書籍・雑誌

2025年4月29日 (火)

インターネット文明の理非

15bc49671 テクノロジーベース、トラフィック、オーバースペック、デジタル・インフラストラクチャー、ステイクホルダー、電力グリッド、オープンソース・インテリジェンス、ルートサーバー、プラットフォーム、ベンダー、ソースコード、バックドア、リソース、コモディティ、ストレージ、プロトタイプ、ユビキタス、ギーク、ガバレッジ、アーキテクチャー、レコメンドエンジン、リッチコンテンツ、アクセシビリティ、エグジット、エコシステム、レコメンデーション、レイヤー、クラシフィケーション、セキュリティクリアランス、プロトコル、ディフェネストレーション、システム・インテグレーション、キャリアパス、コンソーシアム、ソリューション、コンステレーション、スタンドアローン、エスクロー、アライアンス、アブユース、...。
 インターネット文明には周回遅れの自分には、上記の横文字を理解するのは困難である。だからこの新書の内容とその予見には詳しくはない。著者は「日本のインターネットの父」とも称されているらしいし、実際第一人者であると思われる。息子の情報科目教科書(『社会と情報』日本文教出版2015年版)の監修者にもなっていたり、2021年に発足したデジタル庁の顧問を担っている。その著書の中でも、日本のインターネット環境を先導してきた自負を所々で開陳している。「インターネットは・・・人間の創造性と夢と課題の解決するための挑戦のプラットフォーム」(p76)となり、実際、社会のライフライン、インフラとなりつつある。
 しかしながら、こうした科学万能主義とその行く末を安易に称揚することはできない。人は、便利だから、金儲けができるからといって、生きている訳ではないのである。金融資本とインターネット全盛の時代であるが、ことあればシステムダウンするし、フィッシング詐欺が横行し、産業の荒廃などアメリカ(と日本)の衰退を招来させているのである。さらに、戦争とジェノサイドに利用され、人間改造や宇宙開発に応用されて人類絶滅を予感されるものになっている。強権支配と監視社会となって世界を混乱させてしまう危険性が過大となっているのである。
 ちなみに私用では、ネット検索の利用が大半であり、人類史全体からすれば、ごく最近の、主観的でまだら模様の情報だけでなく、悪意のある情報が氾濫している(インターネット肥溜め説)。また、ターゲティング広告が普及して、その広告が煩わしいことに加えて、個人情報が剽窃・収集されているので、ネット購入は全くしない。確かに科学技術は人類に便宜を与えてくれるが、人々に犠牲を強いて駆り立てる科学技術信仰は間違っているのである。

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2025年4月 3日 (木)

資本主義つれづれ

134453919 フジメディアHDの傘下であるフジテレビの腐敗は、40年以上前からの周知の事柄である。それは、「楽しくなければテレビじゃない」というスローガンに象徴されている。当時はテレビがなかったので全く縁がなく、視聴する暇もなかったのである。その頃、南河内を徘徊したことがあって某都市の家々を観察していると、軒並み、青の産経ポストと犬を飼っている風景にゾッとしたことを想い出す(それ以上に学会の隆盛に辟易したのだが)。さすが司馬遼太郎をもてはやす風土があるんやなと逆に感心したのである(大阪の名誉のためにいうが、本来の大阪は全く異なる。司馬メモも参照)。フジの企業(セクハラ・パワハラ)体質は今更ながらのことであり、関西一円の維新の席巻と同じく、丸山真男の「タコツボ文化」というべきか。
 近頃「令和の米騒動」と話題になっているが、これは1918年の米騒動とは異なり、未だ民衆の闘いとはなっていない故に騒動とまで言えない。農政批判と農協や農民への安易な批判に加えて、新自由主義の農業評論家がこれに便乗して日本の農業を破壊しようとしているのである。そんなに米が食べたいなら自分で作ったらと思うのだが(耕作放棄地など幾らでもある)、または輸入小麦に恃んで「貧乏人は麦を喰え」と放言したとされる池田勇人(この発言を知らない現農水大臣にも呆れたものである)に倣ったらいいのである。麦飯の方が白米より栄養価が高いのである。これを転機に農業や農家への関心を深めることが望まれるのだが、資本主義の生産力主義に洗脳された近現代人には、農業を社会的評価が低く儲からない産業にしている現状においては、ほぼ不可能と言えるだろう。
 大学受験の社会科目で世界史と日本史を選択したが、特に世界史は記憶すべき事項が多かったが、その西洋中心の世界史でも役に立つことがある。例えば、ギリシアにあるアクロポリスは、嘗て樹木に覆われていた筈であるが(NHKの番組で見たことがある)、今は岩肌の切り立った丘の上の廃墟となっているのである。日本の神々では、鎮守の森になって子供の遊び場になっていたとするのが定番である。『7つの安いモノから見る世界の歴史』は、ラジ・パテルが共同著者の一人であった関心から繙読してみたのだが、実はムーアの主張を全面展開する著書だったのである。その中に、「プラトンと同時代の人びとは自然を軽んじ、丘陵地帯の森林を乱伐して丸裸にしてしまった」(p26)という記述がある。ここに西洋の自然観が表意されているのである。
 ところでその著作は、ウォーラーステインの世界システム論を論拠にした世界生態論(world-ecology)の展開であり、テーマは「より広範な生命の網(Web of Life)と資本主義との関係」(p37)である。「資本主義は、自然を破滅することによってではなく、できるだけ低コストで自然から価値を得ることによって繁栄している」(p36)とあるが、その下線部の真偽を熟慮したいものである。

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2025年1月 8日 (水)

残念な結論

34667887 この著者の刊行本を以前に感心して読んだこともあり、最新刊を読了してみた。結論を急ぐ読者なら、「はじめに」と第五章のみを読むことを勧める。根底にある視点は「宗教も戦争・軍事も(パラレルな)人間的な営み」(p3~)である。戦争論については、クラウゼヴィッツの定義である「戦争は異なる手段による政治の実現(延長・道具)」が有名であるが、著者はキーガンに影響されているのか、戦争を「文化の発露(衝突)」と捉えていると思われる。人間的な営みとは文化の言い替えだからである。
 また彼は、「戦争の悲惨さに対する嫌悪感、自分は戦争にいっさいかかわりたくないという逃避的な反戦意識だけで、平和を守りえないことは、歴史が証明している事実なのだ」(本当に歴史が証明しているのかという疑いもある)という吉田満の言葉を援用して、反戦平和主義者を非難しているが(p275)、これがこの論考を棄損している。戦後民主主義下においてはそのような傾向があったかもしれないが、今や、そんな呑気な「小綺麗でセンチメンタルな」(p280)反戦平和主義者はいないからである。吉田の言葉を歪めているばかりでなく、的を外れているとしか思えない。更に、「~なようである」などという記述の多用にも違和感を覚える。様々な資料と文献を蒐集して検討していることには勉強になって敬意を払うのであるが、その結論がキリスト教徒である、ご自分の中でどうなのか、と心配する次第である。
 年末に、高校生平和大使を伴って被団協がノーベル賞受賞式に臨んだが(ノーベル賞そのものには何の意味はなく、あのオバマすら受賞しているのである)、それをテレビで瞥見したが、核兵器(核抑止力)と平和とのジレンマにあるノルウェーにおいて、被爆者の訴えは響いたのだろうか。にも拘らず(nevertheless)、核兵器廃絶の闘いは更に拡大しなければならないのである。著者が誤解しているように、反戦平和は容易ではないのである。

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2024年6月 1日 (土)

イデオロギーとプロパガンダ

41vrcn9nbxl_sl500_ 『家の光』6月号の読書エッセイで、この本が紹介されていたので読んでみた。戦争の記憶がオーラルヒストリー(口承史)でも究明が至難な時代となっている。その点では、信濃毎日新聞の「鍬を握る」連載は目を引いた特集である。ぜひ単行本の刊行を期待している。日本一の満州開拓団と義勇軍を創出した長野県の歴史を反芻するだけでなく、戦争というものの本質を解明するのに役立っているのである。先の読書エッセイでは、祖母の日記を読んで、「お国と言うものは本当に恐ろしい。一番愛しい人を連れて行ってしまう」という祖母の呟きと嘆きが胸に迫ると表白されていた。まことに国家は理不尽である。命と生活を(更に、なけなしのカネさえも)奪い取るのである。国家そのものが詐欺集団となっているのである。
 生成AIをも駆使する日々の詐欺事件の頻発とマスコミを使った虚偽情報に晒された生活の中で、人々は彷徨うだけでなく日常的に利便性というイデオロギーに惑わされている。拝金主義の世の中で、政権維持のための法がまかり通り、政治屋と体制を護持する産業界は国民の生活には何の関心もなく、利権と現状維持のみが社会を覆い、連合とマスコミは政権に迎合し、学会や司法も忖度する有様である。すべてが腐敗しているのである。「優秀」な人物ほど腐敗しているのである。何がないかと言えば、良心と本当の学識である。加えて、他者を思いやる識見がないのである。根本は学制であり、大学進学のための普通科をよしとする教育制度である。学校教育はこれを基準とする制度となっている。問題は職業教育、政治や社会についての関心(具体的には、憲法の三原則や税制や確定申告など)を育てない教育、人々の職業(特にエッセンシャルワーカー)に対するリスペクトを育てない教育である。普通教育一辺倒の教育制度があり、偏差値に象徴される教育制度であり、これらをすべて改変しなければならないだろう。しかしながら、国家の中枢には、これを成し遂げる人物は一人としていないだろう。これが現実なのである。テレビを眺めていると、T大とK大系のニセ学者が登場するだけでなく、政治屋の二世・三世議員が蔓延っている。阿呆の連中が改革を成し遂げられるだろうか。人々の生活が苦しくなるにつれて、政権党の支持は激減し、その対策のためのプロパガンダが激増するだろう。アメリカの政治を注視したらその意味が分かるのではないか。それが日本の近未来の姿でもあるのである。

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2024年4月27日 (土)

イデオロギーに抗する

34321027  世の中は本当にままならない。春の気配が始まった途端、もう夏の到来である。地球温暖化は凄まじい勢いである。ゆき過ぎた人為的な営みがブーメランとして我々にのしかかっているのである。これに科学的手法を駆使した資本主義という経済体制が加速させているのである。東京出生の著者は、長野県農業大学校の教授として土壌学を専門としていて、今回の著作は、三部作の最後を締めくくるものである。要するに、慣行農法に抗する有機農業の勧めである。1960年代後半、日本の農業は緑の革命の影響を受けて、旧来の農法を捨てて肥料の多投、農薬の大量投与などによる環境破壊と農村の共同体を破壊したのである。都市の繁栄と共に、若者は都会を目指し、地方は疲弊して「崩壊集落」と「地方自治体の消滅」を招来させたのである。人の弱みや悩みに付け込んで、健康食品や医療不安を煽ぐ保険商品がCMを席巻し、結果として、コロナワクチン接種と同様に、とどめの無い健康悪化と経済格差である。成長神話に駆られた都市イデオロギーに人々は侵されているのである。
 何が原因・理由なのか、を人々に考えさせる暇もないほどのグローバル化イデオロギーである。著名人・知識人ですら例外ではないのである。止まることを知らないともいえるのではないか。ウクライナやイスラエル問題でも、軍需産業の思惑とアメリカ帝国主義の狙いを「自由」と「民主主義」の名のもとに糊塗している。アメリカはあらゆる戦争と紛争に一枚噛んでいるのである。なぜ世界に戦争がなくならないのかという人々の疑問と思考に答えるどころか、加担しているのが現状である。アメリカは建国以来一貫として戦争国家であることは教科書では教えてくれない。バイデンもトランプも、コ〇・コーラとペ〇シコーラの違いに過ぎない。教科書の歴史的記述は、正史イデオロギーに満ちている。真正阿呆と阿呆の化かし合いと言えるだろう。原発政策も外部化して推進され、地球と人々を汚染させているのである。費用対効果(コストパフォーマンス)という透徹したイデオロギーは欺瞞である。体制内的イデオロギーは遍満しているのである。

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2024年4月 2日 (火)

最後のパラダイムシフト

34543296_20240402104101  この所、この本を丹念に読み込んでいる。自然に対して無理に負荷をかけない農業志向に添った農法である。アグロエコロジーは、慣行農法の裏返しの農法というか、農業である。それは同時に、「緑の革命」から脱却した農業である。類似したものに有機農業があるが、より現在の農業を根本的にパラダイムシフトする農業である。農業を生態学的に分析して、持続可能な農業を志向する実践的な社会運動として捉えられている。全世界のフードシステムを変換する農業である。
 現在、我々の食べ物はほとんど工業製品である。紅麴のサプリや原料とした商品が社会問題となっていて、その原因や被害に関心が集中しているが、問題の根幹である農業的な問題は完全に忘れ去られている。グローバルに進化した「アグリビジネスが膨大な富を支配して農業生産のほとんどの物理的、財政的社会基盤を所有している」(p418)のである。食の主権は消費者であるかのように偽装されているが(近代経済学は諸問題を前に右往左往しているだけである)、主権が奪取されているばかりでなく、我々の良心さえも取り去られているのである。消費者は口にする食品の安さばかりに関心を奪われ、農業生産者を社会の最底辺層に落とし込めるイデオロギーに汚染されているのである。利益の高い加工食品やインスタント食品、ファーストフードやミシュラン(グルメ)ばかりに関心を奪われていないだろうか。いつかパルプが入ったカップラーメンに吐き気を覚えて、それ以来カップラーメンを飲食していない。
 「世界の人口の半数が農業で生計を立てている」(p435)のだが、農業者に渡るのはその16%以下である。キャベツ一玉100円としたら、農業者の手取りは精々16円である。北米の食肉消費量は一人当たり年間約120㎏であるが、米を主食とする日本人の米消費量は一人当たり年間約60㎏である(食の欧米化)。また、「世界の全人口が日本人と同じ水準の生活をするためには地球が2.5個必要」(デジタル大辞泉、「エコロジカルフットプリント」の項)なのである。自民党の裏金問題はくだらない問題である。離党勧告ではなく、政界からだけでなく、人間社会からの追放が相当するのである。国会無視の武器輸出を閣議決定する政府も同様であり、イスラエル問題も同様なのである。 

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2024年2月16日 (金)

ポロポロ

71aepucrcql_sl1500_ どこで田中小実昌を知ったのか覚えていない。戦争関連の著作を読み耽っている過程で知ったと考えられるので、とりあえず手にしてみたのである。タイトルの『ポロポロ』は、劈頭を飾っている小説というか、私小説である。但し、少年時代にテレビで、禿頭の彼を何度も視たことがある。戦後二十年前後で、世情はまだ戦争の名残があった時代である。明治・大正生まれの人々が健在であり、彼らの生態を直接触れることができたのである。戦後高度経済成長の端緒の時代であり、激動の時代に生きた人々の生き様を直に接触する最後の世代となってしまったのである。この時代は特変する人士が排出する時代であり、現今の気を遣う世代とは全く異なる。個人の体験でも、酔漢の大工が暴れて隣家が仲裁に入ったり、お互いに貧乏でお金の融通やお裾分けをしたりするのが当り前の時代であり、人々がお互いを補い合う共同体がまだ存在していたのである。戦争はここまで影響を与えていたのである。田中のような人間もまた容認する社会だったのである。彼はバプテスト系独立キリスト教会の牧師の息子である。19歳の時に、初年兵として中国大陸での戦争を幾多体験している。
 「異言」とは、広辞苑的には、新約聖書の「使徒行伝」などに記されているように、「(キリスト教で)聖霊に満たされた人が語る理解不可能なことば」(γλῶσσα )である。本義は外国語であるが、パウロは異言の誤用を戒めている。後代、異言は神の賜物として広義として多用され始めて誤解されてもいるのである。田中小実昌は、青少年期に父などの「ポロポロ」を日常的に接して育っている。彼は、「苦しみながら祈っているときに、父はポロポロが始まった」(p30)と語り、祈りを突きぬけて、「非理性的なみにくさに、おそれ、おののき、不安になったのではないか。」(p31)と描いている。ここに言葉の問題が現出する。「言葉は、自分の思いをのべることしかできない」(p13)のである。「ボカーンとぶちくだかれたとき、ポロポロははじまる」(p15)と換言してもいる。ヨブが神に要求する自分(人間の物語性、p169~170)を打ち砕かれたように、「祈りの言葉を失ってるのにも気がつき、失った言葉をとりかえそうとする(時に)口からでるのはポロポロばかり」(p31)なのである。彼にとっての「ポロポロ」とは、祈りを突き抜けた呻きであり、神の賛美だったのである。それは、「クリスチャンはクリスチャンでいいではないか。・・・ただのクリスチャンではいけないのか。」(p29)という表明に如実に示されているのである。

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2024年1月 8日 (月)

究極の災害・人災

51igu3jeril_sx218_bo1204203200_ql40_ml2_ この所、長らく積読していた図書館の廃棄本を読み進めている。彼は戦後の短歌界を一新したアララギ派の歌人であるが、余り評価されていないような気がする。影響を受けた歌人として、知っている限りでは、道浦母都子(昨年で信毎歌壇の選者から退いたことが残念である)と荻原慎一郎である。実感に根付いたリアリズムと生活者からの政治意識という点で、石川啄木にも似ているのではないか(他方で、石川啄木は典型的な遊び人でもある)。歌は、このような作者の屹立する表出であらねばならないという思いである。もう少し、この本を読み進めてみよう。

 年賀状の中の一枚に、「熊も政治屋も駆除が必要ですね」という添え書きをつけた先輩がいた。彼は日大全共闘の闘士であった。今は息子に譲りながら会社経営をして、狩猟を趣味として(彼から始めて『狩猟界』という雑誌を知ったのである)、その関心からの付言と思われて、内心一笑したのである。年末の自民党の裏金問題と、年始の能登地震と飛行機同士の衝突事件という人災と災害が続いていることに、人々は新年早々不安の渦中にあるにもかかわらず、政治の退廃はとどめがないのである。政治は人々の生活に直結しているにもかかわらず、人々はそうした教育を受けずに洗脳に囚われているのが現実である。政治は、忌避されるものでなく最も論議されなければならない問題なのである。知識人は何のために仕事をしているのか。世界の戦争の惨禍・惨状をいつまで傍観しているのか。無能な政治屋の跋扈という日本の政治状況(究極の災害・人災)をいつまで座視しているのか。知識人の決起が待たれている、2024年の冒頭の有り様なのである(リーフェンシュタールの「服従的な空虚」とアーレントの「悪の凡庸さ」)。

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2023年12月 9日 (土)

批判と変革の哲学

34205002 そしてプラトンである。京都大学の哲学科の西洋古代哲学史専修(西田幾多郎を始めとする純粋哲学、いわゆる純哲=哲学専修とは異なり、多少の確執があったと思う)は、一時期(今でも?)「プラトニストにあらずんば(西洋古代)哲学徒にあらず」という学風であった。この経緯は、動画「おこしやす!西洋古典叢書 イントラダクション」で國方栄二(以下敬称略)が言及している。田中美知太郎に続く藤沢令夫、そして中畑正志。今や研究陣が系統的に継続的に出揃っていると言えるだろう。だからの故の西洋古典叢書である。以前、中畑氏の著述についてブログ投稿したので、念願の『はじめてのプラトン』を、繁忙の中で遅々として進まず、漸く読了ができたのである。
 彼のスタンスは、ご教説を甘受することではなく、「プラトンの著作を読む目的は、ただプラトンを正確に解釈することではない。・・・問いを発し、考えることこそプラトンが望んだことである」(p42)に尽きる。その意味では、プラトンはソクラテスの対話を中心に記述して、常に挑戦的なのである。先ず、「ソクラテス問題」である。それは、ソクラテス自身の著作がなく、周囲の人々がソクラテスについて論じていて、どこまでがソクラテスの思想と実像なのかが不明という問題である。それに、大半のプラトンの著作はソクラテスを主人公にした『対話篇』であり、その境界が不明という問題もある(イエスとパウロとの関係に相似しているだろうか)。しかしながら、プラトンは師の哲学を継承して、「それを理論的に深化させ、他方で社会的な実践のかたちへと展開した」(p72、p121、 ソクラテスープラトンの哲学宣言)のである。「魂への配慮」と「知と真理への配慮」となって、魂の比喩とイデア論に結実しているのである。これらはよく誤解されるデカルト的「身心二元論」ではなく、交錯してプラトンの哲学となっているのである。彼がプラトンの哲学を「批判と変革の哲学」(p4)として規定するこの新書は、一貫しているのである。後半の終わりに、人間の営みの全体への批判と変革の哲学であるとの繰り返しの強調は、「彼のプラトン」を如実に指示していると思われる。
 今春、定年退職された彼には、①文献学的に、アリストテレス全集『形而上学』翻訳(未刊)とその成果が期待される。②プラトン哲学を政治的に誤解釈するゲルマン(親ナチス的)勢力とアメリカン(ネオコン的)勢力(両者とも歴史性の欠如、p235)への批判を徹底してもらいたいものである。この混迷した時代の中では、緊要な課題と思って彼に期待しているのである。

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2023年10月10日 (火)

新しい時代のとば口

34222390 「農業は儲からない」、「こんな苦労は息子たちには継がせたくない」というのが農業従事者の率直で痛切な声である。対して、(都会の)消費者は農産物の価格上昇に悲鳴を上げている。よく考えると、食料の殆どは工業製品となっていて、人々はそれらを食しているのである。一方で農業従事者は近年200万人以下に激減して、他方で世界的に慢性的な飢餓に直面している人々がいて、こども食堂やフードバンクなどに見られるような食料不安の只中にいる人々がいるのである。気候変動や食料問題よりも、戦争や争闘に明け暮れて軍需産業に依拠しているのが世界の首脳どもなのである。生身の人間を「人材」とし、食べものを儲けるための「商品」となった理由が近代の政治経済システム(資本主義=経済成長という名の下で金儲けが続く経済体制)であり(p5~6)、歴史を遡及して全面的に暴露した本が『食べものから学ぶ世界史』である。ジュニア向けの良書である。
 資本主義は産業資本から金融資本に集中してマネーゲームと化している。市場主義経済は従来の共同体システムを破壊し続けている。さらに、情報化社会は、情報がカネとなって、M.フーコーが論及した監獄社会となっているのである(無料アプリの利用で個人情報が筒抜けとなっている)。
 テレビのグルメ番組を眺めると、日本人の容貌が変化していることが分かる。高蛋白と油脂過剰と糖分過多のためにブクブクしている。ダイエット産業が繁昌する筈である。田舎の職業高校出身でまごまごしていた頃、有名高校出身者の容貌は、頭脳にエネルギーを消費している所為なのか、引き締まっているように感じたが、現在の大学生はどうなのだろうか。日本の政財界では、東大閥と慶大閥と早大閥が主流となって支配しているようだ。忖度という言葉は本来いい意味であったが、今では悪い意味での流行となっている。ジャニーズ問題もその一端である。副題の「人も自然も壊さない経済」(「命のための経済」p169)を望む人々(特にジュニア世代)は、この著書を読んで判断してもらいたいものである。我々は思考を取り戻して、新しい時代のとば口に立っていることを自覚しなければならないのである。

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