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2024年2月16日 (金)

ポロポロ

71aepucrcql_sl1500_ どこで田中小実昌を知ったのか覚えていない。戦争関連の著作を読み耽っている過程で知ったと考えられるので、とりあえず手にしてみたのである。タイトルの『ポロポロ』は、劈頭を飾っている小説というか、私小説である。但し、少年時代にテレビで、禿頭の彼を何度も視たことがある。戦後二十年前後で、世情はまだ戦争の名残があった時代である。明治・大正生まれの人々が健在であり、彼らの生態を直接触れることができたのである。戦後高度経済成長の端緒の時代であり、激動の時代に生きた人々の生き様を直に接触する最後の世代となってしまったのである。この時代は特変する人士が排出する時代であり、現今の気を遣う世代とは全く異なる。個人の体験でも、酔漢の大工が暴れて隣家が仲裁に入ったり、お互いに貧乏でお金の融通やお裾分けをしたりするのが当り前の時代であり、人々がお互いを補い合う共同体がまだ存在していたのである。戦争はここまで影響を与えていたのである。田中のような人間もまた容認する社会だったのである。彼はバプテスト系独立キリスト教会の牧師の息子である。19歳の時に、初年兵として中国大陸での戦争を幾多体験している。
 「異言」とは、広辞苑的には、新約聖書の「使徒行伝」などに記されているように、「(キリスト教で)聖霊に満たされた人が語る理解不可能なことば」(γλῶσσα )である。本義は外国語であるが、パウロは異言の誤用を戒めている。後代、異言は神の賜物として広義として多用され始めて誤解されてもいるのである。田中小実昌は、青少年期に父などの「ポロポロ」を日常的に接して育っている。彼は、「苦しみながら祈っているときに、父はポロポロが始まった」(p30)と語り、祈りを突きぬけて、「非理性的なみにくさに、おそれ、おののき、不安になったのではないか。」(p31)と描いている。ここに言葉の問題が現出する。「言葉は、自分の思いをのべることしかできない」(p13)のである。「ボカーンとぶちくだかれたとき、ポロポロははじまる」(p15)と換言してもいる。ヨブが神に要求する自分(人間の物語性、p169~170)を打ち砕かれたように、「祈りの言葉を失ってるのにも気がつき、失った言葉をとりかえそうとする(時に)口からでるのはポロポロばかり」(p31)なのである。彼にとっての「ポロポロ」とは、祈りを突き抜けた呻きであり、神の賛美だったのである。それは、「クリスチャンはクリスチャンでいいではないか。・・・ただのクリスチャンではいけないのか。」(p29)という表明に如実に示されているのである。

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