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2017年1月

2017年1月25日 (水)

云々(でんでん)閣下へ

33359404 トランプ大統領就任ということで、いきなりTPP離脱署名というカウンターパンチを食らわせられた安倍内閣云々(でんでん)は、トランプ詣でに慌てふためいている様で、国会論議は相変わらずの茶番劇になっている。世界全体としては、右翼潮流云々(でんでん)が幅を利かせており、選挙戦の途中からトランプ当選は予想できたはずである。グローバリズムと格差の増大のため、エスタブリッシュメント(既得勢力)云々(でんでん)をこき下ろすことが右傾化を促進したのである。果たして、「民主主義」云々(でんでん)が試される変動期なのである。"We will make America great again"というトランプは、凋落したアメリカ人のプライド云々(でんでん)を刺激して、支持率調査の結果とは異なり、大いに歓迎されているのであるが、ビジネスマンとしての彼の信条は、根っからの右翼であり、その証拠に、欧州の右翼政党云々(でんでん)の歓迎を受けているのである。同類の「遅れた右翼宰相」であるアベは、会いたさ見たさ云々(でんでん)の「籠の鳥」になっている始末である。一方のトランプは、いの一番にイスラエル首相と電話会談し、血盟を誓って直接会談を約束しているのである。トランプの政策は、瑕疵云々(でんでん)があるが一見もっともらしさを伴っている所に肝があるのである。国家権力は、口をあんぐりと開けて混乱と陶酔と諦念云々(でんでん)を待っているのである。よく、歴史修正主義者は南京大虐殺について全否定する。これだけの物証と証言云々(でんでん)があっても全否定するのだ。彼らは屡々「自虐史観」と称して罵倒するのだが、自虐上等なのである。日本人が、自分自身と日本の歴史云々(でんでん)を対象化して相対化すること程、よい意味での人間らしいことはない。自虐したことのない人間を信用することはできないからである。その昔の宴席で、知人の爺さんの言葉を覚えている。酔いが回った所為なのだろう。下士官として中国大陸に派兵された体験を、後ろめたさを感じることなく、民間人を叩き切った自慢話云々(でんでん)を語ったである。彼は人望のある地方公務員ということだったのだが、一瞬宴会場が凍りつき、ほどなく何事もなく宴会は続けられたのである。戦争体験者の誰もが沈黙し開き直った歴史的事実を口走ったからである。久しぶりの著書を味わってみて、その相変わらずの三好節云々(でんでん)に感心したものである。「自虐こそ理性である」(p194)に特に反応したのであるが、使い古呆けた19世紀の超越論的哲学の理性云々(でんでん)というよりは、知的直観力というべきか。いずれにせよ、本年は混乱の予兆となる一年とみて間違いないだろう。無論、云々(でんでん)閣下に知的直観力がないことは疑うべくもない。

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2017年1月15日 (日)

グルメ時代の危機

150x150_square_587797081 グルメ記事、グルメ番組・ブログが花盛りである。こんな時代になることは、端(はな)から分かっていたが、決して差別感情からではないが、女性の地位向上が寄与していると思う。女性は適者生存のために食への関心が強い。男性は馬鹿だから、空理空論を弄ぶ傾向がある。そして、女性の習性から男性は取捨選択され、結婚できない男が増える訳である。私は米やら野菜やらを自作しているが、卑近の女性から、「御飯が好き」という言葉を聞いた試しがない。パンやパスタが好きというのである。道理でこんな田舎でもパン屋が多い筈である。この根本的な差異は何なのだろうか、と考えたこともあるのだが、未だに分からない。「柔らかくて美味しい」と言うが、固いのは美味しくないのだろうか。スーパーに立ち寄ると、固い食材は殆どなく、あってもデンと商品棚に干からびて残っているのである。冷凍・冷蔵技術が発達したからかも知れない。受験生の時には、東京で生活して色々食したのであるが、旨いと思ったことは一度もない(大抵は塩分&カロリー超過で彩り悪い)。余りにも不味いので二度食い(他の食堂で再び口直しすること)したこともある。酷い所では食い逃げを警戒され、銭湯では無賃入浴の嫌疑をかけられ、やむなく二度支払ったこともある。一刻も早く東京を離れることを至上命題にしたほろ苦い経験がある。だから、すぐさま離京してしまい、大学生協などで胃袋を満たす日々が続くこととなった次第である。グルメの番組を見ていると、行列しているのが旨い店、或いは、予約が困難な店が旨いという評価があるというが、どうかしている、としか思えない。喰うことは大事なことではあるが、喰うことで慢心することは大事なことではないのである。むしろ軽蔑すべき事柄である。東京の番組ではマグロが重宝されているが(大阪では番組にならず、メバチ中心)、マグロは沖縄で食するのが良い。牧志市場の裏通りにはマグロ専門店が並んでいる。マグロの産卵地であり、冷凍ではなく、その日の新鮮なうちに山盛りで、旨い泡盛を傾けながら、存分に味わうことができるのであるが、そのことを知っているヤマトンチューは寡少である。宮本常一は父親から出郷の教えを授けられたという。曰く、「金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ」と。関西では、行列は「金龍ラーメン」か「りくろーおじさん」位しか目にしたことがない。行列とあれば他の店に馳せ参じるのが普通である(帯広でもそうだった)。平均値が高いのである。第二に、東京の人間は肉食動物である。例えは豚には悪いが、豚のような顔をしている人間が食しているのをよく目にする。共食いである。最後に、殆どの人は野菜の旨みを知らない。いくら野菜が高いとはいえ、野菜を飾り物して提供しているレストランが高級と思われているのが分からない。バランスを考えてほしい。肉を食するために野菜があるのではなく、デザートも果物への配慮が足りない。アボガト?アホか、と思ってしまうのである。季節感を演出せんかい(完全に関西弁になっていますな。笑)、と見聞していて冷笑してしまうのが屡々である。やはり、食道楽の関西の方がレベルが高い。だから、在住の頃は、休みとなると懐に数万の身銭を入れて、外食に繰り出したものである(だから、未だに赤貧に喘いでいる。泣)。当然、二度食いすることはなくなった。政治風土としては三流であるが、やはり歴史と文化の上では関西は一流なのである(大正時代まで、大阪は日本一の都市だったことを知っている日本人はいまい。大阪の人すら知らない)。事実、近郊の農漁業の発達と市場規模のレベルでは、築地市場や大田市場では及ばないのである。春菊(関西では菊菜=食べる風邪薬)ひとつとっても、その差異は歴然としているのである。ちなみに、関西では、客が黙って清算したら、その店の味は劣悪である。ホントに旨かったら、関西人は精算時に必ず「旨かったわ。また来るわ」と付言するのが礼儀であり、実際、常連さんになるのである。それ程関西では、店舗同士の競争と栄枯盛衰は激しいのである。

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2017年1月12日 (木)

貧乏上等

33519667 三島事件というのをご存じだろうか。当時幼少の私は、帰宅した際に兄から告げられて、「ついにやったか」という多少の興奮しかなかったが、兄は随分取り乱した様子だった。自分としては、文学少年であったために、新潮社の広報誌である『波』を読み続けていたこともあって、三島の自死については予想されたことであった。むしろ、その後の反応に興味があった。この時代錯誤の事件に、新左翼や全共闘は気後れと弔意を示し、右翼や文学界は才能への遺憾と弔辞を表明したのである。誰も彼も、そろいもそろって奇体な反応であることに失望したものである。日本の知識人も大したことないんだな、という感想である。事実、その後の文学の廃頽は進み、もはや自分もそうなのだが、趣味を読書などという粋人は皆無というべきである。これは別に、三島事件が契機であるというべきでなく、むしろ、三島事件を生み出すような文学界の有り様が生み出したのである、と断言してよい。今では、小説の類は全く読まない。何の役には立たないからであって、現実の力の方が文学よりは突出しているからである。実際、今期の芥川賞は誰かと問えば、殆どの衆人は知らない。それ程のことなのである。これは、文学界だけではなく、芸能界、マスコミ、学会、経済界、政界など、いずれの世界でも共通している傾向であって、とても慶賀すべきことである。この本の中では(p185~)、例えば、現代の支配的イデオロギーとして、「機会の均等」論や「自己責任」論や「努力した人は報われる」論や「トリクルダウン」論の四つが打ち破られるべきものとして列挙されている。これらはすべて日本政府によって宣伝・扇動されているイデオロギーであり、世界的にも流布されているものである。これ以外にも、「経済のグローバル化」論や「命の平等」論や「投票権の平等」論など、骨の髄までに遍満しているのである。著者は都市部の新中間層に期待を込めているのだが、それは以上の意味においては、三島由紀夫と同じように、夢物語であると言わなければならない。それ以外の確実な方途は、既に、今も、そして将来もあると言わなければならないのである。

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2017年1月 3日 (火)

差別排外主義との闘い

2017_2 新年早々、不快な思いをして温泉場を後にすることになった。仕方ない、こんな時代だから。それで、やや古い本であるが、『大正デモクラシー』(岩波新書、成田龍一著)を年末年始に読み込んでみた。彼によると、日比谷焼打ち事件を契機に、「国民」が登場し、「帝国」のデモクラシーが開花することとなった。主導したのは、言うまでもなく、吉野作造の「民本主義」である。米騒動は、「日比谷焼打ち事件以来の都市民衆騒擾の延長としての性格を持つ」(p89)という叙述には疑問を覚えるが(実際は全国闘争の様相を呈していたのである)、関東大震災(1923年、大正12年)は、都市住民によって、多数の朝鮮人や大杉栄などのアナーキストや社会主義者、労働組合幹部をなめ殺しにしたのである。ここが歴史の結節点であることは疑いもない、と思っている。都市住民の差別排外主義が蔓延し始めたのである。不況と恐慌の社会状況下、「改造」が左右から叫ばれ、支配階級は、「統合(普選)と排除(治安維持法)により選別的に「国民化」を図った」(p199)のであるが、政党政治の腐敗と汚職が茶飯事であり、これと闘う人士(労働者・農民・部落民など)は国家権力の弾圧と孤立の中で満身創痍だったのである。しかし、「時すでに遅し」だったのである。知識層の「民本主義」を乗り越えた民衆の闘いは続いたのであるが、インテリの怯懦と思想的脆弱性は、むしろ体制側を支えたのである(その中でも、山宣の闘いは心打たれることである)。そして、満州事変は大正デモクラシーを木端微塵に打ち砕いて、侵略戦争になだれ込んで行ったのである。故に、差別排外主義との闘いは、常に日本人に問われている根本問題なのである(これ参照)。

 宣治 <好むと好まざるとも やがて来る その日のために>

 新年にあたって、あの辞典を古本屋に売り払うことに決めました。東大系の学者が居並んでいるだけでなく、内容がお粗末過ぎるからである。元々、東大史学は日清・日露戦争だけでなく、先のアジア・太平洋戦争を使嗾したのであり、東大史学も、それに追随する山川出版も凋落したものである。大学受験で山川の詳説日本史を使用したが、今もって知識として以外、何の役にも立っていない。断捨離の時期が来ているのだろうか。次世代インターネットであるIoT(モノのインターネット)の時代には、自分はあの世行きであるから知らないが、要らないものは要らない。今年はどうなるやら。ブログ読者の皆様へのご挨拶は、この記事にアップした画像をご覧ください。

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