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2021年1月23日 (土)

記憶の時代

34142200  タイトルは『民俗知は可能か』であるが、柳田國男を始原とする民俗学はその存続が問題になっているのである。民俗学は大学の学問分野の一つとして成立しているように見えるのであるが、それは幾つかの大学に限られたものである。いずれ文化人類学の一領域として解消されてしまうのではないか、という危惧があるのである。民俗学は近代化と戦時体制下において成立と興隆がなされたのであるが、失われる民俗資料への危機感を常に引き摺っているのである。だから第二に、過去(古代)へと遡及する「国学」との親和性を持っていて(折口民俗学)、自国の精神文化の淵源を求める学問傾向は、学問としての科学的合理性を喪失して、単なる個人的な文学として収束する危険がある。さらに第三に、戦後の復興と高度経済成長によるムラ(村落共同体)の崩壊である。都市化の影響もあって民間伝承の対象者(古老)がいなくなり、民俗学の関心を都市に移動する者もいる。直接体験する者は存在せず、その直接体験した者を見聞して証言する者も少なくなり、民間伝承は文章や記録として記憶されるだけの時代となっているのである。柳田が活躍した1930~40年代は遙か遠い世界であり、宮本常一は、1960年代後半に「古老からの聞き書きの時代は終わった」と指摘しており、赤坂憲雄は1990年代の初めにムラは終焉したと推定しているのである(余談だが、國男と常一と憲雄という名にも時代を反映しているのである)。この過程は「戦争の記憶」を伝える課題と全く同一である。頼りのない「記憶の時代」において民俗学は可能か、ということなのである。都市の民俗に関心を向けても、それは共同体としての意味は何も持たないために、雑学としての民俗学に終始するのである。それではどうしたらいいのか。赤坂は、「民俗学という学知は成熟への階梯をたどることなく、若くして老いてしまったのではないか、と感じずにはいられない」(p376)と、民俗学者としての自分の後ろめたさと中途半端さを独白しているが、問題は未来への足掛かりとしての民俗学なのである。後顧する懐古趣味(復古主義)や現状追随としての民俗学ではない民俗学を志向する必要があるのではないか、と思っている。

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