「新しい戦争責任」
酷暑である。清掃のおばちゃんが「昔は30度を超すことは滅多になかったのに、今は35度が当たり前になって弱ったもんだ」とタオルで汗を拭っていた。実際、蝉の鳴き声は少ない。野菜や果物の生育が不順である。物価とガソリン価格の高騰する中、政府は原発汚染水放出やミサイル共同開発を国会の審議もなく専断している事態なのである。戦争の足音がひたひたと聞こえ始めているのである。
家永三郎は、その著書の中で「元来日本人には理想なく強きものに従ひ其日々々気楽に送ることを第一とするなり。・・・斯くして日本の国家は滅亡するなるべし」(p285)という永井荷風の日記を取り上げている。戦後の国語教科書でも、北原白秋、高村光太郎、与謝野晶子、斎藤茂吉、釈迢空(折口信夫)等の詩歌で彩られている。絵画や音楽の世界においても同様で、戦争責任など毫も触れられていない。後年それを知って、なあんだと呆れかえって失望したものである。戦争責任は戦後一貫として追及されていないのである。戦犯が日本の首相になり、靖国神社に合祀されて崇拝されるという無責任なのである。家永は戦争責任論を展開する過程で、同時に教科書裁判をも闘った自由主義者である。注目すべきは、戦後世代は戦前世代の生理的・社会的遺産を相続している訳だから、戦前世代の行為から生じた戦争責任を自動的に相続している(p309)という家永の持論である。敗戦から80年弱となって戦争体験者は鬼籍に入り、二世・三世の政治屋の政権による戦争国家化が加速しているのである。
第二に、家永の戦争責任論は、「自虐史観」という俗論とは異なって、アメリカや旧ソ連の連合諸国の戦争責任をも論じているのである。日本国内に未だに米軍基地があり、アメリカの核の支配下にあって空域もまた米軍に占有されているのである。治外法権が当然視されて独立国とは言えないのである。米大統領が米軍基地から出入国することからも、アメリカの属国とみても間違いない。このことこそ「自虐」なのである。アメリカの世界支配戦略に追随していることは、「新しい戦争責任」をも現出することになるのである。それでなくとも、日本の特異的な経済的発展は、朝鮮戦争とベトナム戦争によって支えられていたのである。
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