自己を裁断できるか
休日の一日、午前は読書していたのだが、部屋の温度は、冷房なしで30度を超していて汗だくであった。やむなく昼食後は午睡に突入して、爆睡状態が続く。体力が落ちたものだ。
櫻本の『日の丸は見ていた』では、日本本土の初空襲によって殉職した少国民をめぐる記述から始まり、詩人(文学者)の責任追及と乳・幼児集団疎開まで展開される。特に目を引いたのが文学者の羅列であった。前回のブログ記事以外にも、武者小路実篤、野口雨情、草野心平、サトウハチロー、高浜虚子、佐々木信綱、室生犀星、中村草田男、土屋文明、村岡花子、金子光晴、石坂洋次郎、佐藤春夫、亀井勝一郎、柳田國男、小林秀雄、清水幾太郎、三木清、吉川英治、久松潜一、三好達治などが列挙される。これらの著名文化人は、私の小・中・高の国語教科書でも標準的に学んだ文学者であり、戦時中の彼らの著述を探索すると、ゾッとする感慨である。久松潜一など、彼の角川書店の国語辞典を長年愛用していたものである(旧仮名遣いが併記されていて至便だった)。1960年代は、今から考えると、戦後20年程で明治・大正生まれの人々が存命であって、戦争の感覚はまだ人々の日常にあったのである。実際、幼少期の自分は、炬燵で寝ころびながら「のらくろ」の戦争漫画を楽しみ、「戦友」のテレビ番組を興味津々に視聴し、戦艦武蔵のプラモデルを製作して兄の月刊『丸』を盗み読みをしていたのである。人々は生きるのに必死の思いの時代であったが、幼少の自分は牧歌的に育っていたのである。
ところで、戦時中の櫻本少年は、他の「少国民」同様に、立派な皇国少年だったのである。小学四年に『朝日新聞』長野版(1943年、昭和18年)に、「山本元帥をしのんで」という愛国作文が掲載されたとの事である。「当時はそんな時代だった」という言い訳は、多少は理解できるが(恐らく、自分もまた皇国少年になっていたことだろう)、それをもって被害者面をして居直ることは罪悪なのである。櫻本はさらに、「問われなければならないことは、そのような戦後を黙認した私たちの責任である」(p225)と裁断している。彼は健在であり、その問題をライフワークとしているようである。動画(家永三郎が最後の方で登場する)もブログもある。
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