幻想の明治
梅雨明けの曇天・雨天が続き、各地では葉いもち病が心配の種になっているという。特に、東北地方の太平洋側が懸念されている様である。当地でも例外ではない。特に、穂首いもち病は白穂になって、その痛手は甚大である。午前の作業前でも、スズメの群れが見られ、愈々不安な気持ちにさせられる。また、本年は梅干し作業ができず、梅漬けに甘んじるという次第である。ニュースでは、野菜の高値に悲鳴を上げる都会の消費者の声を拾っているが、生産者の視点では報じていない。関東圏の観光地とグルメを只管垂れ流しているテレビやマスコミは、狂っているとしか思えない。時代に追放されつつある老躯の身になれば、今更どうということはないのであるが、この本に期待した我もまた大バカ者である。著者は市井の歴史評論家と言われているのであるが、『逝きし世の面影』で和辻哲郎賞を受賞して俄かに著名になっている。たまさか手に取って読んでみたが、この本のどこが名もなき人びとの肖像を捉えているのか訳が分からない。山田風太郎論は興味がないので吹っ飛ばして読み続けたが、維新政府と民権運動との争闘を描いているばかりで、内村鑑三論も政宗白鳥の評論を下敷きにしているだけである。今では文壇や論壇など皆無に近いのだが、保守系雑誌のみが書店の店頭に並んでいる。赤字発行である筈なのに毎月刊行されているのが不思議なくらいである。こんな鄙びた地方新聞にも広告を打っている。表題も仰々しい。『逝きし世の面影』において、彼は「人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人」(p202)を表現したという。司馬遼太郎は、明治のナショナリズムを称賛したのだが、渡辺は江戸末期から明治初期の日本人に焦点を当てたのである。彼は、司馬を「講釈師」(p91)と断じ、自らは外国人の文献を渉猟して、あんなにも豊かな文化を持っていた日本文化が喪失したのは、1900年頃の世界的な国民国家が確立した故であるとしている。しかしながら、幕末から明治の社会は幻想である。グローバリズムやインターナショナリズムが横溢する現代は、むしろ逆に、中央集権国家を促進し、地方の疲弊と民衆の貧困常態化を招来している。それは明治政府もそうしたのであって、どうして民衆の闘いの歴史を無視するのだろうか。例外を除いて、多くのインテリ知識人は左翼クズレとなり、己の恥ずべき過去を押し隠し、民衆蔑視の想いに駆られて右翼潮流に帯同していくのである。色川大吉が指摘したように、彼もまた講釈師だったのである(p157)。陥穽は至る所に存在しているのである。
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