書籍・雑誌

2023年1月22日 (日)

メタバースに関するメモ

34379318  休養のついでに、図書館から拝借したメタバースの関連本を二冊、通読してみた。『図解まるわかり メタバースのしくみ』(A)と『図解ポケット メタバースがよくわかる本』(B)とである。ネットリテラシー(ネットを使いこなす能力)が著しく欠ける自分が、何故にWeb3.0時代のメタバースについて併読してみたかは、図書館での書棚にただ並んでいたからに過ぎない。ほんの好奇心に因るのである。ほぼ偶然の仕業なのである。以下の考察もまた、(もし)有用ならばこれを奇貨としなければならないことだろう。が、なかなかそうはゆかないのは自明なことだろう。でなければ、こんな古き良きWeb2.0時代のブログなんぞに固執していること自体、時代遅れも甚だしいのである。それまではPCやガラケーを使用していたに過ぎず、スマホ歴もほんの1年に過ぎず、それも検索中心に利用するだけで、記録・保存媒体としてガラケーに未だ依存している始末なのである。スマホになると、やたらにGAFAMなどの巨大テック企業に個人情報や位置情報の同意を請求され、収集されてばかりで、何とも憤懣やるかたない。プライバシーの危惧や監視社会の閉塞感を覚えるのである。また、消費動向を探られてビジネスの餌食とされるのがいやらしい。
 そこで主題であるが、Bによれば、メタバースとは「自身のアバターが活動できるインターネット上の仮想空間」(p8)であり、Aによれば、Web3.0とは「ブロックチェーン技術を活用した、インターネット上の新しい分散型世界」(p55)ということで、GAFAMを嫌悪して、できる限り分散しながら利用を手控える自分(個人)にとって、好都合な世界となるではないかと期待感はあるが、そんな「うまい話は世の中にはない」のである(笑)。一時期(小学生から)人気一番の職業としてYou Tuberがいたが、今や広告収入は激減してオワコン説が流れている。時代には栄枯盛衰が不可避なのであるが、それでも幾多のプラットフォーマーがWeb3.0の時代にも参入するのは見えている。鵜の目鷹の目の競争が熾烈になるばかりなのである。だから、メタバースの可能性としては、ゲーマーや分散型のSNS、暗号資産とNFTを利用したビジネスなどを期待する層への広がりしかないのではないか。現実的に考えれば、ゲームやSNSの利用で生活の4,5時間割かれ、メタバースで更に小一時間を割かれることになれば、人々は経済生活が荒廃して貧困を余儀なくされるからである(これも)。貧乏で一生を終えることになるのである。
 

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2022年12月 2日 (金)

防衛論議のアホらしさ

34334660 何で今頃になって、この新書が再刊されたのか分からない。戦記物として文庫から新書で再刊されるのは、稀有と言わねばならないだろう。いずれにせよ、以降再版されることはないと思われる。戦後77年も経過して人々の記憶は薄れ、防衛費倍増を岸田内閣はうちだして、早速財源問題に終始しているようである。政府は既にウクライナ戦争への賛意表明をして、戦争に加担しているのであるから、より一層の戦争構築への企図(戦争国家化)と断じなければならないだろう。尖閣諸島の領有問題を除けば、中国との政治・外交問題は、ほぼないのである。つまり、中国と戦争する必要性は全くないのである。台湾(帰属)の問題は中国人民の問題である。にも拘らず日本政府は、南西諸島の軍事基地化を推進して、結果として沖縄を戦場化する目論見である。対基地ミサイル先制攻撃の構想があるようだが、(国会審議もなく、憲法違反の)米国製ミサイルを導入しての閣議決定は、原発54基のあることから、一瞬によって日本列島が焦土と化すのは目に見えている(ウクライナ戦争以上に、悲惨を極めるだろう)。また、日中共同声明によって対日戦争賠償請求権を放棄した恩義もあるのである。さらに、米国も畏怖する軍事大国中国と戦争をして勝利できるとでも思っているのか。中国敵視の軍事力増強は、第二次日中戦争の契機ともなり、何ら権益に資するものではないのである。尤も、共産党主導による強権的な中国政府に賛同している訳でもないことは、言わずもがなである。
 さて、『松本連隊の最後』である。歩兵150連隊の南方出征から敗戦までの記録であって、私見で断定しない、戦争賛美しないという著者の二大方針に従って、調査と聞き取りで構成された戦記である。それは戦争体験した作者にとって〈わが青春の墓標〉でもあった(p429~430)。概要は東洋経済ONLINEでも取り扱われている。要は、無謀な太平洋戦争の実相記録である。この本の解説者であって、実際に中国への従軍体験のある故・藤原彰氏が記述したように、「戦争が庶民にとって、名もなき兵士にとって、何であったかを正確に記録したものは多くはない」のであって、「犠牲者の大半が、戦闘行動による戦死ではなく、水死、病死、栄養失調死、餓死であったという事実」(以上p452、これこれを参照。これも)を知らねばならないのである。だから、政府・防衛省や歴史修正主義者による防衛論議など、アホらしいのひと言である。パンドラの箱に唯一残っていた希望すら失ってしまうからである。
 

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2022年9月 3日 (土)

平和は創造するものである

07490846 『「日本」ってどんな国?』を斜め読みすると、その資料・データから如何に日本という国家が衰退していることが分かるというものだろう。しかしながら、衰退は大いに歓迎であるという立場である故、別にどうというべきこともない。自分が日本人であろうと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、ましてや国際的に(国際という言葉には不信感を抱いている)嫌悪されつつあるロシア人であろうと、どうでもいいことである。ここでも多くの日本人と見解が相違していることは自覚している。それで文芸春秋ムックの『戦争と日本人』である。思春期に読書の鬼と化し、昼休みと放課後に図書館に通い詰めた日々において、文学や哲学・思想の叢書を読破していたのだが、合間に読む雑誌は『文藝春秋』ではなく、『世界』や『展望』、そして『朝日ジャーナル』だった。当時、『文藝春秋』は唾棄すべき「良識ある大人」が読む雑誌であって、錚々たる右派文化人が寄稿していたのである。例えば、海軍上がりの阿川弘之や司馬遼太郎や田中美知太郎を覚えている。振り返れば、『文藝春秋』は昨今の右翼雑誌群と寄稿人士が重複しているのである。だから、時々瞥見する程度だったのである。彼らは戦争を遂行し、戦後も領導した連中であって、「神社本庁」や「日本会議」に蝟集しているのである。そして例の悪名高い統一協会(キリスト教会と全く関係のないカルト協会)と野合してきたのである。だから、社会の肉瘤たるアベの国葬には絶対反対なのである。政教一致の憲法違反はさることながら、失政を極めて国税を簒奪した悪党の国葬なぞ、笑止千万である。
 さて肝心なそのムックであるが、その山本五十六は「ずるくなくちゃ、国際的交渉は出来ないよ(笑)」(p11)と結局軍人としての自己に恃んでいる始末である。近衛文麿は、西園寺公望を自由思想家などと心酔しながら、政治的に軍部に追い詰められた無能である。また、国際連盟脱退を主導した松岡洋右は、その後「静養、静思、沈黙。これが現在の私の一切なのである」(p18)と戯言を弄しながら、「満蒙は日本の生命線」と称し、実際に満鉄総裁や「松岡外交」によって中国に介入して侵略戦争の道を拓いているのである。読んでいても気持ち悪い。文藝春秋にしても、記者としての批判精神が全く欠落している。呆れた連中である。多くの日本人が誤解しているように、平和を実現するためには、日本の被害に拘泥してばかりでは覚束ないのである。さらに平和は守るものではなく、創造する(政治的に勝ち取る)ものなのであることを再認識しなければならないのである。カルトの統一協会ですら「平和」という言葉を弄しているのである。国葬や憲法改悪や防衛費増大などと唱える右派勢力のように、覚悟もなく呑気に構えているようでは戦争は繰り返すのである。
2022090206020001_20220904175201  稲の受粉は終わり、稗取りとすずめ対策の段階である。東北と北海道地方は大雨の影響でリンゴや稲の被害は如何ほどだろう。心配である。当地では桃の収穫も終え、葡萄の採取時期となっている。これに稲の収穫が続く。6月中旬の田植えなので、9月中旬に落水して10月半ばに収穫となろう。稲穂の状態を見ながら水管理に専念しなければならない。農業は底の浅い怠惰な右ねじの人間には務まらないのである。

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2022年7月16日 (土)

現況の問題点

2022070317500000  参院選挙が終了した。与党の大勝である。物凄い戦争国家化であり、憲法改悪への道筋が立ったと言うべきである。戦後77年にして、この様(ざま)である。覚悟もない愚かな一部の国民がこれを選択したのである。アベ狙撃事件をして「民主主義への暴挙」という論調があるが、これは全く当たらない。アベ(だけでなく自民党)と統一協会との関係が浮上しているが、これは50年以上前からの因縁である。当時から原理研との闘いは、希望を抱いた大学入学者にとっては、悪魔との闘いとして喫緊な課題だったのである。隠然として、合宿への勧誘、ニセ大学新聞への加入・支払い、霊感商法・献金、家庭・家族崩壊など、洗脳が問題になっていたのである。その結果、自民党などの政権政党への影響と癒着と支配が浸透し、反共主義の協会方針が自民党の憲法改悪案と相似しており、アメリカ帝国主義よろしく、まさしく、政教一致の憲法違反となったのである(憲法第20条)。マスメディアの腐敗も戦前の歴史における教訓となっているのだが、これは最も重要な一つの指標であるが、看過されているようである。スマホの普及化によって、国民を分断して支配しているのである。そしてこの間の政教一致である。
 人知れず、急速に、何の検証もなく物事が進展している事態に対して、人々はその危機を感得するべきである。それは思考を奪われた保守の側でも同様である。人と人との心を通わせた会話は殆どなくなり、功利的で事務的となっている。都市はそれが当たり前になっている。テレビは国民の生活に関心がなく、つまらない会話やニセの笑いが溢れ、答えが初めから用意されている(画一化)。都市は無反省にビジネス志向が謳歌して、個人の思いは委縮している。都市の電力が、地方の収奪によるものであることも忘却している。また、そうした総合的視野をもった教育もなされていないのである。地方においても、学校教育は地域振興の為には何の役にもなっていないのである。教育は、中央集権化して連綿と地方を収奪することによって成立しているにも拘らず、立身出世と私利のために、医学部や東大(慶応大)志向に集約しているのである。自己の確立を放棄した人間が、国家権力に飼い慣らされているために、(高学歴な人間ほど)戦争に歓喜しているである。この事態が何となくおかしいという疑念を抱くべきなのである。この感覚なければ、ただ単に監視されるということだけでなく、加速するAIやBTによって、すべてが人類(ホモサピエンス)の改変と終焉から地球消滅へと向かう懸念があるのである(岡本祐一朗『いま世界の哲学者が考えていること』、『哲学と人類』など)。

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2022年6月18日 (土)

思考を取り戻す

34332887  参院選挙が実施され、長野県区は実質二者の争いになっている。自民党と野党共闘とである。参議院では野党が独占している全国的に珍しい選挙区である。自民党の候補はタレントであり、その昔、息子の小学校PTAの講演集が回覧されてそれを一瞥したことがある。その胡散臭さに辟易しただけである。醜聞が立って芸能活動をやめ、「長野県民への恩返し」などと称して、案の定、自民党から立候補するのである。信濃毎日新聞のインタビュー記事(18日三面)を見ると、やはり自民党の政策フォーマットをなぞっているのである。過去と未来を何も直視していないと思われるのである。対する立憲の候補は、TBS記者出身で主張は明確である(が、誤りも多い)。両者とも県外出身者である(県知事や長野市長も)。県外人士しかいないのか、と情けなく思うのだが、県外者を有り難く思う気風になってしまい、大抵の若者が主に都市圏に出てしまうこともあって(約8割?)、期待したい地元人士が存在するにも拘らず登用させる県民性ではないようである。もう一人、維新からも立候補している者がいるが、新自由主義の自民党別動隊だから埒外である。惨憺たる大阪府政を顧慮すれば勘案するべきもない(自民党に入党し、支持者を偽って政党を渡り歩いた衆議院議員もいたのである)。信毎記者は、参院選県区で続いてきた事実上の「与野党1対1」の対決構図が崩れたなどと呑気に設問しているが、今後3年間は国政選挙はないのだから、ある意味では戦後の分岐点となると予想される。しかしながら、軍事的にも経済的にも、あらゆる分野において画一化、一様化、狭窄化、空洞化、全体主義化、アウトソーシング化の時代の趨勢は基本的に変わることはないだろう。都市と国家の愚劣化は止まることを知らず、地方に波及しているからである(自民党の牙城になっている地方選挙区さえあるのは惨めの極みとしか思われない)。
 遅い米作は漸く代掻きにこぎつける。田植えが終われば半作である。休日農業は一昨年同様である。これからの盛夏には、額に汗をかいて踏ん張らねばならぬ。しばらく気が休まることがないが、身体を労いつつ励むことになる。

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2022年5月23日 (月)

『イワンの馬鹿』より

05177190  今では、ニュース報道以外テレビから離脱して(テレビ好きだっだのだが・・・)、夕餉を済ますとゆるりと過ごすことが多くなっている。相も変わらず、無為なバラエティー番組が専横して、芸no人や軍事評論家、KO大を始めとする首都圏のニセ学者などが跋扈しているのである。一瞥すると、当の本人たち自身が「ちむどんどん」しているようには思えない。国家機能が集中する都市の腐敗は目が当てられないのである。国会議員の殆どは、後先を見ずに、ゼレンスキーのオンライン演説に狂喜して、参戦を表明している有様である。また、G7首脳会議の報道を眺めると、思わず噴飯してしまったのである。世界の権力者どもの、追随する姿を見て、むしろ憐憫さえ覚えてしまったからである。普通の喧嘩や仲裁でも、こんな事態は考えられない。まるでヤクザの争闘さながらである。欧米各国はキリスト教国を標榜しているのだが、そのキリスト信仰に疑義を抱いてしまうのである。このことは、世界的なキリスト教離れという趨勢も関係が深い。世俗化である。その典型的な例があの帝国主義国家である。政教一致の大国である。そのことは、重々承知しておかなければならないのである。そこでつい想起したのが、トルストイの『イワンの馬鹿』である。
 文学的名声を獲得したトルストイは、その集大成として回心後に執筆したのが『イワンの馬鹿』である。彼のキリスト教博愛主義(トルストイ思想)が展開する民話である。三人の兄弟は小悪魔によって兄弟の仲違いを狙うが、イワンの馬鹿によって退治されてしまうのである。そこで、「頭を使って儲けること」を唱道する大悪魔が登場してイワンを試すのだが、これまた成敗されてしまう話である。長兄の王国は軍事独裁国家として、次兄の王国は金融資本国家として破産するが、他方、大悪魔の策略にも拘らず、イワンの王国は大悪魔を一蹴してしまうのである。汗を流して働かない者は他人の食べ物の残りものしか食べられない、という国の掟による結末である。ウクライナ戦争を念頭に置けば、『イワンの馬鹿』の理解が格段に進むであろうし、現況に符合している。現在、某国の大統領が新太平洋圏構想(IPEF)を引っ提げて訪日しているが、共々、愚者どもの狂宴としか思えない。と言うのは、両者とも、ゆくゆくは衰退・没落する国家だからである。
  

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2022年5月10日 (火)

善悪二元論を超えて

31052042  次は『夜と霧』である。霜山訳の旧版以来の二読目である。新版の方は、より親しみやすい砕けた現代文となっていて、解説と資料写真が省かれているため、凄絶な経験と省察が希薄になっているような気がする。本を読む場合、読者側の主体的読み込みと現在(現代)との比較(客体化)が必要と思っている。さもなければ、単なる啓発本に墜してしまうのである。ウクライナ戦争においては、ほとんどの「国民」が善悪二元論に陥没しており、自分の手が人を殺戮して血で染まっていることにも無自覚なのである。日本人の中に戦争派が過半となって、(新)左翼でさえ、ロシアを糾弾しているばかりで、ウクライナ国旗を掲げてよしとしているという事態がまかり通っているのである(戦争翼賛)。実際には、ロシアの弱体化を狙った米(+英NATO諸国+日本の自・公政府)とロシアの戦争という真実を忘れたかのようである。両者が相手をファシスト・ナチと罵り合って世界戦争へと猛進しているのである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。
 さて、肝心な『夜と霧』であるが、これは「一心理学者、強制収容所を体験する」(Ein Psychologe erlept das Konzentrationslager)という表題である。したがって、旧版のように、センセーショナルな歴史的告発本と扱われることは著者の本意ではないと、遠藤周作石原吉郎も気付いていたようである。比べて新版の方は、著者の意図に沿った心理学(精神医学)的な新訳である。内容は世界的ベストセラーになっていることから詳述しないが、要するに、人間とは何か、人生の意味を問うているのである。だからこそ啓発本と受け止められるのである。しかしながら、主体的に告発本として読み込むことも可能である。だからこそ『アウシュヴィッツは終わらない』のである。フランクルは、とある箇所で「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」(p145)と解き明かしている。まともな戦争体験者は、生き残った負い目(罪悪感)を抱懐しながら、貝のように口を閉ざしているのである。それは恥辱の化石とも換言できるだろう。現今の戦争派のように、廉恥心のない怠慢な人々(多数派)は何度も過ちを繰り返すと思われるのである。
 もう一つ明らかにしておかなければならないのは、フランクルの宗教観である。これを感得できなければ、『夜と霧』の真の読者と言えないのではないか。そのことは次回以降に明らかにしたい。
 ちなみに、身近な図書館では、『告発戦後の特高官僚』、『現代史における戦争責任』、『血にコクリコの花咲けば』、『敗戦前日記』、『八月十五日日記』、『近代日本と朝鮮』、『手記ー私の戦争体験』など戦争関連本が大量に廃棄されているのが現実である。戦後77年は日本の侵略戦争を忘却する歴史と言わねばならないだろう。あるいは、歴史は別の形で繰り返すとも言えるだろう。このこともまた、人間の重要な一側面であることを剔出しておかなければならないのである。

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2022年5月 2日 (月)

『アウシュヴィッツは終わらない』

01084171 この選書を読む切っ掛けは、徐京植の『過ぎ去らない人々ー難民の世紀の墓碑銘』の一章であった。アウシュヴィッツ強制収容所と言えば、かの著名なフランクルの『夜と霧』が定番であるが、P.レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』(原題『これが人間か』SE QUESTO E' UN UOMO)を選択したのである。徐京植はレーヴィの稿の最後で、「レーヴィの自殺は、人類そのものの自殺過程を象徴してしているのだろうか」と問いを投げかけている。『夜と霧』では生き残るための心理学的方策を提起しているのだが(奇妙なことにビジネスの啓発本にもなっている)、レーヴィの記録はそれが目的ではない。彼は、①ファシズムは健在である、②自分の世代の過ちを明かすことこそ、若者を尊重することになる、ということを学生版の初めに示唆している(p.v)。フランクルとは方向が異なっているのである。
 先ず「選別」(Selekja)があった。役に立たない親、妻子、恋人たちなどはガス室行きとなったのである。残りの者たちはラーゲル(抹殺収容所=死の窓口)に入れられて、飢えと寒さと労働に明け暮れるのである。この時点で生存の「選別」がなされていることを覚えていてよい。まさしく抹殺なのであり、だから『アウシュヴィッツは終わらない』のである。このことは、人類の邪悪さ(罪)とレーヴィの自死とは無関係ではないと思われる。彼はこの叙述の中で、「直接経験したことだけを取り上げるようにした」(p232)と述べて、詳細で具体的にラーゲル内部の有り様を書き綴っているのである。生き残った者は「人間性を破壊」(p56、215)され、「希望を持つ習慣や、理性への信頼感が失われ」、「考えることは役に立たなく」(p214)なる。レーヴィでも、「いやすことのできない、いまわしい出来事(選別)・・・もし私が神だったら、クーンの祈りを地面に吐き捨ててやる」と憤激するのである(p159)。「未来など考えないこと」(p141)を強いられるのである。レーヴィが生き残ることができたのは全くの偶然なのである。偶々「選別」を免れたり、化学者であるために研究所抜擢もあり、ソ連軍の侵攻もあって解放されたのである。しかしながら、レーヴィのこの著書を熟読しておくことは、21世紀にも永続する戦争とは無縁ではない。ナショナリズムとグローバリズムが狂奔する現代において、どの国民国家においても想定されることなのである。無知や無罪を装う「この考え抜かれた意図的な怠慢こそが犯罪行為なのだ」(p226)とレーヴィは末尾で指弾しているが、日本が米英NATOに追随して参戦している事実は、到底無自覚ではいられないのである。

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2022年4月10日 (日)

天皇制とキリスト信仰

33943009  この著書は様々な刺激的問題を投げかけてくれている。著者は、宗教と戦争との関連をも考察している。それは、「戦争とはつねに文化の発露であり、またしばしば文化形態の決定要因、さらにはある種の社会では文化そのものなのである」(p79)というキーガンの戦史論に影響を受けているのであろうが、考えてみれば、いつまでもクラウゼヴィッツの古い戦争観に囚われているのもおかしいのである。現今のウクライナ戦争においても、確かにプーチン・ロシアの侵攻と虐殺は許されることではないが、経済的制裁と武器供与をする西側NATOの所業はどうなのか。「欲望に基づく『侵略』よりも、善意や正義感に基づく『防衛』の方が凶暴なのだ」(p79)という言辞もある。戦争に軍人も民間人もへったくれもないことは、沖縄戦が明確に教えてくれている。大空襲や原爆を落として民間人を大量に殺戮した国の二枚舌(duplicity,double standard)はどうなのか、と疑義を覚えるのである。プーチンだけでなく世界の権力者とて同罪であり、どいつもこいつも調停や停戦に向けて外交的に失敗(もしくは放棄や加担)しているのである。国民国家時代のままの旧態依然としているのである。政治的・外交的無能と人間的な邪悪を持った性悪連中なのである。かてて加えて、グローバル主義者と新自由主義者どもは、ファシストを使嗾して世界と地球と民衆を混迷と破滅に誘導させているのである。まさしく、パンデミックとショック・ドクトリンである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。平和派はごく少数だったのである。
 さて、キリスト教が日本において人口比1%にも満たない理由とは何かはこの書籍のテーマの一つであるが、著者は安直に結論を急ぐことなく読者に様々な要因を提示している点で好感が持てる。そしてその提起の一つとしてティリッヒの宗教論を援用している。「何かを真理であると信じ込むこと、思い込むこと、鵜呑みにすることが信仰なのではなく、自らの存在の意味について『究極的な関心』(ultimate conncern)を抱き、またそうした関心事に捉えられ支えられていることが信仰だとされるのである」(p275)という宗教観である。そのキーワードは「懐疑」である。懐疑は信仰を創造させるのである。それは量義治先生に教示された「無信仰の信仰」とも相通じるものである。さらに、日本にキリスト教が普及しない理由は様々あれど、もう一つの核心的理由は、地政的にも歴史的にも民俗的にも、あらゆる意味において、天皇制であると指摘しておかなければならないのである。
 ※クリスチャンである友人の指摘があり、量先生の信仰と思索(生きざま)を棄損させるものである故、「不信仰の信仰」を「無信仰の信仰」と訂正させて頂きました。認識の過誤がありましたことをお詫びします。

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2022年3月11日 (金)

誰が利益を得ているのか?

34196725  危機の時代にあって、新型コロナウィルスに続いてウクライナ問題である。大事なのは、一体誰が利益を得ているか、を見極めることである。巷間では、プーチン悪玉説がワクチン同様に猖獗を極めているが、彼とロシアは術中に嵌っているのであると思う。アメリカとNATO諸国のみならず、中立国もまた経済制裁と武器供与に関与しているのが現実である。更に、西側からの情報にあふれ、マスコミのみならずSNSを媒介して嫌という程映像を見せ付けられ、戦争屋たちが世界中から義勇軍として参加したり、影響下にあるものたちが募金などの支援をしているのである。この演出がどのようにされているのかを、もう一度顧みる必要がある。確かにロシアの侵攻と殺戮は断じて許されることではない。しかしながら、プーチンは我慢に我慢を重ねたと主張している。プーチンの殺害や賞金まで取り出されているのは異常である。ウクライナへのアメリカ大統領=バイデンによる利害関係も噂されている。ウクライナ大統領のゼレンスキーは、愛国主義を掲げて国民の動員を強制し、欧米の支援や民族主義者との連携にシフトしているように見える。以上のように考慮すると、プーチン・ロシアと対峙しているものが見えてくるのではないか。
 中国などの国は及び腰になっている。日本政府は早速軍事装備を支援して参戦している。しかも民間では戦争募金まで開始しているのである。マスメディアはゼレンスキーとその同調者を英雄のようにウンコ情報を伝えている。マルクス・ガブリエルはインタビューの中で、現代はポスト・トュルース(post truth)の時代であって(『資本主義と危機』p12)、「資本主義とは、本質的に錯覚を作り出すシステムである」(p3)と語っている。彼の見解によれば、資本主義の政治形態がショーになるのは本質であり、必然なのである。このように考えると、このショーを演出する者は誰なのかが見えてくるだろう。プーチンもゼレンスキーも、それに各国首脳も出演者と考えることができる。出演者はそれだけではない。演出家が出演者を使嗾してショーが演じられているのである。コロナ禍でもそのショーが見られたような気がする。ワールドワイドな現代にあって、人々が一層警戒心と、長けたメディアリテラシーをもって生きなければならないことは、誠にもってトホホなのである。

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