善悪二元論を超えて
次は『夜と霧』である。霜山訳の旧版以来の二読目である。新版の方は、より親しみやすい砕けた現代文となっていて、解説と資料写真が省かれているため、凄絶な経験と省察が希薄になっているような気がする。本を読む場合、読者側の主体的読み込みと現在(現代)との比較(客体化)が必要と思っている。さもなければ、単なる啓発本に墜してしまうのである。ウクライナ戦争においては、ほとんどの「国民」が善悪二元論に陥没しており、自分の手が人を殺戮して血で染まっていることにも無自覚なのである。日本人の中に戦争派が過半となって、(新)左翼でさえ、ロシアを糾弾しているばかりで、ウクライナ国旗を掲げてよしとしているという事態がまかり通っているのである(戦争翼賛)。実際には、ロシアの弱体化を狙った米(+英NATO諸国+日本の自・公政府)とロシアの戦争という真実を忘れたかのようである。両者が相手をファシスト・ナチと罵り合って世界戦争へと猛進しているのである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。
さて、肝心な『夜と霧』であるが、これは「一心理学者、強制収容所を体験する」(Ein Psychologe erlept das Konzentrationslager)という表題である。したがって、旧版のように、センセーショナルな歴史的告発本と扱われることは著者の本意ではないと、遠藤周作も石原吉郎も気付いていたようである。比べて新版の方は、著者の意図に沿った心理学(精神医学)的な新訳である。内容は世界的ベストセラーになっていることから詳述しないが、要するに、人間とは何か、人生の意味を問うているのである。だからこそ啓発本と受け止められるのである。しかしながら、主体的に告発本として読み込むことも可能である。だからこそ『アウシュヴィッツは終わらない』のである。フランクルは、とある箇所で「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」(p145)と解き明かしている。まともな戦争体験者は、生き残った負い目(罪悪感)を抱懐しながら、貝のように口を閉ざしているのである。それは恥辱の化石とも換言できるだろう。現今の戦争派のように、廉恥心のない怠慢な人々(多数派)は何度も過ちを繰り返すと思われるのである。
もう一つ明らかにしておかなければならないのは、フランクルの宗教観である。これを感得できなければ、『夜と霧』の真の読者と言えないのではないか。そのことは次回以降に明らかにしたい。
ちなみに、身近な図書館では、『告発戦後の特高官僚』、『現代史における戦争責任』、『血にコクリコの花咲けば』、『敗戦前日記』、『八月十五日日記』、『近代日本と朝鮮』、『手記ー私の戦争体験』など戦争関連本が大量に廃棄されているのが現実である。戦後77年は日本の侵略戦争を忘却する歴史と言わねばならないだろう。あるいは、歴史は別の形で繰り返すとも言えるだろう。このこともまた、人間の重要な一側面であることを剔出しておかなければならないのである。
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