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2021年1月 2日 (土)

柳田民俗学の一面

33881455 日本の民俗学を創始した柳田國男なのだが、試みに入門的なアンソロジーを読んでみた。その博覧強記と漢学の素養に驚嘆するのだが、今一つ興味を削がれるものがあった気がするのである。この本の冒頭から、「伝説を愛する心は自然を愛する心に等しい」(p9)とあって、伝説を蒐集する重要性を力説するのだが、その伝説を説明する文章が曖昧模糊としていて、一種捉えがたい印象と文意の把握に難行するのである。雑多の情報が羅列され、一言注釈を入れて終始してばかりいるのである。若い頃のニーチェは古典文献学徒であって、その下地があって哲学的思想を深化させたのだが、柳田はその生活体験に基づいて叙述化したもの故に恣意的で、厳密さ(科学的合理性)に欠けているように思われるのである。
 さらに言えば、柳田は日本の習俗・伝承を調査して日本人とは何かを追究するのだが、それは後ろ(過去)ばかりを見ている学問に成り果ててしまったのではないかという思いもある。過去を探索して未来を模索するという変革への志向が感じられないのである。現代は正(まさ)しく文字通りの危機の時代である。民俗学者は、こうしたことへの関心が極めて無頓着である。確かに柳田の功績は存在するが、要はこれからの民俗学はどうあるべきか、なのである。「いろいろの偶然に支配せらるる人間世界では、進歩の途が常に善に向っているものと、安心してはいられぬということである」(p150、「木綿以前の事」)という消極的慧眼が表現されているのであるが、これといった自らの戦争責任も感じることなく、1939年に「今度の大事変(日中戦争)が起ってから、(日本人の研究心と発明力は)大飛躍した。・・・いよいよ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てることと思う。・・・少なくとも求めたら得られる程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の論議に揚湯せられつつ、なんらの自信もなく、可否を明弁することすらもできないのは、権能ある指導者の恥辱だと思う。」(p169~170)と、時流を後顧することなく、時の政権を鼓舞したり預けたりしてしまっているのである。こういう側面が柳田民俗学にもあることを忘れてはならないのである。それは年末の「紅白歌合戦」やお笑い芸人によるバライティ番組にも共通している。人々の辛苦や喜び、労働と生活とは無縁で、愛や絆や夢などの抽象的な歌詞の羅列で満足する歌手や、無芸の芸人たちのの虚妄と凡庸さに具現しているのである。

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