音楽

2022年1月 2日 (日)

偏狭な私的音楽論

33918821 卒業した小学校は音楽教育の特別指定校になっていたらしく、専門の音楽教諭の下で、ハーモニカやオルガン、加えてリコーダーを使っての器楽と合唱が盛んであった。当の中村先生には怒られもしたが、音楽への関心は強く、通信簿で最高の5という評価をしてもらったことがある。中学の音楽でも関心は続いたのだが、職業高校に入学すると忽然として止んだのである。芸術科目がなくて、当然の如く音楽科目はないのである。小学校の音楽室には、ハイドンやバッハから始まって古典音楽の楽聖が大きな額縁が掲げられて、何であのような長い髪(カツラ)をしているのか怪訝に眺めていたが、ただひたすら西洋音楽を教授されて日本の唱歌を歌っていたのである。器楽演奏にも力が入れられて、今でもソプラノ・リコーダーの運指で演奏することができる。大学に進学すると、途絶えていた音楽への関心は復活し、バロック音楽と民謡をバックミュージックとして勉学に励んだのである。また、町場のピアノ教室に通ってバルトークの教則本を基にピアノを習い、子どもたちに交じってその発表会に出演したこともある。しかしながら、その後の人生においては再び音楽と離れてしまい、70年代までのグループサウンズやフォークや昭和歌謡で止まって、その後のニューミュージックやJ-POP(80年代~90年代)等は聴くことはなかったのである。ジャズやロックとは全く無縁であった。そして、音楽としての様式美や民謡の状態に停止しまったため、現代の商品音楽には少しく違和感を感じてしまうのである。
 この原因は二つあると思われる。一つは、2006年の教育基本法改訂で愛国心が強調されるようになったことである。強調される日本の伝統音楽(邦楽)は、明治の音楽教育から導入された西洋音楽とは異質なものである、日常とは乖離した音楽なのであり、戦前に親しまれた日本の音楽は、文部省唱歌であり軍歌であり戦時歌謡なのである(軍隊調)。更に、70年代後半以降の歌謡界は、日常の労働からかけ離れて、「やたらに飛びたがるものと、・・・夢、未来、希望(絆?)に向かうものが歌詞のテーマの二大派閥・・・の歌詞の曲ばっかり」(『平成日本の音楽の教科書』、p179)となっているのである。また、音楽作品の商品化あるいは「液状化」(p248~)となると、その危険性は言うまでもない(歌謡曲への先祖返りを指摘する者もいる)。もう一つは、音楽の構成が歌詞とメロディーとハーモニーとリズムとがあるが、そのリズムが違和感を覚えるのである。2008年の学習指導要領改訂によって学校体育の中でダンスが選択必修となって、音楽の中にリズムを基調とするダンスミュージックが取り入れられたのである。即ち、「ポップスはリズムから動き始める」(p262)ことになったのである。ジャニーズ系やアキバ系のアイドルポップスの全盛である。換言すれば、リズムと振付による視覚的な大衆動員が定常化している。その危険性の懸念もある。J-POPのもつ、世界のポップスと断絶した、これらの一国主義の危うさは今後どのように変遷するのかは分からないが、現時点では、社会との関連において、音楽の発展というよりは回帰・液状化してゆくように思われるのである。年末の紅白歌合戦をチラ見しながら、そんなことを妄想した次第である。こんな過疎ブログを訪れる皆様に新年のご挨拶を申し上げます(こちら参照)。

| | | コメント (0)

2021年4月22日 (木)

春の陽光に誘われて

 先日、このコロナ禍の中、春の陽光に誘われて北信濃の小旅行を敢行した。旧豊田村(現中野市)にある高野辰之記念館とその周囲、菜の花ロードを抜けて野沢温泉に宿泊したのである。野沢温泉村と観光協会は、お得な「免疫力UP!キャンペーン」を張っていて、永年北信濃への往問を勘案していたので絶好の機会となったのである。翌日は、おぼろ月夜の館と飯山、更に足を延ばして信濃町の一茶記念館へと宿願を果たしたのである。
 高野辰之の「故郷(ふるさと)」という文部省唱歌は、実はあまり好みではない。特に三番の歌詞は立身出世の内容となっている。明治人の好学の士として上京した辰之は、1909年(明治42)年に文部省小学校唱歌教科書編纂委員となって作詞したのである。後には、東京音楽学校教授や東京帝大の文学博士号を授受して、「志をはたして いつの日にか帰らん」という歌詞の如く、1925(大正14)年に帰郷したのである。時は社会運動が発展して、普通選挙法と抱き合わせで治安維持法の公布によって社会運動が弾圧したされた時代である。これによって、無産運動が成立と分裂を繰り返して昭和恐慌を迎え、十五年戦争に突入してゆくのである。
2021041610280000  国文学者として成功した高野であるが、野沢温泉のおぼろ月夜の館のおいて、その学問観と一つの短歌に関心を覚えたのである。学問観についての解説には、「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがあり、「実証的で」、「様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった」とある。また、隠棲した野沢温泉村から出征する青年に託した短歌には、「海行くも あへて水漬かず 死ぬ価値も 越える名上げて 帰れよき子よ」とあることである。侵略戦争に突入している時代にあって、少なくとも「死なずに帰れよ」と青年を励ましたのである。そこには、戦争に対して不本意な高野の思いも推察されるが、断定はできない。その土地(ふるさと)への愛着と向学への思いも感じられるのであるが、これも明断できない。「死ぬ価値も超える名」とは一体何なのか。その曖昧さが明治人としての限界なのかもしれない。しかしながら、好戦的で偏向した「悪しきナショナリズム」(軍歌・戦時歌謡)とは無縁と思われるのである。ちなみに、唱歌「ふるさと」では海の風景が謳われていない。これもまた高野辰之作詞の所以である。


| | | コメント (0)

2021年4月 7日 (水)

『民謡とは何か?』

34172868  学生時代はよくバロック音楽と民謡をBGMとして愛聴しながら勉学に励んでいたのだが、時代が急速に展開して民謡は廃れつつある。その主因は担い手不足に尽きると思う。高校の音楽の教科書では、民謡とは「民衆の生活の中で歌い継がれてきた歌」として、仕事歌、祝歌、踊り歌、座興歌、語り物・祝福芸の歌を列挙している。音楽辞典でも、「民謡とは民衆の生活の中で生まれ、とくに作者などは問われずに生活慣習のように歌い継がれてきた歌を指す」とある。つまり、民俗音楽の中心部分なのである。それもあって、民俗音楽を追求したバルトークのピアノ教則本(ミクロコスモス)を手に練習していたこともある。
 民謡の担い手の活躍の場としては演歌歌手になっているようだ。実際、知る限りでは長山洋子や福田こうへいなど、民謡出身の演歌歌手は多いようである。長山は、八尾市文化会館のコンサートで握手してもらったことがある。ヒット作の歌唱だけでなく、見事な三味線演奏を堪能したものである。なんと彼女のCDを一枚所有しているのである(笑)。
 さて、民謡の学究本によると、「本当の民謡」とは仕事歌ということで、仕事歌の中でも王様なのは臼歌だという(第九章、十章)。私的には、やはり仕事歌が好みで、刈干切唄南部牛追歌が秀逸であると思う。仕事のつらさや思いが切々と歌われている。これに次ぐのは秋田宮城や岩手南部の長持ち唄などの祝い歌であろう。東北は民謡の宝庫なのである。しかしながら、カネさえあれば何でも買える飽食の時代となって、ハレとケの閾が消失してしまう事態なのである。このことはある意味では人間の退化であり、堕落ではないだろうか。この趨勢でなくなったものは人としての生活であり、労働なのである。デジタル時代の到来は、人を人として認めなくなり、人を情報として扱われて喜怒哀楽も画一化してしまうのである。グローバリゼーションとネオリベラリズムは、人と地域と地球全体を併呑して無化してゆくものなのである。
 民謡に限ると、小学校時代の音楽担当の中村先生から、江差追分のルーツは北国街道を伝播して越後追分から江差へと繋いだ信濃追分節と教えて頂き(第六章、その又ルーツも東北)、レコード鑑賞したことを想い出す。音楽では最高評価点を通信簿につけて頂いた中村先生の教えは、集中してよく聴いていたもので、それが民謡への関心を惹起して今でも感謝している。しかしながら、民謡で謡われる人々の労働そのものが存廃されて、民謡もまた愛唱されることもなくなっている。著者は、時代遅れと不要になったものは「捨てられるのが民謡や民俗芸能の宿命」(p211)として、今や記録保存の時代だという。だが、著者が今後の楽しみと期待しているように、機械化した楽曲に見合った一様な歌詞という現今の音楽が、一体何を生み出すというのだろうか。生活や労働から乖離した現代音楽もまた、存亡の危機に直面しているのではないだろうか。
 

| | | コメント (0)

2020年4月17日 (金)

コロナ人災中にあって


 
 しんみりしているが、強さをも感じる動画である。危機の時代にあっては、人の命や人生など、失ってはいけないもの・ことがあることを思う。杏のSNSによれば、その意図は少し違うようだが、国家による人災は、人々にとって最大の災害であることを再認識するものである。
  『教訓1』の中で加川良のメッセージは、命・人生の一回性の視点に基づいて(当たり前!)、国家の企図からの遁走を推奨する反戦歌である。
  死んで神様と 言われるよりも
  生きてバカだと 言われましょうヨネ
  綺麗事 並べられた時も
  この命 捨てないようにネ
  青くなって 尻込みなさい
  逃げなさい 隠れなさい
という4番の歌詞に、そのエッセンスが凝縮されている。
 杏はまた、3番の歌詞の一部を、
  腰抜けヘタレ ひ弱で結構
  どうぞ何とでも こう呼びなさいヨ
と改作しているが、これがいかにも彼女らしい。「女のくさった」という差別的表現が許せなかったのだろう(「男になれと」が残されたのが残念だが)。「バカ」「腰抜け」「ヘタレ」「ひ弱」と真に自認することほど難しいことはないが、歴史の偉人たちはそのことを痛烈に訴え、対して現今の政治家や官僚どもは、一部を除いて、その正反対のことを成しているのである。

| | | コメント (0)

2020年2月24日 (月)

落日の日本

33261358  昨日、犬あっちイケーの『のど自慢』を眺めていて嘆息したのは、歌謡曲・演歌もしくはJ-POPばかりになっていて、人口に膾炙する歌唱曲がなくなり、歌詞内容も空疎で平板になっていることだった。1970年までは『のど自慢素人演芸会』という番組名であって、長唄・講談・民謡など多種多芸であったのだが、絶滅危惧種の民謡もまた、21世紀になると番組から消衰したとの事である。人々は生活に即して唄うことはなくなったのである。その代表と言えば、AKBや嵐ではないか。容姿やダンスが注目され、リズムやメロディー中心であって歌詞など付け足しに過ぎない。言い換えれば、ふわふわしているだけの事なのである。
 魯迅といえば、中学校の国語教科書にも取り扱われて、覚えている者が多いのではないか。自分も光村図書の教科書で読んだような気がする。「気がする」というのは、あまり印象に残っていないからである。多分『故郷』であると記憶する。覚えているのは精々、北原白秋の『落葉松』と志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』と宮沢賢治の『よだかの星』と太宰治の『走れメロス』程度である。関心は文学になく、理数系科目だったからやむを得ないだろう。
 彼は中国近代文学の父とも称され、日中の青少年に影響を与えているが、取り分けて、日本人の読者は多く、人気が高いと言わねばならない。太宰治の『惜別』という小説の中でも演出されている。しかしながら、太宰の魯迅青年像は、太宰流に多分に脚色されており、参考にはならない。それはあくまでも、「独立親和」を願っての、敗戦直前に国の委嘱を受けた国策小説である。そのフレーム内のフィクションにすぎない。太宰は魯迅の文学論や思想には全く関心がなく、魯迅の革命性には微塵も触れていない。むしろ、他の革命的な中国人留学生と距離を置く人物像として描かれている。傍観者としての太宰自身を投影しているのである。しかしながら、戦争賛美や戦意高揚を促すものとなっていないことが幸いしている。「真の愛国者は、かえって国の悪口を言う」、「東京の人の愛国心は無邪気すぎる」などと細部で巧妙に批判しているが、大要は変わらない。だから、あくまでも小説として楽しむだけのことであり、両者の文学観への嗜好は読者に委託されているのである。しかしながら、革命性がないことによって、日本人は何度も敗戦に際会することになるのである。もっともっと、この無能なアベ政権は、行き着くところまで続行すべきなのである。

| | | コメント (0)

2017年2月12日 (日)

軍歌一考

07351079_2 実は、軍歌についての晋遊舎ムックを一冊所有している。CDが二枚付録として収録されている冊子である。少し日本の歌に興味が高じて、調べている最中に衝動買いしてしまったのである。これも古本屋行きである()。著者は軍歌研究の第一人者であるが、やはり慶応大出身である。慶応は、早稲田と共に、既に地方出身者が三割を切っており、首都圏のローカル大学に墜しているが、ごく一部の例外を除いて、御用学者と体制護持派の巣窟になってしまっているから、学問的にはほとんど信用していない。これからも劣化が進むであろう。これが故に、危機感を覚えた慶応大学は、地方学生向けに、独自の奨学金制度を充実させているそうである。ところで先のムックであるが、その第一章において、さも偉そうに記述されている事柄は、当たり前と言えば当たり前である。つまり、軍歌は戦争とセットであり、「皇軍」のみならず、娯楽として推奨され、民衆が追い求めたものである。換言すれば、侵略戦争へ国民を総動員するための方途なのである。軍歌そのものは、総力戦を戦う上では必要不可欠な手段なのである。これはあまり知られていないが、外山正一、山田耕作、北原白秋、古賀政男、古関裕而など、戦前の著名な作詞・作曲家で、軍歌に無縁な者は全くいないのである。明治期以降には、政府は学校教育(唱歌)を通じて忠君愛国精神の涵養を図ったのであり、その意味では、東京音楽学校(現・東京芸術大)の功罪は大きいと言わなければならない。そういう私も、1960年代に兄の所有する月刊誌『丸』を耽読したり、零戦や戦艦武蔵のプラモデルを製作したり、朝日ソノラマのソノシートで密かに「ラバウル小唄」や「月月火水木金金」や「同期の桜」などを暗誦している。戦後になっても、まだまだ戦争の影響下にあり、映画やテレビでは戦争を懐古する番組が製作されていて、「戦友」というテレビ番組を視聴した記憶もある。倒錯していた時代が、まだまだ続いていたのである。そして、その伏流水が現今滲出し始めていると言っても過言ではない。辻田はそのムックでは、娯楽としての軍歌の危険性を綴っているが、その問題意識は全く切開せずに、結尾で、軍歌が楽しいと懐古する愛国主義者や軍歌に詳しい人気声優を紹介しているだけで、肝心なそれを放置してしまっているのである。軍歌の内容を「反面教師」(p10)として詳細に知るだけでは軍歌のことは分からない。日清戦争期には、戦争熱にうなされて、軍歌が1300曲以上創られたということであるが(p11)、他方の園田は、その時代の軍歌によって、「それ以降の日本の歌曲のほとんどすべてが行進曲調となってしまった」と嘆き、「二度と再び軍歌をうたわねばならぬ時が来ることを拒否する」(p63)と宣言している。また、小学館版『日本の歴史』26巻において、宇野俊一は、「今に蛆虫チャンチャンを打ち払い・・・うちころせ大砲で・・・撃て撃て突け突け、君の為国の為」などと絶叫した外山正一を、「当時の碩学であることを思うと、その低劣さにはあきれはてるしかない」(p75)と慨嘆している。日本軍歌の父と称される外山正一(東京帝大)だけでなく、彼と共に「抜刀隊」の原曲他、軍歌を多数創作した井沢修二(東京音楽学校、長野県出身)もまた、当時の時代風潮を差し引いても、それに負けず劣らず愚か者である。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)