写真集を読み解く その2
1960年代の「家の光」は、ここ信州の農村では農協を通じて、どこの家でも家のどこかに置いてある雑誌であった。自分にとっても、活字への関心はこの雑誌に育てられたのは言うまでもない。今でも、書店店頭に並ぶ他の雑誌を押しのいて、最も購読者が多い雑誌である。版型は今より小さく、父母は読んでいたのかどうか(農政を語るうえで、『家の光』を研究する歴史学者が殆どいないのは残念なことである)。母は尋常小学校もまともに通えず、息子の私に漢字を尋ねたり、漢字辞書が手元に必携であった。平仮名に少々の漢字しか知らない母を、私は決して恥じていないどころか、むしろ健気に生きた母を誇りにしている。そのことを思慮すると、今のアベ内閣を到底許すことはできない。二の丸は陥落した。次は本丸へと関係者一族郎党を民衆の手によって掃討しなければならない時である。民進党など関係ない。民衆自身が政党を創出し、育成しなければならない時期なのである。
『写真アルバム 上田・千曲・東御の昭和』の後半の写真を丹念に読み解く作業は続いたのである。
①1950年代、戦後の混乱から一息つき、人々は余暇の楽しみを興じつつあるが、農民は食糧生産に追い立てられているばかりである。耕運機や脱穀機などが普及し始め、子供たちは坊主頭やおかっぱ頭で父母の農作業を手伝うのが当たり前であった。
②1960年代になると、子供たちは下駄履きからゴム靴へ、学生服とセーラー服へ、肩掛けカバンとなり(1970年代には背嚢カバンへ)、大人たちは和装から洋装が普及した。1960年代後半には、未だ茅葺の屋根の民家が残存していたが、やがてトタンが被せられ、瓦葺が普及した。学校の作りは板張りからコンクリート製の校舎となる。
③戦後、天皇の行幸が頻繁に行われ、1964年の天皇一行の植樹祭では、新戸倉温泉の白鳥園に二泊して、人々は国道で日の丸を振って出迎えた。私も、教師の指示で日の丸を持たされ、理不尽にも、通過時に平身低頭させられたことを鮮明に覚えている。
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コメント
「家の光」私も愛読書でした。
もう一つが「リーダーズダイジェスト」
東京に出てきて、市谷の「家の光」本社ビルを見た時はそれなりに思い出に浸りました。
側の市谷駐屯地、、、遠藤健司の「カレーライス」ですね。
私の年の離れたいとこは「縦の会」の制服化、それに倣ったものを着て我が家を訪れたことがありました。私の好きな人です。もう、50年近く昔話になるのかなぁ。
投稿: kappa | 2017年7月28日 (金) 19時23分
「家の光」については、諸手を挙げて称賛している訳ではありませんが、過去、一定の役割を演じたのは間違いありません。この雑誌の歴史研究者は宮城の大学教員が一人いるばかりです。私が大学研究者ならば創刊号からすべて読み解くのですが、如何せん、人生は終わりです。
大変申し訳ありませんが、カレーも三島も私は大嫌いです。私は、貧民出身の自衛隊員の方を選択します。この面では意見は異なるかも知れませんが、kappaさんのブログは参照しています。
コメント、ありがとうございます。返答遅れて申し訳ありません。コメントなんてめったにありませんので気が付かないのです。
投稿: ぼけなす | 2017年8月 4日 (金) 21時22分