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2015年11月

2015年11月22日 (日)

いい夫婦かな?

00702168

 今日は、嫁さん孝行のために戸隠神社に向かいました。嫁さんのご苦労に報いなくては、と常日頃思い続けていたので、中社に参拝しました。家内安全と、序でにアベ政治退陣を神様に恭しく伏し拝みました。いつぞやは、靖国神社に参拝して、「二期阻止・空港廃港」を祈願しましたが、靖国の神様は未だに当てになりません(笑)。こんなことですから、戸隠の神様も願いを叶えてくれるかどうか(笑)。尤も、不信心な者だから、そこら辺は神様も十分ご承知のようです。嫁さんは参拝の方に関心があったのですが、自分は蕎麦を食しておなかを満たすことで頭がいっぱいでした。そこで、鳥居前に鎮座する有名な蕎麦屋さん、「うずら家」に入りたかったのですが、品切れでした(泣)。そこで、隣にある「徳善院蕎麦 極意」にも足を運びましたが、こちらも品切れ終了の掲示がぺろんとぶる下がっていました。運の悪さに、「なんでやねん、まだ1時半やんけ」と、ぼやくこと頻りでした。蕎麦まで見放すんかいな、と不平を鳴らしましたが、すぐに気持ちを切り替えて、三軒目の「そばの実」を訪問しました。多分、二年ぶりの二回目ではないかと思う。ここの蕎麦はお勧めです。女性向けの、ほんのりとした甘さと香りが感じられるお蕎麦です。まとまっていて上品な蕎麦で、雑味がない。蕎麦通には満足できないかもしれないが、蕎麦通気取りなんてそれ程当てにならないし、味には個人の好みがあると思う。元々、蕎麦は痩せ地の保存食(救荒作物)なのですから。約30組ほどの1時間待ちでやっと案内される次第です。まあ、こんなもんです。家族と恋人同士がほとんどで、横浜、袖ケ浦、福島、新潟、神戸など県外ナンバーで駐車場はいっぱいです。それに「4時まで売り切れることはなく、品切れの時は打ち直します」と賄いさんはおっしゃっていました。でも、前回に訪問した時は、息子の蕎麦までは用意できなくて、「うどんで構いませんか」と頼まれました。蕎麦屋でうどんを喰うとは思ってもみませんでしたが、息子はうどんも好きなので、その時は気にもしませんでした。意外と、賄いではうどんを食しているのではないかしらん?こんなことも思いましたが、蕎麦と出汁などのお味は飛びぬけていると思います。戸隠そば特有の「ぼっちもり」も美しく、食をそそるかと思います。ごちそうさまでした。但し、お客さんは東日本の方がほとんどで、行列と待合を辛抱されていましたが、関西の人はこういうことはあり得ません。さっさと他の店に乗り換えます。なんとなれば、行列や待合を作る必要がないほど(或いは、行列にならないようにとのお店の工夫もあって)、各店の味わいの平均値が高いからです(蕎麦屋さんは、予約のみとか売り切れご免で済ませるような独りよがりの蕎麦屋さんになって欲しくはありません。庶民も与れるようなキチンとした日本の食文化を忘れてほしくはないと思います。庶民もそのような俗流蕎麦屋を許してはならない、と思います)。それに彼らは「いらち」ということもあります。尤も、「おおげさ維新」なんてものに投票してしまう慌て者や勘違いも多いようです。そんなこんなで、二人きりの戸隠参拝と味グルメの半日余でしたが、いい夫婦となれたでしょうか?

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2015年11月21日 (土)

ものいわぬ民衆

00694085 今年の農事も終了となる。そして、恐らく今年のブログ投稿も最後となるだろう。来年の主食が貯蔵庫に満たされて、愈々、新米の「風さやか」を味わうこととなる。併せて、しょぼしょぼと野菜の育成に関わるのみである。とりあえずの目標は、自給自足の生活を確立することである。少しずつ少しずつ。稼ぎの労働に日中を奪われ、体力を消耗しながらの長期戦略である。地域では、リンゴのふじまつりが開催され、これが終わると、野沢菜漬け(地元では、お葉漬けという)と長野えびす講煙火大会となって、北信州の冬到来である。休日の一日、ゆっくりと家内で過ごしたい。

 何の関連か、『ものいわぬ農民』を手にすることになった。以前から、『戦没農民兵士の手紙』を読みたいと思っていたことの繋がりと思う。著者である大牟羅良は、代用教員の後に渡満し、敗戦前に召集されて復員し、四年間古着の行商生活を経て岩手県の国保の雑誌編集者となった人である。1950年代の、「日本のチベット」と呼称された岩手の農山村を行商しながら巡り歩いて、農民たちの本音を収集した貴重な記録遺産である。今となっては、ほとんど見向きもされない内容ではあるが、歴史はこうしたことの堆積の上に成立しているのである。当時の農業就業人口は約1500万人であり、(子供も含めて総人口の)5割弱が農山村で生活していたと考えてよい。ところが、今では地方は、都市と比較して貧しいなどと評されることが常態している。政府などは「地方創成」を主唱している始末である。地方から収奪しているは、一体何であり、誰なのかを再検討すべきなのである。確かに、農山村の地方は閉鎖的な傾向がある。1950年代の農業の実状は、言ってみれば、江戸時代のそれと変わらず、ほぼ手作業であり、家族労働であり、生産力とてほぼ同等だったのである。ところが、高度経済成長期の60年代になると、村の若者は安価な労働力として必要とされ、産業予備軍として都市に流入していくのである。若者は農家の労働のきびしさに耐えかね、「金なし、ヒマなし、娯楽なし」(p193)の村落共同体を嫌って、まず二、三男や女子から始まる農村の急速な崩壊過程がこの半世紀の間に生起したことである。当時の「農民は“つきあい”と“ひとなみ”(世間体)ということを非常に重大に考える」(p162)と著者は指摘しているが、半世紀も隔てた現在に生きる人にとっては、こうした閉ざされた世界は知る由もないどころか、腑に落ちることなのである。明治維新から敗戦までの近代化は、封建的遺制を抱えたままのそれと言えるだろう。体面は帝国主義の仲間入りを経ながら中身は封建社会だったのである。村社会では、互いの生活を「凝視」(p77,166)し合い、そのようなあり方が一個人を緊縛していたのである。そして、農民は「百姓ずものァ、何にでも喰われる」(p114)と己の宿命を嘆いていたのである。そこに軍隊経験が加わった時、どのように変化するかは、『戦没農民兵士の手紙』に詳しい。無論、一方では軍規のきびしさはあるだろうが、当座の衣食の憂いがないことや軍隊内の「平等」に幻惑されて、生命の引き換えに侵略戦争を担うことになったのである。しかしながら、だからといって、ひとえに農民兵士に戦争責任を負わせるのは間違いである。その戦争を企図するのは軍人や官僚などの国家中枢なのであって、現今の政府による突出は、またしてもの二番煎じどころか、多番煎じであることを念頭に置いておくべきだろう。国家というものは、元々そういうものだからである。

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