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2021年2月

2021年2月27日 (土)

むらは生きている

41epjchypul__sx373_bo1204203200_ 鶏卵大手「アキタフーズ」との関連で農水省幹部への処分、首相の長男による接待事件で総務省幹部への処分など相次いでいるが、実はこれらは目新しい事柄ではない。戦後の自民党政権においては、よくある贈収賄事件なのであって、政治屋も官僚も「記憶にない」と空とぼけて、公文書(歴史)を隠滅してしまえばいいからである。このことは安倍政権から常套手段となっており、官邸から人事権を握られている検察もまた、同じ官僚として国民のために微動だにもしないのは至極当然である。すべては保身で動いているのである。日本の高度経済成長期においては、自民党政府の腐臭は疑獄事件として呆れるほど日本社会を覆っていたのである。知り合いの東京都職員によると、日曜日となると接待ゴルフと付け届けで過用だったそうである。余りにもの腐敗のために、真面目な橋本龍太郎は、うっかり国家公務員倫理法を制定してしまうのである(ほんの20年ほど前である)。しかし、バブルの味を甘受した官僚は、成立してもぬくぬくと生き残っており、有り体の倫理規定などどこ吹く風となっているので、虚偽答弁や公文書破棄など、ごまかし様はいくらでもあるのである。以前、居酒屋の店主から「日本は『経済一流、政治三流』」と拝聴したことがあるが、今や『経済三流、政治五流』と言うべきだろう。戦後の政治の殆どを自民党が担っていることには理由があるのである。これは政権交代できない理由ともなっているのである。官僚社会では「神輿(首相や政党)は軽いほどいい」のである。官僚と政治屋は相互依存の関係にあり、利害が共通しているのである。
 むら社会は「日本の社会のどこにも(農村ではないところにも)ある」(p10)と、この本にあるが、正確には農村だけでなく都市にも存在しているというべきだろう。しかしながら、柳田國男も探究した日本人の原型は、新自由主義の旗印とグローバル化の流れで、地方と中央(あるいは農村と都市)の関係は逆転するのである。原子力ムラはその典型である。霞が関ムラ自民党ムラ(永田町ムラ)も然りである。都市が自民・公明・維新を求めて田舎化しているのである。慣例と利害と権益が蔓延して、日本社会の肉瘤として存在しているのである。そして、これを支持する有権者がいて、棄権する無関心層が幇助しているという構造になっている。だから、「日本人というのは、ぶんなぐらないとわからない」(p45)のである。堀越久甫は、40年程前に「何よりも大切なことは、社会を構成する人々がすべて他人のことも(自然環境のことも、と付記したい)心配することである。この心がなかったら、社会そのものが崩壊する。そしていまや東京はそうなっている」(p168)として、社会再生のプランを提起しているように、都市の(悪い面だけが凝集した)ムラ化は社会の崩壊(慢性病による死)を意味するのである。

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2021年2月17日 (水)

人生は余りにも短い

33099413  第二回目の東京オリンピックで、政財界とスポーツ界が混乱している。当たり前だろう。オリンピックそのものが「スポーツの祭典」ではなく、利害の争奪戦だからである。はしなくも、コロナ禍という事態の中で、そのことが暴露されただけでなく、組織委員会長の女性蔑視というだけではなく、差別発言事件によって、政権の腐敗もあって国勢の式微が顕著となっているのである。そして、会長の後任人事が決まらないというのである。後進がいない、欲得ばかりの人事支配などで、もっともっと混迷を深めたらいい。まるで、アジア・太平洋戦争末期の大日本帝国の有り様である。新自由主義の経済思想がグローバル化と相まって、多くの若者とひとり親世帯が貧困に落とし込められているのは、自公政権のお陰である。格差社会の底が抜けて、女性と若者・子どもの自殺が激増している事態である。人々に絶望しか与えない政党・政府は、一刻も早く、破壊した方がいいのである。
 このところ、全集を紐解くこともせずに、批評・評論の本ばかり手にして分かったような気になっているのは、怠惰の極みという誹りを免れないだろう。生活そのものがだらしなくなっているのである。再度柳田の全集に没入する決意である。今日は雪降りの一日で、夜になると積雪となっていて、闇夜に浮かぶ、とんぼりとした雪景色を眺めていると、幼少の頃に見た静謐な雪化粧であったのである。寂しさと貧窮、そしてその中にあっての「常民」の息吹、日本人はこれを原型として忘れてはならないことなのである。明治人である柳田國男は、このことを忘れてはいまい。営々とした「常民」の暮らしの中に日本人の原型を透視しているのである。
 静養したりWiFi環境を改変したりの雑用の一日であった。既に着手した終活の活動はできずに、ボツボツと読んでいるのがこれであったのだ。身を入れて終活に専念しなければと思う次第である。今年一年はコメ作りは中止して、野菜と果樹に集中しようかなどと雑念が種々に思い浮かぶのである。したいことは山ほどあるのだが、この齢となると、完遂できることは限られている。人生は余りにも短い。これはよくよく銘記すべきことである。

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2021年2月 5日 (金)

若者に学ぶ

34132252 医療現場がとてつもないヒエラリキーにあることは、かつて指摘したことがある。様々な患者が受診し、その人となりや生活(習慣)や人生を垣間見ることに戸惑うことも屡々である。医師は病原の特定と治療方針に注力するのだが、実際に患者と向かい合うのは医療行為を行う看護師である。経験として、医師の一瞥で受診を終えたことがある。また一方では、父親の入院の付き添いで、読書する自分の姿を見て、年配の医師が「大学で何を勉強しているの?」との問いに学科を白状すると、「それはすごいな」と励まされたことがある。また、日本でトップレベルの医学部学生と交友関係を取り結んだことがあったが、こんな自分と付き合うような医者の卵の彼らは、パチンコ屋や教師や会社員の息子たちであったことは言うまでもない。彼らはハンセン病院への研修をしたり、総連活動をしていたり、被差別部落の医療に専心する医師も見てきたのであるが、近年は医学部志望が進学校の方針となり、一つの階級として形成していることは否めないだろう。貧乏人の子弟には医師として活躍する舞台は、ほぼ不可能となっているのが現状である。かつて見た豪放磊落で豪傑な医師など見る影もなく(自分の尿をごくごくと飲み干す酔漢の外科医に呆気にとられたり、貧乏人からあまり金を受け取らずに潰れた一代限りの開業医もいたのである)、逆に受診で医師に説教されたことが近年になると何度かあるのである。他方、看護師は中高卒から養成機関を経て、ごく一般的な子女が正准看護師としてそんな医療を支えているのである。分からず屋の医師に比して、看護師は直接対面して、患者にとっては治療の当事者なのである。
 この本の中の著者は、20代の初めから医療に関して問題意識を抱き、豊かな感受性をもって日々の医療現場の中を真摯に奮闘している看護師である。このような若者がいることに安心すると同時に、老境にある自分のあり方が問われていると思う。両親たちの残してくれたものに唯々甘受しているばかりで、子どもや若者に一体何を残してやれ(る)たのかという問いが沸々と生起するのである。オリンピック関連の某政治屋の女性差別発言は、耄碌した老人の老害としか言えない。排外主義と軍事依存の彼らであるからである。彼女の医療に関する見解は、随所に散見されるのだが、「人として当たり前に尊重される医療」(p55)を願い、「医療従事者ー患者双方が、互いに人間であると認識し合った上での、共に歩み寄えるような医療」(p124)を模索しているのである。やはり、患者(ひと)に寄り添える看護師というのが、本来の看護師としての職業倫理であるように思われるのである。尚、依存症への認識が病気としてのそれとして共有されるべきという見解(p160)は多少疑問に思うが、経験や医療現場からの若い著者の発信に傾聴する価値は極めて高いのである。

 

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