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2014年1月15日 (水)

歴史に対する責任

32963837  最近は、このような伝記のようなものを耽読しても、その内容に信頼を置くことはしない。戦後60年以上経過したのであれば、現在も続く思念と虚像が交錯するからである。これならば、戦争直後の激白の方がそれが何たるかを理解できるからである。冒頭、昭和6年には天皇制教育が児童にも反映されていたことが分かる(p19)。故に、十五年戦争が開始されたのである。愛国美談の爆弾三勇士や青少年の勤労奉仕や民衆の提灯行列や兵士への千人針、とりわけ大本営発表などの道具立てによって戦争への総動員がなされたことは歴史的事実である。著者の場合、日中戦争の開始と知人の死によって、「プルンと一つ身震いし」(p55)、日米開戦によって涙を浮かべ(p79)、「あきらめの感覚」(p145、167)で戦時を過ごす。そして最終的敗戦には、「初めての涙」(p194)を流している(ここに嘘が交錯する)。「戦争が死に対して鈍感なものに人間を変えてしまっていた」(p112)のであるが、慢性的な敗戦の事実を知っても、批判的精神を発揮することもなく(元々そんな気概もなく)、「アナウンサーとして割り切って・・・大本営発表を疑うより失敗なく読むことの方が大事だった」(p181)のである。著者だけでなく、多くの知識人・インテリにしてそうなのである。戦争に加担し戦後に生き残った人々にある思念とは、「後ろめたさ」(p238)であり、「心やましさ」(p240)である。このような思念が続く限り、戦争に抗することはできはしない。戦争はその人の思想や生き様を腑分けする。声を挙げないことは戦争に加担することである。玉音放送後、「空が薄墨色になり、黒い切片が一面に舞っていた」(p193)という。軍と政府が証拠隠しのために機密書類を焼いていたということである。日本人らしいな、と思う。歴史に対する責任がないのは明白である。

 東京都知事選がニュースを飾りだしている。どの候補者を見ても、全く馬鹿げているとしか言いようがない。人材が払底しているばかりか、古狸や古狐の化かし合いとしか思えない。加えて、他国が関与しているようにも洞察される。一体、この国はどうなるのか。知れたことであり、国など滅びても関心はない。

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