「・・・物語」?
満蒙開拓青少年義勇軍に関する研究は、現在形として白熱しているようである。この論評は義勇軍に関する著者の研究を総まとめしたものである。ミレニアムの初めに、長野県歴史教育者協議会が編纂した『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』の中で、幼い少年たちを満蒙への義勇軍として動員した信濃教育会と教師の責任が問われたのであるが(こちら参照。これとこれも)、この上梓本は「信濃教育会が教員赤化事件以降に右傾化し、国策に順応したと捉える」見解を一面的と批判しているのである(p227)。そして、「義勇軍をはじめとする満州移民の送出に郷土教育運動が影響を与えている」(p同上)のであり、興亜教育運動の高まりによって、役場・学校(教育)・父兄の三位一体となって義勇軍送出の強力な要因となったのである(p91)、と主張しているのである。確かに、原因を多元的に指摘し、議論に一石を投じて新しい視座を供与するという意義はあると思う。
しかしながら、その見解は信濃教育会(と教員の)戦争責任の所在を曖昧にする点で看過できないのである。無論、教育会だけでなく、他にも義勇軍送出に関与しているのは疑いがないが、拓務省によって進められた郷土部隊編成運動との関連で、「義勇軍と教育会との関係で留意すべきことは、義勇軍(青少年)の送出というよりは、教学奉仕隊・中隊幹部・義勇隊指導員の選考と送出であったと思われる」(p20)という一節は意味不明である。ただお国の方針に従っていただけであるとの、よくある開き直りと誤解されるのではないか。田河水泡の「親父訓練」という漫画を例に出して、このストーリーに「教員は登場しない」(p116)という恣意的な一文を挿入しているのも解せない。義勇軍に志願するように直接本人や父母を説得したのは誰なのかは明白である。戦前のことを語る時、戦中派の人々は「みんなそんな(御国のためという)時代だったんだ」と答えるのが一般的である。彼らの名前からして國男、昭三(天皇の即位礼)、忠男、君子、勝子、和子などである。また、実際に義勇軍に応募した動機として8割が先生(教師)なのである(p85~86)。予科練を志願した古老(存命)によれば、「弟も義勇軍に応募したが、みんな割当てだった」という証言を耳にしたことがある。私もまた、その当時の少年であったならば、出自や成績などからして義勇軍に好んで志願していただろう。信濃教育会は満蒙開拓平和記念館建設に200万円寄付したとのことだが、先ずもって必要なのは、反省と平和への告白・決意宣言なのである(それは議長声明でお茶を濁す日本基督教団も同様である)。
第二に、この本で気になるのは、足を踏まれた側を考慮していないことである。侵略された側への配慮や引き上げた義勇軍や苦渋の教師たちの証言である。そこを曖昧にした歴史研究は、結局一面的にならざるを得ないのである。歴史は資料の渉猟だけではなく、現代史においては歴史的証言もまた一級資料なのであって、後者を欠いた歴史研究は、客観性に欠けるばかりでなく、研究家の先入観(解釈)という陥穽があるのである。「郷土教育運動」と「興亜教育運動」と「農山漁村経済更生運動」(p91)との異同と解説がなく、「郷土教育運動」と満州移民との関連もよく分からず、タイトルに「・・・物語」とあるのも全く理解できないのである。
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