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2017年4月

2017年4月24日 (月)

文科省の家庭教育支援?

Img1 家庭の教育力が低下している、と言う。誰が言い出しているかといえば、文部科学省である。正確に言えば、文科省の「生涯学習政策局男女共同参画学習課家庭教育支援室」である。冗長な名称部署であるが、行政とはそういうものである。国家が共謀罪の導入を目指している、現在進行中の国会審議の次は、家庭教育支援法が企図されているらしい。国家主義者による権力の私物化が漸進している中で、第二次朝鮮戦争の軍事挑発がなされ、いよいよ戦争国家化が成就されようとしている事態なのである。既に、道徳(戦前の修身)の教科化が決定し、来年度から教科書が使用される。国家による洗脳教育が一段と進行するのである。これと並行しての家庭教育支援法である。いじめ・非行を叫び、子どもの貧困が注目され、母子家庭世帯の増加や青少年の引き籠りを捉えて、少子高齢化に危機感を抱く政府は、家庭の中にも手を突っ込む目論見なのである。その時、当事者の自己責任と親の責任が常に問われ、己と己を中心とする社会通念を強制するのである。利潤追求するために金融資本は常に家庭の解体を主導するのであるが、政府はそれを国会で法制化して施行する。原因を作ったものがこれを「是正」するということのメチャクチャからして、テロ等準備罪以上の悪法になることは間違いない。動機が不純であることから民衆が総動員されるのである。確かに地域社会は分断され、子育てが孤立し(孤育て)、人々が貧困化し、家庭環境は変化している。ひとり親世帯の貧困率は半数を超越している。反政府側の人々の中で、どれだけの人が家庭と家庭環境の実態を認識し、関心を抱いているのだろうか、と自問しなければならない。もしかすれば、もう後戻りができない時期なのではないか、と考え及ばなければならない時なのである。極右翼政権であり、政府官僚や司直は保身と追随に走り、マスコミは政府広報化している有り様は、同時に、主権のある人民のチャンスであることも知らなければならないのである。

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2017年4月 9日 (日)

都市のまやかし

2017040912060003 梅の花が満開となり、朝からの菜種雨が止んで桜の開花となっている。都会では満開、もしくは散り始めとのことであるが、当地では漸く春到来である。猫の額のような畑を整理して、とう立ちした白菜 の菜花を、天ぷら蕎麦に投入して試食する。これは農園を営む者だけの味わいである。柔らかくて、ほろ苦さを感じない、ほんのりとした甘みが口腔内に広がり、春の味わいである。

 植木屋の 幟や増えて 春来る

 この本の中で、野坂昭如は長野市に、都合、六回訪ねたことを記している(p119~130)。1975年のことだから、高度経済成長期を経てオイルショックの端境期で、農家は兼業化が進み、三ちゃん農業から母ちゃん農業へと進展し、農村が激変した時期である(この農村医療記を読むと、当時の農村・農民生活が垣間見れる)。当時はまだ農業人口は750万人ぐらいであったが、今では200万人を切っていることだろう。60年前のそれの10分の1であり、激減といってよい。駅前通りはシャッター街となり、農村は耕作放棄地が増え、都市は労働力(人)と食料とカネを地方から飲み込んで成立しているのである。そして、都市生活者の保守化である。これが持続可能な社会ではないことは言わずもがなである。その稿の中で、野坂は二つの提案をしている。農民による食糧出庫拒否と、農業を婦人に委ねよというものである。これは実現性が薄いのであるが、彼は農業指導者研修会の講師として発言した後、エノキ栽培やリンゴの集荷発送センターを見学して、農業生産の大変さや都市生活者の無理解を感得している。また、地元の婦人三人と懇談している。そして、この農業危機に及んでは、「もう女に渡しちゃった方がいいような気がしてくる」(p127)と吐露している。婦人には飢えは無縁だからである。「都会に住んでいる者は、何かとてつもないトリックまやかしにかけられている」のであって、「そのまやかしは農村に対するよりは、はるかにひどいような気がする」(p130)と文末を締め括っている。けだし、至言と言わなければならない。

 クラーセンさんの訴えにも傾聴してみてください。
 http://afriqclass.exblog.jp/

 

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2017年4月 8日 (土)

司馬遼太郎の朝鮮観

32288547 著者である中塚明については、彼が近代日朝関係史についての専門家であること以外、詳らかに知らない(これ参照)。しかしながら、司馬の著作が未だに広範に読み継がれていることから、これを念入りに批判することは、厳として意義のあることである。のぼせ上った歴史修正主義者や国粋主義者などの右派が大手を振っているからである。司馬の本は全くと言っていい程読んでいないのだが、瞥見したところ、その虚実が入り混じった文体が嫌いである。小説家としての資質は多分あるのだろうが(推測)、そのしれっとした倨傲が気に食わない。彼は『坂の上の雲』の映像化を拒否したということだが、著作権を除けば、作品は発表した時点で著者の権限から離れるのであって、評価は読み手が行うことなのである。したがって、映像化を拒否するのは傲慢以外の何物でもないのである(映像化を望むわけでもないし、映像化するべきだとも思わないが)。母親は自分の子供を拒否するだろうか。歴史意識や想像力が漸次喪失されることに付け込んで歴史を改鋳し、それを美化する風潮は、紛うことなく、人々の記憶と意識を改変し劣化させるものである。中塚によれば、司馬の明治観は「戦前の昭和は大嫌い、明治大好き」(p27)の「明治栄光論」だと言う。敗戦前の昭和は「異胎の時代」として毛嫌いし、日露戦争は祖国防衛戦争として、それまでの明治は武士道が貫かれた良き時代だったというのである。ちょっと、どうかしているのじゃないのか。日露戦争後、日本人は民族的に痴呆化したと司馬は捉えるが、断じてそんなことはあり得ない。むしろ、明治維新から始まって、殺戮の戦史だったのである。そのことを中塚は、司馬の朝鮮観を批判することで、日清戦争の中にも洞察できると仔細に論じている。朝鮮王朝占領、朝鮮抗日闘争へのジェノサイド、王妃殺害事件(これ参照。意図が不純であることと、その結果としての結論が間違っているが、比較的うまく纏められている)である。司馬に劣らず、明治政府は正史と戦史の偽造、鏖殺(おうさつ)を隠蔽・正当化するためにプロパガンダに明け暮れていたのである。

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2017年4月 4日 (火)

闇市派の農業論

33568994 野坂昭如は、2015年の年末に黄泉に旅立っている。この刊本は、焼け跡闇市派として、農業に関して、(特に都市生活者の)日本人に対する、歯に衣を着せぬ警世書である。アベ・日本政府が掲げたTPP法が、トランプ米国大統領の出現によってあえなく潰(つい)えたのだが、今後は日米による二国間貿易協定(FTA)へと推移してゆくことなるだろうが、これは日本の農業の崩壊に直結する問題である。野坂の論旨は、タイトルにあるように極めて明快である。農業に関しては、この本の中で、興味があったのは三点ある。一つは、彼が都市生活者の思い上がりを指弾していることである(p105~118)。都市生活者には「農民を切り捨てる考え方がひそんで」おり、「今の農村、農民のおかれている、いわば八方ふさがりの状態は、都市にすべての原因がある」として、一度飢えてみるしかない(p154)と直言している。現代の市場主義経済、もしくは新自由主義経済とグローバル化の淵源は前川レポートである(これも参照)。そして第二に、この前川レポートを指針とする中曽根内閣は、土光敏夫を財界から引っ張り出して第二臨調会長に据える。その結果が、民営化と規制緩和に邁進する、その「土光が始めた悪魔の原発事業」である。その国策に従って、東芝は非情な経営危機に至っているであるが、この野坂の刊本には、土光との喧嘩対談が掲載されている(p56~80)。1975年の頃だから、土光敏夫は経団連会長(=財界総理)として辣腕を振るい始めた時期である。ところが、この対談を熟読すると、農業に対する土光の無知が暴露されているのである。彼は肥料仲買商の次男として岡山市の近郊に誕生して、都会に出て技術者として出世街道をひた走るが、「中学までは親父を手伝って百姓やっていた」というが、これは少し怪しい。嘘が混在しているのは権力者のやり口である。土光の発言の中で、「農村問題としての面から見ると、いまはもう地域社会というものが破滅してしまっている」(p58)という一点のみ首肯するのであるが、その問題を何ら追及しようとしてはいない。解決策として、効率的な農村ができるように農業基盤の整備をして、その地域に工場などをミックスさせるという、ありきたりの提唱をするだけである。何のことはない、形を変えた日本列島改造論である。「めざしの土光」、「無私の土光」と称される人でも、言い訳と開き直り、自負と自画自賛で対談は終了している。第三に、何と野坂はこの川中島平を訪問して、講演と、農業婦人三人との懇談をしているのである(p119~130)。

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