むらは生きている
鶏卵大手「アキタフーズ」との関連で農水省幹部への処分、首相の長男による接待事件で総務省幹部への処分など相次いでいるが、実はこれらは目新しい事柄ではない。戦後の自民党政権においては、よくある贈収賄事件なのであって、政治屋も官僚も「記憶にない」と空とぼけて、公文書(歴史)を隠滅してしまえばいいからである。このことは安倍政権から常套手段となっており、官邸から人事権を握られている検察もまた、同じ官僚として国民のために微動だにもしないのは至極当然である。すべては保身で動いているのである。日本の高度経済成長期においては、自民党政府の腐臭は疑獄事件として呆れるほど日本社会を覆っていたのである。知り合いの東京都職員によると、日曜日となると接待ゴルフと付け届けで過用だったそうである。余りにもの腐敗のために、真面目な橋本龍太郎は、うっかり国家公務員倫理法を制定してしまうのである(ほんの20年ほど前である)。しかし、バブルの味を甘受した官僚は、成立してもぬくぬくと生き残っており、有り体の倫理規定などどこ吹く風となっているので、虚偽答弁や公文書破棄など、ごまかし様はいくらでもあるのである。以前、居酒屋の店主から「日本は『経済一流、政治三流』」と拝聴したことがあるが、今や『経済三流、政治五流』と言うべきだろう。戦後の政治の殆どを自民党が担っていることには理由があるのである。これは政権交代できない理由ともなっているのである。官僚社会では「神輿(首相や政党)は軽いほどいい」のである。官僚と政治屋は相互依存の関係にあり、利害が共通しているのである。
むら社会は「日本の社会のどこにも(農村ではないところにも)ある」(p10)と、この本にあるが、正確には農村だけでなく都市にも存在しているというべきだろう。しかしながら、柳田國男も探究した日本人の原型は、新自由主義の旗印とグローバル化の流れで、地方と中央(あるいは農村と都市)の関係は逆転するのである。原子力ムラはその典型である。霞が関ムラも自民党ムラ(永田町ムラ)も然りである。都市が自民・公明・維新を求めて田舎化しているのである。慣例と利害と権益が蔓延して、日本社会の肉瘤として存在しているのである。そして、これを支持する有権者がいて、棄権する無関心層が幇助しているという構造になっている。だから、「日本人というのは、ぶんなぐらないとわからない」(p45)のである。堀越久甫は、40年程前に「何よりも大切なことは、社会を構成する人々がすべて他人のことも(自然環境のことも、と付記したい)心配することである。この心がなかったら、社会そのものが崩壊する。そしていまや東京はそうなっている」(p168)として、社会再生のプランを提起しているように、都市の(悪い面だけが凝集した)ムラ化は社会の崩壊(慢性病による死)を意味するのである。
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