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2017年8月10日 (木)

介護の真髄

33524744 高口光子さんの仕事には平生注目しているのだが、しばらく遠ざかっている内に見逃していた近著を通読してみた。相変わらずの高口節が炸裂している(講演会でのそれは有名である)。それはさておき、かつては自宅で黄泉に出立するのが当たり前であったが、今では約78%が病院で、約13%が自宅で、介護施設では約9%となって、病院では、点滴や薬剤・栄養剤投入のためのチューブに繋がれて亡くなっているという。家族は少しでも親に生き永らえてほしいという願いと悔いを残さないために病院死を選択している。いわゆる、ターミナルケアの次元の話なのだが、これまた、家族には悩ましい問題なのである。介護施設での死は生活の場としての旅路である。高度な医療技術がなく、治療は行わないのが原則である。「施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということ」(p4)である。施設でのターミナルケアは家族の意思に沿って行われるのであるが、その時に家族にチューブを入れるか、救急車を呼ぶかが問われることになり、そしてここが問題なのである。家族として後悔しない選択を迫られるのである。救急病院に搬送されても死は免れないのであるが、病院での死は生物生命体の死、病名での死に過ぎない。だから、死の瞬間から退院となり、自宅か葬儀屋に搬送される。病院とは、元々治療機関なのである。超高齢化社会にあって、これからは介護施設での死の割合が増えると予想されるが、それに見合った施設の内容が整備されているかどうかと問われれば、途上と言わなければならない。施設には、本人の「大いなる自己断念」(p34)をもって入所するのだが、自立支援という方針のもと、個人の尊厳と生活支援によって「自己実現」できる場が、本当の意味での介護施設なのである。そして、介護の仕事とは、大変な生活支援をしながら、利用者が「ただひとりの人間として自分らしく生きて、死んでいくのを見届ける」(p221)ことなのである。他方、日本政府は介護保険法を改悪し、介護給付を削減して自己負担を増大して、権力と財政の私物化に勤しんでいるのが現状である。人間として恥ずかしい。
 俯いて耳を閉ざして原爆の
 国の宰相私邸を目指す
 高口さんの指摘で感心したのは、「死んでいく人たちの価値はそのお年寄りが出会った人で決まる」(p18)という下りである。「介護の毒は孤独」(p6)との指摘と通底している。人はやはり一人で生きている訳でなく、また一人で死ぬ訳でもないということである。

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