日記・コラム・つぶやき

2022年12月25日 (日)

2022年の年末にあたって

32909274  年末である。昨日は未明より20㎝積雪があり、直前に自前で冬用スノータイヤへの交換をしていたので安堵したものである。新潟の友人によると、50㎝以上ということで、新潟米の旨さもあるが、今後もまた友人たちへの雪害が心配の種である。湿り気のある雪の重さは尋常ではないのである。毎年の恒例であるが、図書館の廃棄・リサイクル本として、今の所、『見上げた空の色』、『幸運な医者』、『俺たちが十九の時』の三冊を頂く。年末年始はこれらの読書で過ごすことになる予定で時代小説家、小児科医、キリスト教作家である。
 防衛費の来年度以降の予算が膨大となる。本気で中国と戦争をするつもりなのか。まったく馬鹿げている。アメリカ帝国主義でも対中戦で勝てる見込みもないのに、補充すらできない日本軍(自衛隊)の戦力で太刀打ちできるとでも思っているのだろうか。むしろ、自国では、コロナ禍と少子化と経済低迷という惨憺たる三重苦の中で、軍備増強に自彊するのは異常としか思えない。ウクライナ戦争において、日本国政府は既に戦争に賛同しているのである。殺戮に関与しているのである。嘘に嘘を重ねる自・公政権によって、国民は屠殺されるとしか思えない。カルト政権を今すぐにでも一掃しなければならないのである。芸能・音楽業界でも同じである。年末年始のテレビ(ラジオでも)を観ても、例年のように、ダ〇ンや問題やサ〇ドなどの笑えない、政権迎合の芸no人やプロデューサーや歌手、アナウンサーや解説者などのオンパレードであって、頭が痛くなる。何でこうなったのか。一度こういった連中は、いっそ滅びた方が良いのではないか、とも思ってしまう。年賀状を作製しながら、一人一人にひと言丁寧に添え書きした一日でした。
 日々呻吟・苦闘している、まともな人々に、Merry Xmas! 

 

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2022年10月11日 (火)

パンドラの箱を閉める

2022100316510001 稲刈りと稲架掛けを終えた畦で、ひっそりと咲く野菊と赤まんま(イヌタデ)である。冷涼な風や秋雨に時々花を揺らす。好きな風景であるが、来る冬に向けて備えを促すものである。新米の試食は10月下旬となるだろう。
 振り返ると、日本においてネオリベラリズム(新自由主義)が全盛となったのは2000年代だったような気がする。その頃は仕事で忙殺されていて、時代考証どころではなかった。時代は一気に変転していたのであり、それまで当たり前だった富の再分配の考えが否定され、詐欺と虚偽が当たり前の社会となったのである。その時登場したのがコイズミ=アベ内閣であったのである。経済的格差が助長され、協同性が破壊されて、いびつな個人主義(自己責任=自己負担)が跋扈したのである。支配的な価値観が競争原理と成果主義を包含して、金融資本主義が国民生活に浸透し、富と地位がエグゼクティブ(上級管理職)や政治屋に集中して、人々を一元的にグローバル支配してゆくあり方である。例えば、ネットやスマホはその具体的な支配道具である。金融と情報化が融合したのも幇助したのである。また、「平和」や「絆」や「開発」などの言葉も、正反対の意味へと変移したのである。「平和」は新植民地主義戦争やパワーポリティックス(権力政治)と核を含む強大な軍事力によって守られるという偏頗な思考が蔓延している。反共主義を唱える統一協会(勝共連合)というカルト宗教に嵌る人々がいるが、これは人間の協同性を否定するばかりでなく、それによって人類が発展してきたこと(人類史)を否定するのである。どう考えても可笑しい。金の亡者となり、思考が退化した人々と言わなければならない。しかしながら、この異常事態の中で、国家と資本主義は凋落の一途を進むのである。アベ銃撃事件は、急いでパンドラの箱を閉めなければならないことを人々に示唆したのである。

 

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2022年9月 3日 (土)

平和は創造するものである

07490846 『「日本」ってどんな国?』を斜め読みすると、その資料・データから如何に日本という国家が衰退していることが分かるというものだろう。しかしながら、衰退は大いに歓迎であるという立場である故、別にどうというべきこともない。自分が日本人であろうと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、ましてや国際的に(国際という言葉には不信感を抱いている)嫌悪されつつあるロシア人であろうと、どうでもいいことである。ここでも多くの日本人と見解が相違していることは自覚している。それで文芸春秋ムックの『戦争と日本人』である。思春期に読書の鬼と化し、昼休みと放課後に図書館に通い詰めた日々において、文学や哲学・思想の叢書を読破していたのだが、合間に読む雑誌は『文藝春秋』ではなく、『世界』や『展望』、そして『朝日ジャーナル』だった。当時、『文藝春秋』は唾棄すべき「良識ある大人」が読む雑誌であって、錚々たる右派文化人が寄稿していたのである。例えば、海軍上がりの阿川弘之や司馬遼太郎や田中美知太郎を覚えている。振り返れば、『文藝春秋』は昨今の右翼雑誌群と寄稿人士が重複しているのである。だから、時々瞥見する程度だったのである。彼らは戦争を遂行し、戦後も領導した連中であって、「神社本庁」や「日本会議」に蝟集しているのである。そして例の悪名高い統一協会(キリスト教会と全く関係のないカルト協会)と野合してきたのである。だから、社会の肉瘤たるアベの国葬には絶対反対なのである。政教一致の憲法違反はさることながら、失政を極めて国税を簒奪した悪党の国葬なぞ、笑止千万である。
 さて肝心なそのムックであるが、その山本五十六は「ずるくなくちゃ、国際的交渉は出来ないよ(笑)」(p11)と結局軍人としての自己に恃んでいる始末である。近衛文麿は、西園寺公望を自由思想家などと心酔しながら、政治的に軍部に追い詰められた無能である。また、国際連盟脱退を主導した松岡洋右は、その後「静養、静思、沈黙。これが現在の私の一切なのである」(p18)と戯言を弄しながら、「満蒙は日本の生命線」と称し、実際に満鉄総裁や「松岡外交」によって中国に介入して侵略戦争の道を拓いているのである。読んでいても気持ち悪い。文藝春秋にしても、記者としての批判精神が全く欠落している。呆れた連中である。多くの日本人が誤解しているように、平和を実現するためには、日本の被害に拘泥してばかりでは覚束ないのである。さらに平和は守るものではなく、創造する(政治的に勝ち取る)ものなのであることを再認識しなければならないのである。カルトの統一協会ですら「平和」という言葉を弄しているのである。国葬や憲法改悪や防衛費増大などと唱える右派勢力のように、覚悟もなく呑気に構えているようでは戦争は繰り返すのである。
2022090206020001_20220904175201  稲の受粉は終わり、稗取りとすずめ対策の段階である。東北と北海道地方は大雨の影響でリンゴや稲の被害は如何ほどだろう。心配である。当地では桃の収穫も終え、葡萄の採取時期となっている。これに稲の収穫が続く。6月中旬の田植えなので、9月中旬に落水して10月半ばに収穫となろう。稲穂の状態を見ながら水管理に専念しなければならない。農業は底の浅い怠惰な右ねじの人間には務まらないのである。

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2022年6月18日 (土)

思考を取り戻す

34332887  参院選挙が実施され、長野県区は実質二者の争いになっている。自民党と野党共闘とである。参議院では野党が独占している全国的に珍しい選挙区である。自民党の候補はタレントであり、その昔、息子の小学校PTAの講演集が回覧されてそれを一瞥したことがある。その胡散臭さに辟易しただけである。醜聞が立って芸能活動をやめ、「長野県民への恩返し」などと称して、案の定、自民党から立候補するのである。信濃毎日新聞のインタビュー記事(18日三面)を見ると、やはり自民党の政策フォーマットをなぞっているのである。過去と未来を何も直視していないと思われるのである。対する立憲の候補は、TBS記者出身で主張は明確である(が、誤りも多い)。両者とも県外出身者である(県知事や長野市長も)。県外人士しかいないのか、と情けなく思うのだが、県外者を有り難く思う気風になってしまい、大抵の若者が主に都市圏に出てしまうこともあって(約8割?)、期待したい地元人士が存在するにも拘らず登用させる県民性ではないようである。もう一人、維新からも立候補している者がいるが、新自由主義の自民党別動隊だから埒外である。惨憺たる大阪府政を顧慮すれば勘案するべきもない(自民党に入党し、支持者を偽って政党を渡り歩いた衆議院議員もいたのである)。信毎記者は、参院選県区で続いてきた事実上の「与野党1対1」の対決構図が崩れたなどと呑気に設問しているが、今後3年間は国政選挙はないのだから、ある意味では戦後の分岐点となると予想される。しかしながら、軍事的にも経済的にも、あらゆる分野において画一化、一様化、狭窄化、空洞化、全体主義化、アウトソーシング化の時代の趨勢は基本的に変わることはないだろう。都市と国家の愚劣化は止まることを知らず、地方に波及しているからである(自民党の牙城になっている地方選挙区さえあるのは惨めの極みとしか思われない)。
 遅い米作は漸く代掻きにこぎつける。田植えが終われば半作である。休日農業は一昨年同様である。これからの盛夏には、額に汗をかいて踏ん張らねばならぬ。しばらく気が休まることがないが、身体を労いつつ励むことになる。

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2022年5月23日 (月)

『イワンの馬鹿』より

05177190  今では、ニュース報道以外テレビから離脱して(テレビ好きだっだのだが・・・)、夕餉を済ますとゆるりと過ごすことが多くなっている。相も変わらず、無為なバラエティー番組が専横して、芸no人や軍事評論家、KO大を始めとする首都圏のニセ学者などが跋扈しているのである。一瞥すると、当の本人たち自身が「ちむどんどん」しているようには思えない。国家機能が集中する都市の腐敗は目が当てられないのである。国会議員の殆どは、後先を見ずに、ゼレンスキーのオンライン演説に狂喜して、参戦を表明している有様である。また、G7首脳会議の報道を眺めると、思わず噴飯してしまったのである。世界の権力者どもの、追随する姿を見て、むしろ憐憫さえ覚えてしまったからである。普通の喧嘩や仲裁でも、こんな事態は考えられない。まるでヤクザの争闘さながらである。欧米各国はキリスト教国を標榜しているのだが、そのキリスト信仰に疑義を抱いてしまうのである。このことは、世界的なキリスト教離れという趨勢も関係が深い。世俗化である。その典型的な例があの帝国主義国家である。政教一致の大国である。そのことは、重々承知しておかなければならないのである。そこでつい想起したのが、トルストイの『イワンの馬鹿』である。
 文学的名声を獲得したトルストイは、その集大成として回心後に執筆したのが『イワンの馬鹿』である。彼のキリスト教博愛主義(トルストイ思想)が展開する民話である。三人の兄弟は小悪魔によって兄弟の仲違いを狙うが、イワンの馬鹿によって退治されてしまうのである。そこで、「頭を使って儲けること」を唱道する大悪魔が登場してイワンを試すのだが、これまた成敗されてしまう話である。長兄の王国は軍事独裁国家として、次兄の王国は金融資本国家として破産するが、他方、大悪魔の策略にも拘らず、イワンの王国は大悪魔を一蹴してしまうのである。汗を流して働かない者は他人の食べ物の残りものしか食べられない、という国の掟による結末である。ウクライナ戦争を念頭に置けば、『イワンの馬鹿』の理解が格段に進むであろうし、現況に符合している。現在、某国の大統領が新太平洋圏構想(IPEF)を引っ提げて訪日しているが、共々、愚者どもの狂宴としか思えない。と言うのは、両者とも、ゆくゆくは衰退・没落する国家だからである。
  

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2022年4月10日 (日)

天皇制とキリスト信仰

33943009  この著書は様々な刺激的問題を投げかけてくれている。著者は、宗教と戦争との関連をも考察している。それは、「戦争とはつねに文化の発露であり、またしばしば文化形態の決定要因、さらにはある種の社会では文化そのものなのである」(p79)というキーガンの戦史論に影響を受けているのであろうが、考えてみれば、いつまでもクラウゼヴィッツの古い戦争観に囚われているのもおかしいのである。現今のウクライナ戦争においても、確かにプーチン・ロシアの侵攻と虐殺は許されることではないが、経済的制裁と武器供与をする西側NATOの所業はどうなのか。「欲望に基づく『侵略』よりも、善意や正義感に基づく『防衛』の方が凶暴なのだ」(p79)という言辞もある。戦争に軍人も民間人もへったくれもないことは、沖縄戦が明確に教えてくれている。大空襲や原爆を落として民間人を大量に殺戮した国の二枚舌(duplicity,double standard)はどうなのか、と疑義を覚えるのである。プーチンだけでなく世界の権力者とて同罪であり、どいつもこいつも調停や停戦に向けて外交的に失敗(もしくは放棄や加担)しているのである。国民国家時代のままの旧態依然としているのである。政治的・外交的無能と人間的な邪悪を持った性悪連中なのである。かてて加えて、グローバル主義者と新自由主義者どもは、ファシストを使嗾して世界と地球と民衆を混迷と破滅に誘導させているのである。まさしく、パンデミックとショック・ドクトリンである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。平和派はごく少数だったのである。
 さて、キリスト教が日本において人口比1%にも満たない理由とは何かはこの書籍のテーマの一つであるが、著者は安直に結論を急ぐことなく読者に様々な要因を提示している点で好感が持てる。そしてその提起の一つとしてティリッヒの宗教論を援用している。「何かを真理であると信じ込むこと、思い込むこと、鵜呑みにすることが信仰なのではなく、自らの存在の意味について『究極的な関心』(ultimate conncern)を抱き、またそうした関心事に捉えられ支えられていることが信仰だとされるのである」(p275)という宗教観である。そのキーワードは「懐疑」である。懐疑は信仰を創造させるのである。それは量義治先生に教示された「無信仰の信仰」とも相通じるものである。さらに、日本にキリスト教が普及しない理由は様々あれど、もう一つの核心的理由は、地政的にも歴史的にも民俗的にも、あらゆる意味において、天皇制であると指摘しておかなければならないのである。
 ※クリスチャンである友人の指摘があり、量先生の信仰と思索(生きざま)を棄損させるものである故、「不信仰の信仰」を「無信仰の信仰」と訂正させて頂きました。認識の過誤がありましたことをお詫びします。

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2022年3月11日 (金)

誰が利益を得ているのか?

34196725  危機の時代にあって、新型コロナウィルスに続いてウクライナ問題である。大事なのは、一体誰が利益を得ているか、を見極めることである。巷間では、プーチン悪玉説がワクチン同様に猖獗を極めているが、彼とロシアは術中に嵌っているのであると思う。アメリカとNATO諸国のみならず、中立国もまた経済制裁と武器供与に関与しているのが現実である。更に、西側からの情報にあふれ、マスコミのみならずSNSを媒介して嫌という程映像を見せ付けられ、戦争屋たちが世界中から義勇軍として参加したり、影響下にあるものたちが募金などの支援をしているのである。この演出がどのようにされているのかを、もう一度顧みる必要がある。確かにロシアの侵攻と殺戮は断じて許されることではない。しかしながら、プーチンは我慢に我慢を重ねたと主張している。プーチンの殺害や賞金まで取り出されているのは異常である。ウクライナへのアメリカ大統領=バイデンによる利害関係も噂されている。ウクライナ大統領のゼレンスキーは、愛国主義を掲げて国民の動員を強制し、欧米の支援や民族主義者との連携にシフトしているように見える。以上のように考慮すると、プーチン・ロシアと対峙しているものが見えてくるのではないか。
 中国などの国は及び腰になっている。日本政府は早速軍事装備を支援して参戦している。しかも民間では戦争募金まで開始しているのである。マスメディアはゼレンスキーとその同調者を英雄のようにウンコ情報を伝えている。マルクス・ガブリエルはインタビューの中で、現代はポスト・トュルース(post truth)の時代であって(『資本主義と危機』p12)、「資本主義とは、本質的に錯覚を作り出すシステムである」(p3)と語っている。彼の見解によれば、資本主義の政治形態がショーになるのは本質であり、必然なのである。このように考えると、このショーを演出する者は誰なのかが見えてくるだろう。プーチンもゼレンスキーも、それに各国首脳も出演者と考えることができる。出演者はそれだけではない。演出家が出演者を使嗾してショーが演じられているのである。コロナ禍でもそのショーが見られたような気がする。ワールドワイドな現代にあって、人々が一層警戒心と、長けたメディアリテラシーをもって生きなければならないことは、誠にもってトホホなのである。

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2021年11月 8日 (月)

異文化交流の重要性

31938451  大阪でボール盤工をしていた頃、昼休みの休憩時に会社の建物に凭れて日向ぼっこをしていた処、一人の同僚が声をかけてきた。大柄で小太り体形で柔和な顔をした中年男性である。満州(中国東北部)の話題となって、耳を傾けたのである。どうやら満州からの引き揚げ体験があるようである。「満州は広いで。首から種箱をぶら下げて箱の両側を両手で叩いて下から種が落ちて種蒔きするんやが、ひと畝一時間かかるんや。返って二時間や。そりゃあ、しんどかったな。そない広いんやで」と満州の体験を披露したのである。多分、開拓団の息子か青少年義勇軍の引き揚げ者だったのだろう。辛酸も感じられない口調で、むしろ懐かしんでいる話しぶりである。
 この書籍を読もうと思ったのは、12年前にテレビドラマ「遙かなる絆」で感動したことが契機だったが、当時、図書館で借用しようとしたが、予約者が多く断念したものである。まだ東北大震災前のことで、「絆」という言葉が人口に膾炙する以前の事である。満蒙開拓の歴史を調べている今、その男性との会話を再度思い起こしつつ、読み始めたのである。
 1945年(昭和20年)の敗戦時の中国東北部(満州)には、155万人の日本人が存在していたそうである。動機はどうであれ、国策も手伝って人々は満州へと続々と移住したのである。自分の家に残っている写真にも親族の一人が写っており、母は「満州へ行ってどうなったか分からない」とポツリと口にしたことがある(祖父は代わりに北海道開拓に赴いたのである)。この著書を読了しての感想には二つある。一つは戦争の風化である。「戦後」とは、「ひたすら戦争を忘れようとする『戦後』でもあったのではないだろうか・・・『忘れてしまった』ことすら忘れつつある世界を眼の前にしているようだ」(p450)と著者は述べている。第二に、「嫌韓嫌中」という悍(おぞ)ましい言葉である。80年代後半以降の経済的繁栄から経済的閉塞への「失われた30年」の継続は、右翼的常態化を促進している。自国中心観(ナショナリズム)ほど危険なものはない。米中対立という潮流の中でも、「中国に行けば、きっと考え方が変わるぞ」(p230)、「中国に行けば、人生観が変わるかもしれないよ」(p402)という帰還した父(孫玉福)の助言は生きている。国家が違えども、人々の異文化交流が大切であることを、この書物は教えてくれるのである。

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2021年11月 1日 (月)

災害・人災列島へ

A3f06de50a2edcba0b646a4264ff052b0c1a5b29  衆議院選挙は投開票されて、ほぼ与党・維新・国民は勝利して野党勢力は敗北した(345:110)。これは予想されたことであり、厳然とした事実であり、選挙制度を変えない限り、死票が多く、自分の投票もまた、ほぼ死票となったのである。たった3割の与党支持勢力が4分の3を占有したことになる。社会の中心が30代から50代の働き盛りが占め、1980年代後半からの右傾化が、より拍車をかける結果となるだろう。そして、あと20年から30年程は戦争派が時代の潮流となるのである。維新の躍進はその兆候でもある。大阪は戦前から一貫として砲兵工廠を擁する軍都であり(帝都東京より)、大日本国防婦人会の発祥地という歴史的事実である。「維新功成りて大阪枯る」である。今後、「失われた30年」は続いて、左翼・リベラル側は「冬の時代」となって、マスコミを利用して非難の総攻撃を受けることになる。また、この選挙の特徴は行政と経済界と、とりわけてマスコミの勝利でもある(マスコミは誠に罪深い)。岸田首相の次の内閣は高市の自・公・維政権となって改憲と軍拡に励むことと予想される。着々と戦争派が議会を占拠してゆくのである。靖国派と学会派と新自由主義政策派との合従連衡の政権である。想像するだに恐ろしいと言わなければならない。90歳代の戦争経験者が次々と逝去され、学校現場でも平和教育を推進する現職教員が次々と退職されているのである。同じ道を進むのか。日清・日露戦争時には、9割以上の支持があって、「臥薪嘗胆」と「暴支膺懲」(この言葉は辞書群より消去されている)というスローガンが軍部とジャーナリズムによって叫ばれて浸透したのである。日本の選択は極限的に狭められているのである。どうか、災害列島が更なる焼け野原にならないように祈るのみである。

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2021年10月27日 (水)

『海と毒薬』

32574388  今夏、偶然に『しかたがなかったと言うてはいかんのです』を視聴した。九州大学生体解剖事件に関連して人間の罪と罰を遡及するドラマであった。自省をしない戦中派がよく口にした「しかたがなかった」という言葉とは魔法の言葉であり、責任を放棄した言葉である。現在においても自民党や公明党の広報では、自分たちが政権を担って日本を破滅してきた責任すら放棄して、「新しい時代を皆さんとともに。」「日本再生へ新たな挑戦。」と臆面もなくスローガンを掲げる始末の悪さに呆れてしまうのである。3割程度の残党の戦争派が存在する限り、総選挙の結果は予想がつくと言わねばならない。無党派層の覚醒と投票行動に期待するしかないのである。
 そのドラマを契機として、いち早くその事件を取り上げた遠藤周作の『海と毒薬』(実際は『遠藤周作文学全集』1の読書であり引用である)を読み込んだのである。それに絡んで大学教養部での単位取得のためのフランス文学講座を想い出す。教養部の片隅の教室でたった二人の学生を相手にしたカトリック教徒の教授を想い出す。モーリヤックベルナノスなどの小説を手掛かりとして、学生に発表させてフランス文学を研究する講座であった。モーリアックは、厳格なカトリック教徒として執拗に人間の内面を暴露して神の無い人間の悲惨を追究した作家であるが、二人の学生は遠藤周作に20年遅れで次から次へとモーリヤックの小説を耽読したのである。遠藤は、勝呂医師をして、「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない」(p102)と独白させている。また、生体解剖に加わった戸田医師にも、「やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ」(p157)と心中を告白させている。遠藤は、登場人物のガソリンスタンドの主人にも、「中支に行った頃は面白かったなあ。女でもやり放題だからな。抵抗する奴がいれば・・・突撃の練習さ・・・シナに行った連中は大てい一人や二人は殺(や)ってるよ」(p95)と表白させてもいる。どの人物にも毒薬を含まれ(含ませ)ているのである。私的な感想を言えば、日本人にある例の制度は、日本人の特性として終始一貫して醸成されていて、日本の通史としてキリスト教の普及を阻んでいるのではないかと思っている。

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