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2015年7月

2015年7月 6日 (月)

従軍日誌を読み解いて

33026837  明治時代の戦争に従軍した兵士がどのように思念していたのかを知るために、地元の図書館に並んでいた日誌を読み解いてみた。偶然に手にしたものである。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が公布され、翌年には、教育勅語の公布と第一回帝国議会が開会するが(1882年には既に軍人勅諭が公布されていた)、明治の政治運営は、藩閥専制の超然内閣であった。松方財政の下、寄生地主制が進行し、第一次産業革命もまた展開する。対外的には、欧米帝国主義のアジア進出の中で、日本と清国とが、朝鮮の主導権争いをして日清戦争に至る。日誌を記した山口袈裟治(1873~?)は、長野県戸隠村に生まれ、鬼無里村(両村とも現在長野市併合)の農家に養子として入っていた。二十歳のときに徴兵されて、日清戦争に従軍し、一旦帰郷した後、下関条約によって割譲した台湾守備隊に抜擢されて赴任し、無事に帰国して、除隊している。日清戦争従軍において、彼はどんな感慨を抱いたのか。前提として、彼は始めての徴兵であり、前線ではない後方支援の工兵であったということである。その日誌の特徴として、第一に、村の出征祝いや靖国参拝や軍歌の吟唱や本居宣長の敷島の歌を記しているが、特段の激しい天皇制的民族差別観を覚えていないことである。そうした出来事は、明治政府の天皇制イデオロギーの注入が不完全であることを証明するものであると思われる。無論、日清戦争の過程で、勅諭奉読を日記に出来事として記しているのだが、それに関する感慨は片鱗も感じさせない。また、大連攻略に際して初めて、「実に我天皇陛下の御陵威とこそ申すべし」(p35)との記述があり、酒や煙草の下賜(p35)などの表現があるが、それは日清戦争の勝利が確定した後のことなのである。本居の敷島の和歌は、山口袈裟治にはどう捉えられたかと言えば、天皇への忠誠心ではなく、望郷心だったのである(p24)。そして、勝利を確信する過程で、「臆病豚尾漢」(p34)という対中国への差別意識が形成されてくるのである(続く)。

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