« 2021年12月 | トップページ | 2022年2月 »

2022年1月

2022年1月14日 (金)

「・・・物語」?

34283229  満蒙開拓青少年義勇軍に関する研究は、現在形として白熱しているようである。この論評は義勇軍に関する著者の研究を総まとめしたものである。ミレニアムの初めに、長野県歴史教育者協議会が編纂した『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』の中で、幼い少年たちを満蒙への義勇軍として動員した信濃教育会と教師の責任が問われたのであるが(こちら参照。これこれも)、この上梓本は「信濃教育会が教員赤化事件以降に右傾化し、国策に順応したと捉える」見解を一面的と批判しているのである(p227)。そして、「義勇軍をはじめとする満州移民の送出に郷土教育運動が影響を与えている」(p同上)のであり、興亜教育運動の高まりによって、役場・学校(教育)・父兄の三位一体となって義勇軍送出の強力な要因となったのである(p91)、と主張しているのである。確かに、原因を多元的に指摘し、議論に一石を投じて新しい視座を供与するという意義はあると思う。
 しかしながら、その見解は信濃教育会(と教員の)戦争責任の所在を曖昧にする点で看過できないのである。無論、教育会だけでなく、他にも義勇軍送出に関与しているのは疑いがないが、拓務省によって進められた郷土部隊編成運動との関連で、「義勇軍と教育会との関係で留意すべきことは、義勇軍(青少年)の送出というよりは、教学奉仕隊・中隊幹部・義勇隊指導員の選考と送出であったと思われる」(p20)という一節は意味不明である。ただお国の方針に従っていただけであるとの、よくある開き直りと誤解されるのではないか。田河水泡の「親父訓練」という漫画を例に出して、このストーリーに「教員は登場しない」(p116)という恣意的な一文を挿入しているのも解せない。義勇軍に志願するように直接本人や父母を説得したのは誰なのかは明白である。戦前のことを語る時、戦中派の人々は「みんなそんな(御国のためという)時代だったんだ」と答えるのが一般的である。彼らの名前からして國男、昭三(天皇の即位礼)、忠男、君子、勝子、和子などである。また、実際に義勇軍に応募した動機として8割が先生(教師)なのである(p85~86)。予科練を志願した古老(存命)によれば、「弟も義勇軍に応募したが、みんな割当てだった」という証言を耳にしたことがある。私もまた、その当時の少年であったならば、出自や成績などからして義勇軍に好んで志願していただろう。信濃教育会は満蒙開拓平和記念館建設に200万円寄付したとのことだが、先ずもって必要なのは、反省と平和への告白・決意宣言なのである(それは議長声明でお茶を濁す日本基督教団も同様である)。
 第二に、この本で気になるのは、足を踏まれた側を考慮していないことである。侵略された側への配慮や引き上げた義勇軍や苦渋の教師たちの証言である。そこを曖昧にした歴史研究は、結局一面的にならざるを得ないのである。歴史は資料の渉猟だけではなく、現代史においては歴史的証言もまた一級資料なのであって、後者を欠いた歴史研究は、客観性に欠けるばかりでなく、研究家の先入観(解釈)という陥穽があるのである。「郷土教育運動」と「興亜教育運動」と「農山漁村経済更生運動」(p91)との異同と解説がなく、「郷土教育運動」と満州移民との関連もよく分からず、タイトルに「・・・物語」とあるのも全く理解できないのである。

 

| | | コメント (0)

2022年1月 2日 (日)

偏狭な私的音楽論

33918821 卒業した小学校は音楽教育の特別指定校になっていたらしく、専門の音楽教諭の下で、ハーモニカやオルガン、加えてリコーダーを使っての器楽と合唱が盛んであった。当の中村先生には怒られもしたが、音楽への関心は強く、通信簿で最高の5という評価をしてもらったことがある。中学の音楽でも関心は続いたのだが、職業高校に入学すると忽然として止んだのである。芸術科目がなくて、当然の如く音楽科目はないのである。小学校の音楽室には、ハイドンやバッハから始まって古典音楽の楽聖が大きな額縁が掲げられて、何であのような長い髪(カツラ)をしているのか怪訝に眺めていたが、ただひたすら西洋音楽を教授されて日本の唱歌を歌っていたのである。器楽演奏にも力が入れられて、今でもソプラノ・リコーダーの運指で演奏することができる。大学に進学すると、途絶えていた音楽への関心は復活し、バロック音楽と民謡をバックミュージックとして勉学に励んだのである。また、町場のピアノ教室に通ってバルトークの教則本を基にピアノを習い、子どもたちに交じってその発表会に出演したこともある。しかしながら、その後の人生においては再び音楽と離れてしまい、70年代までのグループサウンズやフォークや昭和歌謡で止まって、その後のニューミュージックやJ-POP(80年代~90年代)等は聴くことはなかったのである。ジャズやロックとは全く無縁であった。そして、音楽としての様式美や民謡の状態に停止しまったため、現代の商品音楽には少しく違和感を感じてしまうのである。
 この原因は二つあると思われる。一つは、2006年の教育基本法改訂で愛国心が強調されるようになったことである。強調される日本の伝統音楽(邦楽)は、明治の音楽教育から導入された西洋音楽とは異質なものである、日常とは乖離した音楽なのであり、戦前に親しまれた日本の音楽は、文部省唱歌であり軍歌であり戦時歌謡なのである(軍隊調)。更に、70年代後半以降の歌謡界は、日常の労働からかけ離れて、「やたらに飛びたがるものと、・・・夢、未来、希望(絆?)に向かうものが歌詞のテーマの二大派閥・・・の歌詞の曲ばっかり」(『平成日本の音楽の教科書』、p179)となっているのである。また、音楽作品の商品化あるいは「液状化」(p248~)となると、その危険性は言うまでもない(歌謡曲への先祖返りを指摘する者もいる)。もう一つは、音楽の構成が歌詞とメロディーとハーモニーとリズムとがあるが、そのリズムが違和感を覚えるのである。2008年の学習指導要領改訂によって学校体育の中でダンスが選択必修となって、音楽の中にリズムを基調とするダンスミュージックが取り入れられたのである。即ち、「ポップスはリズムから動き始める」(p262)ことになったのである。ジャニーズ系やアキバ系のアイドルポップスの全盛である。換言すれば、リズムと振付による視覚的な大衆動員が定常化している。その危険性の懸念もある。J-POPのもつ、世界のポップスと断絶した、これらの一国主義の危うさは今後どのように変遷するのかは分からないが、現時点では、社会との関連において、音楽の発展というよりは回帰・液状化してゆくように思われるのである。年末の紅白歌合戦をチラ見しながら、そんなことを妄想した次第である。こんな過疎ブログを訪れる皆様に新年のご挨拶を申し上げます(こちら参照)。

| | | コメント (0)

« 2021年12月 | トップページ | 2022年2月 »