侵略戦争の総括を超えて
この本を読んでの感想は、自分もまた戦前生まれならば軍国少年になったのではないかとの疑いを覚えたことである。想い起せば、地方紙の新聞少年であった自分もまた、新聞屋の作業台に寄り掛かりながら読んだ新聞には、高度経済成長による日本の躍進を報じる記事が満載され、それを眺めてほくそ笑んでいたのである。完全に国家によって絡めとられていたのである。戦後、米ソ対立の冷戦下、朝鮮戦争によって息を吹き返した日本経済は、ベトナム戦争によってこの世の春を満喫したのである。しかしながら、石油危機とベトナム戦争の終結と共に終了したのである。つまり、日本経済の戦後的発展は、世界の相対的安定期と共に出発して戦争によって繁栄した経済なのである。その後の経済停滞は、開発途上国によるキャッチアップという要因と、経済政策の錯綜や構造改革とグローバル化の遅滞などと誤解されているが、最大要因は自民党政治である。戦前の政党政治の腐敗とその戦犯たちがが結集した自民党は、戦後になっても疑獄事件を継続して、80年代のナショナリズムの高揚によって国粋主義者の巣窟になっているのである。二世以上の議員や派閥の領袖の跋扈は自民党の本質なのである。菅の辞任もそれが原因でもある。菅の哀れは総理総裁になった時に、実家を映したマスコミ報道に既に想定されたことである。家族・親族の誰も居住していない実家の映像が映し出されたのである。郷土を捨てて大都会での立身出世を目論んできた人生であることは判然としているのである。①猥雑な世界観と政治信条②実行力の不足③コミュニケーション能力の欠如である。こんな人間たちが権力を握ったらどうなるかは推断されたことなのである。
ある大臣が首相と連日直談判して落涙する姿を報道で見たが、これは民衆にとって全く理解不能である。偽善の涙である。彼もまた社会の肉瘤に過ぎないことの証左である。自己の体験を検証して批判・反省することはとても大変なことで、できずに一生を終える人も多い。この本の著者は、率直に軍国少年として体験したことを綴っているのだが、今一つ総括に欠けると思われるのである(大変申し訳ないが)。運がよかったのである。しかしながら、他の多くの日本人にとっては苦難の歴史だったのである。「満州国は日本がアジアの中に描いた理想の国として、あらゆる人材・巨額な資本・先端的技術などを投下して全力を挙げてつくり上げようとした国家であったと思います」(p265)という野放図な一文は、「平和な世界の実現を目指さなければならない」(p270)という強い願いと何ら矛盾したものではないのである。体験だけでは経験とならないのである。もっと体験を客体として措定しなければならないのである。90歳以上の戦争体験者が愈々過少になっている時代にあっては、益々聞き取りと記録が必要となっている。小・中学校時代の月曜の朝礼では、校長・教頭らが平和の大切さを訴える訓辞が多かったのであるが、むしろ今の時代だからこそ、意識して戦争勢力を一掃することに踏み込まなければならないのである。
| 固定リンク | 0
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- イデオロギーとプロパガンダ(2024.06.01)
- イデオロギーに抗する(2024.04.27)
- 最後のパラダイムシフト(2024.04.02)
- ポロポロ(2024.02.16)
- 究極の災害・人災(2024.01.08)
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 異常事態の進展(2024.07.10)
- イデオロギーとプロパガンダ(2024.06.01)
- 最後のパラダイムシフト(2024.04.02)
- 人心一新の時代(2024.02.27)
- 究極の災害・人災(2024.01.08)
「日本の近・現代史」カテゴリの記事
- 民衆は忘れない(2023.09.12)
- 自己を裁断できるか(2023.09.05)
- 「新しい戦争責任」(2023.08.22)
- 戦争(敗戦)を忘れる時代(2023.07.04)
- 『世代の昭和史』の感想メモ(2023.03.20)
コメント