大正デモクラシーの教訓
ほぼ二ヶ月という久しぶりの更新である。この間、何をしていたかと言うと、生業に追われ、米の収穫作業、パソコンの不調と対策、怠惰と静養などである。年末のこの時期にあって、漸く、平静の生活を取り戻しつつある。様々な雑念が惹起するのであるが、毫も纏まらないのは生来の怠惰ゆえである。政治はどん詰まりの危機にあり、そしてこの時期の解散総選挙である。この所、近現代史の歴史家は、大正デモクラシーの時代に関心が及んでいるようである(これとこれ)。そこで手始めに、鹿野政直の『大正デモクラシー』を繙読してみた。言うまでもなく、大正時代または大正デモクラシーをどのように考えるかは、各自の視点をも表明しないわけにはゆかない。松尾の戦後民主主義の源流と見做す「大正デモクラシー」であり、昭和のファシズムへと掃き清めたとする視角であり、政党政治の実現の時代とする社会学者の立場であり、鹿野はこの本の中で、民衆史と思想史の観点から、それらについての答案を執筆している。大正時代は、米騒動を一つの契機にして、社会主義や労働運動が隆盛し、普選運動とその実現を経ながら政党政治が「憲政の常道」となった時代であるが、鹿野はその巻末で興味ある回答を著している。曰く、「政党自体が社会運動を抑止しようとする意志をつよくもっていた」(p361)のであり(それが治安維持法の成立となる)、人々の「既成の政治家へのなんともいいようのない不信感」と民衆の期待に対する政党内閣の裏切りがあった(p363)ということである。政党の底なしの汚職と疑獄があったのである。引き続く不況と関東大震災の中で、世相の不安は沸騰しつつあり、「農村受難の想念に由来する政党不信・反都会主義」(p390)は、農民をして昭和ファシズムへと糾合されてゆくのである。取って返して、現代はどうか。社会運動の沈滞、震災と原発事故、TPPと農業・農村の破滅、政府・政党の専断と腐敗などキリがない。二重写しに見えるのは自分だけなのだろうか。これも参照。
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