介護・医療

2017年11月 9日 (木)

自立支援の矛盾

33324733_2 介護保険法の目的は、「自立した日常生活を営むことができるよう…」(第一条)とあるために、その法改正の度に「自立支援」が強請されている。これは国の介護給付抑制が狙いであることは間違いないが、来年度(2018年)の制度「改革」では、益々高じて自立支援事業に成功報酬制度が導入されることになっている。社会保障費が膨らんでいるのは、人口が多い「団塊の世代」が高齢化しつつあることもあり、致し方ない面もあり、しかしながら、財源問題は税の累進課税化で一発で解決するのである。この間のパナマ文書に続くパラダイス文書の発覚に見られるように、世界中の資産家と権力者は、どんな手口を行使してでも租税回避しているのであって、極右政党の自民党・政府が税対策をせずに庶民を騙して収奪しているのは、そのためなのである(モリカケ問題における嘘つき財務官僚の国税庁長官への栄転)。グローバリズムとは、強欲資本主義の同義語に過ぎないのである。
 介護民俗学とは物珍しい新たな手法と思われるが、民俗学の一つの手法=聞き書きを介護の分野に応用したものである。そして、現在の介護に対する問題提起となるものである。介護業界の問題とは何か。それは、介護する側と介護される側という分岐(関係性)である。元々、利用者は超高齢者であり、職員は大概若く、20代職員ではざらに存在する。半世紀以上の年齢の差があることが多く、知識や人生の蓄積の度合いでは懸隔しているのである。高齢者は、現実的には死に向かって人生を下っていく孤独と無念を覚えているのであるが(p108、279など)、その老いとその先にある死を、これから人生の花開く若きスタッフがどれだけ感じ取れることだろうか。その壁を論じることは介護業界では意識化されずに、仕事としては皆無となっている。介護技術のみに専心することとなり、それが逆に、その問題を遠ざけている現状なのである。スタッフが利用者の人生を全く知らずに介護していることはよくあることである。かつてはその経験知の故に尊敬されていた老人が、今ではものとして扱われている現実に出くわすことが屡々である。また、誤解して「してあげる介護」に満足して自身の生きがいと誇りとして覚えたりする逆転現象すらあるのである。利用者からすれば、疎んじられ厄介者扱いされ、自己決定もなく赤ん坊のように扱われてしまうことすらあるのである。問題行動に焦点化されて対処法に追われる業務の有り様は、介護事業所ではどこにでもある現象である。また、老いに価値を見出せずにバーンアウトに陥る職員すらいる。介護業界の繁忙は、専門家としての社会的要請だけでなく、業務に追われて身体的にも疲弊しており、低賃金がこれに拍車をかけているのである。だから離職率は業界随一となっている。介護労働に忙殺されているのが現状なのであるが、実を言えば、そんな業務など、どうでもいいのである。著者はその問題にいち早くアプローチして、一つの問題提起をしている。「老い」にも価値があることの発見(p282)と、民俗学的聞き書きの手法が、高齢者との関係を取り結び、丸ごと人として尊厳される方途であるという著者の確信(p291)が伝わる著作である。また、高齢者の心身老化に対して、保険費用抑制のために、国によって「自立支援」を強迫し続けることが本当に正しいのかと疑われるのである。

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2017年8月10日 (木)

介護の真髄

33524744 高口光子さんの仕事には平生注目しているのだが、しばらく遠ざかっている内に見逃していた近著を通読してみた。相変わらずの高口節が炸裂している(講演会でのそれは有名である)。それはさておき、かつては自宅で黄泉に出立するのが当たり前であったが、今では約78%が病院で、約13%が自宅で、介護施設では約9%となって、病院では、点滴や薬剤・栄養剤投入のためのチューブに繋がれて亡くなっているという。家族は少しでも親に生き永らえてほしいという願いと悔いを残さないために病院死を選択している。いわゆる、ターミナルケアの次元の話なのだが、これまた、家族には悩ましい問題なのである。介護施設での死は生活の場としての旅路である。高度な医療技術がなく、治療は行わないのが原則である。「施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということ」(p4)である。施設でのターミナルケアは家族の意思に沿って行われるのであるが、その時に家族にチューブを入れるか、救急車を呼ぶかが問われることになり、そしてここが問題なのである。家族として後悔しない選択を迫られるのである。救急病院に搬送されても死は免れないのであるが、病院での死は生物生命体の死、病名での死に過ぎない。だから、死の瞬間から退院となり、自宅か葬儀屋に搬送される。病院とは、元々治療機関なのである。超高齢化社会にあって、これからは介護施設での死の割合が増えると予想されるが、それに見合った施設の内容が整備されているかどうかと問われれば、途上と言わなければならない。施設には、本人の「大いなる自己断念」(p34)をもって入所するのだが、自立支援という方針のもと、個人の尊厳と生活支援によって「自己実現」できる場が、本当の意味での介護施設なのである。そして、介護の仕事とは、大変な生活支援をしながら、利用者が「ただひとりの人間として自分らしく生きて、死んでいくのを見届ける」(p221)ことなのである。他方、日本政府は介護保険法を改悪し、介護給付を削減して自己負担を増大して、権力と財政の私物化に勤しんでいるのが現状である。人間として恥ずかしい。
 俯いて耳を閉ざして原爆の
 国の宰相私邸を目指す
 高口さんの指摘で感心したのは、「死んでいく人たちの価値はそのお年寄りが出会った人で決まる」(p18)という下りである。「介護の毒は孤独」(p6)との指摘と通底している。人はやはり一人で生きている訳でなく、また一人で死ぬ訳でもないということである。

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2017年2月17日 (金)

差別と偏見の奈辺

33445752 世に差別と偏見は満ち溢れている。当事者に関わる者さえ、それに気が付かないことが多々あるのだ。故に、益々問題は解決されない。例えば、介護である。「してあげている」という意識が過剰の為、当事者をいよいよ困難な境地に追い詰めていることさえあるのである。そして、介護者はそれに気が付かないのである。水平思考ができないのである。この典型的な例がこの国の為政者である。政府や国会の担い手がこのようであるから、成果どころか、いじめや差別の温床となり、いつまでたっても変わらない。挙句の果ては、自分ができない腹いせに、人(野党)を詰ることに専念しだす始末である。こうなったら、世も末である。それだけではなく、介護する側でも、やたらに講習や研修が増えて現場を疲弊させ、資格を創出したり、技術論に溺れる輩が登場して跳梁跋扈するのである。何をか況や、と思うのみである。挙句の果てに、外国の例を持ち出してそれを直輸入し、偉そうに講釈を垂れることもある。一体、どうなっているのか、と日々思うのであるが、巷間にはそんな輩が満ち溢れているために、ともすれば、諦めの境地にもなってしまう。問題は、差別と偏見なのである。認知症についてのイメージと誤解である。これは、介護する側が創作したものですらなく、社会そのものの遍満する意識の反映である。しかしながら、介護する側が、そのことを自覚することさえなく、何の反省もなく、権力者として振る舞うことが問題なのである。それが認知症の当事者の力を奪取し、無力化していることすら考え及ばないのである。認知症の困難は、記憶障害だけではなく、意欲が低下し、疲れやすく、気力低下して空虚感を覚えているのであるが(p27)、それに寄り添う介護者は皆無である。それでも生きようとする認知症の人の人権など無視するのである。「認知症とともに歩む人」はほとんどいない。このような中で、認知症の人々が生きているのである。人として認めてほしい、という彼らの叫びが聞こえるだろうか。「してあげる」より、「一緒にしたい」という望みが聞こえるだろうか。一人の人間として認めてほしい、「私たちは単なる介護の対象ではなく、私たちが形成する社会の一員」(p46)なのであるという人間らしい願いを、全く無視しているのが、他ならぬこの国の為政者なのである(沖縄の例)。その筆頭がアベであることは多言を要しない。

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2017年1月25日 (水)

云々(でんでん)閣下へ

33359404 トランプ大統領就任ということで、いきなりTPP離脱署名というカウンターパンチを食らわせられた安倍内閣云々(でんでん)は、トランプ詣でに慌てふためいている様で、国会論議は相変わらずの茶番劇になっている。世界全体としては、右翼潮流云々(でんでん)が幅を利かせており、選挙戦の途中からトランプ当選は予想できたはずである。グローバリズムと格差の増大のため、エスタブリッシュメント(既得勢力)云々(でんでん)をこき下ろすことが右傾化を促進したのである。果たして、「民主主義」云々(でんでん)が試される変動期なのである。"We will make America great again"というトランプは、凋落したアメリカ人のプライド云々(でんでん)を刺激して、支持率調査の結果とは異なり、大いに歓迎されているのであるが、ビジネスマンとしての彼の信条は、根っからの右翼であり、その証拠に、欧州の右翼政党云々(でんでん)の歓迎を受けているのである。同類の「遅れた右翼宰相」であるアベは、会いたさ見たさ云々(でんでん)の「籠の鳥」になっている始末である。一方のトランプは、いの一番にイスラエル首相と電話会談し、血盟を誓って直接会談を約束しているのである。トランプの政策は、瑕疵云々(でんでん)があるが一見もっともらしさを伴っている所に肝があるのである。国家権力は、口をあんぐりと開けて混乱と陶酔と諦念云々(でんでん)を待っているのである。よく、歴史修正主義者は南京大虐殺について全否定する。これだけの物証と証言云々(でんでん)があっても全否定するのだ。彼らは屡々「自虐史観」と称して罵倒するのだが、自虐上等なのである。日本人が、自分自身と日本の歴史云々(でんでん)を対象化して相対化すること程、よい意味での人間らしいことはない。自虐したことのない人間を信用することはできないからである。その昔の宴席で、知人の爺さんの言葉を覚えている。酔いが回った所為なのだろう。下士官として中国大陸に派兵された体験を、後ろめたさを感じることなく、民間人を叩き切った自慢話云々(でんでん)を語ったである。彼は人望のある地方公務員ということだったのだが、一瞬宴会場が凍りつき、ほどなく何事もなく宴会は続けられたのである。戦争体験者の誰もが沈黙し開き直った歴史的事実を口走ったからである。久しぶりの著書を味わってみて、その相変わらずの三好節云々(でんでん)に感心したものである。「自虐こそ理性である」(p194)に特に反応したのであるが、使い古呆けた19世紀の超越論的哲学の理性云々(でんでん)というよりは、知的直観力というべきか。いずれにせよ、本年は混乱の予兆となる一年とみて間違いないだろう。無論、云々(でんでん)閣下に知的直観力がないことは疑うべくもない。

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2016年2月 3日 (水)

姥捨て場の施策

33310048 元気な内は「介護」なぞ何の実感もない。当たり前である。しかしながら、いかに自信があったとはいえ、還暦を過ぎると自身の衰えを感じ、70歳の声を聞くと体のあちこちに悲鳴が聞かれ、80歳前にはついに認知が覚束なくなるというのが実情ではないか。社会的介護と叫ばれて久しいが、2000年の介護保険制度の施行によって、措置の時代はさておき、在宅介護へのシフトが始まっている。しかしながら、急速な超高齢化社会の到来で、制度改革が追い付かないというのが現実である。国の為政者や官僚どもは、こんなことも予想できない程の愚かどもであるが(東大や慶大などの出身者である。彼らの言動は、政府側に立つために全く信用に値しない)、投げやりの愚者としか言いようがない。自分たちが介護の受益者となれば安い対価で若者に面倒を看てもらおう、などというさもしさと傲慢には失笑してしまうのであるが、現時点の状況はどうかと言えば、この本の筆者が仄めかしているように、「最期は『施設で』と、割り切る高齢者(家族介護者)が多い」(p12)というのが実状である。要するに、介護施設は現代の姥捨て場となっているのである。著者は政府(厚労省)の審議会委員として様々な提言をしているのだが、財源論や政治過程論に阻まれている(この本の上梓も政策提言と反論の一つである)。しかしながら、国民の側の介護についての意識は、一向に改善されず、介護事件や事故が顕現した時に初めて意識化されるという事態なのである。そういう意味では、将来的にも、介護に関して家族や親を支えるためにも、この本の意義は相当あるだろうと思うのであるが、国自体が姥捨て場を模索するような施策を講じているのを知らないようでは、如何ともし難いとしか言いようがない。ましてや、戦術(政局)を弄び、政治哲学もなく何の解決もできないアベ政治では、いよいよ悪化と破局に向かって、粛々と進行してゆくのである(これも参照)。

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2014年9月 1日 (月)

溶解する日本

33105796  どうにも憂鬱である。仕事場の同僚と話しても、テレビや新聞を見ても、フラストレーションが蓄積するばかりである。これは自業自得なのかも知れない、とも思えるのだが、そうとばかり言えるのだろうか。24時間テレビの感動と奇跡の押し付けや右翼政治屋や御用アナ・キャスターの容貌や言説を眺めるにつけ、不快感と失望感を禁じえない。吉本芸人とジャニ・タレが出てくると早速チャンネル換えをするのだが、どこの局も似たり寄ったりの番組で、ましてや犬HKのニュースなど、頭が割れるような感覚に襲われて、結局はスイッチオフとなる。ネットを開いてみても、ウヨがウヨウヨ生息していて参考にもならない。一体、どうしてしまったのだろう。アベ政権の内閣改造など何の国民の役には立たないし、相変わらずのお友達内閣である。時代錯誤の右翼が入閣しているのである。防衛省は来年度予算概算で5兆円を要求して中国と事を構えようとしている。元々、2006年にアベは、「(原発の)全電源喪失はあり得ない」と強弁しているが故に、福島原発の人災事故の主犯格なのであり、この内閣が国民の生命と財産を守った例(ためし)は一度もない。広島土砂災害では、悠長にゴルフに興じていて、別荘に舞い戻っているのである。最後の一人まで解明すると大見得を切った年金問題はどうなっているのか。拉致問題は解決しているのか。財政破綻は誰の所為なのか。よくもまあ、こんな無責任の輩が権力の座に居ついているのかと呆れ返ってしまう。しかしながら、これを許しているのは国民であることを忘れてはならない。日本人は何度でも同じことを繰り返す。これは予言でなく、事実である。
 「ユマニチュード」の方法については、この本を読んで概ね理解できたが、半分当り前なことであり、半分嘘くさいというのが感想である。病院でのケアの多くは、規則に従わない患者にとっては強制ケアとなっており、それの対策のために、外国の事例や他の病院のそれを次から次と繰り出して内部研修が大流行である。多分、これもその一つであるだろう。ユマニチュードの方法に奇跡の事例を散りばめているのもその証左である。むしろ、強制ケアを強いられる病院従事者の内実こそ問題にしなければならないだろう。

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2014年6月 3日 (火)

神の恩寵

33074563_3  著者の大井氏については、『「痴呆老人」は何を見ているか』を読んで以来、記憶に留めていたが、歯科治療中に、偶々、週刊文春を開いて池澤夏樹の読書日記に紹介されていたので新刊本を手に取ってみた。人の病・痛・老・死とは健常者にはとても分かりにくい。故に、病人や老人とは全く別世界に生きているように思われる。否、それだけでなく、ともすれば支配・被支配の構造さえ作り上げてしまうことがある。特に、認知症の老人たちは、家庭で孤立し、人間関係を切断され、役割を喪失して、「だるい」、「具合悪い」と愁訴することが多い。そして、筆者が行き着いた答えは、「認知症は、終末期における適応の一様態と見なすことも可能である」(p195)ということである。何度も指摘しているが、認知症は「病気」と断定することはできない。病気と断定することによって、差別化が進行するのである。人は、自己の経験の記憶に基づいて自らの意味の世界に生きているのである(p22、p23)。だから、病人や老人には、共感して、彼らの言辞の中に(大井氏にとっては詩ということだろう)読み解く「パスワード」を発見するのが医療や介護の従事者には必要となるのである(p28)。その資質は一朝一夕では身に付かない。経験の引き出しも必要だろう。共感する想像力も必要だろう。コミュニケーション能力も必要だろう。看取り医として老人たちの幸せと悲哀に接した著者は、彼らの詩歌の中にも神の恩寵(p54、p186)を感じているのである。

 しかしながら、以上のこととは正反対の人が、この国を領導しているのであるが、この軍国主義の病からは何の詩歌も生れていない。

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2014年5月 7日 (水)

悪弊を絶つ

 33029189_3 若月俊一の偉業はよく知られている。信州の農村医療に挺身した人物である。この本の中において、医療は誰のものであるのか、医療の主体は誰なのか、ということが鋭角的に展開されている。若月思想(若月イズム)の本質は、ヒューマニズムと民主主義と協同の三つであるという言葉に収斂されている(p73)。佐久総合病院の役割と規模が大きくなればなるほど、それだけ原点に回帰する必要は増しているということである。
 息子は帰宅すると、おもむろに「白文帳」なるものを取り出して、毎日、漢字練習をしている。これは信州国語教育の悪弊の一つであるが、早期に廃止してもらいたい。漢字は本来文脈の中で理解し、記銘していくものであるが、この作業は、わざわざ国語を嫌うことを誘引してしまっている。特に、勉学が苦手の生徒諸君には、この漢字練習は難行であり、苦役でしかない。自分も小学生の時に宿題として課せられて閉口したことを記憶しているが、何の役には立っていない。むしろ、中村先生の読み聞かせ授業が契機で、その後、濫読に邁進したことが自分の国語力の基盤形成となっている。また、この苦役のために字が乱雑になるばかりか、時間を取られて、他の教科にも悪影響を与えている。さらに、漢字の意味と用法を理解しないものだから、国語表現力にも悪影響を来たしている。これと類比していることが日本の政治にも実行されようとしている。違憲(状態)の選挙で選ばれた首相や閣僚が、憲法を遵守しなければならない義務を放擲して、憲法違反を率先しようとしているのである。嘘と放言ばかりの、この内閣による集団的自衛権の容認・行使のことである。この二つの反知性主義を截然と断罪しなければならない。その悪影響は計り知れない。あの津波のように、一切合財を飲み込んで破壊してしまうのである。

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2014年3月17日 (月)

新しい介護とは

33035205  「介護業界の風雲児」とも称される、賛否両論の三好氏の介護観は、今では現場から賞賛され、業界から承認されようとしている。旧版は圧倒的に支持されて、10年経た現在、全面改訂版が上梓されたので、早速紐解いてみた。氏の介護観が集大成され、医療職の役割に対して、介護職のそれがより明確に提示されてきている(例えば、p38~39、50~51)。基本にあるものは、「介護は生活・関係づくり」というごく当り前の介護観である。介護の教科書によくある「受容」や「自己決定」に対しても、「共同決定」の意義に触れられている。高齢者がふと洩らす言葉群に、「こんなこと(自分の体験・経験)を子供に話しても、またそんな話を繰り返して、と笑われるから、子供のいうことをハイハイと聞くしかない」、「もう死にたい、生きていても仕方ないから」、「私たちは嫁して姑たちに虐げられたが、今の時代は反対だ。嫁の方が強いから黙っている」と耳にすることがよくある。これらの声で、高齢者は社会における生きづらさや主体の崩壊を表白しているのである。そうしたケアまでをも視野に入れているのが「共同決定」である(「生きづらさを共有するケア」の必要性の提起。p303)。お年寄りの「行為のしくみの一部に介護者が関わるのが本当の介助」(p69)であると言われている。そもそも、「介護本来の役目は、お年寄りの主体性を引き出して生活行為へ導くこと」(p71)である。動作の介助から行為の介助へと問題提起しているのである。もう一つ得心したのは、近年、三大介護(食事、排泄、入浴)は古いと主張する学者の意見に対するアンチテーゼである。それは、三大介護はいつまでも新しいとする立場である。三大介護こそ、最大のコミュニケーションであり、それがしっかりできていないからこそ、人間の尊厳が守られていないケアになっているというのである。人はマニュアルが好きであり、マニュアルに取り込まれてマニュアルによって支配される。介護従事者は決してこの逆説に捕縛されてはならないのである。最後に、三好氏の奮闘によって、認知症が「老いた自分との関係障害」という考えは、介護業界では一般的に普及してきている。認知症を医学的に「脳の病気」と診断すれば、家族も納得し、医療的な処置がなされる訳であるが、本人はそれで安心した生活が保証される訳でもなく、寧ろ、その結果を介護業界に丸投げされるのが一般的である。いわば医療の下請けにされている介護である。新しい介護とは何か。それは現実の介護実践の中から体系化されるものであり、医療・看護とは全く異なる視点の分野なのである。この本の「はじめに」にあるように、「よい介護はいつも新しい」という三好氏の言葉は至言である。

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2013年9月28日 (土)

『看護の力』

32828771 テレビ番組では医療ドラマが流行っているようだが、現実の医療・看護の世界は複雑怪奇の人間模様があって、むしろ魑魅魍魎の世界といってよいだろう。医師は都会育ちのいいとこの坊ちゃん・嬢ちゃんであり、医師の中には「貧乏は病気の一種」と考える者までいるのである(確かにこの医師は病んでいる)。一般人が医学部教授会を見学しようものなら、その異様さに殆どの人は卒倒するであろう。一つの総合病院でも、鋭敏な人ならば、上は院長から下は掃除婦に至るまで、その堅固なヒエラルキーに幻惑することだろう。日本の医療は国民皆保険制度によって国民の生命と健康が首の皮一枚で守られているが、それは国民の要求と医療労働者の運動によるものであって、医師会自体は、時の政権政党に脆くも宗主替えすることに見られるように、自分たちの利益を保全するための圧力団体に過ぎない。TPP参加で医療の世界が解禁になれば、医療はカネなり、ということがはっきりとする。そんな医療もこんな医療も間違っているのは言うまでもない。
 ところで、看護師の二大業務とは、「診療の補助」と「療養上の世話」である。医療技術が進展するに伴って、看護師の意識はますます分裂しようとしている。この新書にあるような本来的な看護は見捨てられようとしているのである。患者に寄り添う看護ではなく、医師の片腕として重宝がられ、下請け化されようとしている。専門看護師、特定看護師などである。そんなことなら医師をどんどん増やしたらいいのにと思うのが普通であるが、医師の社会的地位が弁護士のように失墜してしまう危険性があるため(既にかなり失墜しているし、国民のための医療などという看板は衰滅しつつある)、医師会は猛烈に反対している。しかしながら、機械化された医療、システマティックな看護、繁忙な雑務に追われ、階層的な職場の人間関係の中でのストレスを抱えながらの業務を行っているというのが一般的な現実である。「看護の力」とは、注射や薬のような外部からの力ではなく、その人に本来備わっている治る力を上手に引き出すことであると著者は述べている(p48)。原点を振り返ることは、あらゆる職種でも必要なことであるが、医師ばかりに焦点が行っている医療ドラマが蔓延っている一方、真面目な看護師ほど消耗しており、慢性的な看護師不足が相変わらず進行しているのである。また、この本には反戦や医療労働者としての自覚の大切さ、看護への振り返り、介護との連携など、サラッと触れられているが、重要な提起が数多く内包されている。看護師がいつまでも白いナースキャップを被っている「白衣の天使」のイメージを抱いているばかりでは、大変な勘違いの元になるのである。

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