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2017年11月

2017年11月30日 (木)

『葦折れぬ』を読んで

Dnh06t8uqaavzng 戦後間もないころに創業した大月書店の第一冊目の書物ということである。これがベストセラーとなり、出版事業としての礎となったということである。『葦折れぬ』は、多くの青少年少女に好感され、早乙女勝元や郷土史家の田中欣一等も愛読書となったようである。この書を知ったのは、「信毎」(長野県人は信濃毎日新聞のことをそう呼んでいる)で、千野敏子の軌跡を紹介する記事に触れたからなのであるが、一度読んでみるかと図書館から拝借したのである。夭折した信州の一女学生の手記である。旧字体・ひらがなの文章を読むことは久し振りであり、太宰治全集の読破で慣れ親しんだこともあって、仙花紙様のこの原本を新鮮な思いで読み進めたのである。この「真実ノート」の大部分は女学生時代の記録で、時代は太平洋戦争の渦中に相当する。戦時下に人々はどんな思いをしたのか、という関心もあったのである。冒頭から「私は戦争をあさましく思ふ世の反逆者である」(p8)と書き記して、「私は未だ曾て祖国愛と言ふものを感じた事はない」(p44)とも自己規定しているのであるが、戦後直後の読者には驚異に受け止められたのであり、敗戦に伴う驚天動地にあっては、ノートの中とは言え、戦時下にこのように表明されていたことが支持されたのである。戦争中の青少年少女にあっては、大概戦意高揚に流されていたのであり、それは高学歴な人間ほど狂信的だったのである。しかしながら、千野敏子が完璧な反戦主義者かと言えば、そうとも思えない言説が随所に見られる。真実を追求するあまり、観念的で自己狭窄的になってしまっているのである。だから、「戦争に対して不平を感じることはなく」(p12)、日米開戦の報に「人一倍血湧き肉躍り」(p82)、生徒を伴って出征兵に感激したり、「涙の出さうな衝動」を覚えていたのである(p151~152)。文学的・哲学的な感傷は、戦前の青少年少女に遍満していたのであるが、それはひとえに貧困と飢餓の生活が滲透していたからと推察される。そのような限界性と制約性が見られるとは言え、その時代に自己欺瞞を唾棄し続けた彼女の信念に瑕疵があるとは思えない。千野はノートに「暗黒時代に生きてゐる自分が哀れな気がする」と表白しているが(p193)、その書の跋において藤森成吉が述べたように(p253)、彼女は典型的な時代の犠牲者と思われてならない。小学校教師として、彼女もまた貧窮の配給生活の中で、終には教壇に倒れて栄養失調で亡くなったのである。享年二十二歳。
 これを読むと、嘘と欺瞞、無知と無恥の野郎がこの国の最高権力者となっている事は、全くの皮肉と言わなければならない。

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2017年11月25日 (土)

農学と農業

33666567 今年はコメの自家消費が早く、既に「新米」(風さやか)を食しているのだが、その味と言えば、少し旨みが乗っていないような気がする。香りもいま一つ。やはり収穫期への途上に降雨と曇天が影響していて、登熟には不足したのだろう。だが、米粒が粒々感がはっきりしていて、やや大きめと見受けられる。ほくほく感にやや欠けるという印象である(冷めてもおいしく感じられるのでおにぎりに適していると思われる)。登熟時や稲架掛け時に秋霖にやられたこともあるだろう。コメの食味にはコメの炊き方も影響する。固目もしくは柔らか目など人により好みが異なるのであるが、炊飯器の機能は向上している一方、コメの研ぎ方に失敗している現場に屡々直面している(半世紀前はお釜でゴシゴシ研いでいたものだが、今では、精米技術の発達によって、コメは研いではいけないのである。もう一つ目にするのは、洗い過ぎて栄養分が殆ど流失しているコメ洗いである)。これではコメの消費が半分に減衰するのは必定と思われる。コメの食味は出来半分、炊き方半分である。
 タイトルが仰々しいのだが、後半部は飛ばし読みだったが通読してみた。農業は、風俗、歴史、生活、環境など、人間が生きている全領域を包含しているのだが、農業の学問(=農学)は、旧来農学部・農学校や農業高校で教えられ、一般に低評価されていたのだが、今や農学は再評価されつつある。生源寺眞一の農学論は、「はじめに」と第一章、第二章に、農学の「学」としてその概要が分かり易く展開されている。即ち、農学とは食料を中心に衣食住の問題に深く関わる科学と定義されている(p4)。取り分けて、現代の農学は、持続可能な発展(sustainable development)を目指して、環境を整えるものづくりとして捉えられているという。そして、農業経済学とは、「経済学の理論が役に立たない問題が存在することを、当の経済学を応用する過程で学び取ることができる学問」(p38)と考えている。これには、結局よくある開発論ではないか、農業にはそれに捉われない分野もあるのではないか、という異論・批判もあるのであるが、ここでは現代農学の動向を認識した次第である。

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2017年11月 9日 (木)

自立支援の矛盾

33324733_2 介護保険法の目的は、「自立した日常生活を営むことができるよう…」(第一条)とあるために、その法改正の度に「自立支援」が強請されている。これは国の介護給付抑制が狙いであることは間違いないが、来年度(2018年)の制度「改革」では、益々高じて自立支援事業に成功報酬制度が導入されることになっている。社会保障費が膨らんでいるのは、人口が多い「団塊の世代」が高齢化しつつあることもあり、致し方ない面もあり、しかしながら、財源問題は税の累進課税化で一発で解決するのである。この間のパナマ文書に続くパラダイス文書の発覚に見られるように、世界中の資産家と権力者は、どんな手口を行使してでも租税回避しているのであって、極右政党の自民党・政府が税対策をせずに庶民を騙して収奪しているのは、そのためなのである(モリカケ問題における嘘つき財務官僚の国税庁長官への栄転)。グローバリズムとは、強欲資本主義の同義語に過ぎないのである。
 介護民俗学とは物珍しい新たな手法と思われるが、民俗学の一つの手法=聞き書きを介護の分野に応用したものである。そして、現在の介護に対する問題提起となるものである。介護業界の問題とは何か。それは、介護する側と介護される側という分岐(関係性)である。元々、利用者は超高齢者であり、職員は大概若く、20代職員ではざらに存在する。半世紀以上の年齢の差があることが多く、知識や人生の蓄積の度合いでは懸隔しているのである。高齢者は、現実的には死に向かって人生を下っていく孤独と無念を覚えているのであるが(p108、279など)、その老いとその先にある死を、これから人生の花開く若きスタッフがどれだけ感じ取れることだろうか。その壁を論じることは介護業界では意識化されずに、仕事としては皆無となっている。介護技術のみに専心することとなり、それが逆に、その問題を遠ざけている現状なのである。スタッフが利用者の人生を全く知らずに介護していることはよくあることである。かつてはその経験知の故に尊敬されていた老人が、今ではものとして扱われている現実に出くわすことが屡々である。また、誤解して「してあげる介護」に満足して自身の生きがいと誇りとして覚えたりする逆転現象すらあるのである。利用者からすれば、疎んじられ厄介者扱いされ、自己決定もなく赤ん坊のように扱われてしまうことすらあるのである。問題行動に焦点化されて対処法に追われる業務の有り様は、介護事業所ではどこにでもある現象である。また、老いに価値を見出せずにバーンアウトに陥る職員すらいる。介護業界の繁忙は、専門家としての社会的要請だけでなく、業務に追われて身体的にも疲弊しており、低賃金がこれに拍車をかけているのである。だから離職率は業界随一となっている。介護労働に忙殺されているのが現状なのであるが、実を言えば、そんな業務など、どうでもいいのである。著者はその問題にいち早くアプローチして、一つの問題提起をしている。「老い」にも価値があることの発見(p282)と、民俗学的聞き書きの手法が、高齢者との関係を取り結び、丸ごと人として尊厳される方途であるという著者の確信(p291)が伝わる著作である。また、高齢者の心身老化に対して、保険費用抑制のために、国によって「自立支援」を強迫し続けることが本当に正しいのかと疑われるのである。

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2017年11月 5日 (日)

卑しき輩が支配する国

Ninjinnmusi 人参を収穫に行くと、キアゲハの幼虫に出会う。冷え込む今頃になっての幼虫じゃ、行く末が気になるところである。とりあえず人参を収穫する為に移動してもらうしかない。隣の畑のオジサンは、玉葱の苗を植え込むために、昼を過ぎても一心不乱に作業を続けている。少々話し込んだ後、自分の畑に戻って人参4本、白菜1玉、大根1本を持ち帰る。昼食を済ましてから地域のえびす講に赴いて、地域の仕事を担い終わると三役で反省会をする。地域振興と地方疲弊の話になるが、結構、皆さん問題意識が高く、知らない情報交換や一人一人の意見を伺うことができた。地方のヒトとカネが総ざらい都会に持っていかれることを認識しての散会となった。県民税や県下の青年の約8割が都会へと流失して、カネとヒトとを都会がせしめている事態なのであるが(長野県の場合)、ほとんど収奪される地方の現実は知られることなく、都会が傲慢に享受しているのである。そして、一例として垣間見るキー局のテレビ番組を視聴すると、タケシやらタモリやらトコロやら、お馴染みのヨシモトやジャニーズの芸no人にウンザリして、意味もない番組が盛り沢山で、怒りを通り越して失笑するばかりである。これをプロデュースする人間がどんな輩かは分かっているのであるが、毎度のことながら、この国は狂っていると思わざるを得ない。「地方創成」とな?もうそんなスローガンはかの人物には忘れ去られて(この点、山口と福井には二度と行くまいと決意している)、次は幼児を出汁にして政権維持しようとしている。コイズミシンジロウという自民党議員を時折ニュースとして瞥見するが、早く消え失せてほしい。もう十分、ソウセンキョやトランプ遊びで日本国は腐敗し果てているのであって、むしろ日本国は、一も二もなく政府を筆頭として破滅するべきなのであり、破滅させるべきなのである。
31633781 子どもをすべて推奨する訳ではないが、この国は悪い「子ども」によって支配されている。モリカケ問題の中心人物とその周辺の輩、およびそれを支持する者どもは、私益を追求してばかりの悪い「子ども」である。「袖口が、鼻水でカピカピだったあの頃。自分の感情を思いきり出して泣き、笑い、怒る子ども達。今の私達は、喜怒哀楽を顔に表すことを、どこに忘れてきたのでしょうか」という思いが本当の思いならば、この国は起死回生となるだろうが、その兆しは露ほどにも見当たらない。しかしながら、いつかは突如として噴出することになるだろう。「自殺したい」という青少年が、お安いSNSの犠牲となる社会は、それほど危うい社会であることは言うまでもない。換言すれば、あの悪徳どもによって、人の命が鴻毛よりも軽くなっている国柄なのである。

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