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2022年5月 2日 (月)

『アウシュヴィッツは終わらない』

01084171 この選書を読む切っ掛けは、徐京植の『過ぎ去らない人々ー難民の世紀の墓碑銘』の一章であった。アウシュヴィッツ強制収容所と言えば、かの著名なフランクルの『夜と霧』が定番であるが、P.レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』(原題『これが人間か』SE QUESTO E' UN UOMO)を選択したのである。徐京植はレーヴィの稿の最後で、「レーヴィの自殺は、人類そのものの自殺過程を象徴してしているのだろうか」と問いを投げかけている。『夜と霧』では生き残るための心理学的方策を提起しているのだが(奇妙なことにビジネスの啓発本にもなっている)、レーヴィの記録はそれが目的ではない。彼は、①ファシズムは健在である、②自分の世代の過ちを明かすことこそ、若者を尊重することになる、ということを学生版の初めに示唆している(p.v)。フランクルとは方向が異なっているのである。
 先ず「選別」(Selekja)があった。役に立たない親、妻子、恋人たちなどはガス室行きとなったのである。残りの者たちはラーゲル(抹殺収容所=死の窓口)に入れられて、飢えと寒さと労働に明け暮れるのである。この時点で生存の「選別」がなされていることを覚えていてよい。まさしく抹殺なのであり、だから『アウシュヴィッツは終わらない』のである。このことは、人類の邪悪さ(罪)とレーヴィの自死とは無関係ではないと思われる。彼はこの叙述の中で、「直接経験したことだけを取り上げるようにした」(p232)と述べて、詳細で具体的にラーゲル内部の有り様を書き綴っているのである。生き残った者は「人間性を破壊」(p56、215)され、「希望を持つ習慣や、理性への信頼感が失われ」、「考えることは役に立たなく」(p214)なる。レーヴィでも、「いやすことのできない、いまわしい出来事(選別)・・・もし私が神だったら、クーンの祈りを地面に吐き捨ててやる」と憤激するのである(p159)。「未来など考えないこと」(p141)を強いられるのである。レーヴィが生き残ることができたのは全くの偶然なのである。偶々「選別」を免れたり、化学者であるために研究所抜擢もあり、ソ連軍の侵攻もあって解放されたのである。しかしながら、レーヴィのこの著書を熟読しておくことは、21世紀にも永続する戦争とは無縁ではない。ナショナリズムとグローバリズムが狂奔する現代において、どの国民国家においても想定されることなのである。無知や無罪を装う「この考え抜かれた意図的な怠慢こそが犯罪行為なのだ」(p226)とレーヴィは末尾で指弾しているが、日本が米英NATOに追随して参戦している事実は、到底無自覚ではいられないのである。

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