民衆史の構築へ
高校時代より刊行された中央公論社の「日本の名著」は、学校の図書館でむさぼり読んだシリーズ本であったが、最終巻の「柳田国男」(1974年5月刊)は、政治学者の神島二郎による責任編集であったのか。大学時代に先輩に勧められて手に取った本は、『政治をみる眼』だったと覚えている。神島は丸山眞男を師事し、柳田民俗学から示唆を受けて、天皇制ファシズムを批判しながら戦争責任を追及した学者である。純粋歴史学者としての家永三郎とは異なり、実際の激戦を経験し、政治学者としての神島の著作は今もって重要な視点を与えるものとなっていると思われるが、あまり評価はされていないのが惜しいのである。その解説を丹念に読んでみたいものである。
本年はコロナ禍での一年であったが、我が家ではそれぞれが一歩を踏み出したのだが、その歩みは遅々としたものであった。新型コロナが、オリンピック開催に浮かれる世相や、面白くもない芸人が幅を利かせる時代であり、とどめは政治の無策と劣化によるニヒリズムの横行など、数年にわたる災禍(人災)であることも知悉していたので、何をか況やという心境である。1980年代後半以来の右翼的潮流の跋扈によって、30歳代~50歳代の日本人の中に思想的狭窄が定着している有り様は、今日の危機を招来させたのである。ヤフーのコメントでは、この頃になって批判的意見が散見されてきているのであるが、それまでは自堕落な誹謗中傷が席巻されていたのである。彼らは、戦争の経験も無ければ戦後二十年弱の困窮と窮乏生活も知らないのである。そして、各界で中心的担い手となっているのである。だから、マスメディアから報じられる事柄は必然であり、今後十何年は同じ事態が予想されるのである(しかしながら、例外の人々もいることは言を俟たない)。無為な人々が社会の大勢であるならば、庶民が生き延びるにはどうすればよいかは、歴史を顧みるよりほかはないだろう。とどのつまりは自民党が極右・金権政党であり、危機にあっては全くの無能であることは暴露されたのだが、最も肝心なことは、一旦は日本の(天皇制をめぐる権力闘争の)歴史を否定してみることである。これは逆に言えば、民衆史を構築することなのである。神島二郎の問題提起は、まだまだ生きているのである。
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