介護・医療

2021年2月 5日 (金)

若者に学ぶ

34132252 医療現場がとてつもないヒエラリキーにあることは、かつて指摘したことがある。様々な患者が受診し、その人となりや生活(習慣)や人生を垣間見ることに戸惑うことも屡々である。医師は病原の特定と治療方針に注力するのだが、実際に患者と向かい合うのは医療行為を行う看護師である。経験として、医師の一瞥で受診を終えたことがある。また一方では、父親の入院の付き添いで、読書する自分の姿を見て、年配の医師が「大学で何を勉強しているの?」との問いに学科を白状すると、「それはすごいな」と励まされたことがある。また、日本でトップレベルの医学部学生と交友関係を取り結んだことがあったが、こんな自分と付き合うような医者の卵の彼らは、パチンコ屋や教師や会社員の息子たちであったことは言うまでもない。彼らはハンセン病院への研修をしたり、総連活動をしていたり、被差別部落の医療に専心する医師も見てきたのであるが、近年は医学部志望が進学校の方針となり、一つの階級として形成していることは否めないだろう。貧乏人の子弟には医師として活躍する舞台は、ほぼ不可能となっているのが現状である。かつて見た豪放磊落で豪傑な医師など見る影もなく(自分の尿をごくごくと飲み干す酔漢の外科医に呆気にとられたり、貧乏人からあまり金を受け取らずに潰れた一代限りの開業医もいたのである)、逆に受診で医師に説教されたことが近年になると何度かあるのである。他方、看護師は中高卒から養成機関を経て、ごく一般的な子女が正准看護師としてそんな医療を支えているのである。分からず屋の医師に比して、看護師は直接対面して、患者にとっては治療の当事者なのである。
 この本の中の著者は、20代の初めから医療に関して問題意識を抱き、豊かな感受性をもって日々の医療現場の中を真摯に奮闘している看護師である。このような若者がいることに安心すると同時に、老境にある自分のあり方が問われていると思う。両親たちの残してくれたものに唯々甘受しているばかりで、子どもや若者に一体何を残してやれ(る)たのかという問いが沸々と生起するのである。オリンピック関連の某政治屋の女性差別発言は、耄碌した老人の老害としか言えない。排外主義と軍事依存の彼らであるからである。彼女の医療に関する見解は、随所に散見されるのだが、「人として当たり前に尊重される医療」(p55)を願い、「医療従事者ー患者双方が、互いに人間であると認識し合った上での、共に歩み寄えるような医療」(p124)を模索しているのである。やはり、患者(ひと)に寄り添える看護師というのが、本来の看護師としての職業倫理であるように思われるのである。尚、依存症への認識が病気としてのそれとして共有されるべきという見解(p160)は多少疑問に思うが、経験や医療現場からの若い著者の発信に傾聴する価値は極めて高いのである。

 

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2020年9月14日 (月)

終焉への道

2020091218030000 陰気な政治屋が日本国の宰相になる。農業に嫌気がさして上京したというが(この自慢の苦労話が東北農民をバカにしているのに吐き気がする)、唯々都会に出て立身出世をしたいだけだったのである。秋田は、国学の士である平田篤胤の出生地であり(彼もまた故郷を捨て出奔した)、奥羽越列藩同盟を切っ先に裏切り、今でも自民党の根城(自民王国)である(県知事も久保田藩の末裔である佐竹氏という驚きである)。そのために、現在も人口流失と過疎化が激しく招来しているのである。一刻も早く改変すべきである。
 ここからは持論であるが、本来、普通科の進学校は廃止するべきである。都会への大学と「有名」大学進学が目的だからである。中学卒業後は職業高校への進学制度を構築するべきである。適性がなければ別のコースへの編入もスムーズに編成されるべきで、学校制度はいつでも進路変更ができるように複線式にするべきなのである。普通科の高卒では社会的に何の意味もないのである。大学入学は20歳過ぎで十分であって、その間に学生は適性と能力を積み上げるべきなのである。医学部は、その意味で最も適性の無いものが所属している典型的な例であり、社会的地位を確保しながら患者を顧客にして荒稼ぎしている人物が多くいるのである。病院を受診してみたら一目瞭然である。患者が死ぬとわかったら何の関心もなく患者を見放すのである。エリートと言われる彼らが、自民党の圧力団体としての医師会と医療皆保険制度に安住しながら、この間のコロナ禍において、国民のためにほとんど役割を先導していないのも尤もなことである。むしろ自公政府のお先棒を担いでいるのである。ある著名な大学の医学部教授会を垣間見たことがあったが、それはそれは「白い巨塔」だったのである。
 また、職業高校や理工系大学にしても、理工系の予算配分を格段に重視するべきである(尤も、文教予算が過少すぎるのであり、膨大で無駄な防衛費を削減すべきである)。資源もなく少子化の時代に唯一期待できるのは、教育の力のみである。文系はリベラルアーツとして留めるのである。1991年に教養部(リベラルアーツ)を廃止するという文科省の失敗があったのだが、近年のノーベル賞受賞者を見てみると、知性がとても感じられないことが多い。教養を積んで理系的思考もできる人間の教育を目指すべきである。普通科の進学校卒で偏差値の高い医学部進学など洒落にもならない。患者の顔も見ず、問診と検査のみで、聴診器も当てずに触診もせず、患者とコミュニケーションも取れない医者などいらないのである。一事が万事、活力の無い日本になっているだが、自民党政治など全くもって時代錯誤と言わねばならないのである。

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2017年11月 9日 (木)

自立支援の矛盾

33324733_2 介護保険法の目的は、「自立した日常生活を営むことができるよう…」(第一条)とあるために、その法改正の度に「自立支援」が強請されている。これは国の介護給付抑制が狙いであることは間違いないが、来年度(2018年)の制度「改革」では、益々高じて自立支援事業に成功報酬制度が導入されることになっている。社会保障費が膨らんでいるのは、人口が多い「団塊の世代」が高齢化しつつあることもあり、致し方ない面もあり、しかしながら、財源問題は税の累進課税化で一発で解決するのである。この間のパナマ文書に続くパラダイス文書の発覚に見られるように、世界中の資産家と権力者は、どんな手口を行使してでも租税回避しているのであって、極右政党の自民党・政府が税対策をせずに庶民を騙して収奪しているのは、そのためなのである(モリカケ問題における嘘つき財務官僚の国税庁長官への栄転)。グローバリズムとは、強欲資本主義の同義語に過ぎないのである。
 介護民俗学とは物珍しい新たな手法と思われるが、民俗学の一つの手法=聞き書きを介護の分野に応用したものである。そして、現在の介護に対する問題提起となるものである。介護業界の問題とは何か。それは、介護する側と介護される側という分岐(関係性)である。元々、利用者は超高齢者であり、職員は大概若く、20代職員ではざらに存在する。半世紀以上の年齢の差があることが多く、知識や人生の蓄積の度合いでは懸隔しているのである。高齢者は、現実的には死に向かって人生を下っていく孤独と無念を覚えているのであるが(p108、279など)、その老いとその先にある死を、これから人生の花開く若きスタッフがどれだけ感じ取れることだろうか。その壁を論じることは介護業界では意識化されずに、仕事としては皆無となっている。介護技術のみに専心することとなり、それが逆に、その問題を遠ざけている現状なのである。スタッフが利用者の人生を全く知らずに介護していることはよくあることである。かつてはその経験知の故に尊敬されていた老人が、今ではものとして扱われている現実に出くわすことが屡々である。また、誤解して「してあげる介護」に満足して自身の生きがいと誇りとして覚えたりする逆転現象すらあるのである。利用者からすれば、疎んじられ厄介者扱いされ、自己決定もなく赤ん坊のように扱われてしまうことすらあるのである。問題行動に焦点化されて対処法に追われる業務の有り様は、介護事業所ではどこにでもある現象である。また、老いに価値を見出せずにバーンアウトに陥る職員すらいる。介護業界の繁忙は、専門家としての社会的要請だけでなく、業務に追われて身体的にも疲弊しており、低賃金がこれに拍車をかけているのである。だから離職率は業界随一となっている。介護労働に忙殺されているのが現状なのであるが、実を言えば、そんな業務など、どうでもいいのである。著者はその問題にいち早くアプローチして、一つの問題提起をしている。「老い」にも価値があることの発見(p282)と、民俗学的聞き書きの手法が、高齢者との関係を取り結び、丸ごと人として尊厳される方途であるという著者の確信(p291)が伝わる著作である。また、高齢者の心身老化に対して、保険費用抑制のために、国によって「自立支援」を強迫し続けることが本当に正しいのかと疑われるのである。

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2017年8月10日 (木)

介護の真髄

33524744 高口光子さんの仕事には平生注目しているのだが、しばらく遠ざかっている内に見逃していた近著を通読してみた。相変わらずの高口節が炸裂している(講演会でのそれは有名である)。それはさておき、かつては自宅で黄泉に出立するのが当たり前であったが、今では約78%が病院で、約13%が自宅で、介護施設では約9%となって、病院では、点滴や薬剤・栄養剤投入のためのチューブに繋がれて亡くなっているという。家族は少しでも親に生き永らえてほしいという願いと悔いを残さないために病院死を選択している。いわゆる、ターミナルケアの次元の話なのだが、これまた、家族には悩ましい問題なのである。介護施設での死は生活の場としての旅路である。高度な医療技術がなく、治療は行わないのが原則である。「施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということ」(p4)である。施設でのターミナルケアは家族の意思に沿って行われるのであるが、その時に家族にチューブを入れるか、救急車を呼ぶかが問われることになり、そしてここが問題なのである。家族として後悔しない選択を迫られるのである。救急病院に搬送されても死は免れないのであるが、病院での死は生物生命体の死、病名での死に過ぎない。だから、死の瞬間から退院となり、自宅か葬儀屋に搬送される。病院とは、元々治療機関なのである。超高齢化社会にあって、これからは介護施設での死の割合が増えると予想されるが、それに見合った施設の内容が整備されているかどうかと問われれば、途上と言わなければならない。施設には、本人の「大いなる自己断念」(p34)をもって入所するのだが、自立支援という方針のもと、個人の尊厳と生活支援によって「自己実現」できる場が、本当の意味での介護施設なのである。そして、介護の仕事とは、大変な生活支援をしながら、利用者が「ただひとりの人間として自分らしく生きて、死んでいくのを見届ける」(p221)ことなのである。他方、日本政府は介護保険法を改悪し、介護給付を削減して自己負担を増大して、権力と財政の私物化に勤しんでいるのが現状である。人間として恥ずかしい。
 俯いて耳を閉ざして原爆の
 国の宰相私邸を目指す
 高口さんの指摘で感心したのは、「死んでいく人たちの価値はそのお年寄りが出会った人で決まる」(p18)という下りである。「介護の毒は孤独」(p6)との指摘と通底している。人はやはり一人で生きている訳でなく、また一人で死ぬ訳でもないということである。

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2017年2月17日 (金)

差別と偏見の奈辺

33445752 世に差別と偏見は満ち溢れている。当事者に関わる者さえ、それに気が付かないことが多々あるのだ。故に、益々問題は解決されない。例えば、介護である。「してあげている」という意識が過剰の為、当事者をいよいよ困難な境地に追い詰めていることさえあるのである。そして、介護者はそれに気が付かないのである。水平思考ができないのである。この典型的な例がこの国の為政者である。政府や国会の担い手がこのようであるから、成果どころか、いじめや差別の温床となり、いつまでたっても変わらない。挙句の果ては、自分ができない腹いせに、人(野党)を詰ることに専念しだす始末である。こうなったら、世も末である。それだけではなく、介護する側でも、やたらに講習や研修が増えて現場を疲弊させ、資格を創出したり、技術論に溺れる輩が登場して跳梁跋扈するのである。何をか況や、と思うのみである。挙句の果てに、外国の例を持ち出してそれを直輸入し、偉そうに講釈を垂れることもある。一体、どうなっているのか、と日々思うのであるが、巷間にはそんな輩が満ち溢れているために、ともすれば、諦めの境地にもなってしまう。問題は、差別と偏見なのである。認知症についてのイメージと誤解である。これは、介護する側が創作したものですらなく、社会そのものの遍満する意識の反映である。しかしながら、介護する側が、そのことを自覚することさえなく、何の反省もなく、権力者として振る舞うことが問題なのである。それが認知症の当事者の力を奪取し、無力化していることすら考え及ばないのである。認知症の困難は、記憶障害だけではなく、意欲が低下し、疲れやすく、気力低下して空虚感を覚えているのであるが(p27)、それに寄り添う介護者は皆無である。それでも生きようとする認知症の人の人権など無視するのである。「認知症とともに歩む人」はほとんどいない。このような中で、認知症の人々が生きているのである。人として認めてほしい、という彼らの叫びが聞こえるだろうか。「してあげる」より、「一緒にしたい」という望みが聞こえるだろうか。一人の人間として認めてほしい、「私たちは単なる介護の対象ではなく、私たちが形成する社会の一員」(p46)なのであるという人間らしい願いを、全く無視しているのが、他ならぬこの国の為政者なのである(沖縄の例)。その筆頭がアベであることは多言を要しない。

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2017年1月25日 (水)

云々(でんでん)閣下へ

33359404 トランプ大統領就任ということで、いきなりTPP離脱署名というカウンターパンチを食らわせられた安倍内閣云々(でんでん)は、トランプ詣でに慌てふためいている様で、国会論議は相変わらずの茶番劇になっている。世界全体としては、右翼潮流云々(でんでん)が幅を利かせており、選挙戦の途中からトランプ当選は予想できたはずである。グローバリズムと格差の増大のため、エスタブリッシュメント(既得勢力)云々(でんでん)をこき下ろすことが右傾化を促進したのである。果たして、「民主主義」云々(でんでん)が試される変動期なのである。"We will make America great again"というトランプは、凋落したアメリカ人のプライド云々(でんでん)を刺激して、支持率調査の結果とは異なり、大いに歓迎されているのであるが、ビジネスマンとしての彼の信条は、根っからの右翼であり、その証拠に、欧州の右翼政党云々(でんでん)の歓迎を受けているのである。同類の「遅れた右翼宰相」であるアベは、会いたさ見たさ云々(でんでん)の「籠の鳥」になっている始末である。一方のトランプは、いの一番にイスラエル首相と電話会談し、血盟を誓って直接会談を約束しているのである。トランプの政策は、瑕疵云々(でんでん)があるが一見もっともらしさを伴っている所に肝があるのである。国家権力は、口をあんぐりと開けて混乱と陶酔と諦念云々(でんでん)を待っているのである。よく、歴史修正主義者は南京大虐殺について全否定する。これだけの物証と証言云々(でんでん)があっても全否定するのだ。彼らは屡々「自虐史観」と称して罵倒するのだが、自虐上等なのである。日本人が、自分自身と日本の歴史云々(でんでん)を対象化して相対化すること程、よい意味での人間らしいことはない。自虐したことのない人間を信用することはできないからである。その昔の宴席で、知人の爺さんの言葉を覚えている。酔いが回った所為なのだろう。下士官として中国大陸に派兵された体験を、後ろめたさを感じることなく、民間人を叩き切った自慢話云々(でんでん)を語ったである。彼は人望のある地方公務員ということだったのだが、一瞬宴会場が凍りつき、ほどなく何事もなく宴会は続けられたのである。戦争体験者の誰もが沈黙し開き直った歴史的事実を口走ったからである。久しぶりの著書を味わってみて、その相変わらずの三好節云々(でんでん)に感心したものである。「自虐こそ理性である」(p194)に特に反応したのであるが、使い古呆けた19世紀の超越論的哲学の理性云々(でんでん)というよりは、知的直観力というべきか。いずれにせよ、本年は混乱の予兆となる一年とみて間違いないだろう。無論、云々(でんでん)閣下に知的直観力がないことは疑うべくもない。

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2016年2月 3日 (水)

姥捨て場の施策

33310048 元気な内は「介護」なぞ何の実感もない。当たり前である。しかしながら、いかに自信があったとはいえ、還暦を過ぎると自身の衰えを感じ、70歳の声を聞くと体のあちこちに悲鳴が聞かれ、80歳前にはついに認知が覚束なくなるというのが実情ではないか。社会的介護と叫ばれて久しいが、2000年の介護保険制度の施行によって、措置の時代はさておき、在宅介護へのシフトが始まっている。しかしながら、急速な超高齢化社会の到来で、制度改革が追い付かないというのが現実である。国の為政者や官僚どもは、こんなことも予想できない程の愚かどもであるが(東大や慶大などの出身者である。彼らの言動は、政府側に立つために全く信用に値しない)、投げやりの愚者としか言いようがない。自分たちが介護の受益者となれば安い対価で若者に面倒を看てもらおう、などというさもしさと傲慢には失笑してしまうのであるが、現時点の状況はどうかと言えば、この本の筆者が仄めかしているように、「最期は『施設で』と、割り切る高齢者(家族介護者)が多い」(p12)というのが実状である。要するに、介護施設は現代の姥捨て場となっているのである。著者は政府(厚労省)の審議会委員として様々な提言をしているのだが、財源論や政治過程論に阻まれている(この本の上梓も政策提言と反論の一つである)。しかしながら、国民の側の介護についての意識は、一向に改善されず、介護事件や事故が顕現した時に初めて意識化されるという事態なのである。そういう意味では、将来的にも、介護に関して家族や親を支えるためにも、この本の意義は相当あるだろうと思うのであるが、国自体が姥捨て場を模索するような施策を講じているのを知らないようでは、如何ともし難いとしか言いようがない。ましてや、戦術(政局)を弄び、政治哲学もなく何の解決もできないアベ政治では、いよいよ悪化と破局に向かって、粛々と進行してゆくのである(これも参照)。

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2014年9月 1日 (月)

溶解する日本

33105796  どうにも憂鬱である。仕事場の同僚と話しても、テレビや新聞を見ても、フラストレーションが蓄積するばかりである。これは自業自得なのかも知れない、とも思えるのだが、そうとばかり言えるのだろうか。24時間テレビの感動と奇跡の押し付けや右翼政治屋や御用アナ・キャスターの容貌や言説を眺めるにつけ、不快感と失望感を禁じえない。吉本芸人とジャニ・タレが出てくると早速チャンネル換えをするのだが、どこの局も似たり寄ったりの番組で、ましてや犬HKのニュースなど、頭が割れるような感覚に襲われて、結局はスイッチオフとなる。ネットを開いてみても、ウヨがウヨウヨ生息していて参考にもならない。一体、どうしてしまったのだろう。アベ政権の内閣改造など何の国民の役には立たないし、相変わらずのお友達内閣である。時代錯誤の右翼が入閣しているのである。防衛省は来年度予算概算で5兆円を要求して中国と事を構えようとしている。元々、2006年にアベは、「(原発の)全電源喪失はあり得ない」と強弁しているが故に、福島原発の人災事故の主犯格なのであり、この内閣が国民の生命と財産を守った例(ためし)は一度もない。広島土砂災害では、悠長にゴルフに興じていて、別荘に舞い戻っているのである。最後の一人まで解明すると大見得を切った年金問題はどうなっているのか。拉致問題は解決しているのか。財政破綻は誰の所為なのか。よくもまあ、こんな無責任の輩が権力の座に居ついているのかと呆れ返ってしまう。しかしながら、これを許しているのは国民であることを忘れてはならない。日本人は何度でも同じことを繰り返す。これは予言でなく、事実である。
 「ユマニチュード」の方法については、この本を読んで概ね理解できたが、半分当り前なことであり、半分嘘くさいというのが感想である。病院でのケアの多くは、規則に従わない患者にとっては強制ケアとなっており、それの対策のために、外国の事例や他の病院のそれを次から次と繰り出して内部研修が大流行である。多分、これもその一つであるだろう。ユマニチュードの方法に奇跡の事例を散りばめているのもその証左である。むしろ、強制ケアを強いられる病院従事者の内実こそ問題にしなければならないだろう。

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2014年6月 3日 (火)

神の恩寵

33074563_3  著者の大井氏については、『「痴呆老人」は何を見ているか』を読んで以来、記憶に留めていたが、歯科治療中に、偶々、週刊文春を開いて池澤夏樹の読書日記に紹介されていたので新刊本を手に取ってみた。人の病・痛・老・死とは健常者にはとても分かりにくい。故に、病人や老人とは全く別世界に生きているように思われる。否、それだけでなく、ともすれば支配・被支配の構造さえ作り上げてしまうことがある。特に、認知症の老人たちは、家庭で孤立し、人間関係を切断され、役割を喪失して、「だるい」、「具合悪い」と愁訴することが多い。そして、筆者が行き着いた答えは、「認知症は、終末期における適応の一様態と見なすことも可能である」(p195)ということである。何度も指摘しているが、認知症は「病気」と断定することはできない。病気と断定することによって、差別化が進行するのである。人は、自己の経験の記憶に基づいて自らの意味の世界に生きているのである(p22、p23)。だから、病人や老人には、共感して、彼らの言辞の中に(大井氏にとっては詩ということだろう)読み解く「パスワード」を発見するのが医療や介護の従事者には必要となるのである(p28)。その資質は一朝一夕では身に付かない。経験の引き出しも必要だろう。共感する想像力も必要だろう。コミュニケーション能力も必要だろう。看取り医として老人たちの幸せと悲哀に接した著者は、彼らの詩歌の中にも神の恩寵(p54、p186)を感じているのである。

 しかしながら、以上のこととは正反対の人が、この国を領導しているのであるが、この軍国主義の病からは何の詩歌も生れていない。

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2014年5月 7日 (水)

悪弊を絶つ

 33029189_3 若月俊一の偉業はよく知られている。信州の農村医療に挺身した人物である。この本の中において、医療は誰のものであるのか、医療の主体は誰なのか、ということが鋭角的に展開されている。若月思想(若月イズム)の本質は、ヒューマニズムと民主主義と協同の三つであるという言葉に収斂されている(p73)。佐久総合病院の役割と規模が大きくなればなるほど、それだけ原点に回帰する必要は増しているということである。
 息子は帰宅すると、おもむろに「白文帳」なるものを取り出して、毎日、漢字練習をしている。これは信州国語教育の悪弊の一つであるが、早期に廃止してもらいたい。漢字は本来文脈の中で理解し、記銘していくものであるが、この作業は、わざわざ国語を嫌うことを誘引してしまっている。特に、勉学が苦手の生徒諸君には、この漢字練習は難行であり、苦役でしかない。自分も小学生の時に宿題として課せられて閉口したことを記憶しているが、何の役には立っていない。むしろ、中村先生の読み聞かせ授業が契機で、その後、濫読に邁進したことが自分の国語力の基盤形成となっている。また、この苦役のために字が乱雑になるばかりか、時間を取られて、他の教科にも悪影響を与えている。さらに、漢字の意味と用法を理解しないものだから、国語表現力にも悪影響を来たしている。これと類比していることが日本の政治にも実行されようとしている。違憲(状態)の選挙で選ばれた首相や閣僚が、憲法を遵守しなければならない義務を放擲して、憲法違反を率先しようとしているのである。嘘と放言ばかりの、この内閣による集団的自衛権の容認・行使のことである。この二つの反知性主義を截然と断罪しなければならない。その悪影響は計り知れない。あの津波のように、一切合財を飲み込んで破壊してしまうのである。

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