天皇制とキリスト信仰
この著書は様々な刺激的問題を投げかけてくれている。著者は、宗教と戦争との関連をも考察している。それは、「戦争とはつねに文化の発露であり、またしばしば文化形態の決定要因、さらにはある種の社会では文化そのものなのである」(p79)というキーガンの戦史論に影響を受けているのであろうが、考えてみれば、いつまでもクラウゼヴィッツの古い戦争観に囚われているのもおかしいのである。現今のウクライナ戦争においても、確かにプーチン・ロシアの侵攻と虐殺は許されることではないが、経済的制裁と武器供与をする西側NATOの所業はどうなのか。「欲望に基づく『侵略』よりも、善意や正義感に基づく『防衛』の方が凶暴なのだ」(p79)という言辞もある。戦争に軍人も民間人もへったくれもないことは、沖縄戦が明確に教えてくれている。大空襲や原爆を落として民間人を大量に殺戮した国の二枚舌(duplicity,double standard)はどうなのか、と疑義を覚えるのである。プーチンだけでなく世界の権力者とて同罪であり、どいつもこいつも調停や停戦に向けて外交的に失敗(もしくは放棄や加担)しているのである。国民国家時代のままの旧態依然としているのである。政治的・外交的無能と人間的な邪悪を持った性悪連中なのである。かてて加えて、グローバル主義者と新自由主義者どもは、ファシストを使嗾して世界と地球と民衆を混迷と破滅に誘導させているのである。まさしく、パンデミックとショック・ドクトリンである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。平和派はごく少数だったのである。
さて、キリスト教が日本において人口比1%にも満たない理由とは何かはこの書籍のテーマの一つであるが、著者は安直に結論を急ぐことなく読者に様々な要因を提示している点で好感が持てる。そしてその提起の一つとしてティリッヒの宗教論を援用している。「何かを真理であると信じ込むこと、思い込むこと、鵜呑みにすることが信仰なのではなく、自らの存在の意味について『究極的な関心』(ultimate conncern)を抱き、またそうした関心事に捉えられ支えられていることが信仰だとされるのである」(p275)という宗教観である。そのキーワードは「懐疑」である。懐疑は信仰を創造させるのである。それは量義治先生に教示された「無信仰の信仰」とも相通じるものである。さらに、日本にキリスト教が普及しない理由は様々あれど、もう一つの核心的理由は、地政的にも歴史的にも民俗的にも、あらゆる意味において、天皇制であると指摘しておかなければならないのである。
※クリスチャンである友人の指摘があり、量先生の信仰と思索(生きざま)を棄損させるものである故、「不信仰の信仰」を「無信仰の信仰」と訂正させて頂きました。認識の過誤がありましたことをお詫びします。
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