« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »

2021年4月

2021年4月22日 (木)

春の陽光に誘われて

 先日、このコロナ禍の中、春の陽光に誘われて北信濃の小旅行を敢行した。旧豊田村(現中野市)にある高野辰之記念館とその周囲、菜の花ロードを抜けて野沢温泉に宿泊したのである。野沢温泉村と観光協会は、お得な「免疫力UP!キャンペーン」を張っていて、永年北信濃への往問を勘案していたので絶好の機会となったのである。翌日は、おぼろ月夜の館と飯山、更に足を延ばして信濃町の一茶記念館へと宿願を果たしたのである。
 高野辰之の「故郷(ふるさと)」という文部省唱歌は、実はあまり好みではない。特に三番の歌詞は立身出世の内容となっている。明治人の好学の士として上京した辰之は、1909年(明治42)年に文部省小学校唱歌教科書編纂委員となって作詞したのである。後には、東京音楽学校教授や東京帝大の文学博士号を授受して、「志をはたして いつの日にか帰らん」という歌詞の如く、1925(大正14)年に帰郷したのである。時は社会運動が発展して、普通選挙法と抱き合わせで治安維持法の公布によって社会運動が弾圧したされた時代である。これによって、無産運動が成立と分裂を繰り返して昭和恐慌を迎え、十五年戦争に突入してゆくのである。
2021041610280000  国文学者として成功した高野であるが、野沢温泉のおぼろ月夜の館のおいて、その学問観と一つの短歌に関心を覚えたのである。学問観についての解説には、「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがあり、「実証的で」、「様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった」とある。また、隠棲した野沢温泉村から出征する青年に託した短歌には、「海行くも あへて水漬かず 死ぬ価値も 越える名上げて 帰れよき子よ」とあることである。侵略戦争に突入している時代にあって、少なくとも「死なずに帰れよ」と青年を励ましたのである。そこには、戦争に対して不本意な高野の思いも推察されるが、断定はできない。その土地(ふるさと)への愛着と向学への思いも感じられるのであるが、これも明断できない。「死ぬ価値も超える名」とは一体何なのか。その曖昧さが明治人としての限界なのかもしれない。しかしながら、好戦的で偏向した「悪しきナショナリズム」(軍歌・戦時歌謡)とは無縁と思われるのである。ちなみに、唱歌「ふるさと」では海の風景が謳われていない。これもまた高野辰之作詞の所以である。


| | | コメント (0)

2021年4月 7日 (水)

『民謡とは何か?』

34172868  学生時代はよくバロック音楽と民謡をBGMとして愛聴しながら勉学に励んでいたのだが、時代が急速に展開して民謡は廃れつつある。その主因は担い手不足に尽きると思う。高校の音楽の教科書では、民謡とは「民衆の生活の中で歌い継がれてきた歌」として、仕事歌、祝歌、踊り歌、座興歌、語り物・祝福芸の歌を列挙している。音楽辞典でも、「民謡とは民衆の生活の中で生まれ、とくに作者などは問われずに生活慣習のように歌い継がれてきた歌を指す」とある。つまり、民俗音楽の中心部分なのである。それもあって、民俗音楽を追求したバルトークのピアノ教則本(ミクロコスモス)を手に練習していたこともある。
 民謡の担い手の活躍の場としては演歌歌手になっているようだ。実際、知る限りでは長山洋子や福田こうへいなど、民謡出身の演歌歌手は多いようである。長山は、八尾市文化会館のコンサートで握手してもらったことがある。ヒット作の歌唱だけでなく、見事な三味線演奏を堪能したものである。なんと彼女のCDを一枚所有しているのである(笑)。
 さて、民謡の学究本によると、「本当の民謡」とは仕事歌ということで、仕事歌の中でも王様なのは臼歌だという(第九章、十章)。私的には、やはり仕事歌が好みで、刈干切唄南部牛追歌が秀逸であると思う。仕事のつらさや思いが切々と歌われている。これに次ぐのは秋田宮城や岩手南部の長持ち唄などの祝い歌であろう。東北は民謡の宝庫なのである。しかしながら、カネさえあれば何でも買える飽食の時代となって、ハレとケの閾が消失してしまう事態なのである。このことはある意味では人間の退化であり、堕落ではないだろうか。この趨勢でなくなったものは人としての生活であり、労働なのである。デジタル時代の到来は、人を人として認めなくなり、人を情報として扱われて喜怒哀楽も画一化してしまうのである。グローバリゼーションとネオリベラリズムは、人と地域と地球全体を併呑して無化してゆくものなのである。
 民謡に限ると、小学校時代の音楽担当の中村先生から、江差追分のルーツは北国街道を伝播して越後追分から江差へと繋いだ信濃追分節と教えて頂き(第六章、その又ルーツも東北)、レコード鑑賞したことを想い出す。音楽では最高評価点を通信簿につけて頂いた中村先生の教えは、集中してよく聴いていたもので、それが民謡への関心を惹起して今でも感謝している。しかしながら、民謡で謡われる人々の労働そのものが存廃されて、民謡もまた愛唱されることもなくなっている。著者は、時代遅れと不要になったものは「捨てられるのが民謡や民俗芸能の宿命」(p211)として、今や記録保存の時代だという。だが、著者が今後の楽しみと期待しているように、機械化した楽曲に見合った一様な歌詞という現今の音楽が、一体何を生み出すというのだろうか。生活や労働から乖離した現代音楽もまた、存亡の危機に直面しているのではないだろうか。
 

| | | コメント (0)

« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »