人災のコロナ=五輪禍
「おもてなし」の東京オリンピックが終了して清々したことである。本当は、パラリンピックを先行させないのも、世界標準と言われる現状を証明しているのではないか。オリンピックの欺瞞性がここにも瞭然である。このコロナ=五輪禍において、満天下に判然としたことが幾つかある。
①政府と東京都は、五輪を強行し、人流を増やして対策を講ずることなく、人命を疎かにしたことである。首相と都知事の眼はまるで腐った魚の眼をしている。無力で何もできないことが証明されたのである。フリップを取りやめ、国民や都民への「訴え」は空しく響くのみである。補償もなく飲食業者を始めとする国民を放置し、死者・重傷者が激増していることに何の感情と責任も覚えないのである。しかしながら、このことは予見できたことである。信濃毎日新聞が毎年8月になると一面の左上に「山ろく清談」が掲載される。これは毎夏の楽しみになっている。広島原爆の日は森山良子さんの語りの記事であった。そこでは、「さとうきび畑」という歌を提案されて躊躇した彼女の率直な思いが語られていたのである。「歌ったら沖縄の人に失礼と思って」という彼女の背中を後押ししたのが、「1991年に湾岸戦争が始まって自衛隊派遣の話が出たとき、『こんな時代に愛だの恋だのばっかり歌っているなんてちゃんちゃらおかしいわよ』」とコンサートに来た母の言葉だったそうである。人間の歴史には、絶対忘れてはいけないことがあるのである。これが分からない輩が自・公・維・国民民主に蝟集しているのである。
②抑々、オリンピックは不要である。何兆という負債を負わせて敢行される理由がないのである。商業五輪と化して、プロ選手にまで税金で賄う神経が分からない。IOC委員の特権と好待遇も理解できない。ぼったくり男爵がその象徴であり、広島・長崎への慰霊行為も偽善であり、オリンピックと平和とは水と油の関係である。平和はオリンピックで作られるものではないのである。会計検査院と各マスコミは、帳簿焼却・廃棄をした長野冬季オリンピックの例を警戒し、帳簿確保と追及をしなければならないのである。
③日本や世界のトップアスリートも共犯である。金メダルを取得したからと言って世界一でもない。銀メダルに金メッキして重いことがそんなに大切なことなのか。コロナ禍での開催と五輪後の責任についてどう考えているのか。メダル至上主義は、ある意味では滑稽ですらある。勝っては喜び(国威を発揚する)、負けては涙する(悔しい思いをする)ことが相変わらずではないか。まして、このコロナ禍において、無心にスポーツに興じている神経が分からない。少しも感動と勇気を貰わない。将来は五輪礼賛の政治家になったらどうか(実際に、IOCの理事になっている輩もいる)。
④有名進学校は東大志向よりも医学部志向となっているらしい。しかしながら、コロナ対策の厚労省技官も日本医師会も、全くの無力と化している。自民党への三大圧力団体の一つである医師会は、仄聞した限りでは、倉持仁氏など僅かの医師を除けば、政府の太鼓持ちになるか押し黙って利害の塊であることが証明されたのである。731部隊のように、壮大な人体実験が断行されているのである。
以下、このコロナ=五輪禍において証明されたことが他にも数々あるのであって、これらは予知されたことであって、人災であることは間違いがないのである。
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