書籍・雑誌

2020年8月25日 (火)

人類の試練

34094344 朝晩は三日連続して夕立があって清涼になっているが、日中の10時から16時はやはり暑くて野良仕事はそれ以外の時間に限られている。一時期は夜間に蝉と蟋蟀が同時に鳴いていて、この異常気象を実感したものである。今は、軽く中干しを終えて、盛んに出穂している時期に当たる。水管理は様々な理由で難しく、しっかりと深水にすることができないのが悔しい。間断潅水で凌ぐしかない。「最終的な落水は、ふつう、出穂後35日頃から」と教科書(p69)にあるから、10月1日前後になるから、収穫は10月半ば以降になるのではないか。ここ数年は品質低下となっているので登熟の具合を見守るしかない。
 コロナ禍の中で日本社会が疲弊しているのだが、一向に明るい兆しは見えない。当然と言えば当然である。日本の歴史に虚偽があるからである。高度経済成長を経てバブル経済が崩壊して失われていくばかりの理由を全く自覚せずに、頭の中身は夢遊病に取り憑かれているからである。終戦を敗戦と規定することなく戦前の体制を保持したまま、世界の相対的安定期と米ソ冷戦期の中で、朝鮮戦争やベトナム戦争という他国同士の殲滅戦によって復興と経済成長しただけのことを理解していないのである。「奇跡」は偶然であったのである。歴史認識の愚昧は日本の政界や財界などすべての業界に浸透していて、すべての災禍は人災と化しているのである。役に立たない連中が権力を握り、それに平伏す人間ばかりになっているのである。何をか況やである。申淑玉は「18歳になるまでにバカヤロー!と言える人間を育てろ」と教師に向って要求しているが、教師もまた解放されなければならないことを明言している(『向かい風が吹いていても』p130)。しかしながら、もっともっと歴史的に自覚するためには、不要不急のこの国の宰相には、もっともっと「頑張って」もらいたいものである。
 8月初旬の梅雨明けと同時に、当地でも例年以上の暑さを迎え、お盆を前にして二人の知人が不帰の客となってしまい、収穫して茹で立てのトウモロコシを齧って偲んだことである。面会して色々と話したいこともあったのだが、二つの個人史が失われたのである。アタリは、『21世紀の歴史』の中で、2035年には生態系に甚大な危機が訪れて世界的な多極化を予想し、ホーキングとカーツワイルは、「2045年には人工知能(AI)が人間の知能を超えて(技術的特異点)人類は終焉する」と断言しているが、それ以前にカウンターとしての人間の知性が養成されるのだろうか。人類は試されているのである。尤も、その頃には私はこの世に存命していないので、悪しからず(笑)。

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2020年7月 2日 (木)

絶望を希望に変えない経済学

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 偶然、昨年のノーベル経済学賞(偽のノーベル賞である)を受賞したという新刊本を図書館で見かけたので手にしたのだが、期待外れだった。表題とタイトルにも違和感を覚えたのだが、全くもって経済学が無力であることが分かった次第である。彼らの経済学は有害無益であるとも言えよう。アマゾンを覘くと、何とビル・ゲイツが「今夏必読の5冊」に選出と推奨しているらしい。こりゃあ、ダメだと思ったものである。著者の結論は、世界の二極化即ち相入れない分裂した世界という認識に立ち、その危機意識は正しいのだが、その解決策が疑わしいのである。世界の二極化は、根本的には欲望に根差した世界的な経済的格差を招来しているのだが、それに対する回答がよい経済学であるというのが間違っているのである。よい経済学はなぜ悪い経済学と闘わないのか。現実の経済は悪い経済学が席巻しているのである。著者もまた、「よい経済学だけで人々を救うことはできない」(p467)との言辞や「経済というものは硬直的である」(p138、465)とも吐露しているのだが、やはり経済学に一縷の望みを抱いているのだろう。著書の基調には、全体的にはヒューマニズム(p467)とアメリカ経済との関わりの中での開発経済学としての立場が一貫しているのであって、結論もまた良心的な落としどころなのである。経済と経済学の成長神話に対する批判はあるものの、それに対する根本的批判はなされていないのである。今や経済学の中心はアメリカであり、アメリカの経済学者がノーベル経済学賞を数々受賞して領導している。そして、彼らの拠点もアメリカであり、MIT(世界一位、二位を争う大学と喧伝されている)のフォード財団支援の教授ということだが、かてて加えてノーベル経済学賞の「栄誉」とゲイツのお墨付きをもらうような学者に何か意味があるのだろうか。とはいうものの、富の集中問題やシリコンバレーのハイテク技術などの言及には多くの示唆を得たことである。
 本日は終日、遅まきながら、黙々と孤独に、梅仕事(梅の甘酢漬けや梅干し作りの前段作業)に関わったのだが、一つ一つの梅を採取してアク抜きした梅を愛おしく確認しながらの作業であり、不足分の赤紫蘇を購入したり、漬物桶を日光浴させたり、田んぼの水位を確認して雑草対策を案じたりで忙殺された一日であったのである。

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2020年5月27日 (水)

アナキストの叫び

2020052710000001 午後、居室で読書しながらつらつらと思っていると、カッコウの鳴き声が響いている。季節が来ると自然はそのように対応している。自然は偉大である。人間とは異なるのである。現代の人間がいかに反自然であることを痛感する。農事とは自然と連関する職業であるが、人間界に生息すると、本当に息が詰まる。午前中に図書館に伺うと、職員に規則を命じられて借り出しができずに帰宅する。徒労だったのである。一事が万事で疲弊困憊してしまうのである。このことはコロナ禍である所為でなく、元々そうだったからである。テレビを視聴すると、愚かなMCやコメンテーターや芸NO人など、呆れ果ててすぐにスイッチをOFFにする。読書しても、愚にもつかない著者ばかりで読む気が湧かない。仕方なく庭に出て野菜の育ち具合を観察する。また、気儘に午睡したりして一日を無為に過ごす。コロナ禍での「新しい生活様式」と命じられてみても、そんなことは自分にとって当たり前であって、むしろどんどん外出したいぐらいである。近年は自宅に閉じこもるのが日常であったからである。自宅か田畑か職場かという「晴耕・雨読・曇勤・雪見」の生活が日常であったからである。外出はおろか、店舗にも滅多に出かけない日常であったから、逆手を取って出かけてみようかなと挑発したいくらいである。政治も経済も生活もバカバカしいことこの上ない。頭がどうかしてしまうのではないかと不安になっているくらいである。政治にまともに取り合っているのもバカ、経済が大事だと言って金の心配をするのもバカ、日本は成功事例と自慢しているのもバカである。人間を脱ぎ捨てたらいいじゃないか。国に奉仕して、社会に貢献し、人類愛に目覚め、意義ある生活を送り、・・・、ああバカバカしい。こんな嘘ばかりで苦し紛れの生活はタクサンだと思えないか。ただの奴隷じゃないか。金子文子は、その尋問調書の中で、「地上は今や権力という悪魔に独占され、蹂躙されている」と暴露し、「現にあるものをぶち壊すのが私の職業です」と死地に赴いている(『狂い咲け、フリーダム』p147,152)。学校で使われる検定済み歴史教科書はでたらめである。はしなくも、それは「戦争と革命の歴史」(権力闘争)となっているが、民衆にとっては何の意味がないのである。だから、NHKの大河ドラマは民衆を慰撫するものでしかないのであり、件の局の、そんな輩(古関)に『エール』も受けたくもないのである。

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2020年2月24日 (月)

落日の日本

33261358  昨日、犬あっちイケーの『のど自慢』を眺めていて嘆息したのは、歌謡曲・演歌もしくはJ-POPばかりになっていて、人口に膾炙する歌唱曲がなくなり、歌詞内容も空疎で平板になっていることだった。1970年までは『のど自慢素人演芸会』という番組名であって、長唄・講談・民謡など多種多芸であったのだが、絶滅危惧種の民謡もまた、21世紀になると番組から消衰したとの事である。人々は生活に即して唄うことはなくなったのである。その代表と言えば、AKBや嵐ではないか。容姿やダンスが注目され、リズムやメロディー中心であって歌詞など付け足しに過ぎない。言い換えれば、ふわふわしているだけの事なのである。
 魯迅といえば、中学校の国語教科書にも取り扱われて、覚えている者が多いのではないか。自分も光村図書の教科書で読んだような気がする。「気がする」というのは、あまり印象に残っていないからである。多分『故郷』であると記憶する。覚えているのは精々、北原白秋の『落葉松』と志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』と宮沢賢治の『よだかの星』と太宰治の『走れメロス』程度である。関心は文学になく、理数系科目だったからやむを得ないだろう。
 彼は中国近代文学の父とも称され、日中の青少年に影響を与えているが、取り分けて、日本人の読者は多く、人気が高いと言わねばならない。太宰治の『惜別』という小説の中でも演出されている。しかしながら、太宰の魯迅青年像は、太宰流に多分に脚色されており、参考にはならない。それはあくまでも、「独立親和」を願っての、敗戦直前に国の委嘱を受けた国策小説である。そのフレーム内のフィクションにすぎない。太宰は魯迅の文学論や思想には全く関心がなく、魯迅の革命性には微塵も触れていない。むしろ、他の革命的な中国人留学生と距離を置く人物像として描かれている。傍観者としての太宰自身を投影しているのである。しかしながら、戦争賛美や戦意高揚を促すものとなっていないことが幸いしている。「真の愛国者は、かえって国の悪口を言う」、「東京の人の愛国心は無邪気すぎる」などと細部で巧妙に批判しているが、大要は変わらない。だから、あくまでも小説として楽しむだけのことであり、両者の文学観への嗜好は読者に委託されているのである。しかしながら、革命性がないことによって、日本人は何度も敗戦に際会することになるのである。もっともっと、この無能なアベ政権は、行き着くところまで続行すべきなのである。

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2019年12月29日 (日)

長塚節の真髄

33056594  「ポツンと一軒家」というテレビ番組が好調のようで、そういう自分も欠かさず毎週番組を待っている。理由は沢山ある。一つは、キー局が垂れ流す番組が大半を占有し、ジャニタレや吉本芸人などが鬱陶しい(キモい)からである。そればかりでなく、バラエティなどで彼らに忖度する俳優・タレントが多くて毎度辟易する。テレビっ子であった自分には、同じようなクイズやグルメ、駄弁などが煩わしい。東京中心と芸能人の内輪話が貧弱で、全く興味が湧かない。東京バイアスが罹っていて、つまらないのである。これは、自分が地方暮らしをしているばかりか、加齢して死期を迎える世代になった所為なのかもしれない。しかしながら、地方の人と自然は限りなく多様であり、教訓に満ちていることが知られ始めているということでもあると思う。「ポツンと一軒家」の番組プロデューサーは、その人気の理由を「予定不調和」に求めているが、そういう興味本位で番組が構成されていることに視聴者の関心があるのではない。里山に抱かれる地方の豊かさとその地域社会に生きている人間の生き方を羨望しているのである。東京には都合2年居住したことがあるが、至便であるがただそれだけである。日本は単一な東京がある訳でなく、地方に出かければそこに(半)自然があり、人がいるのである。だから、その番組への自分の興味は、映像に映り込む植生や家屋様式や人間模様などに注視している。所や林の話が冗長でないのもいい。
 直近の読書は、全集での長塚節の「土」であった。漱石の序文があり、農民文学の嚆矢としてこの作品は後世に遺されたのである。漱石は、軽佻浮薄で何も考えない若者に対して「苦しいから読め」と勧め、自分の娘が年頃になれば、「読ましたいと思って居る」と書き留めている。一般の読者には、北関東の方言の難解さにとどまらず、「土」にあるつぶさな自然描写は苦役に他ならない。例えば、「初冬の梢に慌しく渡つてそれから暫く騒いだ儘其の後は礑と忘れて居て稀に思い出したやうに枯木の枝を泣かせた西風が、雑木林の梢に白く連なつて居る西の遠い山々の彼方に横臥て居たのが俄に自分の威力を逞しくすべき冬の季節が自分を捨てゝ去つたのに気が付いて、吹くだけ吹かねば止められない其の特性を発揮して毎日其の特有な力が軽鬆な土を空に捲いた。」(全集第1巻、p366)という、正岡子規の写実主義を正当に継承する彼の風景描写に、かなり読む進んだ読者はもう一度その苦しさの故に通読を逡巡してしまうだろう。しかしながら、ただ写生しているのではなく、ストーリーは思いがけなく、答えのない転機が訪れるのである。ここに長塚の小説の真髄が現象しているのである。若い頃、茂吉の「万葉秀歌」に親しんだことがあったが、彼の「実相観入」による短歌にも感心したのであるが、多分、茂吉もまた長塚節を最大評価していると想像される(但し、茂吉はまた戦争協力の短歌を創作していることを覚えていてもよい)。そして、今は自然の中で逞しく生存する雑草に関する参考書を読み耽っている年末である。

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2019年12月 2日 (月)

『村里を行く』

00835446 著作集25のタイトルは、「村里を行く」である。1943年12月に上梓された宮本の著作である。これが目的は、「村人の人情や、感銘の深かった話や、黙々として国土たらしめようと努めておられる人々の姿」(p9)を報告して、都市と村里の精神的結合を目指したものらしい(p15)。そうして、その降り出しとして「国学発祥の家」が語られ始めているのである。宮本の著作集を探索するのは、別に彼を心酔している訳ではない。彼の記述や撮影した写真から、その時代を貫いた習俗と観念を知りたいという一心であって、彼自身が見聞した常民観を知りたい訳ではない。むしろ瀬戸内を内円として中四国の民俗的考察が多岐に亘り、煩わしく感じることがないことではない。関心領域が異なるからである。彼の眼を通したフィルターを振るい落としながらの閲読なのである。刊行された年(昭和18年)は宮本が36歳であるが、抑々、なぜ彼が兵役を免れて全国各地を渉猟できたのかという疑念がある。この懐疑は兎も角、丸山眞男の弟子である藤田省三は、宮本の『村里を行く』を読むに及んで、長谷川如是閑と並んで保守主義的翼賛運動と規定しているが、同時に藤田は、宮本の思想を「汲み出して意識的に活用すべき多くの材料を包み備えている」とも洞察しているのである(p327)。しかしながら、明治以来の天皇思想と国家主義は、戦後民主主義の社会の中でも息づいており、先般実施された一連の大嘗祭儀式に象徴されていることや、日本のあらゆる分野への国家主義の浸透にも見られるのである。戦後の擬制的天皇制民主主義が溶解し、大幅な天皇制国家主義の滲出へと変転しているとみて良いであろう。今の時代に、宮本の叙述を読み解く意義は何だろうか、という問いかけをするのは意味のないことではない。常民思想が国家に絡めとられる危惧が考えられるのである。実際問題、我々の周囲や生育過程には、国家主義の装置(神社や議会や教育など)がごろごろ転がっており、幼い頃に仄聞した大人たちの「戦争で日本はアジアを解放した」という言説に唖然としたのである。あの「日本国憲法」ですら、第一条は天皇規定から始まるのである。戦後続いた自民党政権は、明治政府と全く同一で、国家思想の称揚や政治的腐敗と私物化が横溢しているのである。今ではモリカケ疑獄や桜を見る会違法事件である。また、自民党の源流は、歴史的に戦争責任から回避した国家主義者と右翼連中の残党が結成したものである。中曽根元首相もまたこれらの一人である(これ参照)。自民党を二度も除名された石橋湛山の言辞のように、「死もまた社会奉仕なり」という言葉を思い出すのである。

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2019年10月19日 (土)

私の「貧乏物語」

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 台風19号の爪痕は、当地でも莫大な被害を及ぼしている。千曲川の氾濫で、堤防の越水や決壊、橋脚落下や家屋の浸水など、その被害の全容が未だ把握されていない。職場の数人も被害を受けているが、微高地のために自分の所は災害を免れているが、とても他人事に思えない。政府は一週間も経て激甚災害指定を表明しているが、遅きに失するばかりか(当夜には政務を怠ってラグビー観戦を楽しんでいたそうである)、その補償額は微々たるものになりそうである。この政権になってから庶民の生活は苦しくなるばかりで碌なことはない。まるで悪病神に取り憑かれているかのようである。社会の腐敗、経済的格差、人心の荒廃など、閉塞感が蔓延して疲弊状態である。政治の改変が切迫している緊急事態なのである。2011年の東北大震災・原発災害でボランティア経験があるが、災害時にはボランティア頼みが当たり前になっていて、国や地方公共団体の責任を問うことは殆どなくなっている。行革といえば公務員削減ばかりが議論になって(むしろ現場の公務員は増員するべきである)、役所や図書館の窓口は非正規雇用の労働者ばかりになっているのである(非正規雇用比率4割の日本)。安穏とした一部の施政者への批判が最も求められているのである。金満が羨望される時代なのだが、それは河上肇の時代には「成金」にすぎないことを日本史の教科書で見たことがある。このことは、立川談志の信念でもあった(p15)。地方の職業高校出身の自分は、金がなくてバイトで食いつないだことがある。大学の入学金(50,000円)は親に出してもらったが、卒業するまでの(卒業しても)授業料(年間36,000円)も生活費も自分で稼ぐしかなかった。中には、実家に仕送りしていた先輩もいたのには驚いた。ほんの40年前まで貧乏が当たり前の時代だったのである。しかしながら、医学部の友人に付き添って、その友人仲間でフランス料理を食する機会があったが(エスカルゴを口にするのは、その時が人生最初で最後である)、清算で医学生の一人が親のカードで支払いしたばかりか、全員分の領収書を懐に収めたのには肝をつぶした。世の中には随分な金持ちがいて要領のいい奴もいるもんだと思ったものである(佐高信による慶応大での格差を実感した同様の話がある、p25~29)。しかしながら、貧乏の苦難は、「絶望した時が最後の負け」なのである(p168、小出裕章)。そして、権力には屈しない庶民の歴史にも学ぶべきである(宮本常一著作集21 庶民の発見、p21)。

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2019年7月16日 (火)

画一化の歴史

31766439   この本は、実をいうと二読目である。出版が2006年であるから タイトルは、正確に言えば、『113年前の家庭生活』である。要するに、対象は「明治三十年代の家庭史」(p8)である。明治45年(大正元年)生まれの者が生存しているならば、107歳であるから、ほぼ現存している人はいない時代を取り扱っている。大凡、日清戦争から日露戦争までの明治末期時代の話であり、日本の産業革命が確立しようとする時期と照応するのである。明治維新より30年余りになり、人口は1900年(明治33年)に4400万に推計されている(p189)。しかしながら、約8割の日本人は地方に定住しており、日本の基幹産業は農林漁業だったのである。交通機関が発達して農民が都市への流入し始め、軍隊への入隊という経験もまた農村部を刺激したのだが、社会全体としては、階級格差が相当激しく、庶民は貧困に喘いでいたのである。それは都市住民(細民)もまた例外ではなく、横山源之助は『日本之下層社会』(1898年)で詳論している。また、脚気と結核、赤痢と腸チフスなどの病気で、命を失う者も少なくなかったのである。注目したのは、第七章を記述した佐藤裕紀子氏の言及である。「つまり、明治三十年代は、生活の学校化と学校生活の定型化という、子どもたちの生活における二重の意味での画一化をともないながら、今日における子どもたちの生活の基礎が形成され始めた時期であるということである」という指摘である(p226)。想い起せば、1960年代前半の地方での生活は、ほぼこの明治後半の時代の延長線上にあったと思われるのである。小学校では板塀の校舎であり、廊下は走ると時折抜け落ちたり、ひび割れたガラス窓であったし、農作業はその時代に毛が生えた程度で、似たような手作業に追われていたのであり、養蚕業も終息期であったのである。ほとんど変化していなかったのである。そして、60年ほど前の時代が、実は、その土台が江戸時代に規定され、生活が明治の教育制度によって少しづつ改変されてきただけの歴史だったのではないかと、しみじみと思われるのである。

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2019年7月 7日 (日)

不安と競争の時代

33806161_2019070815390133806161_2019070815390133806161_20190708153901 33806161   大正期生まれの父は、働き詰めのために早逝してしまったのだが、他方で進取の気概もあって、村では珍しく、いの一番にオートバイ(カブ)を買い込み、その前輪カバーには、「殖産興業」と書いて乗り回していた。「富国強兵」と共に、そのスローガンは明治時代を象徴するものであったが、父がどういう思いでそれを書いたのか不明であるが、明治時代の雰囲気と影響を如実に受けていた証左であろう。
 この本では、明治の社会は、とても生きづらく、不安と競争の時代であることが論証されている。昨年は明治開始以来150年ということもあって、一部の明治礼賛者は色めき立っていたのだが、歴史の大枠で言えば、クーデターによって成立した、支配階級内部の権力闘争に過ぎないのであって、その結果は1945年の敗戦に集約されたのである。要するに、敗北して失敗したのである。著者の指摘していることは、不安と競争の中を生きた明治の人びとは、通俗道徳の罠に嵌ってしまっていたということである(pⅸ、74、76、144)。通俗道徳の概念は、恐らく安丸良夫によって提起されたものであろうが、「よく働き、倹約して、貯蓄さえすれば、人間は必ず成功する」という信念である。しかしながらそれは、「成功」する者など、ごく一部なのであって、この間違った信念は必ず弱者や貧困層に自己責任を強要するものとなって、1980年代から浸潤した新自由主義によって、国民の資産を解体・簒奪して一部の支配層に富が集中して貧富の差が拡大しているばかりでなく、社会に分裂・崩壊化と世襲化をもたらしているのである。それは、明治時代にあっては「立身出世」という言葉に象徴されていたのである。しかしながら、ことはそれだけではない。この本の範囲を超えた問題もあるのである。即ち、天皇制イデオロギーである。通俗的観念を流通させるためには、その紐帯が必要不可欠なのは言うまでもない。この間の改元とその行事、さらに天皇家への関心の集中は、公文書や役所の書類(戸籍・住民票・健康保険・雇用保険・年金など)に国民に周知されるものとなっている。令和という元号によって、国民は歴史の中で繰り返し自分自身を規定してゆく現実に晒されて、刷り込まれてゆくのである。

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2019年2月 8日 (金)

愚劣なアマゾンレビュー

33190087 刊行して5年弱の岩波新書である。他にも色々と読み散らしているのだが、この新書をひとまず取り上げたい。「増田レポート」の存在を知っているだろうか。レポートの作者は建設官僚というが、元々は警察官僚上がりである。小沢一郎の知己があったが、「改革派知事」となって反小沢に転身し、岩手県知事としての実績がない。第一次安倍内閣の閣僚(地方創成担当大臣)に起用され、東京都知事選にも立候補して落選している。原子力委員会のメンバーにもなり、日本創成会議の座長にもなり、郵政民営化や東京電力や野村総研の委員や取締役や顧問にもなって、全く締まりのない官僚上がりの政治家である。地方創成を語りながら都知事立候補するなど、何をやっているのか、出鱈目極まりない官僚政治家である。その「増田レポート」は、少子化対策と地方再生を謳っているのだが、その気概もなく、都市出身の政治家としての本性をあらわにしているだけの体たらくである。で、『農山村は消滅しない』という小田切の著書は、増田レポートへの本格的なアンチテーゼなのである。
 ところが、その著作本に、細田某がアマゾンのカスタマーレビューを寄せている。これがまあ、ケッサクである。傲慢にも、「私は農村振興に関わっており」、おれの批判に反論しろというものである。おまけに、「(学者に過ぎないお前が)、まるで自身は(1400万の所得という)安全なところにいながら、田園回帰と地域づくりを美化する事で若者に、地域住民に、無理難題を押し付けている」と、全く論点と異なる問題で難詰しているのである。「現実逃避」、「机上の空論」、「財源論」を持ち出して批判しているが、こんな所が、いかにもエセ官僚や政治屋の言い分と推察される。仮に、「細田ひろゆき」が「細田博之」ならば、以上のような批判にならない批判が彼と照合する可能性が大である(それも、一回のみのアマゾンレビューである)。財源論を持ち出すところにも、己の経歴の愚劣さが顕著である。T大の愚か者は、どこまで行っても愚か者である証拠である(次回、『消滅しない』本の内容に立ち入りたい)。

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