戦争(敗戦)を忘れる時代
田植えと補植・植え直しも終了して、後は水管理と除草である。半作である。半農半Xと出来る限りの無農薬・無化学肥料・草生栽培の試みは進捗しているが、これがなかなか野菜や稲の苗が上手く育つとは限らないので、草勢を調整しながらのぐうたら農法である。先日は、隣の畑のおじさんに「そんな草だらけでは無理だ」とダメ出しされたが、慣行農法に翻意するつもりは全くない。なぜなら、カネはないし手間もなく、SDGsの(人間の開発目標という)観点からでもなく、唯々自然環境に悪いからである。しかしながら、この農法は、強制的ではないため、実りの不揃いや虫害が出やすいのがデメリットである。これは土壌の開墾とコンパニオンプランツなどで対処する他はない。
この本を繙読しての感想は、敗戦によって揃って「ほっとした」という感慨が多いことである(p74、90、159)。これは解釈が必要である。皇民化教育の中での侵略戦争遂行が終了したために、安堵の気持ちは理解できるが、ことはそれで終わらないのである。侵略された側は解放の歓喜な気持ちであることや、戦争が終了したための安堵の気持ちは即自的には理解できるが、事態を対自化する必要があったのである。終了したのではなく、日本国と日本人は負けたのであるという根本的反省が必要なのである。そうでなければ、自分は被害者であるという意識のままなのである。未だに「敗戦記念日」を「終戦記念日」などと欺瞞の中にあるのはその典型である。1980年代から始まった加害の歴史化が、1995年をピークに、新自由主義の潮流と共に第二の戦前へと傾斜が始まっているのである(『戦争体験刻む』p72、希少なことに、殺戮の証拠の生写真が掲載されて必読である)。先の本の中で一つ念頭に残ったのは、「安堵とか、戦争が終わって良かったというのは後からくっつける言葉なんです。」(p31、清川妙)という文章である。それは「終戦」という言葉に象徴されている。平和という言葉は、宗教思想の政治化に伴って、統一協会を始めとするカルト宗教も掲げているのである。現代は「戦争を忘れる時代」(p155、羽田澄子)であり、今以て伊丹万作の「国民(日本人)の奴隷根性」は健在であり、カルト宗教はそれに付け込んでいるのである。
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