文化・芸術

2023年9月 5日 (火)

自己を裁断できるか

41qtxgujcwl__sx373_bo1204203200_  休日の一日、午前は読書していたのだが、部屋の温度は、冷房なしで30度を超していて汗だくであった。やむなく昼食後は午睡に突入して、爆睡状態が続く。体力が落ちたものだ。
 櫻本の『日の丸は見ていた』では、日本本土の初空襲によって殉職した少国民をめぐる記述から始まり、詩人(文学者)の責任追及と乳・幼児集団疎開まで展開される。特に目を引いたのが文学者の羅列であった。前回のブログ記事以外にも、武者小路実篤、野口雨情、草野心平、サトウハチロー、高浜虚子、佐々木信綱、室生犀星、中村草田男、土屋文明、村岡花子、金子光晴、石坂洋次郎、佐藤春夫、亀井勝一郎、柳田國男、小林秀雄、清水幾太郎、三木清、吉川英治、久松潜一、三好達治などが列挙される。これらの著名文化人は、私の小・中・高の国語教科書でも標準的に学んだ文学者であり、戦時中の彼らの著述を探索すると、ゾッとする感慨である。久松潜一など、彼の角川書店の国語辞典を長年愛用していたものである(旧仮名遣いが併記されていて至便だった)。1960年代は、今から考えると、戦後20年程で明治・大正生まれの人々が存命であって、戦争の感覚はまだ人々の日常にあったのである。実際、幼少期の自分は、炬燵で寝ころびながら「のらくろ」の戦争漫画を楽しみ、「戦友」のテレビ番組を興味津々に視聴し、戦艦武蔵のプラモデルを製作して兄の月刊『丸』を盗み読みをしていたのである。人々は生きるのに必死の思いの時代であったが、幼少の自分は牧歌的に育っていたのである。
 ところで、戦時中の櫻本少年は、他の「少国民」同様に、立派な皇国少年だったのである。小学四年に『朝日新聞』長野版(1943年、昭和18年)に、「山本元帥をしのんで」という愛国作文が掲載されたとの事である。「当時はそんな時代だった」という言い訳は、多少は理解できるが(恐らく、自分もまた皇国少年になっていたことだろう)、それをもって被害者面をして居直ることは罪悪なのである。櫻本はさらに、「問われなければならないことは、そのような戦後を黙認した私たちの責任である」(p225)と裁断している。彼は健在であり、その問題をライフワークとしているようである。動画(家永三郎が最後の方で登場する)もブログもある。

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2019年12月29日 (日)

長塚節の真髄

33056594  「ポツンと一軒家」というテレビ番組が好調のようで、そういう自分も欠かさず毎週番組を待っている。理由は沢山ある。一つは、キー局が垂れ流す番組が大半を占有し、ジャニタレや吉本芸人などが鬱陶しい(キモい)からである。そればかりでなく、バラエティなどで彼らに忖度する俳優・タレントが多くて毎度辟易する。テレビっ子であった自分には、同じようなクイズやグルメ、駄弁などが煩わしい。東京中心と芸能人の内輪話が貧弱で、全く興味が湧かない。東京バイアスが罹っていて、つまらないのである。これは、自分が地方暮らしをしているばかりか、加齢して死期を迎える世代になった所為なのかもしれない。しかしながら、地方の人と自然は限りなく多様であり、教訓に満ちていることが知られ始めているということでもあると思う。「ポツンと一軒家」の番組プロデューサーは、その人気の理由を「予定不調和」に求めているが、そういう興味本位で番組が構成されていることに視聴者の関心があるのではない。里山に抱かれる地方の豊かさとその地域社会に生きている人間の生き方を羨望しているのである。東京には都合2年居住したことがあるが、至便であるがただそれだけである。日本は単一な東京がある訳でなく、地方に出かければそこに(半)自然があり、人がいるのである。だから、その番組への自分の興味は、映像に映り込む植生や家屋様式や人間模様などに注視している。所や林の話が冗長でないのもいい。
 直近の読書は、全集での長塚節の「土」であった。漱石の序文があり、農民文学の嚆矢としてこの作品は後世に遺されたのである。漱石は、軽佻浮薄で何も考えない若者に対して「苦しいから読め」と勧め、自分の娘が年頃になれば、「読ましたいと思って居る」と書き留めている。一般の読者には、北関東の方言の難解さにとどまらず、「土」にあるつぶさな自然描写は苦役に他ならない。例えば、「初冬の梢に慌しく渡つてそれから暫く騒いだ儘其の後は礑と忘れて居て稀に思い出したやうに枯木の枝を泣かせた西風が、雑木林の梢に白く連なつて居る西の遠い山々の彼方に横臥て居たのが俄に自分の威力を逞しくすべき冬の季節が自分を捨てゝ去つたのに気が付いて、吹くだけ吹かねば止められない其の特性を発揮して毎日其の特有な力が軽鬆な土を空に捲いた。」(全集第1巻、p366)という、正岡子規の写実主義を正当に継承する彼の風景描写に、かなり読む進んだ読者はもう一度その苦しさの故に通読を逡巡してしまうだろう。しかしながら、ただ写生しているのではなく、ストーリーは思いがけなく、答えのない転機が訪れるのである。ここに長塚の小説の真髄が現象しているのである。若い頃、茂吉の「万葉秀歌」に親しんだことがあったが、彼の「実相観入」による短歌にも感心したのであるが、多分、茂吉もまた長塚節を最大評価していると想像される(但し、茂吉はまた戦争協力の短歌を創作していることを覚えていてもよい)。そして、今は自然の中で逞しく生存する雑草に関する参考書を読み耽っている年末である。

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2016年10月20日 (木)

『君の名は。』と方言

32993572  言葉を拾っていくと、方言は無限にあるのだが、ある程度のことで妥協して出版するしかない。それが、この辞典である。確かに使用されていた方言が、いつの間にか衰退してしまっていることが多々ある。ましてや、テレビやスマホによって、共通語が幅を利かせている状況では、方言はいつかは衰滅する運命にあるのかも知れない。文化(cultura)が農業や労働(colere 耕す)から切り離されて文明(civilizatio)化するにしたがって、「人間の養殖場」である都会(civitas)中心の文明が、地方に浸潤して多様性を喪失させ、単一化する。それを近代化というのなら、そんな近代化は要らないと言わなければならない。映画や演劇や音楽などが一様に不振なのは理由があるのである。子供の頃には、「ひょっこりひょうたん島」や「モスラ対ゴジラ」などがあり、炬燵で「少年画報」や週刊漫画雑誌を愉しんでいたものであったが、今では、テレビとスマホが席巻して、少年少女総体を愉悦させる番組や話題が皆無である。制作側の人間や芸能人の器量が拙陋になっている所為もある。笑えないし、愉しくもない。俳優がバラエティ番組に出演し、番宣して自己満足しているだけでなく、肝心のドラマのストーリーが興ざめである。『君の名は。』は、男女の身体が入れ替わるという設定からして、とりかえばや物語からの焼き直し(最近では『転校生』)であり、ファンタジーに逃げるという方法も今様である。しかしながら、進化していることもある。アニメの美しい精緻な作画であり、楽曲とのマッチであり、秘匿されたサブテーマである。終局の余韻といい、ヒット作となることは間違いなかったのである。興行のための映画という側面は致し方ないことだと思う。『君の名は。』を鑑賞した息子が、感動したのかどうかは知らないが、顔見知りの中年女性には不評であった。おそらく、そのご婦人は理解不能であったことだろう。ちなみに、新海誠監督は厳しい自然が当たり前の県内出身者である。コツコツと努力する人柄と見た。

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2016年9月16日 (金)

ボケている

2016091511580004 すっかり水を落とし(というか、用水路には水はなし)、収穫も目前である。畦草を踏んで行くと、イナゴがピョンピョンと跳ねて逃げ隠れする。稲の葉はかなり喰われている。遠い昔、イナゴの佃煮を口にしたことがあるが、今では細々と信州土産の一つとして販売されているに過ぎない(というか、売れるのかしら)。昆虫食は嫌われていますが、生命をいただくという意味では、甲殻類や生魚を食するのと大略同じである。ただ、見た目が異様なため、ゲテモノ食いとされているにすぎない。戦前の食糧不足の時代には、当たり前だったのである。味はむしろ格別なのであって、ちなみに私は、甲殻類のカニ・エビとマグロは自分からは食べない。高価なものが必ずしも旨いという訳ではないのである。野菜や果物にしても、消費者はその本来の味が分かっていないし、その土地の旬のものを知らない。大阪在住の頃は、リンゴを味わったことがない。「ボケている」からである。
Photo 手元に、NHKの大学講座『上方芸能 笑いの放送史』が残っている。1994年の放送であり、発売のテキストである(画像右)。上方の芸能史ではなく、漫才に限られた放送史である。芸能業界では中央集権が進み、ジャニーズ事務所と吉本興業が席巻している。それは同時に、それ以外の興行主が排斥されて、似たような芸人とタレントばかりで、さも偉そうにしているだけで、本当の笑いとは乖離している。何も面白みが感じられない。何故たけしを面白がって起用するのか皆目見当がつかない。否、分かり切っている。よしもと漫才芸人はオール阪神・巨人で終わったのであり、ダウンタウン、爆笑問題、しちゅーの笑いは毫も笑えない。何故面白くないかは鮮明である。面白くないから面白くないのである。しょーもないからである。彼らは業界のセンターになって笑いの牙を捥がれているのである。そのためには、業界のルールを守らなければならないのであり、笑いの対象を自分ではなく、弱い人(若い女性と子供)に向けている。もう一つ、吉本興業(に限った事ではないが)は必ず時代に竿をさしてゆく。上記の本(の第四回)にも叙述されているように、お笑い慰問団「わらわし隊」によって、積極的に国策に協力したのである。「漫才が大阪で、世間一般から娯楽としての地位を認められた最初のけっかけは、昭和七年(ママ)の満州事件である」(p49)と。ラジオと慰問団という戦略によって吉本は興隆し、上方落語との怨讐の対立に決着が付いたのであるが、それ以降、上方落語は低迷し、独自の寄席を持てたのは、何と60年以上の経緯を要したのである。それとて、吉本興業の息がかかっているのである。大阪見物には、天満宮参拝(息子の七五三はここでした)から繁昌亭へ、更に天神橋商店街のそぞろ歩きコース、できれば彦八まつり(一年に一回)に足を運ぶと、直に上方落語を堪能できるというものだが、多くの人には知られていない。大阪の笑いは、あくまでも、「泣き笑い」であり、「ぼやき」の笑いである。さて、テレビ番組に出てくる人気お笑い芸人は、どうだろうか。まさしく、右翼的時代風潮を反映している(ボケている)のであって、だから、少しも笑えないのである。

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