経済・政治・国際

2023年1月16日 (月)

戦争前夜の日本

34086129 東アジア情勢は激烈となっている。まさに、戦争前夜である。アメリカ帝国主義の世界覇権競争に付き従って、日本の首相が、日米同盟の一層の深化(一体化)をアメリカ大統領ヤバイデンに誓ったのである。東アジアをウクライナと同様に戦場化するものである。日本軍(自衛隊)はその先兵として使嗾されるのである。敵基地攻撃能力保有と軍事予算倍増はその予兆である。アメリカの歴史は戦争の歴史である。アメリカを知悉している人なら、アメリカが世界中に戦争を仕掛けていること(戦争放火国)を理解している。アメリカの自由と民主主義とは、コカコーラとペプシコーラとの、どちらかの選択の自由と民主主義に過ぎない。既に、一線を越したと思ってよい。
 さて肝心な年始に既読したのが、『アフリカ経済の真実』という書物である。極めて明解であり、具体例が陳述された良書である。アフリカは「最後の市場」とされて、1980年代は借金財政で破綻して、国際的に構造調整政策を迫られ、1990年代からは市場経済に伴うグローバリゼーションの渦中にある。加えて、中国の進出もある。それらの歴史過程において、アフリカがどうなっているのかを知りたいがために、読み進めてみたのである。相変わらずの貧困と飢餓、紛争と難民である。列国の搾取と収奪に見舞われて「悲劇の大陸」となっているのである。
 (結論)「自らの国家のヴィジョンを描くこともままならず、グローバリゼーションの歪みでテロや紛争が生じ、そして人々が市場競争から取り残され、貧困と絶望のなかで手足をもがれたまま「沈みゆく大陸」ーーこれがアフリカの本当の姿なのである」(p20)
 これは、中国の脅威という名の下で、抑止力というお題目を唱えて日米同盟を一層強化し、アメリカ帝国主義に従属しながら戦争を仕掛ける自公カルト政権による日本の運命を暗示しているのだろうか。既に、ウクライナ戦争において立派に加担しているのである。

| | | コメント (0)

2022年10月11日 (火)

パンドラの箱を閉める

2022100316510001 稲刈りと稲架掛けを終えた畦で、ひっそりと咲く野菊と赤まんま(イヌタデ)である。冷涼な風や秋雨に時々花を揺らす。好きな風景であるが、来る冬に向けて備えを促すものである。新米の試食は10月下旬となるだろう。
 振り返ると、日本においてネオリベラリズム(新自由主義)が全盛となったのは2000年代だったような気がする。その頃は仕事で忙殺されていて、時代考証どころではなかった。時代は一気に変転していたのであり、それまで当たり前だった富の再分配の考えが否定され、詐欺と虚偽が当たり前の社会となったのである。その時登場したのがコイズミ=アベ内閣であったのである。経済的格差が助長され、協同性が破壊されて、いびつな個人主義(自己責任=自己負担)が跋扈したのである。支配的な価値観が競争原理と成果主義を包含して、金融資本主義が国民生活に浸透し、富と地位がエグゼクティブ(上級管理職)や政治屋に集中して、人々を一元的にグローバル支配してゆくあり方である。例えば、ネットやスマホはその具体的な支配道具である。金融と情報化が融合したのも幇助したのである。また、「平和」や「絆」や「開発」などの言葉も、正反対の意味へと変移したのである。「平和」は新植民地主義戦争やパワーポリティックス(権力政治)と核を含む強大な軍事力によって守られるという偏頗な思考が蔓延している。反共主義を唱える統一協会(勝共連合)というカルト宗教に嵌る人々がいるが、これは人間の協同性を否定するばかりでなく、それによって人類が発展してきたこと(人類史)を否定するのである。どう考えても可笑しい。金の亡者となり、思考が退化した人々と言わなければならない。しかしながら、この異常事態の中で、国家と資本主義は凋落の一途を進むのである。アベ銃撃事件は、急いでパンドラの箱を閉めなければならないことを人々に示唆したのである。

 

| | | コメント (0)

2022年5月23日 (月)

『イワンの馬鹿』より

05177190  今では、ニュース報道以外テレビから離脱して(テレビ好きだっだのだが・・・)、夕餉を済ますとゆるりと過ごすことが多くなっている。相も変わらず、無為なバラエティー番組が専横して、芸no人や軍事評論家、KO大を始めとする首都圏のニセ学者などが跋扈しているのである。一瞥すると、当の本人たち自身が「ちむどんどん」しているようには思えない。国家機能が集中する都市の腐敗は目が当てられないのである。国会議員の殆どは、後先を見ずに、ゼレンスキーのオンライン演説に狂喜して、参戦を表明している有様である。また、G7首脳会議の報道を眺めると、思わず噴飯してしまったのである。世界の権力者どもの、追随する姿を見て、むしろ憐憫さえ覚えてしまったからである。普通の喧嘩や仲裁でも、こんな事態は考えられない。まるでヤクザの争闘さながらである。欧米各国はキリスト教国を標榜しているのだが、そのキリスト信仰に疑義を抱いてしまうのである。このことは、世界的なキリスト教離れという趨勢も関係が深い。世俗化である。その典型的な例があの帝国主義国家である。政教一致の大国である。そのことは、重々承知しておかなければならないのである。そこでつい想起したのが、トルストイの『イワンの馬鹿』である。
 文学的名声を獲得したトルストイは、その集大成として回心後に執筆したのが『イワンの馬鹿』である。彼のキリスト教博愛主義(トルストイ思想)が展開する民話である。三人の兄弟は小悪魔によって兄弟の仲違いを狙うが、イワンの馬鹿によって退治されてしまうのである。そこで、「頭を使って儲けること」を唱道する大悪魔が登場してイワンを試すのだが、これまた成敗されてしまう話である。長兄の王国は軍事独裁国家として、次兄の王国は金融資本国家として破産するが、他方、大悪魔の策略にも拘らず、イワンの王国は大悪魔を一蹴してしまうのである。汗を流して働かない者は他人の食べ物の残りものしか食べられない、という国の掟による結末である。ウクライナ戦争を念頭に置けば、『イワンの馬鹿』の理解が格段に進むであろうし、現況に符合している。現在、某国の大統領が新太平洋圏構想(IPEF)を引っ提げて訪日しているが、共々、愚者どもの狂宴としか思えない。と言うのは、両者とも、ゆくゆくは衰退・没落する国家だからである。
  

| | | コメント (0)

2022年5月10日 (火)

善悪二元論を超えて

31052042  次は『夜と霧』である。霜山訳の旧版以来の二読目である。新版の方は、より親しみやすい砕けた現代文となっていて、解説と資料写真が省かれているため、凄絶な経験と省察が希薄になっているような気がする。本を読む場合、読者側の主体的読み込みと現在(現代)との比較(客体化)が必要と思っている。さもなければ、単なる啓発本に墜してしまうのである。ウクライナ戦争においては、ほとんどの「国民」が善悪二元論に陥没しており、自分の手が人を殺戮して血で染まっていることにも無自覚なのである。日本人の中に戦争派が過半となって、(新)左翼でさえ、ロシアを糾弾しているばかりで、ウクライナ国旗を掲げてよしとしているという事態がまかり通っているのである(戦争翼賛)。実際には、ロシアの弱体化を狙った米(+英NATO諸国+日本の自・公政府)とロシアの戦争という真実を忘れたかのようである。両者が相手をファシスト・ナチと罵り合って世界戦争へと猛進しているのである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。
 さて、肝心な『夜と霧』であるが、これは「一心理学者、強制収容所を体験する」(Ein Psychologe erlept das Konzentrationslager)という表題である。したがって、旧版のように、センセーショナルな歴史的告発本と扱われることは著者の本意ではないと、遠藤周作石原吉郎も気付いていたようである。比べて新版の方は、著者の意図に沿った心理学(精神医学)的な新訳である。内容は世界的ベストセラーになっていることから詳述しないが、要するに、人間とは何か、人生の意味を問うているのである。だからこそ啓発本と受け止められるのである。しかしながら、主体的に告発本として読み込むことも可能である。だからこそ『アウシュヴィッツは終わらない』のである。フランクルは、とある箇所で「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」(p145)と解き明かしている。まともな戦争体験者は、生き残った負い目(罪悪感)を抱懐しながら、貝のように口を閉ざしているのである。それは恥辱の化石とも換言できるだろう。現今の戦争派のように、廉恥心のない怠慢な人々(多数派)は何度も過ちを繰り返すと思われるのである。
 もう一つ明らかにしておかなければならないのは、フランクルの宗教観である。これを感得できなければ、『夜と霧』の真の読者と言えないのではないか。そのことは次回以降に明らかにしたい。
 ちなみに、身近な図書館では、『告発戦後の特高官僚』、『現代史における戦争責任』、『血にコクリコの花咲けば』、『敗戦前日記』、『八月十五日日記』、『近代日本と朝鮮』、『手記ー私の戦争体験』など戦争関連本が大量に廃棄されているのが現実である。戦後77年は日本の侵略戦争を忘却する歴史と言わねばならないだろう。あるいは、歴史は別の形で繰り返すとも言えるだろう。このこともまた、人間の重要な一側面であることを剔出しておかなければならないのである。

| | | コメント (0)

2022年5月 2日 (月)

『アウシュヴィッツは終わらない』

01084171 この選書を読む切っ掛けは、徐京植の『過ぎ去らない人々ー難民の世紀の墓碑銘』の一章であった。アウシュヴィッツ強制収容所と言えば、かの著名なフランクルの『夜と霧』が定番であるが、P.レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』(原題『これが人間か』SE QUESTO E' UN UOMO)を選択したのである。徐京植はレーヴィの稿の最後で、「レーヴィの自殺は、人類そのものの自殺過程を象徴してしているのだろうか」と問いを投げかけている。『夜と霧』では生き残るための心理学的方策を提起しているのだが(奇妙なことにビジネスの啓発本にもなっている)、レーヴィの記録はそれが目的ではない。彼は、①ファシズムは健在である、②自分の世代の過ちを明かすことこそ、若者を尊重することになる、ということを学生版の初めに示唆している(p.v)。フランクルとは方向が異なっているのである。
 先ず「選別」(Selekja)があった。役に立たない親、妻子、恋人たちなどはガス室行きとなったのである。残りの者たちはラーゲル(抹殺収容所=死の窓口)に入れられて、飢えと寒さと労働に明け暮れるのである。この時点で生存の「選別」がなされていることを覚えていてよい。まさしく抹殺なのであり、だから『アウシュヴィッツは終わらない』のである。このことは、人類の邪悪さ(罪)とレーヴィの自死とは無関係ではないと思われる。彼はこの叙述の中で、「直接経験したことだけを取り上げるようにした」(p232)と述べて、詳細で具体的にラーゲル内部の有り様を書き綴っているのである。生き残った者は「人間性を破壊」(p56、215)され、「希望を持つ習慣や、理性への信頼感が失われ」、「考えることは役に立たなく」(p214)なる。レーヴィでも、「いやすことのできない、いまわしい出来事(選別)・・・もし私が神だったら、クーンの祈りを地面に吐き捨ててやる」と憤激するのである(p159)。「未来など考えないこと」(p141)を強いられるのである。レーヴィが生き残ることができたのは全くの偶然なのである。偶々「選別」を免れたり、化学者であるために研究所抜擢もあり、ソ連軍の侵攻もあって解放されたのである。しかしながら、レーヴィのこの著書を熟読しておくことは、21世紀にも永続する戦争とは無縁ではない。ナショナリズムとグローバリズムが狂奔する現代において、どの国民国家においても想定されることなのである。無知や無罪を装う「この考え抜かれた意図的な怠慢こそが犯罪行為なのだ」(p226)とレーヴィは末尾で指弾しているが、日本が米英NATOに追随して参戦している事実は、到底無自覚ではいられないのである。

| | | コメント (0)

2022年4月10日 (日)

天皇制とキリスト信仰

33943009  この著書は様々な刺激的問題を投げかけてくれている。著者は、宗教と戦争との関連をも考察している。それは、「戦争とはつねに文化の発露であり、またしばしば文化形態の決定要因、さらにはある種の社会では文化そのものなのである」(p79)というキーガンの戦史論に影響を受けているのであろうが、考えてみれば、いつまでもクラウゼヴィッツの古い戦争観に囚われているのもおかしいのである。現今のウクライナ戦争においても、確かにプーチン・ロシアの侵攻と虐殺は許されることではないが、経済的制裁と武器供与をする西側NATOの所業はどうなのか。「欲望に基づく『侵略』よりも、善意や正義感に基づく『防衛』の方が凶暴なのだ」(p79)という言辞もある。戦争に軍人も民間人もへったくれもないことは、沖縄戦が明確に教えてくれている。大空襲や原爆を落として民間人を大量に殺戮した国の二枚舌(duplicity,double standard)はどうなのか、と疑義を覚えるのである。プーチンだけでなく世界の権力者とて同罪であり、どいつもこいつも調停や停戦に向けて外交的に失敗(もしくは放棄や加担)しているのである。国民国家時代のままの旧態依然としているのである。政治的・外交的無能と人間的な邪悪を持った性悪連中なのである。かてて加えて、グローバル主義者と新自由主義者どもは、ファシストを使嗾して世界と地球と民衆を混迷と破滅に誘導させているのである。まさしく、パンデミックとショック・ドクトリンである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。平和派はごく少数だったのである。
 さて、キリスト教が日本において人口比1%にも満たない理由とは何かはこの書籍のテーマの一つであるが、著者は安直に結論を急ぐことなく読者に様々な要因を提示している点で好感が持てる。そしてその提起の一つとしてティリッヒの宗教論を援用している。「何かを真理であると信じ込むこと、思い込むこと、鵜呑みにすることが信仰なのではなく、自らの存在の意味について『究極的な関心』(ultimate conncern)を抱き、またそうした関心事に捉えられ支えられていることが信仰だとされるのである」(p275)という宗教観である。そのキーワードは「懐疑」である。懐疑は信仰を創造させるのである。それは量義治先生に教示された「無信仰の信仰」とも相通じるものである。さらに、日本にキリスト教が普及しない理由は様々あれど、もう一つの核心的理由は、地政的にも歴史的にも民俗的にも、あらゆる意味において、天皇制であると指摘しておかなければならないのである。
 ※クリスチャンである友人の指摘があり、量先生の信仰と思索(生きざま)を棄損させるものである故、「不信仰の信仰」を「無信仰の信仰」と訂正させて頂きました。認識の過誤がありましたことをお詫びします。

| | | コメント (0)

2022年3月11日 (金)

誰が利益を得ているのか?

34196725  危機の時代にあって、新型コロナウィルスに続いてウクライナ問題である。大事なのは、一体誰が利益を得ているか、を見極めることである。巷間では、プーチン悪玉説がワクチン同様に猖獗を極めているが、彼とロシアは術中に嵌っているのであると思う。アメリカとNATO諸国のみならず、中立国もまた経済制裁と武器供与に関与しているのが現実である。更に、西側からの情報にあふれ、マスコミのみならずSNSを媒介して嫌という程映像を見せ付けられ、戦争屋たちが世界中から義勇軍として参加したり、影響下にあるものたちが募金などの支援をしているのである。この演出がどのようにされているのかを、もう一度顧みる必要がある。確かにロシアの侵攻と殺戮は断じて許されることではない。しかしながら、プーチンは我慢に我慢を重ねたと主張している。プーチンの殺害や賞金まで取り出されているのは異常である。ウクライナへのアメリカ大統領=バイデンによる利害関係も噂されている。ウクライナ大統領のゼレンスキーは、愛国主義を掲げて国民の動員を強制し、欧米の支援や民族主義者との連携にシフトしているように見える。以上のように考慮すると、プーチン・ロシアと対峙しているものが見えてくるのではないか。
 中国などの国は及び腰になっている。日本政府は早速軍事装備を支援して参戦している。しかも民間では戦争募金まで開始しているのである。マスメディアはゼレンスキーとその同調者を英雄のようにウンコ情報を伝えている。マルクス・ガブリエルはインタビューの中で、現代はポスト・トュルース(post truth)の時代であって(『資本主義と危機』p12)、「資本主義とは、本質的に錯覚を作り出すシステムである」(p3)と語っている。彼の見解によれば、資本主義の政治形態がショーになるのは本質であり、必然なのである。このように考えると、このショーを演出する者は誰なのかが見えてくるだろう。プーチンもゼレンスキーも、それに各国首脳も出演者と考えることができる。出演者はそれだけではない。演出家が出演者を使嗾してショーが演じられているのである。コロナ禍でもそのショーが見られたような気がする。ワールドワイドな現代にあって、人々が一層警戒心と、長けたメディアリテラシーをもって生きなければならないことは、誠にもってトホホなのである。

| | | コメント (0)

2021年11月 1日 (月)

災害・人災列島へ

A3f06de50a2edcba0b646a4264ff052b0c1a5b29  衆議院選挙は投開票されて、ほぼ与党・維新・国民は勝利して野党勢力は敗北した(345:110)。これは予想されたことであり、厳然とした事実であり、選挙制度を変えない限り、死票が多く、自分の投票もまた、ほぼ死票となったのである。たった3割の与党支持勢力が4分の3を占有したことになる。社会の中心が30代から50代の働き盛りが占め、1980年代後半からの右傾化が、より拍車をかける結果となるだろう。そして、あと20年から30年程は戦争派が時代の潮流となるのである。維新の躍進はその兆候でもある。大阪は戦前から一貫として砲兵工廠を擁する軍都であり(帝都東京より)、大日本国防婦人会の発祥地という歴史的事実である。「維新功成りて大阪枯る」である。今後、「失われた30年」は続いて、左翼・リベラル側は「冬の時代」となって、マスコミを利用して非難の総攻撃を受けることになる。また、この選挙の特徴は行政と経済界と、とりわけてマスコミの勝利でもある(マスコミは誠に罪深い)。岸田首相の次の内閣は高市の自・公・維政権となって改憲と軍拡に励むことと予想される。着々と戦争派が議会を占拠してゆくのである。靖国派と学会派と新自由主義政策派との合従連衡の政権である。想像するだに恐ろしいと言わなければならない。90歳代の戦争経験者が次々と逝去され、学校現場でも平和教育を推進する現職教員が次々と退職されているのである。同じ道を進むのか。日清・日露戦争時には、9割以上の支持があって、「臥薪嘗胆」と「暴支膺懲」(この言葉は辞書群より消去されている)というスローガンが軍部とジャーナリズムによって叫ばれて浸透したのである。日本の選択は極限的に狭められているのである。どうか、災害列島が更なる焼け野原にならないように祈るのみである。

| | | コメント (0)

2021年10月 3日 (日)

現代の感情と思考

20200119120728753165_6a8b22e8e9655fe581e  立憲民主党の枝野代表の「自民党は変わらない、変われない」という批判は、けだし至言である(立民党を支持している訳ではないが)。そして自民党新総裁の人事を一瞥すると、そのことが判然とする。相変わらずの世襲・派閥政治であり、強欲・反動政治である。自民党の本質から考えて、日本の没落は確定したようなものである。
 『満蒙開拓の手記』を図書館で借り受けて、その実相を把握するために読んでみた。一般開拓団約22万人と満蒙開拓青少年義勇軍11万の総勢32万人の凄絶な体験記の一部である。長野県から渡満した地域は「満州国」の、さらに東北部であるソ連国境付近が多いために、ソ連軍の参戦後は逃亡・帰国のために阿鼻叫喚の引き揚げ体験が大半である。文字通り侵略戦争の盾とされたのである。肝要な点は、それが国策の下で敢行されたことである。このことは忘れてはならないことである。戦後補償は軍人・軍属ばかりで、遺族会は戦後において終始一貫とした自民党の支持団体となってきたのである。これに反して、開拓の人々は一顧だにされずに放置されたのである。その惨状は先にこのブログ記事にも紹介したのであるが、こちらの手記の方が経緯と実情と戦後について詳細であり、青少年義勇軍たちや満蒙開拓に随伴した看護師や教師たちの手記もあって広範な記載となっている。夫や子どもを失いながら帰国した婦人たちは、侵略戦争の責任を問い(p122)、国への怨恨を吐露し(p185)、平和を誓う思いを訴える(p283)ものが比較的多いのである。そして、家産を始末して渡満した引き揚げ者には、「内地に帰っても、しばらく親戚の家を渡り歩いたが、誠に苦痛にみちたものでした」(p269)と、補償もなく白い目で見られて艱難は続いたのである。中国在留邦人の問題がその証左である。70年代までの平和教育から、今ではそれも忘却しつつある現代にあって、これらの体験記などの一級資料を渉猟することは、同じことを繰り返さないためにも意義があるのである。戦後の長野県教育においては、中央ではなく県独自の教科書で習った時代もある(現在は理科と生活だけとなっている)。科学的で合理的な思考が求められたのだが、現代においては、戦争体験者の負い目や苦難は記憶から失われ、一時的で右翼的感情や思いが横溢している時代なのである。自民党の総裁選(権力闘争)において、そのことが如実に顕現しているのを見たのである。

| | | コメント (0)

2021年9月 5日 (日)

侵略戦争の総括を超えて

33114470  この本を読んでの感想は、自分もまた戦前生まれならば軍国少年になったのではないかとの疑いを覚えたことである。想い起せば、地方紙の新聞少年であった自分もまた、新聞屋の作業台に寄り掛かりながら読んだ新聞には、高度経済成長による日本の躍進を報じる記事が満載され、それを眺めてほくそ笑んでいたのである。完全に国家によって絡めとられていたのである。戦後、米ソ対立の冷戦下、朝鮮戦争によって息を吹き返した日本経済は、ベトナム戦争によってこの世の春を満喫したのである。しかしながら、石油危機とベトナム戦争の終結と共に終了したのである。つまり、日本経済の戦後的発展は、世界の相対的安定期と共に出発して戦争によって繁栄した経済なのである。その後の経済停滞は、開発途上国によるキャッチアップという要因と、経済政策の錯綜や構造改革とグローバル化の遅滞などと誤解されているが、最大要因は自民党政治である。戦前の政党政治の腐敗とその戦犯たちがが結集した自民党は、戦後になっても疑獄事件を継続して、80年代のナショナリズムの高揚によって国粋主義者の巣窟になっているのである。二世以上の議員や派閥の領袖の跋扈は自民党の本質なのである。菅の辞任もそれが原因でもある。菅の哀れは総理総裁になった時に、実家を映したマスコミ報道に既に想定されたことである。家族・親族の誰も居住していない実家の映像が映し出されたのである。郷土を捨てて大都会での立身出世を目論んできた人生であることは判然としているのである。①猥雑な世界観と政治信条②実行力の不足③コミュニケーション能力の欠如である。こんな人間たちが権力を握ったらどうなるかは推断されたことなのである。
 ある大臣が首相と連日直談判して落涙する姿を報道で見たが、これは民衆にとって全く理解不能である。偽善の涙である。彼もまた社会の肉瘤に過ぎないことの証左である。自己の体験を検証して批判・反省することはとても大変なことで、できずに一生を終える人も多い。この本の著者は、率直に軍国少年として体験したことを綴っているのだが、今一つ総括に欠けると思われるのである(大変申し訳ないが)。運がよかったのである。しかしながら、他の多くの日本人にとっては苦難の歴史だったのである。「満州国は日本がアジアの中に描いた理想の国として、あらゆる人材・巨額な資本・先端的技術などを投下して全力を挙げてつくり上げようとした国家であったと思います」(p265)という野放図な一文は、「平和な世界の実現を目指さなければならない」(p270)という強い願いと何ら矛盾したものではないのである。体験だけでは経験とならないのである。もっと体験を客体として措定しなければならないのである。90歳以上の戦争体験者が愈々過少になっている時代にあっては、益々聞き取りと記録が必要となっている。小・中学校時代の月曜の朝礼では、校長・教頭らが平和の大切さを訴える訓辞が多かったのであるが、むしろ今の時代だからこそ、意識して戦争勢力を一掃することに踏み込まなければならないのである。
 

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧