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2020年2月24日 (月)

落日の日本

33261358  昨日、犬あっちイケーの『のど自慢』を眺めていて嘆息したのは、歌謡曲・演歌もしくはJ-POPばかりになっていて、人口に膾炙する歌唱曲がなくなり、歌詞内容も空疎で平板になっていることだった。1970年までは『のど自慢素人演芸会』という番組名であって、長唄・講談・民謡など多種多芸であったのだが、絶滅危惧種の民謡もまた、21世紀になると番組から消衰したとの事である。人々は生活に即して唄うことはなくなったのである。その代表と言えば、AKBや嵐ではないか。容姿やダンスが注目され、リズムやメロディー中心であって歌詞など付け足しに過ぎない。言い換えれば、ふわふわしているだけの事なのである。
 魯迅といえば、中学校の国語教科書にも取り扱われて、覚えている者が多いのではないか。自分も光村図書の教科書で読んだような気がする。「気がする」というのは、あまり印象に残っていないからである。多分『故郷』であると記憶する。覚えているのは精々、北原白秋の『落葉松』と志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』と宮沢賢治の『よだかの星』と太宰治の『走れメロス』程度である。関心は文学になく、理数系科目だったからやむを得ないだろう。
 彼は中国近代文学の父とも称され、日中の青少年に影響を与えているが、取り分けて、日本人の読者は多く、人気が高いと言わねばならない。太宰治の『惜別』という小説の中でも演出されている。しかしながら、太宰の魯迅青年像は、太宰流に多分に脚色されており、参考にはならない。それはあくまでも、「独立親和」を願っての、敗戦直前に国の委嘱を受けた国策小説である。そのフレーム内のフィクションにすぎない。太宰は魯迅の文学論や思想には全く関心がなく、魯迅の革命性には微塵も触れていない。むしろ、他の革命的な中国人留学生と距離を置く人物像として描かれている。傍観者としての太宰自身を投影しているのである。しかしながら、戦争賛美や戦意高揚を促すものとなっていないことが幸いしている。「真の愛国者は、かえって国の悪口を言う」、「東京の人の愛国心は無邪気すぎる」などと細部で巧妙に批判しているが、大要は変わらない。だから、あくまでも小説として楽しむだけのことであり、両者の文学観への嗜好は読者に委託されているのである。しかしながら、革命性がないことによって、日本人は何度も敗戦に際会することになるのである。もっともっと、この無能なアベ政権は、行き着くところまで続行すべきなのである。

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