日記・コラム・つぶやき

2017年4月 9日 (日)

都市のまやかし

2017040912060003 梅の花が満開となり、朝からの菜種雨が止んで桜の開花となっている。都会では満開、もしくは散り始めとのことであるが、当地では漸く春到来である。猫の額のような畑を整理して、とう立ちした白菜 の菜花を、天ぷら蕎麦に投入して試食する。これは農園を営む者だけの味わいである。柔らかくて、ほろ苦さを感じない、ほんのりとした甘みが口腔内に広がり、春の味わいである。

 植木屋の 幟や増えて 春来る

 この本の中で、野坂昭如は長野市に、都合、六回訪ねたことを記している(p119~130)。1975年のことだから、高度経済成長期を経てオイルショックの端境期で、農家は兼業化が進み、三ちゃん農業から母ちゃん農業へと進展し、農村が激変した時期である(この農村医療記を読むと、当時の農村・農民生活が垣間見れる)。当時はまだ農業人口は750万人ぐらいであったが、今では200万人を切っていることだろう。60年前のそれの10分の1であり、激減といってよい。駅前通りはシャッター街となり、農村は耕作放棄地が増え、都市は労働力(人)と食料とカネを地方から飲み込んで成立しているのである。そして、都市生活者の保守化である。これが持続可能な社会ではないことは言わずもがなである。その稿の中で、野坂は二つの提案をしている。農民による食糧出庫拒否と、農業を婦人に委ねよというものである。これは実現性が薄いのであるが、彼は農業指導者研修会の講師として発言した後、エノキ栽培やリンゴの集荷発送センターを見学して、農業生産の大変さや都市生活者の無理解を感得している。また、地元の婦人三人と懇談している。そして、この農業危機に及んでは、「もう女に渡しちゃった方がいいような気がしてくる」(p127)と吐露している。婦人には飢えは無縁だからである。「都会に住んでいる者は、何かとてつもないトリックまやかしにかけられている」のであって、「そのまやかしは農村に対するよりは、はるかにひどいような気がする」(p130)と文末を締め括っている。けだし、至言と言わなければならない。

 クラーセンさんの訴えにも傾聴してみてください。
 http://afriqclass.exblog.jp/

 

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2017年3月24日 (金)

汚い奴等

2017032420040000 今日は、タイの海外研修をした息子を駅まで迎えに行き、二人してその足で、「びんぐし湯さん館」の温泉でのんびり浸かりました。帰りには、懐かしさも加わって、愛媛産ぶんたん(ザボン)を衝動買いしました。息子は旅の疲れなのか、入浴後、早速、カツ丼を食らっていました。「(タイ料理は)辛くて酸っぱくて、やっぱり日本の方(和食)がいいわ」との感想でしたが、それはそれ、それぞれの国情がありまして、摂氏47度というこの乾季のタイ人にとっては、自慢の料理に違いありません。魚醤にも慣れていないのだろうが、息子所有のスマホ写真を見せてもらったが、彩がよくスープ状の汁物もあって、美味しそうな料理が並んでいるじゃないか、と思ったものでしたが、息子は息子で、ちょくちょくコカ・コーラを飲んでおりまして、このアメリカの飲料水を差し置いての、タイ料理についての批評は、全く合点が行きません。事前に私は所用で大阪との往来を致しました。大阪では日中12、3度の温暖でしたが、19号線を戻ると、信州では風の花が舞っていました。信州の春は、一月遅れで5度ほど温度が都会と比べて低いようです。下道を追いまくられての運転でしたが、やはり怖いです。一般道にもかかわらず、時速80km以上のトラックを含めての車が多かったので、気が抜けませんでした。19号は走行の車が少ないせいか、スピード過剰で坂が多いので気が気ではありません。路面には、くどい位に「追突注意」の表示があり、運転しながらの風景観察がままなりません。眺めると、それぞれの地域が平均化しているな、という感想を抱きました。大阪でも、惜しむらくは、ラーメン屋が増えました。大阪はやはり都会で、看板をはじめとした賑やかな喧騒に、逆に懐かしさを感じまして、もうしばらく滞在したかったです。東京のつまらなさと比較して、人間味と独特の文化が充満しています。維新を始め、政治的には五流ですが、これは本来の大阪ではありません。一週間もすれば、浪速には桜の開花宣言があるでしょう。造幣局の通り抜けもあります。10℃が開花のめどですが、気象予報士は数字のマジックを知らなさ過ぎです。数値と天気図を示せば分かったように説明しますが、自然とはそんな甘いものではありません。地学という科学ですらありません。大阪のおっちゃん=籠池さん、できたら日本会議も右翼も国粋主義者も愛国主義もやめませんか。その裏切りと嘘に懲りたのではありませんか。人として、「手の平返し」されての「トカゲの尻尾切り」、もしくは「梯子外し」や「仲間割れ」に同情しております。奴等は都合によって、論理でも利害でも分が悪ければ最後には逃亡します。天皇主義者でもありません。大阪府知事もアベ夫婦も高級官僚(官僚制の逆機能)も、人間として信用できない、汚い奴等です。

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2017年3月15日 (水)

改革は地方から

2017031511590001 冬越しした玉葱の苗が、寒さを乗り越えて残っている。黒マルチした玉葱の半分は生存できなかったが、籾殻で覆った玉葱は、健気にも三分の二弱は生き残っている。信州の冬は、積雪が問題ではなく、むしろ内陸性気候の大地の寒さは半端ない。氷点下が当たり前の如月の寒さを凌いで生き残るその生命力には感嘆するより他はない。籾殻の威力を改めて認識することとなった。昼前に、田畑の様子を初めて観察するために出かけた休日である。そして、抜けのある個所の補植である。半世紀前の川中島平では、寒さに強い麦作が当たり前なのであったが、現在では所々でしか眺めることができない。それほど、自然は一面では過酷なのである。したがって、農業は経済成長とは無縁なのである。農業の構造改革が一部で叫ばれ、成長産業化に腐心する政府の目論見は必ず失敗する。自然と風土を無視する政策は、大地と人間(文化)を殺してゆくのである。農業は人々に安定した食料を供給するのが使命なのであって、成長戦略などまったく無用なのである。それを切り破ると、土地の荒廃、資源の簒奪と枯渇、生態系の破壊、農業産業の棄損などの負債を負うばかりで、むしろ農業そのものの破壊となるのである。よく、日本には資源がないなどと脅迫する輩が跋扈しているが、むしろ、日本ほど資源豊富な国柄はない。自然と気候、土地と人民の存在である。有害な人間が政治や経済やマスコミや芸能界などを領導しているのであるが、これがいつまでも続くようであれば日本も消滅を迎えることとなるだろう。しかし、それでも生き残らねばならない。豊洲と森友問題など益体もない問題で大都市は腐臭を放っているが、改革はむしろ地方から勧められなければならないのである。だから、洗脳としての在京キー局TV番組は、今では、ニュースですら見ることがない悠々自適な毎日であるが、こんな田舎にも、昼過ぎの二回、オスプレイの往来を仰いでしまったのである。米軍横田基地と関山演習場とのそれであろう。沖縄の人々を苦しめている常在戦場化が少しづつ進んでいる様である。

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2017年1月15日 (日)

グルメ時代の危機

150x150_square_587797081 グルメ記事、グルメ番組・ブログが花盛りである。こんな時代になることは、端(はな)から分かっていたが、決して差別感情からではないが、女性の地位向上が寄与していると思う。女性は適者生存のために食への関心が強い。男性は馬鹿だから、空理空論を弄ぶ傾向がある。そして、女性の習性から男性は取捨選択され、結婚できない男が増える訳である。私は米やら野菜やらを自作しているが、卑近の女性から、「御飯が好き」という言葉を聞いた試しがない。パンやパスタが好きというのである。道理でこんな田舎でもパン屋が多い筈である。この根本的な差異は何なのだろうか、と考えたこともあるのだが、未だに分からない。「柔らかくて美味しい」と言うが、固いのは美味しくないのだろうか。スーパーに立ち寄ると、固い食材は殆どなく、あってもデンと商品棚に干からびて残っているのである。冷凍・冷蔵技術が発達したからかも知れない。受験生の時には、東京で生活して色々食したのであるが、旨いと思ったことは一度もない(大抵は塩分&カロリー超過で彩り悪い)。余りにも不味いので二度食い(他の食堂で再び口直しすること)したこともある。酷い所では食い逃げを警戒され、銭湯では無賃入浴の嫌疑をかけられ、やむなく二度支払ったこともある。一刻も早く東京を離れることを至上命題にしたほろ苦い経験がある。だから、すぐさま離京してしまい、大学生協などで胃袋を満たす日々が続くこととなった次第である。グルメの番組を見ていると、行列しているのが旨い店、或いは、予約が困難な店が旨いという評価があるというが、どうかしている、としか思えない。喰うことは大事なことではあるが、喰うことで慢心することは大事なことではないのである。むしろ軽蔑すべき事柄である。東京の番組ではマグロが重宝されているが(大阪では番組にならず、メバチ中心)、マグロは沖縄で食するのが良い。牧志市場の裏通りにはマグロ専門店が並んでいる。マグロの産卵地であり、冷凍ではなく、その日の新鮮なうちに山盛りで、旨い泡盛を傾けながら、存分に味わうことができるのであるが、そのことを知っているヤマトンチューは寡少である。宮本常一は父親から出郷の教えを授けられたという。曰く、「金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ」と。関西では、行列は「金龍ラーメン」か「りくろーおじさん」位しか目にしたことがない。行列とあれば他の店に馳せ参じるのが普通である(帯広でもそうだった)。平均値が高いのである。第二に、東京の人間は肉食動物である。例えは豚には悪いが、豚のような顔をしている人間が食しているのをよく目にする。共食いである。最後に、殆どの人は野菜の旨みを知らない。いくら野菜が高いとはいえ、野菜を飾り物して提供しているレストランが高級と思われているのが分からない。バランスを考えてほしい。肉を食するために野菜があるのではなく、デザートも果物への配慮が足りない。アボガト?アホか、と思ってしまうのである。季節感を演出せんかい(完全に関西弁になっていますな。笑)、と見聞していて冷笑してしまうのが屡々である。やはり、食道楽の関西の方がレベルが高い。だから、在住の頃は、休みとなると懐に数万の身銭を入れて、外食に繰り出したものである(だから、未だに赤貧に喘いでいる。泣)。当然、二度食いすることはなくなった。政治風土としては三流であるが、やはり歴史と文化の上では関西は一流なのである(大正時代まで、大阪は日本一の都市だったことを知っている日本人はいまい。大阪の人すら知らない)。事実、近郊の農漁業の発達と市場規模のレベルでは、築地市場や大田市場では及ばないのである。春菊(関西では菊菜=食べる風邪薬)ひとつとっても、その差異は歴然としているのである。ちなみに、関西では、客が黙って清算したら、その店の味は劣悪である。ホントに旨かったら、関西人は精算時に必ず「旨かったわ。また来るわ」と付言するのが礼儀であり、実際、常連さんになるのである。それ程関西では、店舗同士の競争と栄枯盛衰は激しいのである。

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2017年1月12日 (木)

貧乏上等

33519667 三島事件というのをご存じだろうか。当時幼少の私は、帰宅した際に兄から告げられて、「ついにやったか」という多少の興奮しかなかったが、兄は随分取り乱した様子だった。自分としては、文学少年であったために、新潮社の広報誌である『波』を読み続けていたこともあって、三島の自死については予想されたことであった。むしろ、その後の反応に興味があった。この時代錯誤の事件に、新左翼や全共闘は気後れと弔意を示し、右翼や文学界は才能への遺憾と弔辞を表明したのである。誰も彼も、そろいもそろって奇体な反応であることに失望したものである。日本の知識人も大したことないんだな、という感想である。事実、その後の文学の廃頽は進み、もはや自分もそうなのだが、趣味を読書などという粋人は皆無というべきである。これは別に、三島事件が契機であるというべきでなく、むしろ、三島事件を生み出すような文学界の有り様が生み出したのである、と断言してよい。今では、小説の類は全く読まない。何の役には立たないからであって、現実の力の方が文学よりは突出しているからである。実際、今期の芥川賞は誰かと問えば、殆どの衆人は知らない。それ程のことなのである。これは、文学界だけではなく、芸能界、マスコミ、学会、経済界、政界など、いずれの世界でも共通している傾向であって、とても慶賀すべきことである。この本の中では(p185~)、例えば、現代の支配的イデオロギーとして、「機会の均等」論や「自己責任」論や「努力した人は報われる」論や「トリクルダウン」論の四つが打ち破られるべきものとして列挙されている。これらはすべて日本政府によって宣伝・扇動されているイデオロギーであり、世界的にも流布されているものである。これ以外にも、「経済のグローバル化」論や「命の平等」論や「投票権の平等」論など、骨の髄までに遍満しているのである。著者は都市部の新中間層に期待を込めているのだが、それは以上の意味においては、三島由紀夫と同じように、夢物語であると言わなければならない。それ以外の確実な方途は、既に、今も、そして将来もあると言わなければならないのである。

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2017年1月 3日 (火)

差別排外主義との闘い

2017_2 新年早々、不快な思いをして温泉場を後にすることになった。仕方ない、こんな時代だから。それで、やや古い本であるが、『大正デモクラシー』(岩波新書、成田龍一著)を年末年始に読み込んでみた。彼によると、日比谷焼打ち事件を契機に、「国民」が登場し、「帝国」のデモクラシーが開花することとなった。主導したのは、言うまでもなく、吉野作造の「民本主義」である。米騒動は、「日比谷焼打ち事件以来の都市民衆騒擾の延長としての性格を持つ」(p89)という叙述には疑問を覚えるが(実際は全国闘争の様相を呈していたのである)、関東大震災(1923年、大正12年)は、都市住民によって、多数の朝鮮人や大杉栄などのアナーキストや社会主義者、労働組合幹部をなめ殺しにしたのである。ここが歴史の結節点であることは疑いもない、と思っている。都市住民の差別排外主義が蔓延し始めたのである。不況と恐慌の社会状況下、「改造」が左右から叫ばれ、支配階級は、「統合(普選)と排除(治安維持法)により選別的に「国民化」を図った」(p199)のであるが、政党政治の腐敗と汚職が茶飯事であり、これと闘う人士(労働者・農民・部落民など)は国家権力の弾圧と孤立の中で満身創痍だったのである。しかし、「時すでに遅し」だったのである。知識層の「民本主義」を乗り越えた民衆の闘いは続いたのであるが、インテリの怯懦と思想的脆弱性は、むしろ体制側を支えたのである(その中でも、山宣の闘いは心打たれることである)。そして、満州事変は大正デモクラシーを木端微塵に打ち砕いて、侵略戦争になだれ込んで行ったのである。故に、差別排外主義との闘いは、常に日本人に問われている根本問題なのである(これ参照)。

 宣治 <好むと好まざるとも やがて来る その日のために>

 新年にあたって、あの辞典を古本屋に売り払うことに決めました。東大系の学者が居並んでいるだけでなく、内容がお粗末過ぎるからである。元々、東大史学は日清・日露戦争だけでなく、先のアジア・太平洋戦争を使嗾したのであり、東大史学も、それに追随する山川出版も凋落したものである。大学受験で山川の詳説日本史を使用したが、今もって知識として以外、何の役にも立っていない。断捨離の時期が来ているのだろうか。次世代インターネットであるIoT(モノのインターネット)の時代には、自分はあの世行きであるから知らないが、要らないものは要らない。今年はどうなるやら。ブログ読者の皆様へのご挨拶は、この記事にアップした画像をご覧ください。

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2016年12月 3日 (土)

消費社会の申し子

20171 政治の右傾化=劣化は世界的傾向のようで、益々地球的規模で破滅に向かっているのは、むしろ喜ばしいことである。政治の世界よりも、現実の世界の方が劣化が激しいのである。気が付いていない余人も多いのであるが、学問の世界(例えば歴史学会)の衰弱も甚大なのである。例えば、東大や早・慶大卒・教授というのは、愚か者であることを自白することなのであり、「無知と無恥」の代名詞なのであるが、親の平均年収が1000万円以上であり、殆どは大都市圏出身者で占有されているのであり、貧乏な地方出身者であれ、大同小異なのである。これらの人物が、何か革命的な事業を成就できるのであるかと問われれば、まず不可能と言わなければならない。日本社会は実に階層社会になっており、成し得るとなれば、己のステータスを維持することを旨とする小人となること位しかないのは否めない。もうそんなことは考えないようにしているからストレスも溜まることはないのであるが、「有識者会議」に名誉教授やら、評論家や有象無象の人物の名前を聞くと身の毛がよだつ程である。国際教養や国際関係や国際政治・経済や国際開発などと銘打つ学問など似非学問なのであるが、要するに、御用学者の養成機関なのである。それだけではなく、左翼・リベラリストの中にも、共産党だけでなく、似非左翼も加わって船頭多く、民衆の意思とは懸隔した議論を繰り返しているばかりか、誤った議論と慢心を披歴するばかりで、間違いも認めない有様を連綿と繰り返しているのである。阿呆の都会人が跳梁跋扈する訳である。目糞鼻糞を笑うとはこのことなのである。猛省を促したい。遅れてきた世代の自分が開示するのは憚ることだが、全共闘運動は自己否定や己のあり方との決別を通して国家権力と闘うことを目指したのであるが、それが今では、自己肯定の時代なのである。商品経済の申し子として、一人一人がオレ様となって我執と現状肯定をしている風潮となり、事実認定や歴史認識や言論による批判など、まったくもって論外になっているのである。かばりか、嘘と詭弁で逆立ちしているのである。そういう人物がこの国の首相や都知事などとなっているのであるが、それは政治家だけではなく、日本や世界全体に蔓延しているのであって、隗より始めよの如く、一刻も早く、日本国は滅びるべきなのである。

 休日の一日、農業講習と球根の植え替えと温泉入浴をして終了した次第である。

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2016年11月 4日 (金)

亡国の論理

33145982 「結党以来、強行採決をしようと考えたことはない」との妄言は、TPP衆院委員会で強行採決することで嘘だということが満天下に明らかになった。嘘が平気でまかり通るということは、青少年の気性を毀損するものである。「道徳教育」を推奨するものが、平気でだまし討ちをする(想定内の)政治状況は殆ど「お笑い」の次元であり、自民党とは党名そのものからして自由と民主主義とは全く無縁なことは、当の昔から周知の事実であったのである。そして、この事態もまったくもって予想した事態なのである。羊頭狗肉とはよくぞ例えたものである。お笑い草である。政党政治への不信、これが侵略戦争の主因であった。それに代わったのが軍部だったのであり、その淵源は天皇制を利用した明治政府であり、右翼テロと裏切りの長州藩なのである。いい加減、歴史学者は目を覚ましたらどうか。福島原発人災の張本人が首相の地位にあり、TPPや東京オリンピックの主導者であり、日本国を破滅に導いていることは、勿怪の幸いである。何期でも宰相を継続するがいい。「小出し(小池)劇場」などは流れにさおさすに過ぎない。何の影響もない。両者とも四面楚歌の中で討ち死にしてもらいたい。どんどん「活躍」してもらいたい。日本がアメリカや中国やロシヤの属国であってもどうでもよい。日本国がなくなればよいのである。また、彼らの妄想するサザエさん一家は藻屑の中に消えてしまったのである(これも参照)。

 残り蚊を 叩く勇気や 萎え果てて

 そんな日本の政治状況はお構いもなしに、今日は快晴の天候であったので、玉葱の植え付けをしました。里山は色づき、空気も清涼である。研究のために、近代農法の黒マルチの畝ともみ殻マルチのそれを併置して試行してみた。虫の気配が少ない中、畝を立てて苗を床に据える。コスモスと枯草だけが畑の中で見守る。それでも、人は生き延びなければならないのである。

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2016年10月25日 (火)

もがくことの特権

33480772 実は、23日に小海町高原美術館に馳せ参じました。休日のやや遅い朝ごはんを、信濃毎日新聞(地元ではシンマイと呼ぶ)を眺めながら、口に放り込んでいると、美術館の広告記事が目に留まったのである。早速、既に映画を見ている息子の部屋を開けて、誘ったところ、おもむろに承諾されたのである。なかなか言うことも聞かない息子であるが、11時に出発を告げて、18号線と141号線を小海町へと風景を凝視しながら(危ない運転!)スイスイと目ざしたのである。信毎の翌日の記事によれば、初日に1012人の入場ということである。臨時駐車場が設けられ、大阪、静岡、横浜、多摩などの県外ナンバーの車が居並んでいた。八王子ナンバーの優しそうな母子が、仲よく鑑賞に来られているのも目にした。息子とは言えば、そそくさと後ろ鑑賞で、終いには、用意されたソファーでただ親父を待ちくたびれるだけであったのである。しかしながら、驚いたことに、出口でこの「つばさ文庫」を「読んでみるわ」と買い求めたのである。この興行映画はジブリ映画を超える勢いということである。今後公開される「デスノート」もあるが、おそらくこれを超えることはないだろう。なぜならば、女子の人気が付いて行かないからである。愛は人間の永遠のテーマであり、思春期の思いは人々に強烈で複雑な感情を呼び起こすだけでなく、現在進行形の青少年にとっては燦然と輝いているのである。だから、草臥れたおやじやおばさんには忘却した世界なのである。「世界がこれほどまでに酷い場所ならば、俺はこの寂しさだけを携えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけはもがき続けてみせる。・・・納得なんて一生絶対にしてやるもんか。・・・俺は最後のもう一度だけ、大声で夜空に叫ぶ。「君の、名前は?」」(p209)という世界観である。人生にもがくこと、・・・あたりまえに生きること(p247)は青少年だけの特権である。しかしながら、美術館鑑賞の後は、おじさんよろしく、ヤッホーの湯を愉しんだものである(笑)。やはり、八ヶ岳連峰はおやじを歓待してくれず、乱層雲に隠れたままであったのである(涙)。

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2016年10月20日 (木)

『君の名は。』と方言

32993572  言葉を拾っていくと、方言は無限にあるのだが、ある程度のことで妥協して出版するしかない。それが、この辞典である。確かに使用されていた方言が、いつの間にか衰退してしまっていることが多々ある。ましてや、テレビやスマホによって、共通語が幅を利かせている状況では、方言はいつかは衰滅する運命にあるのかも知れない。文化(cultura)が農業や労働(colere 耕す)から切り離されて文明(civilizatio)化するにしたがって、「人間の養殖場」である都会(civitas)中心の文明が、地方に浸潤して多様性を喪失させ、単一化する。それを近代化というのなら、そんな近代化は要らないと言わなければならない。映画や演劇や音楽などが一様に不振なのは理由があるのである。子供の頃には、「ひょっこりひょうたん島」や「モスラ対ゴジラ」などがあり、炬燵で「少年画報」や週刊漫画雑誌を愉しんでいたものであったが、今では、テレビとスマホが席巻して、少年少女総体を愉悦させる番組や話題が皆無である。制作側の人間や芸能人の器量が拙陋になっている所為もある。笑えないし、愉しくもない。俳優がバラエティ番組に出演し、番宣して自己満足しているだけでなく、肝心のドラマのストーリーが興ざめである。『君の名は。』は、男女の身体が入れ替わるという設定からして、とりかえばや物語からの焼き直し(最近では『転校生』)であり、ファンタジーに逃げるという方法も今様である。しかしながら、進化していることもある。アニメの美しい精緻な作画であり、楽曲とのマッチであり、秘匿されたサブテーマである。終局の余韻といい、ヒット作となることは間違いなかったのである。興行のための映画という側面は致し方ないことだと思う。『君の名は。』を鑑賞した息子が、感動したのかどうかは知らないが、顔見知りの中年女性には不評であった。おそらく、そのご婦人は理解不能であったことだろう。ちなみに、新海誠監督は厳しい自然が当たり前の県内出身者である。コツコツと努力する人柄と見た。

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