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2022年5月

2022年5月23日 (月)

『イワンの馬鹿』より

05177190  今では、ニュース報道以外テレビから離脱して(テレビ好きだっだのだが・・・)、夕餉を済ますとゆるりと過ごすことが多くなっている。相も変わらず、無為なバラエティー番組が専横して、芸no人や軍事評論家、KO大を始めとする首都圏のニセ学者などが跋扈しているのである。一瞥すると、当の本人たち自身が「ちむどんどん」しているようには思えない。国家機能が集中する都市の腐敗は目が当てられないのである。国会議員の殆どは、後先を見ずに、ゼレンスキーのオンライン演説に狂喜して、参戦を表明している有様である。また、G7首脳会議の報道を眺めると、思わず噴飯してしまったのである。世界の権力者どもの、追随する姿を見て、むしろ憐憫さえ覚えてしまったからである。普通の喧嘩や仲裁でも、こんな事態は考えられない。まるでヤクザの争闘さながらである。欧米各国はキリスト教国を標榜しているのだが、そのキリスト信仰に疑義を抱いてしまうのである。このことは、世界的なキリスト教離れという趨勢も関係が深い。世俗化である。その典型的な例があの帝国主義国家である。政教一致の大国である。そのことは、重々承知しておかなければならないのである。そこでつい想起したのが、トルストイの『イワンの馬鹿』である。
 文学的名声を獲得したトルストイは、その集大成として回心後に執筆したのが『イワンの馬鹿』である。彼のキリスト教博愛主義(トルストイ思想)が展開する民話である。三人の兄弟は小悪魔によって兄弟の仲違いを狙うが、イワンの馬鹿によって退治されてしまうのである。そこで、「頭を使って儲けること」を唱道する大悪魔が登場してイワンを試すのだが、これまた成敗されてしまう話である。長兄の王国は軍事独裁国家として、次兄の王国は金融資本国家として破産するが、他方、大悪魔の策略にも拘らず、イワンの王国は大悪魔を一蹴してしまうのである。汗を流して働かない者は他人の食べ物の残りものしか食べられない、という国の掟による結末である。ウクライナ戦争を念頭に置けば、『イワンの馬鹿』の理解が格段に進むであろうし、現況に符合している。現在、某国の大統領が新太平洋圏構想(IPEF)を引っ提げて訪日しているが、共々、愚者どもの狂宴としか思えない。と言うのは、両者とも、ゆくゆくは衰退・没落する国家だからである。
  

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2022年5月10日 (火)

善悪二元論を超えて

31052042  次は『夜と霧』である。霜山訳の旧版以来の二読目である。新版の方は、より親しみやすい砕けた現代文となっていて、解説と資料写真が省かれているため、凄絶な経験と省察が希薄になっているような気がする。本を読む場合、読者側の主体的読み込みと現在(現代)との比較(客体化)が必要と思っている。さもなければ、単なる啓発本に墜してしまうのである。ウクライナ戦争においては、ほとんどの「国民」が善悪二元論に陥没しており、自分の手が人を殺戮して血で染まっていることにも無自覚なのである。日本人の中に戦争派が過半となって、(新)左翼でさえ、ロシアを糾弾しているばかりで、ウクライナ国旗を掲げてよしとしているという事態がまかり通っているのである(戦争翼賛)。実際には、ロシアの弱体化を狙った米(+英NATO諸国+日本の自・公政府)とロシアの戦争という真実を忘れたかのようである。両者が相手をファシスト・ナチと罵り合って世界戦争へと猛進しているのである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。
 さて、肝心な『夜と霧』であるが、これは「一心理学者、強制収容所を体験する」(Ein Psychologe erlept das Konzentrationslager)という表題である。したがって、旧版のように、センセーショナルな歴史的告発本と扱われることは著者の本意ではないと、遠藤周作石原吉郎も気付いていたようである。比べて新版の方は、著者の意図に沿った心理学(精神医学)的な新訳である。内容は世界的ベストセラーになっていることから詳述しないが、要するに、人間とは何か、人生の意味を問うているのである。だからこそ啓発本と受け止められるのである。しかしながら、主体的に告発本として読み込むことも可能である。だからこそ『アウシュヴィッツは終わらない』のである。フランクルは、とある箇所で「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」(p145)と解き明かしている。まともな戦争体験者は、生き残った負い目(罪悪感)を抱懐しながら、貝のように口を閉ざしているのである。それは恥辱の化石とも換言できるだろう。現今の戦争派のように、廉恥心のない怠慢な人々(多数派)は何度も過ちを繰り返すと思われるのである。
 もう一つ明らかにしておかなければならないのは、フランクルの宗教観である。これを感得できなければ、『夜と霧』の真の読者と言えないのではないか。そのことは次回以降に明らかにしたい。
 ちなみに、身近な図書館では、『告発戦後の特高官僚』、『現代史における戦争責任』、『血にコクリコの花咲けば』、『敗戦前日記』、『八月十五日日記』、『近代日本と朝鮮』、『手記ー私の戦争体験』など戦争関連本が大量に廃棄されているのが現実である。戦後77年は日本の侵略戦争を忘却する歴史と言わねばならないだろう。あるいは、歴史は別の形で繰り返すとも言えるだろう。このこともまた、人間の重要な一側面であることを剔出しておかなければならないのである。

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2022年5月 2日 (月)

『アウシュヴィッツは終わらない』

01084171 この選書を読む切っ掛けは、徐京植の『過ぎ去らない人々ー難民の世紀の墓碑銘』の一章であった。アウシュヴィッツ強制収容所と言えば、かの著名なフランクルの『夜と霧』が定番であるが、P.レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』(原題『これが人間か』SE QUESTO E' UN UOMO)を選択したのである。徐京植はレーヴィの稿の最後で、「レーヴィの自殺は、人類そのものの自殺過程を象徴してしているのだろうか」と問いを投げかけている。『夜と霧』では生き残るための心理学的方策を提起しているのだが(奇妙なことにビジネスの啓発本にもなっている)、レーヴィの記録はそれが目的ではない。彼は、①ファシズムは健在である、②自分の世代の過ちを明かすことこそ、若者を尊重することになる、ということを学生版の初めに示唆している(p.v)。フランクルとは方向が異なっているのである。
 先ず「選別」(Selekja)があった。役に立たない親、妻子、恋人たちなどはガス室行きとなったのである。残りの者たちはラーゲル(抹殺収容所=死の窓口)に入れられて、飢えと寒さと労働に明け暮れるのである。この時点で生存の「選別」がなされていることを覚えていてよい。まさしく抹殺なのであり、だから『アウシュヴィッツは終わらない』のである。このことは、人類の邪悪さ(罪)とレーヴィの自死とは無関係ではないと思われる。彼はこの叙述の中で、「直接経験したことだけを取り上げるようにした」(p232)と述べて、詳細で具体的にラーゲル内部の有り様を書き綴っているのである。生き残った者は「人間性を破壊」(p56、215)され、「希望を持つ習慣や、理性への信頼感が失われ」、「考えることは役に立たなく」(p214)なる。レーヴィでも、「いやすことのできない、いまわしい出来事(選別)・・・もし私が神だったら、クーンの祈りを地面に吐き捨ててやる」と憤激するのである(p159)。「未来など考えないこと」(p141)を強いられるのである。レーヴィが生き残ることができたのは全くの偶然なのである。偶々「選別」を免れたり、化学者であるために研究所抜擢もあり、ソ連軍の侵攻もあって解放されたのである。しかしながら、レーヴィのこの著書を熟読しておくことは、21世紀にも永続する戦争とは無縁ではない。ナショナリズムとグローバリズムが狂奔する現代において、どの国民国家においても想定されることなのである。無知や無罪を装う「この考え抜かれた意図的な怠慢こそが犯罪行為なのだ」(p226)とレーヴィは末尾で指弾しているが、日本が米英NATOに追随して参戦している事実は、到底無自覚ではいられないのである。

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