食と農業

2024年4月27日 (土)

イデオロギーに抗する

34321027  世の中は本当にままならない。春の気配が始まった途端、もう夏の到来である。地球温暖化は凄まじい勢いである。ゆき過ぎた人為的な営みがブーメランとして我々にのしかかっているのである。これに科学的手法を駆使した資本主義という経済体制が加速させているのである。東京出生の著者は、長野県農業大学校の教授として土壌学を専門としていて、今回の著作は、三部作の最後を締めくくるものである。要するに、慣行農法に抗する有機農業の勧めである。1960年代後半、日本の農業は緑の革命の影響を受けて、旧来の農法を捨てて肥料の多投、農薬の大量投与などによる環境破壊と農村の共同体を破壊したのである。都市の繁栄と共に、若者は都会を目指し、地方は疲弊して「崩壊集落」と「地方自治体の消滅」を招来させたのである。人の弱みや悩みに付け込んで、健康食品や医療不安を煽ぐ保険商品がCMを席巻し、結果として、コロナワクチン接種と同様に、とどめの無い健康悪化と経済格差である。成長神話に駆られた都市イデオロギーに人々は侵されているのである。
 何が原因・理由なのか、を人々に考えさせる暇もないほどのグローバル化イデオロギーである。著名人・知識人ですら例外ではないのである。止まることを知らないともいえるのではないか。ウクライナやイスラエル問題でも、軍需産業の思惑とアメリカ帝国主義の狙いを「自由」と「民主主義」の名のもとに糊塗している。アメリカはあらゆる戦争と紛争に一枚噛んでいるのである。なぜ世界に戦争がなくならないのかという人々の疑問と思考に答えるどころか、加担しているのが現状である。アメリカは建国以来一貫として戦争国家であることは教科書では教えてくれない。バイデンもトランプも、コ〇・コーラとペ〇シコーラの違いに過ぎない。教科書の歴史的記述は、正史イデオロギーに満ちている。真正阿呆と阿呆の化かし合いと言えるだろう。原発政策も外部化して推進され、地球と人々を汚染させているのである。費用対効果(コストパフォーマンス)という透徹したイデオロギーは欺瞞である。体制内的イデオロギーは遍満しているのである。

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2024年4月 2日 (火)

最後のパラダイムシフト

34543296_20240402104101  この所、この本を丹念に読み込んでいる。自然に対して無理に負荷をかけない農業志向に添った農法である。アグロエコロジーは、慣行農法の裏返しの農法というか、農業である。それは同時に、「緑の革命」から脱却した農業である。類似したものに有機農業があるが、より現在の農業を根本的にパラダイムシフトする農業である。農業を生態学的に分析して、持続可能な農業を志向する実践的な社会運動として捉えられている。全世界のフードシステムを変換する農業である。
 現在、我々の食べ物はほとんど工業製品である。紅麴のサプリや原料とした商品が社会問題となっていて、その原因や被害に関心が集中しているが、問題の根幹である農業的な問題は完全に忘れ去られている。グローバルに進化した「アグリビジネスが膨大な富を支配して農業生産のほとんどの物理的、財政的社会基盤を所有している」(p418)のである。食の主権は消費者であるかのように偽装されているが(近代経済学は諸問題を前に右往左往しているだけである)、主権が奪取されているばかりでなく、我々の良心さえも取り去られているのである。消費者は口にする食品の安さばかりに関心を奪われ、農業生産者を社会の最底辺層に落とし込めるイデオロギーに汚染されているのである。利益の高い加工食品やインスタント食品、ファーストフードやミシュラン(グルメ)ばかりに関心を奪われていないだろうか。いつかパルプが入ったカップラーメンに吐き気を覚えて、それ以来カップラーメンを飲食していない。
 「世界の人口の半数が農業で生計を立てている」(p435)のだが、農業者に渡るのはその16%以下である。キャベツ一玉100円としたら、農業者の手取りは精々16円である。北米の食肉消費量は一人当たり年間約120㎏であるが、米を主食とする日本人の米消費量は一人当たり年間約60㎏である(食の欧米化)。また、「世界の全人口が日本人と同じ水準の生活をするためには地球が2.5個必要」(デジタル大辞泉、「エコロジカルフットプリント」の項)なのである。自民党の裏金問題はくだらない問題である。離党勧告ではなく、政界からだけでなく、人間社会からの追放が相当するのである。国会無視の武器輸出を閣議決定する政府も同様であり、イスラエル問題も同様なのである。 

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2023年10月10日 (火)

新しい時代のとば口

34222390 「農業は儲からない」、「こんな苦労は息子たちには継がせたくない」というのが農業従事者の率直で痛切な声である。対して、(都会の)消費者は農産物の価格上昇に悲鳴を上げている。よく考えると、食料の殆どは工業製品となっていて、人々はそれらを食しているのである。一方で農業従事者は近年200万人以下に激減して、他方で世界的に慢性的な飢餓に直面している人々がいて、こども食堂やフードバンクなどに見られるような食料不安の只中にいる人々がいるのである。気候変動や食料問題よりも、戦争や争闘に明け暮れて軍需産業に依拠しているのが世界の首脳どもなのである。生身の人間を「人材」とし、食べものを儲けるための「商品」となった理由が近代の政治経済システム(資本主義=経済成長という名の下で金儲けが続く経済体制)であり(p5~6)、歴史を遡及して全面的に暴露した本が『食べものから学ぶ世界史』である。ジュニア向けの良書である。
 資本主義は産業資本から金融資本に集中してマネーゲームと化している。市場主義経済は従来の共同体システムを破壊し続けている。さらに、情報化社会は、情報がカネとなって、M.フーコーが論及した監獄社会となっているのである(無料アプリの利用で個人情報が筒抜けとなっている)。
 テレビのグルメ番組を眺めると、日本人の容貌が変化していることが分かる。高蛋白と油脂過剰と糖分過多のためにブクブクしている。ダイエット産業が繁昌する筈である。田舎の職業高校出身でまごまごしていた頃、有名高校出身者の容貌は、頭脳にエネルギーを消費している所為なのか、引き締まっているように感じたが、現在の大学生はどうなのだろうか。日本の政財界では、東大閥と慶大閥と早大閥が主流となって支配しているようだ。忖度という言葉は本来いい意味であったが、今では悪い意味での流行となっている。ジャニーズ問題もその一端である。副題の「人も自然も壊さない経済」(「命のための経済」p169)を望む人々(特にジュニア世代)は、この著書を読んで判断してもらいたいものである。我々は思考を取り戻して、新しい時代のとば口に立っていることを自覚しなければならないのである。

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2021年3月 7日 (日)

漬物についての誤解

16_1_l  先日、大学時代の友人と電話で野沢菜漬の話となり、野沢菜の約8割以上が長野県産ではないことに驚かれたのである。野沢菜は(信州の平地では)8月下旬か~9月初めの播種、11月下旬~12月初めの収穫が標準的である。それ以外の栽培は他県産となるのである。ところが他県産でも長野県の特産品(野沢菜漬)となり、伝統野菜となっているのである。冬季には観光客やスキー客に提供されて喜ばれているが(ほぼ地元産)、お土産品などの販売品が県産の野沢菜(地元では「お菜」もしくは「菜っ葉」、野沢菜漬けそのものは「お葉漬け」と呼んでいる)ではないことを大抵の信州人は知らないのである。また、信州人は長寿県として夙に有名になっているが、長年の減塩運動が普及して、各戸の野沢菜漬けという冬の風物詩は廃れて、スーパーでの購入となり、消費は減退しているのである。食生活の変化によって、やがて長寿県から漸次陥落してゆくと予想されるが、厚生連が主体となって地域医療体制が比較的整備されているために、沖縄県のように一気に陥落する事態にはならないのではないか。
 さて漬物であるが、長年の消費低迷が続いているのであるが、コロナ禍において需要が上昇したそうである。めでたい話であるが、ここでは現代日本人の漬物に対する誤解について取り上げてみたい。一つは、日本人は漬物文化を知らないことである。漬物の味も漬物の意味も知らないのである。漬物は近年においてパック弁当の片隅に侘しく置かれた浅漬けが主流となっているが、元々、漬物は「香の物」または「お新香」と尊ばれ、立派な副食であり、伝統的な野菜加工品であり、発酵保存食品なのである(発酵でない漬物もある)。食の洋風化と和食離れに伴ってお米を食べなくなっていることも低下の要因となっている。つまり、全体的に和食文化は衰退して、辛み食品ブームがその象徴である(辛みは味覚ではない。肉食と油脂と糖分の過剰摂取と濃厚調味。これ参照)。もう一つの誤解は、漬物が医学や栄養学界から目の敵にされていることである。塩分を過剰摂取するとされているのである。しかしながら、これは大変な誤解である。新つけものにおいては、塩分は梅干しが10%ほどであるが(日本食品標準成分表によれば、塩漬けで4.4g、調味料漬けでは1.5gである)、漬物の大抵は2~3%であり、漬物からの塩分摂取量は、低塩化によって1日1gと少ないのである。また、味噌汁1杯の塩分量は1.2gで、「1日減塩梅干し1個と味噌汁1杯、麺類の汁は残して醤油やソースなどの調味料をかけない」であれば何ら問題がないのである。むしろ、その他の食品の塩分量を心配した方がいい位である。だから、漬物がやり玉に挙げられるのは不当と言わなければならないのである。自分でも梅干しやラッキョウ漬や野沢菜漬などを作って試食し、博識(?)と食に関する信条が生まれたのである(笑)。いけないのは、大臣や高級官僚の「接待漬け」なのである。

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2020年7月29日 (水)

『農家が消える』

2020071817290000  午前中に田んぼと畑の状態をチェックするのみで、日がな一日、体を休めて午睡もする。年齢を重ねて体力も落ちてきているのである。あの世が近くなり、諦念することが多い。農に生まれて農に死ぬ、ということである。
 日本の農業と農山村の衰退が叫ばれて久しい。しかし、無用の長物である自公政権は農協つぶしを公言している。テレビでは、お笑い芸人が「うまい!」「おいしい!」という番組が氾濫しているが、これを見ると、「酷いもんだな」と嘆息するばかりで、空しく机に戻るのが日常化している。農業生産物に対する畏敬が足りないのである。生産する農家への想像力が足りないのである。半世紀ほど前には、「飯だと聞いたら火事より急げ」という諺があって(『信州ちくま 食の風土記』p147)共食が当たり前であり、「食べものを粗末にするとバチがあたる」あるいは「ご飯(米粒)を残したら目が潰れる」と子どもに諭したものであるが、今では金さえあれば商品として購入し、煮て焼いて食おうが勝手である飽食の時代となっている。驚愕すべきは、出荷された食料の三分の一は廃棄されている常態である。消費者は低廉な野菜が高値となったら不平を鳴らし、農家の手間暇への関心はほとんどない。例えば、イネとヒエの識別や野菜の一番果は早期に収穫することは農家の常識である。このように考えると、都会のテレビ芸人ほど罪深い人々はいない。
 1960年には基幹的農業従事者が1200万人だったが、今では200万人を切っている現状を知っているのだろうか。集約された地域農業の技術や伝統野菜品種が継承されていないこともある。農業後継者不足は地力や地域保全とも連関する。自然との共生は地球環境を守ることでもあるのである。また、食糧安保の考えからも、有事には食料輸入は途絶えて食糧危機が到来することすら予想される。私見によれば、農業の担い手不足の中にこそ日本の全ての問題が集約されているのであり、この視点から見るとすべての、そして異常な日本社会が見えてくるのである(参考文献『農家が消える 自然資源経済論からの提言』)。畢竟、農業への軽視と侮蔑である(野坂の農業論も参照。これも)。

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2019年10月 2日 (水)

線香花火としてのオリンピック

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 先日の日米貿易交渉の基本合意によって、日本の畜産農家は土俵際まで押し込まれている。生業としての存続の危機に瀕しているのである。ましてや、このところの7県にも及ぶ豚コレラの蔓延による痛手が追い打ちをかけている事態なのである。「農業は儲からない」「農業の仕事はきつい」などの評判で、農業への偏見、後継者不足、農業技術の継承難など、様々な難題が拡大して、崩壊の危機に直面しているのである。しかしながら、農業は本来、多様性と多面的機能を包含しており、そればかりでなく、例えば「グリーンツーリズム」のように、自然と地方との交流を通して人々の余暇活動の一つとしても注目されている。旅行やグルメ巡り、スポーツばかりが余暇活動ではないのである。家庭菜園を始め、農業は、食糧と環境という意味では、地球的規模の役割(glocal)があるのである。活況化しているJA産直所や道の駅での有効活動によって、地方経済の循環にも貢献しているのである。
2019092917100000  ところが、小泉某という大臣は、以前自民党農林部会長を経験して、農協解体と農産物輸出が日本農業の未来に資するという立場であるが、こんなことは実情を知らぬ農業政策であり、むしろ農業崩壊に貢献するものである。実際には、貿易交渉にあるように、衰退する工業部門で唯一残った自動車産業のための犠牲になっているのである。そして、逆進性のある消費増税である。経済の6割は消費によって賄われているのにかかわらず、日本政府は、経済衰退の施策を講じている。また、政府は三権分立の憲法を守らず、憲法改悪を唱道している。米軍機を「大人買い」している。余剰トウモロコシを買い込んでいる。原発事業金を使って関電への贈収賄が報じられている。東京オリンピックはそれらの集大成となるのではないだろうか。

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2018年12月10日 (月)

日本人の破壊性

32260807 小春日和の今日、著作集第三巻を読了する。東北と北海道は積雪で大変らしい。厳しい冬の生活は、どちらかというと、記録されることが少ない。それだけに、正月や春の訪れに対する思いは切実である。ために、若者が都会に出てしまうのは、ある意味では当然なことかもしれない。北信州では、お葉漬け(野沢菜漬け)の時期であるが、50年前までの冬の風物詩は廃れて、スーパーでの購入になって、各家々での作業風景はほとんど見られなくなっている。しかしながら、野沢菜を漬けること自体がお年取り・正月の準備であり、そのものだったのである。敷衍すれば、9月に野沢菜の播種からお年取り・正月の準備が始まっていたのである。よく誤解されているのが、大晦日の料理=おせち料理である。お年取りでは、黒豆も数の子も栗きんとんも昆布巻きも出てこない(筈)である。生家では、焼き鮭、里芋煮、鯉こく、なます、酢だこ、茶碗蒸し、お煮かけなどの料理が炬燵大の朱塗り広蓋の中に広げられていたのである。これのどこがおせち料理なのであろうか。当地では、お年取りがメインの行事であって、おせち料理を食する習慣はなかったのである。元旦は「寝正月」で雑煮を食べ、二日から挨拶回りや仕事始めとなるのである。今様のように、「元旦早々から初詣などといって社寺へまいる客のふえたのは、年夜のまつりがうすれて来たことに大きな原因があるようで・・・昔は正月のにぎわいは二日が中心であった」(p275~276)のである。キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝うという倒錯は、バブル期の80年代に始まったのであるが、経済至上主義と新しい所有観念は、正月の様相もクリスマスの有り様も変えてしまったのである。日本人は伝統を重んじていると自慢しているが、「実際には自分たちの生活の中できずきあげてきた有形(無形の)文化をのこそうとしなかった」(p69)のであり、その現象は、生活誌や建造物など身の回りには多くの破壊されたものが検証されるのである。

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2018年9月 8日 (土)

自然の猛威の訳

2018090608450000 日本列島は災害大国化している。台風21号の被害がつい先日だったのに、今度は北海道胆振東部地震の被害である(こうした災害では、常に、社会的「弱者」が大きな被害を受けているということを決して忘れてはならない)。叔父等親戚が住んでいるのだが、連絡がつかない。電話しても通じない。心配である。こんな時に総裁選対策として「やっている振り」を演出しているのが自公政府である(マッチポンプである)。セコイ男の顔には、喜びがこみ上げて必死の形相が窺えない。また、アカンは地震の1分後には対策本部を設置したと高慢にも虚言を弄したのである。おまけに、欠陥人間は何の成果も期待されないロシア訪問ということで、被害者救援や支援など一顧だにしないのである。疫病神に取りつかれた日本は、早晩、衰退の一途であって、大歓迎である。マスメディアを始めとする東京の愚かどもは、この機に乗じて首都圏の危機管理を報じ、原発再稼働を宣伝している。自分たちのことしか考えていない証左である。北海道地震の影響は計り知れない。北海道は「日本の食糧庫」と言われ、海産物や野菜、畜産だけでなく、食味でも特A連発の有数なコメの生産地にもなっていて、食料自給率は約200%で約1000万人を養っている計算である。それも、昆布や小豆などの和食素材の宝庫である。北海道物産展が流行る所以である。輸入が途絶すれば、恐らく、今の日本人の内、約4000万人しか食料にありつけなくなるだろうが、農業に関心を抱く都会人は少なく、農業の将来を心配する者は皆無だろう。自分の食い扶持すら霞のようになっているのに気づかないのだろうか。今の日本には、お飾りの「日本国憲法」はあるが、民主政治はない。世襲政治屋が跋扈するばかりである。従来、北信(長野県北部)は保守的傾向が強かったが、世襲議員を排斥して、今では中南信(長野県中南部)が自民党の牙城に化している。すべては欲得で決する縁故社会なのである。加えて、都市住民の右傾化がそれ以上に強固に補完しているのである。しかしながら、自然の猛威は、この国の極右政治の基盤を吹き飛ばし、変革を迫っているのである。
 「自然に強制を加えてはならない。むしろ、これに従うべきである」(エピクテトス)

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2017年11月25日 (土)

農学と農業

33666567 今年はコメの自家消費が早く、既に「新米」(風さやか)を食しているのだが、その味と言えば、少し旨みが乗っていないような気がする。香りもいま一つ。やはり収穫期への途上に降雨と曇天が影響していて、登熟には不足したのだろう。だが、米粒が粒々感がはっきりしていて、やや大きめと見受けられる。ほくほく感にやや欠けるという印象である(冷めてもおいしく感じられるのでおにぎりに適していると思われる)。登熟時や稲架掛け時に秋霖にやられたこともあるだろう。コメの食味にはコメの炊き方も影響する。固目もしくは柔らか目など人により好みが異なるのであるが、炊飯器の機能は向上している一方、コメの研ぎ方に失敗している現場に屡々直面している(半世紀前はお釜でゴシゴシ研いでいたものだが、今では、精米技術の発達によって、コメは研いではいけないのである。もう一つ目にするのは、洗い過ぎて栄養分が殆ど流失しているコメ洗いである)。これではコメの消費が半分に減衰するのは必定と思われる。コメの食味は出来半分、炊き方半分である。
 タイトルが仰々しいのだが、後半部は飛ばし読みだったが通読してみた。農業は、風俗、歴史、生活、環境など、人間が生きている全領域を包含しているのだが、農業の学問(=農学)は、旧来農学部・農学校や農業高校で教えられ、一般に低評価されていたのだが、今や農学は再評価されつつある。生源寺眞一の農学論は、「はじめに」と第一章、第二章に、農学の「学」としてその概要が分かり易く展開されている。即ち、農学とは食料を中心に衣食住の問題に深く関わる科学と定義されている(p4)。取り分けて、現代の農学は、持続可能な発展(sustainable development)を目指して、環境を整えるものづくりとして捉えられているという。そして、農業経済学とは、「経済学の理論が役に立たない問題が存在することを、当の経済学を応用する過程で学び取ることができる学問」(p38)と考えている。これには、結局よくある開発論ではないか、農業にはそれに捉われない分野もあるのではないか、という異論・批判もあるのであるが、ここでは現代農学の動向を認識した次第である。

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2017年10月16日 (月)

バッタを倒すのは誰か?

2017100915270000 嫁さんに自家野菜の味を尋ねると、野菜の味が濃いことに納得してくれた。してやったりという思いである。スーパーなどで購入する野菜は、F1種の播種により均一で、農薬で虫食いもなく、化学肥料の多投により肥大化するであるが、概して生産者からすれば安値である。味は薄くて野菜独特の匂いもなく、はっきり言えば、石油で作られている。そういう野菜を食べてばかりいると、アレルギー体質になることは必定(このことは科学的には確定していない)であるのだが、ブヨブヨのさしが入った霜降りの人気に翳りが聞かれるように、野菜本来の味に回帰してほしいものである。自家野菜は、無農薬のために虫などに齧られ、ほぼ無化学肥料のために成長は緩慢であり、販売するには不適というデメリットがあるのだが、自家野菜としては過分である。この醍醐味は自作でしか味わえないものである。耕作放棄地が激増する時代にあって、家庭菜園やベランダ菜園ではなく、国民全体が自作農になる道(自作自食)という選択肢もあるのである。そうなれば、金があっても喰えない時代も夢ではないのである。兵糧攻め戦略である。

33602048 するすると読める本に出合った。バッタ博士の奮闘記である。儲かる仕事ではない。オーバードクターという言葉にあるように、日本では多くの才能が道端に廃棄されている。政治的意図もあり、大した権威でもないが、今後ノーベル賞など期待できないだろう。だって、こんな政治だもの。権力は無批判な無能者に掌握され、戦後の民主主義は幻影となり下がり、いざとなれば強行採決され続けてきたのである。戦後一貫として支配を続けてきた政党は、最高法規としての憲法を死守するつもりは全くなく、むしろ改悪を党是としている。対米従属の施策とグローバリズムに憑依されている始末である。そして原発再稼働・原発と武器輸出に邁進していて、極右政党そのものになっているのである。元々がそうなのだから。だから、そんな政党政治は何れ破局となるのは必然である。高々3割の、イカれた政党支持者によって人々が道連れとされるのは真っ平なのだが、無党派層が投票行為として動かなければ、石油によって生産された無味な野菜を齧り続けるより他はないだろう。もう一つは、日本という国家からの逃亡である。憲法改悪が目前に切迫している。今次の総選挙は歴史の結節点となる選挙なのである。

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