批判と変革の哲学
そしてプラトンである。京都大学の哲学科の西洋古代哲学史専修(西田幾多郎を始めとする純粋哲学、いわゆる純哲=哲学専修とは異なり、多少の確執があったと思う)は、一時期(今でも?)「プラトニストにあらずんば(西洋古代)哲学徒にあらず」という学風であった。この経緯は、動画「おこしやす!西洋古典叢書 イントラダクション」で國方栄二(以下敬称略)が言及している。田中美知太郎に続く藤沢令夫、そして中畑正志。今や研究陣が系統的に継続的に出揃っていると言えるだろう。だからの故の西洋古典叢書である。以前、中畑氏の著述についてブログ投稿したので、念願の『はじめてのプラトン』を、繁忙の中で遅々として進まず、漸く読了ができたのである。
彼のスタンスは、ご教説を甘受することではなく、「プラトンの著作を読む目的は、ただプラトンを正確に解釈することではない。・・・問いを発し、考えることこそプラトンが望んだことである」(p42)に尽きる。その意味では、プラトンはソクラテスの対話を中心に記述して、常に挑戦的なのである。先ず、「ソクラテス問題」である。それは、ソクラテス自身の著作がなく、周囲の人々がソクラテスについて論じていて、どこまでがソクラテスの思想と実像なのかが不明という問題である。それに、大半のプラトンの著作はソクラテスを主人公にした『対話篇』であり、その境界が不明という問題もある(イエスとパウロとの関係に相似しているだろうか)。しかしながら、プラトンは師の哲学を継承して、「それを理論的に深化させ、他方で社会的な実践のかたちへと展開した」(p72、p121、 ソクラテスープラトンの哲学宣言)のである。「魂への配慮」と「知と真理への配慮」となって、魂の比喩とイデア論に結実しているのである。これらはよく誤解されるデカルト的「身心二元論」ではなく、交錯してプラトンの哲学となっているのである。彼がプラトンの哲学を「批判と変革の哲学」(p4)として規定するこの新書は、一貫しているのである。後半の終わりに、人間の営みの全体への批判と変革の哲学であるとの繰り返しの強調は、「彼のプラトン」を如実に指示していると思われる。
今春、定年退職された彼には、①文献学的に、アリストテレス全集『形而上学』翻訳(未刊)とその成果が期待される。②プラトン哲学を政治的に誤解釈するゲルマン(親ナチス的)勢力とアメリカン(ネオコン的)勢力(両者とも歴史性の欠如、p235)への批判を徹底してもらいたいものである。この混迷した時代の中では、緊要な課題と思って彼に期待しているのである。
| 固定リンク | 0
« 人類の試練 | トップページ | 究極の災害・人災 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- インターネット文明の理非(2025.04.29)
- 資本主義つれづれ(2025.04.03)
- 残念な結論(2025.01.08)
- イデオロギーとプロパガンダ(2024.06.01)
- イデオロギーに抗する(2024.04.27)
「哲学・思想」カテゴリの記事
- 資本主義つれづれ(2025.04.03)
- 勘違いの生成AI(2025.02.05)
- 残念な結論(2025.01.08)
- 異常事態の進展(2024.07.10)
- イデオロギーに抗する(2024.04.27)
コメント