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2018年4月

2018年4月28日 (土)

近代日本の科学技術への「総括」

33706317 さすがは元東大全共闘代表である。論旨明快である。資料を渉猟するだけでなく、安保・沖縄闘争や大学闘争において突き付けられたのであるが、放置されている諸問題についての言及もなされていて、大変な労作といえるのではないか。近代化した日本の150年を問うているのである。このことは、多くの人士によって認識され、論及が急増しているのである。例えば、ある高校の日本史の授業では、学習プリントが出題され、大テーマとして「日本の近代化はどのように行われたのか」が問われ、そのための視点として、「なぜ、日本は近代化に成功したのか。その過程で失ったもの、犠牲にされたものなど問題点は何か」と提示されている。また、「最近、『明治維新はまちがいだった』という本や、『家康江戸をつくる』という本が話題となっている。これはなぜか」と補足している。山本の岩波新書は、序文で要点がほぼ語り尽くされているが、重要なのはその論証である。日本語や日本の学者に特有な曖昧模糊とした論説が多い中、山本の記述は一等鮮明である。今年も春の叙勲が内閣府から発表されているが、スポーツ選手やら芸能人など、若いうちから勲章にイカれるようでは話にならない。思想信条が問われているのである。貰う方も貰う方であるが、山本にとっては、それらを遙かに凌駕する業績となるのは間違いがないだろう。本当の仕事とは、こういうものなのである。
 今年の春は目まぐるしいほどの忙しさであり、ゆっくりと鑑賞したり、リラックスができないことである。街路樹や庭木では、もうハナミズキが満開を過ぎているのである。種蒔きを始め、農事を急がねばなるまい。

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2018年4月 6日 (金)

入学式今昔

2018040510470000 毎年、桜の開花があると観に行く一本桜(これ)である。桜の時期になると、この貧弱なブログのアクセス数が上昇する(これ)のだが、庭に植栽した引越し記念の桜も、天を見上げるほどの大きさに展開し、春の陽光を浴びて満開である。
 母校の入学式のために小中学校を訪問したのであるが、無難な儀式であったという感想である。小学校の入学式で気が付いたのは、対面式の入学式であったことである。無論、新一年生が背丈が小さいということもあるだろうし、演壇の式典に慣れていないこともあるだろうが、半世紀以上前には、演壇式が普通であったように記憶している(体育館ではなく講堂と称していた)。無用に起立させないで、椅子に座っての平壇式典になっていて、微笑ましいものになっていた。着用している衣類も頭髪も現代風で可愛らしい。かつての講堂はだだっ広く、冬は寒々したものだったが、今では少子化ということもあってコンパクトな体育館を利用している。父兄の服装は、往年は和装が殆どであったが、今では圧倒的に洋装仕様である。これが中学校になると、少し変容する。男子に丸刈りが散見され、女子はポニーテールやショート、ロング・ストレートと多彩である。意外に女子の方が背丈が高いこともあって、男女の凸凹コンビもいて可笑しい。お祝いの言葉や新入生の言葉は、式典に相応しい穏当のものであって滑舌がよい。昔日の吃音や赤面やあがり症を見聞することは少しもない。そういう意味では洗練(一色化)されてきているのかも知れない。往時の親は、生計のための仕事に追われ(そう言えば小学校の父母同伴が多くなっている)、父親が参列することなど滅多になかったような気がする。小中とも、父親がビデオカメラやデジカメ役に徹しているのである。中学では、男子は懐かしい詰襟の学生服が占め、女子はセーラー服はなくなってスーツ・スカート姿に変遷している。往年には国歌斉唱がなかった筈であるが(長野県歌の「信濃の国」斉唱が一般的だった)、それが式次第に挿入されている。1989年の学習指導要領では、学校現場では国旗掲揚と国歌斉唱を義務付けているようである。しかしながら、国民国家を否定する自分としては、掲揚と斉唱は認められないので、典礼では、国旗を平視したり一礼することもなく、口を噤んで「君が代」も歌わないのは勿論のことである。

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