一戦中派の闘いの記録
母親の話では、父方の伯父は、ボルネオ島からの復員であったが、自宅前に立ち尽くした姿が骨皮筋右衛門だったということだ。伯父は、戦中派というより戦前派というほどの壮年の兵卒だった。死線を掻い潜って復員して来たのだが、伯父からは戦争体験を聞いた試しは一度もない。その後の人生は、農民としてよく働き、ひたすら身内や内輪の心配をしていたそうだ。家宅を訪れると必ず、自分が育てた野菜や果物で歓待してくれたものである。その伯父も亡くなって十年以上経過している。戦後70年ほどにもなるのだから、戦争体験者は、爾後の十年以内には全て黄泉の国に旅立ち、その時代の歴史を証言する者は誰もいなくなるだろう。違憲の集団的自衛権行使(集団自殺強要)を画策するアベ様の政治情勢にあっては、彼らの生き証言を残しておくことは焦眉の急務の一つなのである。この本は、「戦中と戦後の激動期を生きた一人の教師の物語」であり、子息による「父へのレクイエム」である(p7)。教え子を戦場に送って戦死させた教師が己を反省し、農村に留まって反戦平和と民主主義のために闘った記録である。「有機的知識人」(グラムシ)とはかくあるべしという見本のような人生記録である。信州の農山村には、彼の薫陶を受けた門下生が多く生き残っているが、他方の信濃教育会(信教)は、未だに満蒙開拓青少年義勇軍を率先して送出した戦争責任から逃避しているばかりか、戦後になっても、軍政部と一体となって県教組を弾圧して闘う教師をパージしているのである(1949年ケリー旋風)。さらに翌年には、組合に介入した信教(=県教委)は、21人の教師を職場から追放したのである(レッドパージ)。組合活動家であった当の島田武雄は、このパージで問答無用に長野女専を解雇されたのである。しかしながら、それ以降の農文協講師としての文化活動や青年団活動こそ彼の真骨頂であると思う。そこから、60年反安保闘争の一大拠点が長野県に形成されたからである(『青年たちの六十年安保』新津新生、川辺書林)。
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