若者に学ぶ
医療現場がとてつもないヒエラリキーにあることは、かつて指摘したことがある。様々な患者が受診し、その人となりや生活(習慣)や人生を垣間見ることに戸惑うことも屡々である。医師は病原の特定と治療方針に注力するのだが、実際に患者と向かい合うのは医療行為を行う看護師である。経験として、医師の一瞥で受診を終えたことがある。また一方では、父親の入院の付き添いで、読書する自分の姿を見て、年配の医師が「大学で何を勉強しているの?」との問いに学科を白状すると、「それはすごいな」と励まされたことがある。また、日本でトップレベルの医学部学生と交友関係を取り結んだことがあったが、こんな自分と付き合うような医者の卵の彼らは、パチンコ屋や教師や会社員の息子たちであったことは言うまでもない。彼らはハンセン病院への研修をしたり、総連活動をしていたり、被差別部落の医療に専心する医師も見てきたのであるが、近年は医学部志望が進学校の方針となり、一つの階級として形成していることは否めないだろう。貧乏人の子弟には医師として活躍する舞台は、ほぼ不可能となっているのが現状である。かつて見た豪放磊落で豪傑な医師など見る影もなく(自分の尿をごくごくと飲み干す酔漢の外科医に呆気にとられたり、貧乏人からあまり金を受け取らずに潰れた一代限りの開業医もいたのである)、逆に受診で医師に説教されたことが近年になると何度かあるのである。他方、看護師は中高卒から養成機関を経て、ごく一般的な子女が正准看護師としてそんな医療を支えているのである。分からず屋の医師に比して、看護師は直接対面して、患者にとっては治療の当事者なのである。
この本の中の著者は、20代の初めから医療に関して問題意識を抱き、豊かな感受性をもって日々の医療現場の中を真摯に奮闘している看護師である。このような若者がいることに安心すると同時に、老境にある自分のあり方が問われていると思う。両親たちの残してくれたものに唯々甘受しているばかりで、子どもや若者に一体何を残してやれ(る)たのかという問いが沸々と生起するのである。オリンピック関連の某政治屋の女性差別発言は、耄碌した老人の老害としか言えない。排外主義と軍事依存の彼らであるからである。彼女の医療に関する見解は、随所に散見されるのだが、「人として当たり前に尊重される医療」(p55)を願い、「医療従事者ー患者双方が、互いに人間であると認識し合った上での、共に歩み寄えるような医療」(p124)を模索しているのである。やはり、患者(ひと)に寄り添える看護師というのが、本来の看護師としての職業倫理であるように思われるのである。尚、依存症への認識が病気としてのそれとして共有されるべきという見解(p160)は多少疑問に思うが、経験や医療現場からの若い著者の発信に傾聴する価値は極めて高いのである。
| 固定リンク | 0
« 記憶の時代 | トップページ | 人生は余りにも短い »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- イデオロギーとプロパガンダ(2024.06.01)
- イデオロギーに抗する(2024.04.27)
- 最後のパラダイムシフト(2024.04.02)
- ポロポロ(2024.02.16)
- 究極の災害・人災(2024.01.08)
コメント