと苦心する必要もないが、金を稼ぐのは労働力を切り売りする別の手段で、食料は獲得したカネで入手するという矛盾したあり方は、どうしても自分が許せない。資本主義社会である限り、近代国家体制である限り、本来のそうしたあり方は許されないものであるが、隷属を拒否しようとすればそうするしかないのである。国家が国民に要求する「自己責任」とは、国家の責任放棄の言い訳に過ぎないのであって、原義の自己責任とはそういうあり方なのである。それと同時に、相互扶助も成立しているのがあるべき社会なのである。国家が責任を取った試しは、歴史を回顧すれば、皆無であると思っているangry。今次の参院選では、くれぐれも詐欺政党に引っ掛からないようにしてもらいたいものである。尤も、自ら詐欺政党に引っ掛かる手合いも多数のようですが。いえ、決して鴨ネギとは申しませんが・・・(笑)。

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2012年11月17日 (土)

空しさの行方

201211161517291 稲藁を切る作業をする。土に戻すためである。うちの田んぼは、他の田んぼと異なって雑草が茂っているだけでなく、努めて循環を目指している。きれいではないが、土地から強奪せず植生に添った農業を志向しているからである。有機農業にも批判的である。可能な限り、無農薬と無肥料を心掛けているが、別に現代農業を否定している訳でもない。自分は本来の収穫物を食したいだけである。だから、採算無視である。健康食品やサプリメントがテレビ通販で大流行であるが、ほとんどまがい物である。むしろ、人間の健康を破壊するものと言って間違いない。

32744436  「糖質とタンパク質の同所性」は食物連鎖のなかで食材を生産しようとするシステム(=食を通じた自然との共生)であり(p72)、その地域にあった糖質とタンパク質のセットは、グローバル化によって根本から破壊されようとしている(p221)、というのがこの本から読み取れた私的な結論である。殊更、主旨を探るのがこの本の狙いではないようであるため、ユーラシア大陸の農業研究をそのまま紹介している。日本人がパン食、肉食を始めてそれ程長くはないが、これは「地産地消」に反している。身近で麦の栽培はなく、牛や豚や鶏を育成している現場を目にしている訳でもないにもかかわらず、それが口に入ることに何の疑問を感じることがないことが不思議である。永田町や霞ヶ関に巣くう輩が国民生活を破壊しているのと同じである。加えて、三重の憲法違反の解散総選挙ということである。国民も「景気を良くしてほしい」、「消費増税をやめてほしい」などと要求している始末である。いつまでも、かつての願望を抱き、反省もせずに現状を肯定しているだけなのである。なるほどな、どっちもどっちだなと思うだけである。

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2012年1月13日 (金)

『ショック・ドクトリン』

32638125  とは云うものの、人は生きてゆかなければならない。『ショック・ドクトリン』では、フリードマンの新自由主義を根底的に批判する。曰く、それは「衝撃と恐怖」を駆使しながら、「三十年に及ぶシカゴ学派のあらゆる実験は、大規模な腐敗と、セキュリティー国家と大企業とのコーポラティズム的共謀の歴史だった」(p340)ことを明らかにしている。余剰資金は株式、通貨、不動産、穀物などの各市場を渡り歩きながら、常に危機と不安定を生み出しながら国家主権と人心を食い荒らす悪魔の思想なのである。格差の拡大や監視社会やグリーンゾーンを醸成して、「人口の25%~60%にも及ぶ国民を切り捨てる」(p590、645)ことに、世界の人々は漸く気付き始めている。にも拘らず、日本においては大手を振って闊歩している。日本に照準を当てているのかも知れない。アジア戦略に舵を切ったアメリカ政府の一環とも言えるだろう。イランとの二正面戦略なのだろう。財務長官が乗り込み、アメリカの意向を伝えている。「社会保障と税の一体改革」とは、社会保障を削減して財政再建と称して増税をし、中産・貧困階級から更に収奪する。と、こういう意味なのである。うつ病になど罹患している暇はないのである。Naomi氏は、「住民による自力復興」(p680)に希望を託している。精神的な掛け声ばかりの「絆」ではなく、「残り物(scrap)」を掻き集めて地域の協同性を創造することが必要なのである。国家など恃みにしないことである。

20120106130925 戸部のおたやで、例のように、小だるま二つと福飴を買い求めたが、家族の誰も飴を口にすることはない。口が肥えたのだろう。飴はもはやお菓子の範疇から外れたのだろうか。日本において、スナック菓子やアメリカ式のファーストフードが席巻し始めたのは、1970年代後半以降である。食嗜好が妻子と異なってしまうのはやむを得ない。ここでも市場原理主義は浸透しているのである。そうして、食と文化は改変しているのである。

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2011年12月13日 (火)

真の「構造調整」

32653918 世界では10億の人々が飢餓状態であり、その半数はアフリカに集中している。ために、一日に二万五千人が死地に追いやられている(p8~9)。この問題への関心は、スーザン・ジョージの『なぜ世界の半分が飢えるのか』(1976年、原著初版)という名著以来であるが、実は、読んでいない。多分、35年前に彼女が指摘した状況とほとんど何も変わっていないだろう。この本のサブタイトルには、「先進国の余剰がうみだす飢餓という名の人災」とあるが、今や、というよりは、当の昔から食糧はビジネスであり、国家戦略なのである。著者らは件のWSJ紙の記者であり、基本的な姿勢は透けて見える。いわゆる「緑の革命」の推奨であり、単なる食糧援助でなく、「国際社会の不均衡なパワーバランス」を正すという「良心」的な支援である。監訳者も緑の革命の支持者である。とはいえ、最も興味のあったことは、食糧援助の「鉄の三角関係」(p148)と知られる既得権への取材内容であり、アフリカにおける小農たちに関する記述であった。やはり、ジャーナリストだけに現状がリアルに理解できる。しかし、それだけである。「構造調整」(Structural Adjustment)に対しては、真の意味での「構造調整」でしかないのである。

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2011年9月13日 (火)

食糧安保論の蒙昧

20110913123625  暇さえあれば寝てばかりいます。身体もガタがきて肉体労働がきつい。仔猫の方が余程活動的なようで、餃子とミルクを与え、おなかが満足すると、遊びか排泄などのために徘徊します。雌猫なのでやや下半身デブになったようですが、食べ終わると腰をもっこり挙上するのは、猫そのものの特性なのか、この猫だけの個性なのだろうか。

32589465  中村靖彦という人のことについては何も知らない。奥付にある経歴程度である。タイトルからして食糧安保の話であることは想像に難くない。では、食糧安保(food security)とは何かと問えば、定義は分かるが、その内容は様々な問題や利害が錯綜していて、なかなか理解がし難いだけでなく、言及する政治家や農政官僚などの思惑があって幻惑されること、必定である。一番分かりやすく考えるためには、防衛問題と同列にすると分かりやすい。農水省の権益を守るために自給率向上を唱え、食糧安保が実は国益という観点からほとんど論じられているのである。この新書も同じである。特徴は、反中国の排外意識を煽る内容(p165など)や空想的な農地公有化論の展開(p66~)などに現れている。さすがNHK出身のジャーナリストである。しかしながら、民衆にとって国益などは何も関係がないと考えてしまえば簡単なことなのである。食糧輸入が途絶して困るのは、資本主義制貨幣経済に漬かっている都市であり、食糧危機の折には都市は滅亡するのである。いくらカネがあっても、海外から食糧を調達できないことも予想される。だから民衆はその備えをしなければならないし、東日本大震災と福島原発事故を経験したのだから、いい加減考えを改めた方が良いのではないか。「世の中で恐いものといえば、カネはあるが食糧のない隣人である」。

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