『民謡とは何か?』
学生時代はよくバロック音楽と民謡をBGMとして愛聴しながら勉学に励んでいたのだが、時代が急速に展開して民謡は廃れつつある。その主因は担い手不足に尽きると思う。高校の音楽の教科書では、民謡とは「民衆の生活の中で歌い継がれてきた歌」として、仕事歌、祝歌、踊り歌、座興歌、語り物・祝福芸の歌を列挙している。音楽辞典でも、「民謡とは民衆の生活の中で生まれ、とくに作者などは問われずに生活慣習のように歌い継がれてきた歌を指す」とある。つまり、民俗音楽の中心部分なのである。それもあって、民俗音楽を追求したバルトークのピアノ教則本(ミクロコスモス)を手に練習していたこともある。
民謡の担い手の活躍の場としては演歌歌手になっているようだ。実際、知る限りでは長山洋子や福田こうへいなど、民謡出身の演歌歌手は多いようである。長山は、八尾市文化会館のコンサートで握手してもらったことがある。ヒット作の歌唱だけでなく、見事な三味線演奏を堪能したものである。なんと彼女のCDを一枚所有しているのである(笑)。
さて、民謡の学究本によると、「本当の民謡」とは仕事歌ということで、仕事歌の中でも王様なのは臼歌だという(第九章、十章)。私的には、やはり仕事歌が好みで、刈干切唄や南部牛追歌が秀逸であると思う。仕事のつらさや思いが切々と歌われている。これに次ぐのは秋田や宮城や岩手南部の長持ち唄などの祝い歌であろう。東北は民謡の宝庫なのである。しかしながら、カネさえあれば何でも買える飽食の時代となって、ハレとケの閾が消失してしまう事態なのである。このことはある意味では人間の退化であり、堕落ではないだろうか。この趨勢でなくなったものは人としての生活であり、労働なのである。デジタル時代の到来は、人を人として認めなくなり、人を情報として扱われて喜怒哀楽も画一化してしまうのである。グローバリゼーションとネオリベラリズムは、人と地域と地球全体を併呑して無化してゆくものなのである。
民謡に限ると、小学校時代の音楽担当の中村先生から、江差追分のルーツは北国街道を伝播して越後追分から江差へと繋いだ信濃追分節と教えて頂き(第六章、その又ルーツも東北)、レコード鑑賞したことを想い出す。音楽では最高評価点を通信簿につけて頂いた中村先生の教えは、集中してよく聴いていたもので、それが民謡への関心を惹起して今でも感謝している。しかしながら、民謡で謡われる人々の労働そのものが存廃されて、民謡もまた愛唱されることもなくなっている。著者は、時代遅れと不要になったものは「捨てられるのが民謡や民俗芸能の宿命」(p211)として、今や記録保存の時代だという。だが、著者が今後の楽しみと期待しているように、機械化した楽曲に見合った一様な歌詞という現今の音楽が、一体何を生み出すというのだろうか。生活や労働から乖離した現代音楽もまた、存亡の危機に直面しているのではないだろうか。
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