「お茶飲み」の意味
昔の人はよく働いた。昔の人とは、高度経済成長期の1970年代までの人々のことである。生活と労働は、ほとんど手作業に営まれていた時代であった。また、経済的には食うや食わずの時代要因もあった。家父長制社会ということもあった。しかしながら、都市化の進展とともに、地方の地域社会は溶解して、崩壊したのである。農家の労働力は工業化につれて都市部に移動して、農業は衰退したのである。家族労働を当てにした村落様式も機能を喪失し、地方都市においても、誰何をすることもない都市的な生活様式が当たり前になっているのである。かつての村落共同体においては、人々が時空を共有した機能が存在して相互扶助の中で生活していたのであるが、現代においては、人々は地縁・血縁と切り離されて、利益・機能が優先された社会集団が遍満するようになっているのである。ここに関心があって、長野県の地方史研究誌である「信濃」(第72巻第8号)の中にあった「地域社会における「オチャ」の機能」(倉石忠彦、信濃史学会)という論文を閲読してみたのである。
かつての農業労働は、苦労が多いというのには憚れるほど過酷であったことを覚えている人は少ないと思う。文字通り、朝から晩まで田畑にしがみついて働いていたのである。ある女性の話によると、「子ども時分の私が夕飯を待ってお腹空いていても、母ちゃんは真っ暗になっても働いていて、呼びに行ったものである」と回顧していた。それ程生活に追われていたのである。そんな生活の中で唯一の休憩が「お茶(飲み)」「おこびれ」であった。倉石氏の論及はそんな「オチャ・タイム」における機能に着目したものである。かつての地域社会の日常は、人々の交流の機会としての「オチャ」によって支えられていたというのである。「オチャ」の機能は「茶飲み話」をしながらの情報交換であり、物々交換である。しかしながら、お茶仲間は地域の中での類縁やご近所に限定されていた(倉石氏の「幼馴染み」だったという指摘は疑念が残る)。「居るかい?」「お上がりなして」「お茶、飲んでったい」という挨拶は、日常でよく聞かれたものである。また、冠婚葬祭においては、今でも引き出物やお返し物に茶や砂糖を返礼する風習が残っている。お茶が静岡産であることは言うまでもないが、「お茶(飲み)」の習慣は日常であったのである。しかしながら、こうした風習と「ムラのコミュニティ」を、倉石氏は再生不可と無意味であるとして、新たなコミュニティの創造を提言している。確かにそのままの再生は不可能であることは理解できるのだが、このコロナ禍での都市機能の喪失と地方創成の(都市から地方へという)潮流の中で、そのように断じるべきではないのではないか。
第二に、倉石氏は「オチャ」の機会は「社会的な立場の違いを解消する役割(対等の関係)を果たしていた」(p32)というが、これは承服しがたい。本来の「お茶飲み」は、近隣の仲間であり外界の人間であったのではないか。「酒宴」にまで拡大解釈しているのではないか。類縁との付き合いとして「お茶飲み」は、決して立場を解消するのでなかったのではないか。かつての村落共同体は、そうした因習的で窮屈な封建制度の下にあり(本家と分家、親分子分の関係)、あくまでも近所付き合いの仲間との「お茶飲み」で、一時でも解消発散する「お茶飲み」であったように理解している。
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