日記・コラム・つぶやき

2019年5月16日 (木)

話半分

33682832thumb4  農事に忙しいこともあるが、外交の失敗や経済の破滅など、どう考慮しても失政の誹りを免れない令和の時代であって、終活の年齢もあって、ブログ更新の意欲を失せているのである。政権支持率は、調査に応じない無関心層が半分、反感を覚えているのが残りの半分なのであって(以上調査に応じない層)、自公・維新(政権)の支持率は3割弱なのであって、調査に応じた者の「ほかに支持する政治家が見当たらない」という第一の理由は、本来、世の中にあって交換不可能なことはないのであるから、その調査はまがいものなのである。嘘に嘘を重ねる砂上の連立政権なのである。テレビや新聞などのマスコミは、本来の使命を忘れて時の政権を忖度するばかりで、裁判所や国会(国権の最高機関)もまた国民の敵となっているのである。テレビは、クイズやグルメ番組ばかりであり、ドラマも警察サスペンスや医療ものや恋愛ドラマばかりであり、首都圏は異様な人間に占有されている様である。大阪しても、維新が跋扈して浪速の文化は滅亡したのである。吉〇は笑えない。ジャニ〇ズは鬱陶しい。NHKは国策放送。このまま、どんどん破滅してもらいたい。どうか政権が長続きしますように。嘘で糊塗された時代や社会が長続きしますように。巧言令色鮮し仁、この時代に相応しい元号である。

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2019年4月19日 (金)

止まらない地方崩壊

M000051_k00003250_1024768 『農山村は消滅しない』という著書の問題性は、実は、農山村の実情調査の不足だけではなく、都市の問題なのであるということを忘れていることに尽きるのである。農山村や地方の窮状は都市の「繁栄」の結果であり、むしろ都市は地方の犠牲の上に成立しているのである。したがって、根本的には地方分権が推進されるべきなのであるが、自公政権では先祖返りしており、中央政治がいつまでも跋扈しているのである。だから、結論は明確なのであり、これを実行するか否かである。現・長野県知事は、典型的な役人・官僚であり、何も期待できないのであるが、今度の地方選挙では、県議会の自民会派が単独過半数となり、愈々長野県の未来は暗澹たるものである。以前、経歴も面目も自民党支持者と思われる人物と会話する機会があったが、きちんと反論すると、押し黙って無視する姿に呆れたことがある。仲間内では懇ろなのであろうが、公開の議論では逃避する醜悪に怒りを覚えたものである。
 結婚記念日に、夫婦で「上田城千本桜まつり」に出向いた。上田城は、徳川の大軍を二度も撃退したお城であり、大坂の陣では先陣で徳川方を震撼させた真田家のお城である。信州の地侍や国人は、中央の武士や国司を排撃してきた歴史があるが、そのこと(武士の時代)には余り関心がないのであるが、一度はその概容を見てみるかなと思い、連れ合いを誘ったのである。それには腹ごしらえ(人気のグルメである。笑)である。信州そばとして著名な「刀屋」へと足を向けたのである。初めての試食だったが、腰が強く確かにうまい。蕎麦を食らう、というのが的確である。江戸時代、信州人は江戸へと冬季に出稼ぎに出かけたのだが、「初雪やこれから江戸に食いに出る」という川柳にあるように、江戸っ子は信濃者を大飯を喰う田舎者の典型と罵ったのである。県外ナンバーの車が多く、刀屋の待ち時間に、東京から来た六人組の高齢者の集団と並んだが、向こうから声をかけてきた。「草笛」とここを足繁く通い詰めているようで、久しぶりに東京の話題を耳するが、全く関心がない。東京なんてどうでもよい。田舎蕎麦がやはりいいのである。盛りもいいのだが、天ぷらが旨い。クルミだれでも味わうべきである。上田城であるが、桜が散り始めであり、観光客も大勢いた。燕も飛来して歓迎してくれていた。櫓門にも登上して崖下を見学し、市立博物館にも拝観したのである。連れ合いはどうにも興味がなく足早であったが、しばし想像逞しくその時代を感得できたのである。

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2018年12月10日 (月)

日本人の破壊性

32260807 小春日和の今日、著作集第三巻を読了する。東北と北海道は積雪で大変らしい。厳しい冬の生活は、どちらかというと、記録されることが少ない。それだけに、正月や春の訪れに対する思いは切実である。ために、若者が都会に出てしまうのは、ある意味では当然なことかもしれない。北信州では、お葉漬け(野沢菜漬け)の時期であるが、50年前までの冬の風物詩は廃れて、スーパーでの購入になって、各家々での作業風景はほとんど見られなくなっている。しかしながら、野沢菜を漬けること自体がお年取り・正月の準備であり、そのものだったのである。敷衍すれば、9月に野沢菜の播種からお年取り・正月の準備が始まっていたのである。よく誤解されているのが、大晦日の料理=おせち料理である。お年取りでは、黒豆も数の子も栗きんとんも昆布巻きも出てこない(筈)である。生家では、焼き鮭、里芋煮、鯉こく、なます、酢だこ、茶碗蒸し、お煮かけなどの料理が炬燵大の朱塗り広蓋の中に広げられていたのである。これのどこがおせち料理なのであろうか。当地では、お年取りがメインの行事であって、おせち料理を食する習慣はなかったのである。元旦は「寝正月」で雑煮を食べ、二日から挨拶回りや仕事始めとなるのである。今様のように、「元旦早々から初詣などといって社寺へまいる客のふえたのは、年夜のまつりがうすれて来たことに大きな原因があるようで・・・昔は正月のにぎわいは二日が中心であった」(p275~276)のである。キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝うという倒錯は、バブル期の80年代に始まったのであるが、経済至上主義と新しい所有観念は、正月の様相もクリスマスの有り様も変えてしまったのである。日本人は伝統を重んじていると自慢しているが、「実際には自分たちの生活の中できずきあげてきた有形(無形の)文化をのこそうとしなかった」(p69)のであり、その現象は、生活誌や建造物など身の回りには多くの破壊されたものが検証されるのである。

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2018年11月15日 (木)

都市の愚劣

2018110110340001 既に、田地は長閑な風景が広がるばかりである。二ヶ月ほど、ブログ更新がなかった訳であるが、露ほどの進展はなく、新米の収穫がなされただけである(これで来年に備えた大凡の食い扶持ができた)。今年は酷暑と多忙のために、畑の方は茫々として静まり返り、耕作物はない。僅かな草花が畦を彩っているばかりである。冬将軍の到来を前にして、田畑を自然に任せている次第である。こんな折りに、『宮本常一著作集』の精読に再挑戦してみたのである。再読でもある。やっと第二巻を読了した所である。『宮本常一が撮った昭和の情景』との併読なので、遅々としたものである(第二巻については、かつて記事投稿を行っている)。
32260806_2 近頃、明治維新の歴史を狂瀾を既倒に廻らすような文献・著作が続々と刊行されている。明治維新礼賛の歴史観が文科省検定済歴史教科書や司馬などの文学・歴史書などによって洗脳されてきたのだが、今や潮目が変わり、歴史の見直しが着実に進行し始めたのである。その反動としての単純な江戸時代礼賛者にも辟易するが、その傾向は確かなものになっている。NHKでは「西郷どん」が放映されているが、維新の「志士」の側からの視点で演技されて、そのために、「でんでん首相」は桜島を背景にして総裁選出馬を表明したのだが、愚かしいのにも程がある。それでこの「著作集第二巻」を精査すると、宮本は僻地・離島、農村、地方小都市の遅延を慨嘆するのであるが、「明治以来の政府の政策はまったく地方衰微のためのものであった」(p45)とあるように、その根源を表明している。明治政府による「国内植民地」(=植民地主義)化だと断罪しているのである。具体的には、1873年の地租改悪などによる地方資本の略奪や地方の教育投資熱などを列挙している。実際、明治初年には総人口3300万の内、都市人口は300万人であり、それ以外は地方に暮らしていたのである。中央集権体制が整備されていく中で、「向都離村」は激増するのである。この状態は現在でも同様であり、テレビやスマホなどの情報端末が都市への関心を喚起して、人やモノやカネがより一層都市へ還入して行く(ロードサイド化とストロー現象)のである。宮本は、「政治を批判し、中央に抵抗する精神」(p55)を推奨して地方の自立を推奨するのだが、彼の僻地解消策としての「交通網の確立」(p182)と市場(消費)経済の拡大は、愈々それを促進するばかりである。つまり、彼もまた、近代主義者としての限界性を保持していたのである。「都市と農村の区別をこえた、強烈な国民文化を生み出したい」(p101)という期待は、テレビ番組やネット右翼の愚劣な内容を見れば、夢幻なことであったのは相違ないのである。

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2018年8月21日 (火)

野球が面白くない理由

2018082111430000 水はけが良過ぎる田んぼなので、地面は自ずとひび割れして中干し同然なので、そのまま水入れをする。60日目の最高分蘗期は過ぎ、現在の出穂・開花期は花水を繰り返す。湛水のままでもいい場合があるが、酸素を補給しなければ味見の点ではいま一つという思いもあって、間断灌漑を試みてみよう。漏水や蒸発を逆利用するのである。最終的な落水は、出穂後の35日目頃だから、9月25日頃になるだろう。刈取りは出穂後40日から50日までだから、稲刈りは10月5日位(45日目)になるだろう。稲架掛け一週間とみて、10月半ばぐらいの脱穀によって新米の享受となるだろう。
 高校野球やプロ野球を一瞥すると、今や金属バットの時代で、見ていても全く面白くない。打ち勝てば勝利する野球である。元々、狭い野球場ということもあってホームラン量産となり、外野は隙間だらけであり、金属バットでこつんと当てればヒットにでき、真芯で打ち当てればホームランである。打撃優先の時代である。投手受難の野球となって、変化球主体の、大味で変な試合が多い。だから、野球は面白くない。木製バットにした方が面白い。ありもしない金属バットが登場して以来、野球が大嫌いになった。10点も稼ぐ試合を2、3時間をかけて観戦するのは時間の無駄である。息をのむ投手戦とは無縁となり、見ていてばかばかしい。高校野球となれば、ピッチャーは肩を壊す受難となる。連戦連投の不合理に感動する輩の心理が分かりかねる。狂気の沙汰である。それが野球の歴史となるとなれば、そんな野球は衰亡した方がいい。ましてや、これに感動を覚えるなどということは、正気の沙汰ではない。野球が日本ではやる所以である。幼少期に、ゴムボールに切れっ端で三角ベースに興じていた時代が懐かしい。そんな欧米由来の野球が東京オリンピックでは復活するそうであるが、世界ではマイナーなスポーツにも関わらず、これがオリンピック競技になるのが信じられない(ゴルフまでスポーツという始末である)。スポーツ選手が監督の駒となるようなスポーツなど全くもって不快である。それ以上に、嘘で糊塗され、カネ塗れの東京オリンピックは、日本衰亡の打ち上げ花火となるのは必然である。

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2018年7月29日 (日)

酷暑と「維新」の影響

2018072710120000 38日目の田園風景である。今年の夏は異変である。熱波のために自作野菜がよく育たない。日照りのために萎れたり、枯れたりするものが続出し、収穫物が少ない。弱った枝葉を食いちぎる虫害も見られる。さらに、虫たちは暑さのために土に潜って根を弱らせているのではないか。既に、果樹農家では日焼けの被害が報じられている。酷暑のために白菜・セロリ・レタスの生育が進まず、需要期のスイカ農家は果皮の日焼け対策に大わらわだそうである。「さわやか信州」でも、軽井沢が最高気温30度越えになっているのだが、高級リゾート地には全く関心がない。西日本の産地野菜が品薄状態であり、長野県下では、酷暑に加えて少雨という天候もあって、お盆にかけて更に高騰するということである(以上、『信濃毎日新聞』紙面より)。マスメディアの天気予報は猛暑→熱中症という高温報告にとどまって注意勧告しているばかりで、その社会的影響を少しも報じていない。こんなところにも人間中心主義が徹底されていて、憤慨するのみである。これもまた極右政権という人災に逢着するのである。西日本豪雨だけでなく、今回の台風12号でも休養するそうである。かの腐敗した最高権力者は、気が小さいくせに虚言を弄して内実は何もなく、結局何もできずに「地位に恋々として」三選に狂奔しているのである。何もできないし、しようともしていないのである。吉田松陰を始め、長州・山口県の馬鹿さ加減には辟易している。まだ明治を引き摺っているのである。

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2018年7月15日 (日)

稲の分蘗を見て

2018071509230002 記録によれば、田植えが6月17日だから、今日は28日目。最高分蘗期はおよそ定植後60日だから、幼苗はぐんぐんと伸びている。もう少しで青田になり、そよぐ風に枝葉を靡かせるだろう。9時過ぎなのに、噴き出る汗をタオルで何度も拭いながら畦回りをして成長の具合を観察するのである。気の早い隣りの田んぼは、中干し後の水入れを開始してもいる。気候が早まり、何事も早め早めになっている農業である。だが、生来の怠け者である自分は、他の仕事をこなしつつ、遅れ遅れの農業になってしまっているのは否めない。畑作業は思うようにならないが、絹サヤやピーマンなどの世話が何とか間に合っている始末である。
 西日本豪雨による災害では、知り合いの安否は確認できたが、極右政権の弛緩は止めどもないことになっている。西日本は東日本と異なり、土が重たく赤土が多いために土砂災害は甚大となる。また、日本の河川は急流なので、巨大地震災害と並んで、豪雨対策は国を挙げての取り組みが緊要なのである。気象庁は重大な事態を警告したにも関わらず、「赤坂自民亭」なのである。これに対する批判は、ある意味では正しいのだが、マスコミが恐る恐る報じるようになっているのだが、「宴会」批判は本質ではないのである。むしろ、この悲惨な状況を政権浮揚に利用していること(ショック・ドクトリンこれも)を周到しておかなければならないのである。実は、明治維新もそうだったのである。「志士」どもは、非常事態を利用し、自分たちの利害のために興国論や覇権論、軍事大国化に成り下がって敗戦を準備しただけだったのである。西郷隆盛や坂本龍馬などは徹底的に斥けなければならないのである。三島由紀夫のカリカチュアも然りである。2020年のオリンピック開催は、2011年から始まる第二の敗戦を告げる晩鐘となるだろう。この豪雨被害と同じような事態の最中にオリンピックは敢行されるのであるから。悲惨の事態に遭遇して初めて日本人は決起できるかどうかが要なのである。そのような認識が、稲の分蘗ように、全国津々浦々に遍満するかどうかが問われているのである。

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2018年7月 5日 (木)

不思議な日本人と不謹慎な日本人

2018070318060000_2 ニュースと国民の関心はサッカー一色であった。日本においては、カジノや働かせ方やTPPと種子や憲法改悪手続きなどの悪法案が強行されている政治状況で、ワールドカップ・サッカーに現(うつつ)を抜かしていいのだろうかというのが本音である。NHKアナウンサーは、ニュース番組で自社のサッカー中継を宣伝して、「日本を応援しましょう」などと誘導する始末である。公共放送による完全なる扇動である。ナショナリズムの熱狂と「一つの日本」(長谷部選手)を唱道している不思議な日本人である。
 サッカーのことについては、息子が長年取り組んでいたこともあって、多少は関心はある。が、これだけの「不都合な真実」が隠蔽されるとすれば、天の邪鬼を自称する自分にあっては、スーパープレーや格闘技としてのサッカーに注目することはあっても、日本代表チームが勝利してほしいなどとは露ほどにも思わないのである。ビッグマウスやその仲間であるガンバ大阪君などが出場すると、辟易したものである。たらたらボール回しを批判されたために、ベルギー戦では相手のカウンターに沈んだのは余興である。自業自得ともいえよう。もともとスポーツなどクーベルタンの迷言に反して、国家とスポーツ団体の収益のために存在するのであって、FIFAそのものが、2015年に汚職事件を誘発しているのであって、アメリカの司法はFIFAを「恐喝が横行する腐敗した組織」と断定しているのである。誘致のための収賄や放映権をめぐる巨利故に、幹部の腐敗と巨大企業とのスポンサー契約による賄賂はよく知られている。要するに、「私腹を肥やそうとする者により、このスポーツがハイジャックされ」ているのであり、その腐敗はワールドワイドに亘って極まれり、というスポーツなのである。だから、ベルギー戦では白河夜船を決め込んでいたのである。翌朝、結果を知ってわが意を得たりと思った次第である。「サムライニッポン、凄い」とも「惜敗が残念」とも「健闘ご苦労さま」とも思わない。全くもって不謹慎な「非国民」である。

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2018年6月24日 (日)

女たちの戦争責任

2018061909060001 田植えは17日の午前に終了する。が、補植ができない。多忙の為、体力保持のために休むのであるが、自然は待ってくれない。この間に、高群逸枝の『娘巡礼記』(岩波文庫)や渋谷定輔の『農民哀史から六十年』(岩波新書)などを繙読している。しかしながら、年々歳々、愚鈍の頭は益々固陋になって、殆ど機能しなくなっている。それでも生きなければならないのである。研修や会議などで事なかれ主義を決め込む自分に愛想を尽かす日々である。
 満24歳の若き高群は故郷・熊本を後にして、半年間の四国遍路の旅に立つ。頃は、1918年6月、大正デモクラシーの全盛期でもあり、直後には、シベリア出兵や米騒動など、国内の戦時体制化と階級闘争とが激化しつつある時期である。
    おどろかじ 疑ひもせじ 世の中を
    さみしく独り 旅ゆくわれは
 巡礼の動機は、「あとがき」によれば、どうやら人生の煩悶と恋愛問題らしい(これにはあまり関心がない)。若き女の巡礼姿は奇怪と好奇の眼に晒されるのだが、当時の世相と人間模様が見事に描写されている。貧困と絶望にある庶民の姿である。他方、高群の観念的な思考は、その時代の青年層に特有のものである。その乖離が掻痒の感を覚えるのである。結果として、高群の母性主義が「聖戦」として侵略戦争に加担してゆくのが残念なことである(これ参照)。されど、24歳の自分を思い返すと、恥じ入るばかりである。
 
 

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2018年6月 5日 (火)

梅雨入り前に

2018060218320000 明日にも梅雨入りする気配である。ひと月以上、ブログとはご無沙汰である。農事が始まり、あれこれと手配と実働をしなければならないのだが、今年は事情があって、人生残り少ない(?)時間を割かれているのである。日本が壊れてゆくのを斜に構えながら眺めることも乙なものである。全てが可笑しい。意味もない野球が嫌いになって久しいが、大谷がどうのこうのとスポーツニュースがやかましい。ワールドカップ・サッカーに向けてのピークアウトした人選で何ができるのか。アメフトなぞ、本来選手を駒としたスポーツじゃないか。国民栄誉賞を貰って喜ぶ、お目出たいスケート選手、軽蔑あるのみである。大体、スポーツで激励、なんてとんでもない驕りであり、噴飯ものである。アベによる国家の私物化や政・財・官・学・法曹・マスコミ・芸能・スポーツ等の腐敗と無力化、大いに結構である。笑いが止まらない。文書改竄どころでなく、国の最高法規も改竄されるとあれば、日本国終了となるのである。なあーんだ、みーんな愚か者ばかりじゃないか。いいぞ、いいぞ。鯛は頭から腐る、というのは本当だな。嘘つきはアベの始まりということで、社会そのものが虚妄と化しているのである。子どもに嘘をつけ、開き直れ、という道徳を教え込むアベとアソウである。自民党は極右政党であるが、政治・外交の無力、財政赤字の垂れ流しと国民への責任転嫁、国家の私物化が席巻している。これに3割弱の国民が悪乗りしているのである。誠に喜ばしい限りである。しかしながら、アベとアソウは死ぬまで辞任してはならない。中途半端はダメである。どこまでも零落してゆかなければならないのである。誰にも相手にされない程に奈落の底までお付き合いしなければ、人々の理解を得ないのである。次期首相は大変だねえ。全てを入れ換えなければならないのである。もう一度の敗戦を処理しなければならないからである。あの敗戦時以上に、政治責任を国民総体に問わなければならない大事業(真の革命)の責務を負うのであるから。半世紀ほど前に、安保・沖縄闘争や大学闘争で問われたことが現代に蘇っているのは確かである。

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