反戦主義者なる事
この本の書評はどこで見たか。『信毎』かネットか、よく覚えていない。益々耄碌した自分の頭をめぐらしたり、メモ帳を遡って点検しても分からない。それは兎も角、内村鑑三の弟子である結核医・末永敏事(1887-1945)の生涯を追究した労作である。彼の前半生は、「末永は角筈時代よりの弟子であって、医学者として米国に十年留学し信仰を守って今日に至ったものである」と晩年の内村は日記に書き付けている。将来を嘱望されていたのだが、内村の司会で門下のキリスト者と婚姻後、約六年余りして離婚する。時は1933年であり、この離婚の理由は不明であるが、日本帝国主義は満州事変から満州国をでっち上げ、愈々本格的に侵略戦争にのめり込んでゆく時期である。直後には、官憲による小林多喜二虐殺事件が発生し、獄中転向が続いたのである。まさしく、時代の転換年度である。さらに、1937年の日華事変により中国への全面的な侵略戦争が開始され、この時に至って、翌年の末永は、国家総動員法を拒否して、当局の職業調査に、「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲に拙者が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と申告したのである。師事した内村鑑三は、不敬事件で教職追放となり、日露戦争前から非戦論を展開していたのである(兵役拒否でないことが内村の限界である)が、弟子の末永は軍務拒否を通告したために、即座に特高に逮捕される。「捨て身の反戦行動」である。これ以降、彼の後半生は暗転したのである。『内村鑑三全集』を編集した鈴木範久は、「一部の例外を除いて、無教会主義者たちの反戦は挫折していった。しかもその多くは満州事変を機に妥協に転じた。・・・これに対して末永敏事は行動し、そのまま死に至った。徹底して生きるには信仰が必要。彼には確かな信仰があったのだろう」と語っている(p73、183)。翌年、宗教団体法が制定され、多くのキリスト教徒は恭順を示して、1941年、宗派を集めて日本基督教団を発足させる。翌新年には、伊勢神宮に参拝して教団設立を報告したのである。ドイツ教会闘争史に詳しい雨宮栄一は、日本のキリスト教徒は「だらしなかった」と恥の歴史を慨嘆している(p88)。戦後になって教団は、戦争責任についての告白を議長声明として出しているが、遅きに失するばかりでなく、それを具体的に行動指針として提示していないものとなっており、その後も社会派牧師や学生を排斥したのである。反戦主義者の告白によって、敏事の結末(後半生)は破滅だったが(p149)、累が及ばないように配慮しながら、一人「みじめに」殉教したと言えるのではないか。今や侵略戦争の加害責任が意識化され、問われている時代になっているのだが、同時に、侵略戦争に反対して行動した人々の名誉復権も執拗になされて、それが日本人の歴史認識に据えられなければならないのである。
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