書籍・雑誌

2018年6月24日 (日)

女たちの戦争責任

2018061909060001 田植えは17日の午前に終了する。が、補植ができない。多忙の為、体力保持のために休むのであるが、自然は待ってくれない。この間に、高群逸枝の『娘巡礼記』(岩波文庫)や渋谷定輔の『農民哀史から六十年』(岩波新書)などを繙読している。しかしながら、年々歳々、愚鈍の頭は益々固陋になって、殆ど機能しなくなっている。それでも生きなければならないのである。研修や会議などで事なかれ主義を決め込む自分に愛想を尽かす日々である。
 満24歳の若き高群は故郷・熊本を後にして、半年間の四国遍路の旅に立つ。頃は、1918年6月、大正デモクラシーの全盛期でもあり、直後には、シベリア出兵や米騒動など、国内の戦時体制化と階級闘争とが激化しつつある時期である。
    おどろかじ 疑ひもせじ 世の中を
    さみしく独り 旅ゆくわれは
 巡礼の動機は、「あとがき」によれば、どうやら人生の煩悶と恋愛問題らしい(これにはあまり関心がない)。若き女の巡礼姿は奇怪と好奇の眼に晒されるのだが、当時の世相と人間模様が見事に描写されている。貧困と絶望にある庶民の姿である。他方、高群の観念的な思考は、その時代の青年層に特有のものである。その乖離が掻痒の感を覚えるのである。結果として、高群の母性主義が「聖戦」として侵略戦争に加担してゆくのが残念なことである(これ参照)。されど、24歳の自分を思い返すと、恥じ入るばかりである。
 
 

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2018年4月28日 (土)

近代日本の科学技術への「総括」

33706317 さすがは元東大全共闘代表である。論旨明快である。資料を渉猟するだけでなく、安保・沖縄闘争や大学闘争において突き付けられたのであるが、放置されている諸問題についての言及もなされていて、大変な労作といえるのではないか。近代化した日本の150年を問うているのである。このことは、多くの人士によって認識され、論及が急増しているのである。例えば、ある高校の日本史の授業では、学習プリントが出題され、大テーマとして「日本の近代化はどのように行われたのか」が問われ、そのための視点として、「なぜ、日本は近代化に成功したのか。その過程で失ったもの、犠牲にされたものなど問題点は何か」と提示されている。また、「最近、『明治維新はまちがいだった』という本や、『家康江戸をつくる』という本が話題となっている。これはなぜか」と補足している。山本の岩波新書は、序文で要点がほぼ語り尽くされているが、重要なのはその論証である。日本語や日本の学者に特有な曖昧模糊とした論説が多い中、山本の記述は一等鮮明である。今年も春の叙勲が内閣府から発表されているが、スポーツ選手やら芸能人など、若いうちから勲章にイカれるようでは話にならない。思想信条が問われているのである。貰う方も貰う方であるが、山本にとっては、それらを遙かに凌駕する業績となるのは間違いがないだろう。本当の仕事とは、こういうものなのである。
 今年の春は目まぐるしいほどの忙しさであり、ゆっくりと鑑賞したり、リラックスができないことである。街路樹や庭木では、もうハナミズキが満開を過ぎているのである。種蒔きを始め、農事を急がねばなるまい。

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2018年3月23日 (金)

曲学阿世の国史学

33565344_2 講座派と労農派との日本資本主義論争は、1930年代前半に生起したのだが、この論争は30年代後半には国家権力の弾圧によって強制終了させられた。この論争は、究極的には、左翼論客による日本の革命戦略をめぐるものであって、戦後になっても決着を見ていないと言えよう。敗戦後の歴史学においては、昭和史論争、ファシズム論争、そして「革新」派論から総力戦体制論へと展開しているのである。昭和を睨む歴史学者の面々は、戦争を体験したり、証言した世代から記憶と記録の世代となり、もはや歴史資料を渉猟して考察するしかない現実となっている。だからが故に、巷間では虚偽の歴史観や歴史本が幅を利かせ、書店の店頭やネット上に溢れ返っているのであるが、この主要因は歴史学者のだらしのなさの故なのである。彼らは政治家などの日記や天皇実録などの第一史料を漁ってばかりいるのであるが、それらへの批判もなく政治史中心の歴史を把握して通史を論述しようとするものだから、結局、気の抜けたサイダーのような歴史記述となってしまうのである。
 さて、総力戦体制論は、敗戦の前後の連続性を強調するものである。学生時代には、単位取得のために参考図書として、山之内靖の『マルクス・エンゲルスの世界史像』という出世作を精読したことがあるが、当時の東大では疑似マルクス主義者による学問が席巻していたのである。そして海外の学問の成果を吸収して、それが恰も自分が編み出したものとして取り繕う曲学阿世の学者ばかりだったのである。そんな連中が唱道し始めたのが総力戦体制論なのである。ならば、日本の歴史、特に日本の近現代史を読み解く場合、一体何が必要なのかを次回に詳述してみたい(続く)。

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2018年3月 7日 (水)

軍部の台頭と近代天皇制

33559108 この巻では、「憲政の常道」の時代から軍部主導の「挙国一致」内閣の時代までを取り扱っている。次に続くのは近衛新体制の時代であり、結果的に国家的破滅に収束するのである。憲政の常道とは、第二次護憲運動によって成立し、五・一五事件によって崩壊した政党内閣制である。多数議席を獲得した政党が内閣を組織するという政治的慣例である。決して法的拘束力がある訳でない。裏を返せば、明治の「元勲」が鬼籍に入って藩閥・超然内閣への飽きからくる大正デモクラシーによる精華というべき慣例であったのであるが、実態は西園寺公望(唯一生き残った元老)の首班指名に基づいて天皇の大命降下という方法に拠っているのであって、元はと言えば、「大日本帝国憲法には、首相決定のルールが定められていない」(p4)のである。明治憲法は伊藤博文が中心となって井上毅らが起草したと言われているが、これがまた、出鱈目な憲法なのであった。天皇、天皇、天皇・・・と天皇親政を謳い(欽定憲法)、その大権を規定しているからである。だから、著者はエピローグで天皇制と明治憲法に逢着せざるを得なかったのである。言うまでもなく、統帥権は天皇の大権であり、内閣(行政)からは独立していたのであり、軍部は天皇の不可侵性または神聖性を盾に権力介入から伸長へと進展したのであった。これには、腐敗した政党・財閥勢力や明治以来の天皇制に洗脳された臣民意識という少なくとも40年以上にわたる歴史背景があったのである。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)という俳句があるが(この句の戦争とは憲兵の意であるらしい)、戦争は少しづつ浸潤し、段階的に一気に進捗するのである。軍部が国家権力を掌握して侵略戦争に敗北した責任は、当然の如く、近代天皇制にもあるのであって、ここで戦争責任問題にもなるのである。戦後に成立する「日本国憲法」は、大日本帝国憲法に基づいて帝国議会で承認され、枢密院の可決後、天皇の裁可で公布されたのであるが、ここで注目したいのは、戦後憲法でも天皇制は生き続けているということである(法的継続性)。天皇制問題は、決してタブーとするのではなく、戦争反対を貫くためにはこの問題を避けて通れないのである。著者が最後の一文で、「近代天皇制が、政治統合の主体としての実質的な機能を依然として封じ込められる一方で、国民統合の象徴としては無制約に解き放たれていく、そうした時代でもあった」(p241)という指摘は、現代にも生きているのである。

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2018年2月 9日 (金)

大正日本の正体

33537432 大正時代の日本について論じるのは、非常に気後れを感じる。なかなか一概に論じることはできないのである。この巻は、大正期を国際化時代という視点から立論して、概ね成功していると思われるのだが、歴史研究者によくあるように、政治家どもの暗闘史観によってその時代をイメージするのでは、どうしても不満を覚えてしまうのである。元老や政党政治家による権力闘争の分析に終始して、大正デモクラシーへの言及が過少であり、置き去りにされているのである(著者は殆ど大正デモクラシーという用語を使用していない)。そもそも、明治、大正と元号で(一世一元制度)時代を考究することに疑念がある。明治維新以来の天皇制イデオロギーの支配に屈することになるからである(これは現在でも支配的なイデオロギーである)。また、階級闘争史観からの歴史本は、多々存在しているように錯覚されているが、殆どないのが実状であって、ほぼ天皇制もしくは国民国家の視点として上梓されていると断じてよい。国民国家というイデオロギーもまた、はぎとり難いほど浸透しているのである。
 さて、大正時代は、大まかに概括すると、護憲運動に始まり、普通選挙を引き換えに治安維持法の成立に終わる。対外的には辛亥革命や第一次世界大戦、ロシア革命などの影響を受け、対内的には政党政治と社会運動という大正デモクラシーに彩られている。著者の言うように、立憲主義から民本主義へと「都市の民衆が政治的主体という時代が始まった」(p208)とも規定できるだろう。しかし他方で、自立・孤立と国際協調との対立項で迷走しながら、対華二十一箇条要求に見られるように、満蒙の権益を死守するだけでなく、中国侵略への衝動も底流に流れていたのである。老壮会、猶存社、行地社などの右翼結社が次々と結成され、高畠素之や上杉慎吉(東大教授)等は、国家主義的団体を創始しているのである。三度にわたる対外戦争に勝利した帝国日本は、ナショナリズムの激しい坩堝に入り込むことになった訳である。1925年の治安維持法の制定は、大正デモクラシーを根絶しにして、軍部や右翼団体の台頭を招来するものとなり、大正時代の終着点なのである。そういう意味において、大正時代は、アジア・太平洋戦争の敗戦を準備した時代とも定義できるのである。特筆すべきは、関東大震災に乗じて、国家に反逆した大杉栄や伊藤野枝等が、国家(憲兵隊)によって惨殺されていることである。この甘粕事件亀戸事件に憤激した難波大助は虎ノ門事件を惹起し、ギロチン社や労働運動社のアナーキストたちは大杉の復讐を誓ってテロリズムに走っている。これらもまた大正末期の事柄である。明治維新によって創造された天皇主義国家は、依然として日本を覆い尽くしているのである。大正時代は、一方ではデモクラシーの時代でもあり、他方では「抑圧・圧制の時代」でもあったのである(これ参照)。
 

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2018年1月31日 (水)

反戦主義者なる事

33634511 この本の書評はどこで見たか。『信毎』かネットか、よく覚えていない。益々耄碌した自分の頭をめぐらしたり、メモ帳を遡って点検しても分からない。それは兎も角、内村鑑三の弟子である結核医・末永敏事(1887-1945)の生涯を追究した労作である。彼の前半生は、「末永は角筈時代よりの弟子であって、医学者として米国に十年留学し信仰を守って今日に至ったものである」と晩年の内村は日記に書き付けている。将来を嘱望されていたのだが、内村の司会で門下のキリスト者と婚姻後、約六年余りして離婚する。時は1933年であり、この離婚の理由は不明であるが、日本帝国主義は満州事変から満州国をでっち上げ、愈々本格的に侵略戦争にのめり込んでゆく時期である。直後には、官憲による小林多喜二虐殺事件が発生し、獄中転向が続いたのである。まさしく、時代の転換年度である。さらに、1937年の日華事変により中国への全面的な侵略戦争が開始され、この時に至って、翌年の末永は、国家総動員法を拒否して、当局の職業調査に、「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲に拙者が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と申告したのである。師事した内村鑑三は、不敬事件で教職追放となり、日露戦争前から非戦論を展開していたのである(兵役拒否でないことが内村の限界である)が、弟子の末永は軍務拒否を通告したために、即座に特高に逮捕される。「捨て身の反戦行動」である。これ以降、彼の後半生は暗転したのである。『内村鑑三全集』を編集した鈴木範久は、「一部の例外を除いて、無教会主義者たちの反戦は挫折していった。しかもその多くは満州事変を機に妥協に転じた。・・・これに対して末永敏事は行動し、そのまま死に至った。徹底して生きるには信仰が必要。彼には確かな信仰があったのだろう」と語っている(p73、183)。翌年、宗教団体法が制定され、多くのキリスト教徒は恭順を示して、1941年、宗派を集めて日本基督教団を発足させる。翌新年には、伊勢神宮に参拝して教団設立を報告したのである。ドイツ教会闘争史に詳しい雨宮栄一は、日本のキリスト教徒は「だらしなかった」と恥の歴史を慨嘆している(p88)。戦後になって教団は、戦争責任についての告白を議長声明として出しているが、遅きに失するばかりでなく、それを具体的に行動指針として提示していないものとなっており、その後も社会派牧師や学生を排斥したのである。反戦主義者の告白によって、敏事の結末(後半生)は破滅だったが(p149)、累が及ばないように配慮しながら、一人「みじめに」殉教したと言えるのではないか。今や侵略戦争の加害責任が意識化され、問われている時代になっているのだが、同時に、侵略戦争に反対して行動した人々の名誉復権も執拗になされて、それが日本人の歴史認識に据えられなければならないのである。

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2018年1月23日 (火)

今、緊要なこと

33587240 図書館で検索し、見つけた新書である。金欠症のために滅多に書店では購入しない。ただ、必要とあらば財布の底をはたくが、何分(なにぶん)書棚がないので目一杯の本の処分に苦慮し、挙句の果てに廃棄しまうことになるためである。従前、高村の書物は愛読者ではないが、いつかは大部な小説を読み切ってみたいと思い合わせていたところである。いつものように、安直にも、時評集からと考えたのである。それは、2014年から2016年までの時代時評に講演録を二つ加えた覚書である。どちらかというと、講演録の方(就中、「信州岩波講座」、p156~)が高村の思慮を理解する上で手っ取り早いのではないか。作家的な観察力が利いていると思われるからである。
 即ち、東北大震災、その前兆である阪神大震災など、言葉を失う体験から一人一人が未来へと言葉を紡ぎ、言葉にすることで未来への意思を持つことである。やはり物書きに多い、言葉の力のへの確信である。キーワードは、人権意識と歴史認識の徹底であり、平和への希求であり、日本文化遺産の再生である。七十有余年に渡る戦後の歴史を改悪するために、ネトウヨ首相はもぬけの殻になってしまった日本国憲法の産廃処理を政治日程に仕掛けているのだが、これは確信犯がなす業である。30年来の右傾化に乗じて、嘘と出鱈目な言葉が氾濫し、低劣な言葉が飛び交っている。戦後的な繁栄は空虚となり、諸処の極右政党がこの政権への「消極的な承認」(p73)を利用して国会議員の三分の二勢力を獲得してしまっているのである。しかしながら、極右首相が国民の生命と財産を保証する訳ではない(高村薫は「仮想」と呼んでいる。p45)。このことは既に福島の原発事故で実証されているのである。繁栄する日本経済というものも幻想になってしまっている。産業もない、科学技術もない、まともな政治家もいない、子供も少ないという荒涼とした現実を目前にして、極右政権が跋扈する余裕などない地点にいるのである。憲法改悪と原発推進の反動政権には、破滅しか待っていないのである。戦前の歴史をしっかり認識すること、これが今、緊要なのである。
 しかしながら、結尾の「当面私たちに残されている道は、すぐ後ろに迫ってきている大波に呑み込まれないよう、黙って逃げることだけである」(p214)という言葉は、この時評集を棄損してしまっているのではないか。今日は、白根山の爆発と地震が懸念されたのである。天変地異はそんな日本人を待っていないかのようである。

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2018年1月20日 (土)

帝国化への道

33524450 タイトルの一部からして「帝国日本」である。現時の世界的グローバル経済の進展に伴って、帝国主義(Imperialism)概念では捉えられない事象が顕在化して、帝国論(Empire)が大流行である。いわゆる超帝国主義論である。特に、ネグリ&ハートの『〈帝国〉』(2000年)がその論を急加速したのである。日本の学者が欧米の学者に飛びつくのは近代化に成功した明治以来の事柄である。その昔、親炙した助教授から、東大の教授が丸善の洋書を独占買いして、訳書や著書を上梓している実態を聞き及んだことがあるが、それは今も変わらない。帝国論も例外ではない。そして、レーニンが提起した、左翼の垢にまみれた「帝国主義」という用語を使用することは、ためらう時代になっているのである(これ参照)。(ポスト)構造主義も帝国論も、パリ五月革命の挫折から派生したものと思われるが、世界の仕組みの解明を標榜しながら内面化を促進し、革命対象を巨大化して革命そのものを彼岸化しているとも思われるのである。
 さて、第三巻では、帝国化の起点とした日清戦争から日露戦争を経て明治時代の終期を叙述している。台湾征服戦争から始まって藩閥と政党とが連携し、自由民権運動は取り込まれてゆくのである。軍事大国化の推進に伴う苦境の財政を補完する地方の名望家の役割と地域社会の変容を記述するのが、この巻の特色である。黒岩六郎の『二十一世紀へ生きる』では、地方名望家の分岐が詳述されているが、帝国主義の特徴である金融資本の確立期でもあって、地方に蓄積された資本が国家によって収奪・統制される過程でもある。その有り様が記述されている。この巻の中で目を引いたのは、1903年の七博士意見書以前に、1900年9月、東京帝国大学の六教授が満州からのロシアの追放を山県首相に意見したことである(p65、逆に、七博士建白事件について言及されていないのが不思議である)。東京大学とその国史学科は、戦争責任を未だ回避しているのである(京都学派も例外ではない。これ参照)。もう一つ気になったのは、「日清戦争につづいて日露戦争も解散総選挙の下で始まったのである」(p108)という記述だった。戦争は、どんな形であれ、内なる統治として既に始まっているのである。

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2018年1月15日 (月)

罪深い男たち

33682266 第一巻では、明治維新は、幕府側を徹底的にせん滅することによって実現したことが明らかになったのであるが、それは民衆によって準備されたのではなく、ごく一部の公家と下級武士の奸計(悪だくみによる騙し討ち)による所業だったのである。前近代的な国家秩序=華夷秩序からの脱却を目指し、国土の確定(琉球処分)や徴兵制や地租改正などが急がれたのである。それは同時に、天皇親政を掲げて人民を臣民として包摂してゆく過程であった。国民国家化への契機となったのである。
 第二巻では、主権国家としての確立過程の叙述である。明治六年の征韓派と内治派の対立は、政府内の権力闘争である。いずれにしても、明治政府は不平武士の残党を死に追い込み(西南戦争)、自由民権運動との戦いに勝利する中で大日本帝国憲法の発布となる。これによって、「民衆は天皇の名によって帝国憲法を『押し付けられた』のである」(p192)。明治憲法では、天皇の統帥権が明記され、教育の法令は天皇の大権として行政府の支配下に置かれ、議会(国民)はこれから排除されたのである(p206)。
Db4sjm1uiaatdmz 対外的には、第一回帝国議会(1890年)の施政演説をした内閣総理大臣・山県有朋は、主権線・利益線論を展開し、日清戦争へと直進するのである。こうした対外的な主権国家化は同時に、対内的には、民衆の臣民化・国民化が強力に推進されたのである。そうした扇動は、「臥薪嘗胆」や「暴支膺懲」という言葉に結実してゆくのである。忠君愛国思想は、天皇を頂点とした差別思想を伴ったアジア観を決定づけたのである(p262)。換言すれば、日清戦争の勝利(日本帝国主義の確立への転機)は、1945年の敗戦を準備し、その淵源は明治維新だったと言っても過言ではないのである。山県という人物は、まこともって、罪深い男である。

 正月だというのに、毎日毎日忙殺されて(生活に追われて)、悩みも多く、心身ともに疲弊している。今年一年、平穏に生活できることを願って記帳とパソコンに向かう夜々である(泣)。

 

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2018年1月 1日 (月)

2018年 謹賀新年

33518893 第一巻の基調である、「万国公法」と称される国際法の秩序を受容し、相応の国制改革を目指した維新政府の狙いを継承して、第二巻は記述される。第一巻の著者の、歴史研究者としての自らの国民化という無自覚さを前回のブログ投稿で指摘したのであるが、第二巻の著者は、1990年代後半より議論されている、いわゆる「国民国家論」(西川長夫)を対抗的に意識している(これについては「あとがき」参照)。「主権国家」の対立概念は「国民主権」であると考えると一見分かりやすいのだが、それでは「国民」とは何なのか、という疑問が沸き起こる。ここにおいて出番となったのが、国民国家論、即ち国家イデオロギー装置論である。要するに、「私自身がそのなかに囚われている国民国家を全体として対象化するための方法」なのであるが、戦後歴史学への批判となったのである(つづく)。
2018 と下書きをしたためている内に、新年になってしまった次第である。年末の「紅白」やら喧噪で意味もない(と自分には思われる)番組は避けて、デスク周りの掃除やら、挨拶やら、読書に勤しんで過ごす。毎年恒例の過ごし方である。昨年は多少の野菜作りを敢行したのだが、今年は本格的な農業開始のための下準備を開始しようと決意している(が、どうなるやら)。拙い過疎ブログですが、本年もまたよろしくお願い致します。

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