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2016年4月

2016年4月17日 (日)

核・原発と平和

Fiul1knhszselmf1460877386 阿蘇山が大爆発して中央構造線が活発化し、川内原発が崩壊すれば、甚大な物理的被害だけでなく、放射能が全国に及び、逃げ隠れもできずに日本は終了するだろう。これは年頭に予想していたとは言え、今でも日本は死に体なのであり、政府と一蓮托生になるのは、ノーサンキューなので、一刻も早くアベ政権を打倒しなければならないのである。大体、地震大国なのであるから、ここで原発など考えられないのであるが、金目で違法の自・公政権を奉じること自体、狂気の沙汰である。
 元々、我々は国家の暴力によって征服されていると、栗原康は、『現代暴力論』(これについては次回upしたい)の中で開陳している。とりわけ、核兵器と原発は所持すること自体が、征服のための装置なのである(第二章)。核・原子力の所持は国家のテロリズムであり、「いつだって戦時体制、非常事態」(p90)なのである。真の平和を望むならば、原子力の平和利用などあり得ないのである。いわんや、核保有論者であり、権力亡者の支離滅裂なアベに所持させてはならなかったのである。
 ここ北信州では、本日は雨のち直ぐに晴れ、時々強風という天候で、長野マラソン(特に、コース終盤、残雪の北アルプスを仰ぎ、土手の上から長芋畑と桃の花を見下ろし、飯縄山が臨める風景がよろしい)や真田丸人気の観光客も松代や上田の城下町に押し寄せて大賑わいだという(当人は外出していない)。川中島平では、白桃が満開でピンク色に染まっている。選手たちは緑とピンクと黄色の風景の中を駆け抜けただろう。平和とは、恐怖の反対語でもあるのである。

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2016年4月 4日 (月)

見たいもの、見たくないもの

33406443 普通の人は、テレビや雑誌などで広告を頻繁に目にするのであるが、肝心な広告会社の存在には気が付いていないか、関心がない。以前、大広という広告会社を偶然知ったのであるが、『宣伝会議』や『広告批評』という雑誌の存在も知るに至り、その関心から日本のメディア媒体が電通と博報堂などの大手が牛耳っている実態が鮮明となったのである。特に、国策会社として出発した電通は、戦争責任を回避するどころか、戦後のマスメディアを領導し、今では、広告会社単体において世界最高の売上高を誇っているのであるが、先般の東京五輪エンブレム盗作事件でも、一枚噛んで暗躍しているのである。時代と国家に近親の関係があることから、まったくもって、デザイナーや○○ディレクターなどの職種は妄信してはいけない人種なのであることを知悉した次第である。
 さて、『戦争と広告』というタイトルは、業界内の人物による言い訳本もあるのだが、今回は学者によるものを参考にした。焚書坑儒される馬場マコトとは違って、利害と打算がないために、より客観的に評価できるからである。人は、ともすれば語られぬ事柄への想像力が及ばない。重要なことは、寧ろそのことへの関心なのである。テレビでは、日本人の優位性・道徳性・精神性を強調する番組制作が花盛りであるが、「それは明治時代以降、とりわけ一八九十年代に作り出され、喧伝されてきた、いわば使い古しのフレーズ」(p4)なのである。広告宣伝は、その視覚性と物質性ゆえに、「聖戦」(=国体を護持する戦争)を遂行するための道具立て(虚構作り)となって侵略戦争に加担したのである。この著書では、『写真週報』と『アサヒグラフ』、及び博覧会ポスターの記事と写真を検討しているのであるが、それだけでも、「ひきこもりの国民主義」(p256)を扇情することにもなったのである。引きこもりとは、二項対立の、非民主主義的なメディア操作性の謂いである。靖国の遊就館はその典型であり、「英霊」と「自存自衛」の展示館となって、加害性を消却して、国民を侵略戦争への動員をまたしても企図しているのであるが、その背後にある単一の国家制度の意図を見抜かなくてはならないのである。人は、やはり、見たいものを見ているのであり、見たくないものを見ていないのである。

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